カーニャクマリはインド国鉄の南端
インド洋にV字形に突き出したインドはアラビア海とベンガル湾を分けている。その先端部に位置するコモリン岬(北緯8.1度,東経77.5度)はインドの最南端であり,アラビア海,ベンガル湾,インド洋がひとつになるところでもある。
この地域はカーニャクマリと呼ばれており,現在ではそちらの方がよく知られている。V字形の西側には西ガート山脈が走り,それはケーララ州とタミールナドゥ州の分水嶺となっている。V字の先端部ではタミールナド州が少し西側まではみ出している。
3つの海が出会うという特異な地理的条件のためなのか,ここはヒンドゥー教の聖地となっている。インドには数多くのヒンドゥー教の聖地や巡礼地があり,七大聖地とか四大巡礼地などと表現されることがある。カーニャクマリはwikipedia の七大聖地からはもれている。
確かに現在はこの町にやってくる大勢の人たちの中で,正しいヒンドゥー教徒の服装で「クマリ・アンマン寺院」を訪れる人はそれほど多くは無い。それよりも少し沖合いのヴィヴェー・カーナンダ岩にある記念堂に向うボート乗り場には長蛇の列ができていた。
5月末のカーニャクマリはインド洋から絶え間なく強い風が吹き付けており,モンスーンが近いことを感じさせる。地球規模の気圧配置は季節により大きくその表情を変える。そのため,ある地域では夏場と冬場では異なる方向の風が支配的になることがある。このように季節によって向きが変化する風をモンスーンという。しかし,インドや日本ではモンスーンといえば夏にアラビア海からインドに吹き付ける風をさしており,他のものは季節風という言葉でまとめられることが多い。
モンスーンをもたらす高気圧はアフリカの東にあり,ここから相対的に気圧の低いチベットやシベリアに向かって連続的に強い風が吹き出す。これは「アジア・モンスーン」とも呼ばれており,アラビア海の湿気を大量に含んでいるため,6-9月のインドに大量の恵みの雨をもたらす。モンスーンはさらにインドから東南アジアに回りこみ中国を通り,日本付近にまで至る大規模な大気の流れとなっている。日本の梅雨の相当部分はこのモンスーンにより運ばれた水蒸気が関与している。
湿気を大量に含んだモンスーンはヒマラヤ山脈は越えられず,その南側に大量の雨をもたらす。インド東北部の1500mほどの標高に位置するメガラヤの年平均降水量は12,000mmであり,日本(1700mm)の7倍,世界でもっとも雨の多い地域となっている。
アレッピー(08:30)→トリヴァンドラム(13:15)(15:20)→カーニャクマリ(18:00) 移動
移動日の05:30から1時間あまり激しい雷雨となった。まるで頭の上に落雷したかのように大きな音が響き渡る。屋根瓦をたたく雨音もすごかった。5月末のアレッピーはすでに雨季に入っており,連日のように雨が降っていた。今朝のように雷雨のこともあれば2時間ほどしとしとと降り続くこともある。いずれにしても,旅人泣かせの雨である。
腹具合は問題ない。上唇の口内炎は最盛期といったところで,トマトを食べるだけで涙が出る。荷物をまとめていると最終段階で停電になる。これにはちょっとあわてた。忘れ物のないようにトーチで部屋の中を一通りチェックする。いつもの食堂でいつもの朝食をとる。
アレッピーからトリバンドラム行のバスに乗る。5時間で到着したトリバンドラムも雨模様である。バスで30分のコバラム・ビーチもこの天気ではどうにもならない。ということで一気にカーニャクマリまで行くことにする。ちょうど昼食の時間なのでバススタンドの食堂でいただく。南インドでよく出会うミールズはターリーと類似している。
駅の構内を通り,駅に常駐している警察官に「カーニャクマリ行きのバスは北側ですか南側ですか」とたずねると,15:20のカーニャクマリ行きの列車にしなさいと勧められた。列車で行くのも悪くないので南側の窓口でチケットを買う。二等座席のチケットは80kmの距離に対して31Rpと格安である。二等座席は大変な混雑なのでスリーパー(二等寝台)に席をとった。二等座席よりも5割くらい高いのでがら空きである。
結論としてカーニャクマリに到着するまで車掌は回ってこなかったので,のんびりとボックスを独り占めしてくつろぐことができた。カーニャクマリはジャンクションから南に伸びる路線で,カーニャクマリの先には線路はない。ジャンクションからカーニャクマリに行き,そのまま戻るしかない路線である。
ジャンクションでは30分ほど停車し,動き出したら10分でカーニャクマリに到着した。ここはインド国鉄の南の端となっており,確かに駅の手前の車止めのところで線路は途切れていた。
駅のリタイアリング・ルーム
カーニャクマリの駅は線路の終端にあった。つまり,列車は先頭を駅舎の少し手前にして停車した。戻るときはどうするのか興味のあるところだ。インドの列車は車両が多くてとても長い。乗客は延々と歩かされることになる。カーニャクマリの駅はずいぶん立派で,二階にリタイアリング・ルームがある。料金表には時期によって値段が変わるように書かれていた。5月はハイシーズンであり,シングルで250Rpである。
部屋は6畳,1ベッド,T/S付きでとても清潔である。机とイスも用意されており居心地は悪くない。街中のホテルに移動しないでここに二泊することにしよう。天井のファンを弱にするとゴットト,ゴットトという規則的な機械音が発生して眠りの妨げになる。また,04:30くらいからは一番列車に乗る人たちが集まってきて階下はかなり騒がしくなる。
パラタ2枚とマトンカリー(40Rp)で夕食とする
駅の建物の中には食事のできるところはない。駅から幹線道路に出たところに宿と食堂がある。ちょうど鉄板の上でパラタを焼いていた。チャパティと同だが,こちらはクロワッサンのように中に空気が入っており食べやすい。これを2枚とマトンカリー(40Rp)で夕食とする。トマトとタマネギの入ったオムレツは朝食によさそうだ。
パラタの作りかた
夕食の時,パラタの作りかたを観察してみた。まず,生地を薄く円形に伸ばし,それを巻いていく。円筒状の生地をとぐろを巻くように巻いて,少したたいて平たくする。この生地を鉄板の上で焼くと内部に空気を含んだパラタができあがる。
立派なファサードの教会
駅から西に行くとコモリン岬からまっすぐ北上する幹線道路に出る。その交差点のところに昨夜の食堂がある。ここで朝食をとり,幹線道路を少し南に行くと東のベンガル湾に向う道があり,そこには「The Church of Our Lady of Ransom」と記されたゲートが設けられている。その先には高いファサードをもつ教会が見える。
聖母マリアの名前を冠し,100年ほどの歴史をもつこの教会は南インドでもっとも美しい教会の一つとされている。ゴシック様式のファサードの尖塔は高さ153 feet(46m)もあり,堂々とした威容を示している。先端の十字架は純金製とされている。白亜の建物なので背景の青空によく映えている。これが曇り空なら,これほど美しいとは感じなかったであろう。
教会の前は砂地の広場になっており,高いファサードの写真も簡単に撮れる。日曜日なのでミサが行われており,人々が教会の中に入っていく。この教会は入り口で履物を脱がなければならない。何ヶ所かの入り口には履物が散乱している。キリスト教に改宗しても女性たちのサリー姿は変わらない。ちょっと違和感もあるが,サリーの端をスカーフのように被る姿を見ていると,違和感はすぐに氷解した。
周辺は漁師町になっている
教会から先は漁民のエリアとなっており,船着場にはたくさんのエンジン付きのボート停泊している。11年前に訪問したときは,湾曲させた数本の板材を結び合わせた船が主流であったが,現在は普通のボートに変わっていた。使用されなくなった板材の船は護岸や突堤に立てかけられていた。
2004年のスマトラ沖地震とそれにより引き起こされたインド洋大津波はインドネシアアチェ州,スリランカ,インド,タイ,マレーシア,アフリカ東海岸などで死者・行方不明者30万人,被災者150万人の大災害となった。このときの地震はM9.1とされ観測記録に残っている中では4番目の巨大地震であった。地震の大きさを示すマグニチュードは数値が1増えると約32倍となる。阪神・淡路大震災がM6.9なのでその2000倍ものエネルギーが放出されたことになる。
日本では防災意識が高く,地震=津波の危険性はかなり徹底されている。しかし,多くの国々では津波の被害が軽視されている。津波は非常に高速で伝播する。スマトラ島近くの震源から南インドまでは1000km以上離れているのもかかわらず2時間後には到達している。人々は避難しておらず,タミールナドゥ州では,1万人以上の人々が犠牲になった。
津波は全てのものを洗い流してしまう。振幅が数mの津波でも波長は平均で15kmと長いので海上ではほとんど潮位の変化を感ずることはできない。しかし,陸地が近くなると津波の進行速度は急に遅くなり複数の波が波状的に押し寄せてくる。陸地に到達すると波のエネルギーは開放され,激しい水の動きとなって陸上に押し寄せる。川のように流れる水の圧力により,高さ2mの津波で木造家屋は破壊されるという。
漁師町の人々の生活
地域の子どもたちも変わっていた。写真を撮れと言われて撮ると,ボールペンの要求がくる。2004年のインド洋大津波の被害とその後の国際援助,さらにはインド人観光客のふるまいが地域の子どもたちに影響しているようだ。それでも水汲み場などでは気軽に写真を撮らせてくれた。
家の前に坐っていた親子はすてきな一枚をプレゼントしてくれた。子どもたちのボールペンの要求がとても多かったので,写真のお礼のヨーヨー作りはどうしようかと少し悩んだが,仲良くなった子どもたちにはやはり作ることにした。
500mほど続く突堤
海岸には500mほどの突堤がある。これはインド洋の荒波から漁師の船着場を守るためのものである。同時にこの突堤は漁民地域と巡礼・観光地域をおおまかに分けている。突堤は巨大な岩を積み上げたもので,上には1mほどもある大きなものが置かれている。大岩は平らな面を上にしているので突堤の端まで歩くことができる。
地域の家屋にはトイレがないので人々は海岸で用を足すことになる。突堤の南側の砂浜が彼らのトイレとなっている。ここは外海からの波がいつも打ち寄せており,排泄物は波に洗われて海に持ち去られる。インドの海岸では早朝に点々とまだ洗い流されない排泄物が残されており,散歩には要注意である。
11年前には見かけなかったもの
大岩をつたいながら突堤の中ほどまで歩いてみた。そこからは北側の漁民エリアと南側の巡礼エリア,それに二つの岩礁を眺めることができる。この場所はカーニャクマリの写真を撮るには絶好のポイントである。
北側にはさきほど見た白い尖塔をもつ教会がよく見える。海岸沿いの建物はなんとなくペンキが新しいような感じを受ける。家屋が立っている土地は水面から1mほどのところにあり,津波で洗われたことだろう。
南の海上には二つの岩礁があり,そこには見なれないものが建造されていた。左がヴィヴェー・カーナンダ岩の記念堂,その右側がティルヴァッルヴァルの像である。これは11年前にはなかったと記憶している。
ボート乗り場は混雑していた
巡礼・観光地域に入るとすぐに船着場がある。ここからヴィヴェー・カーナンダ岩に向かう50人乗りくらいの船が出ている。この船は人気が高く,延々とチケットを買うための列が伸びていた。列は300mくらいは続いていた。1mに3人いるとして1000人近い人が並んでいる。船の定員は50人くらいなので,どれだけ待つことになるのか見当がつかない。
僕はさすがにこの列に並ぶ気はしなかった。車の入る道を通り駐車場の先にある突堤から写真を撮っていた。ここからはクマリ・アンマン寺院もよく見える。といっても,寺院は刑務所のように高さ8mほどの高い塀に囲まれており,中の様子はまったく分からない。船が目的地の岩に近づくのを待っていると,船の関係者から「ここは船を利用しない人は立ち入り禁止だ」と告げられ,立ち去ることになった。
クマリ・アンマン寺院は高い塀に囲まれている
クマリ・アンマン寺院はヒンドゥー教徒以外の立ち入りは好ましくないようだ。ガイドブックにはルンギーを身に付け,上半身は裸が原則と書かれているが,そこまでして入るつもりはない。寺院は北側に巡礼者が入る門があり,その手前には土産物屋がひしめいている。
クマリ・アンマン寺院の参拝路周辺
クマリ・アンマン寺院の参拝路はとても混雑している。周辺にはたくさんの土産物屋があり,その中できれいな貝殻が目についた。中には貝殻の表面を加工してアルファベットを刻んだものもある。
沖合いの岩礁を背景に記念写真を撮る
マリ・アンマン寺院の北門から東側に回るとインド洋の荒波が押し寄せる岩礁地帯が見える。現在は小島となっているヴィヴェー・カーナンダ岩も岩礁の続きだったようだ。
海岸近くは風が強く,潮風が吹きつけてくる。メガネはすぐに汚れてしまう。カメラにとってはかなり過酷な環境である。レンズキャップを外している時間だけでも相当の潮風にさらされてしまう。
陸地と岩礁の切れ目が「三つの海が合わさるところ」であるがこれはピンポイントで見つけるのは難しい。おおらかに,この辺りが合流点だと考えるのがよさそうだ。
岩礁に守られたガート
ガートの手前はちょっとした広場になっており,多くの物売りが地面に商品を広げている。潮風が強く,カメラはザックの中に入れたので,写真の枚数はそれほど多くはない。
合流点の西側は岩礁に守られたガートになっている。インド洋から押し寄せる荒波はこの岩礁により守られ,ときどき横から波が入ってくる程度ですんでいる。ここは子どもでも安心して海に浸かれる場所である。ちょうどうまい具合に防波堤のような岩礁があるものだと感心する。
人々の大半は服を着たまま水に浸かる,沐浴というよりは海水浴を楽しんでいるように見受けられる。
ガンディー記念館
ガートのすぐ横にガンディー記念館がある。1948年にヒンドゥー過激派に暗殺されたガンディーの遺骸はデリーで荼毘にふされ,その遺灰はガンジス川をはじめとするインドの各地で散骨された。カーニャクマリにも遺灰の一部が保管されたことがあり,その場所に記念館が立っている。ガイドブックには記念堂となっており,ある種の宗教的な色彩をもつ表現となっている。実際,この建物と周辺はヒンドゥー寺院と同様に土足禁止エリアとなっている。
ここは観光地である
バススタンドはメイン・ロードから500mほど西に行ったところにある。明日はマドゥライに移動なので時間を確認しに行く。予約窓口に発車時間の一覧表がある。午前中に出るマドィライ行きは09:30の一本しかなく,残りは午後あるいは夜便となっている。巡礼に来た人たちは午前中に参拝や観光を済ませ,午後の便で戻るという行動パターンのようだ。午前便を逃したくないので予約窓口でチケット(120Rp)を買う。
オートリキシャーはバススタンドから1km弱の鉄道駅まで30Rpを要求する。それはいくらなんでもひど過ぎる。20Rpと言うとその値段になった。ここは聖地ではなく観光地なんだななあと実感させられる。さすがに疲れたようだ。昨日の食堂でオムレツとドーサを食べ部屋で横になると昼寝になってしまった。まあ,今朝は特別の早起きをしたせいもあるが。
灯台は閉まっていた
コモリン岬の灯台はなぜか東海岸、南海岸からそれぞれ500mほど内陸に位置している。南海岸のガートからのんびりと北に向かい、さらに西に折れて灯台に向かう。
ここの灯台は四角形をしており、灯台=円柱という自分の常識に反するものであった。もっとも最上部の構造は円柱型である。
周辺にはオウギヤシが特徴的な球形の葉を茂らせている。この植物も実を食用にすることができ、花房を切り取り付けた容器で樹液を集めると自然発酵してヤシ酒になる。また、煮詰めてヤシ砂糖を作ることもできる。
アカシアの仲間かな
小道の周辺には低い潅木が密生している。この鋭いトゲをもった潅木は背の低いうちは密生しているが,大きくなるとまばらになり,高さ5-10mのところに横に広い樹冠を形成する。その姿はアフリカのサバンナでよく見られるアカシアにそっくりである。アカシア (Acacia) はアカシア属の植物の総称で,約6000種が熱帯から温帯にかけて分布している。
アカシア属の植物ではアフリカのサバンナのものがもっとも馴染み深いものであろう。アフリカのアカシアは5-10cmもの長いトゲで葉を守ろうとするが,キリンはそれをものともせずに長い舌とよく動く唇を使って葉だけをそぎとっていく。ここのものもかなりのトゲで武装しており,葉の感じも似ている。帰国後にネットで調べてみたがインドにおけるアカシヤ属の植物についてはほとんど情報は見つからなかった。
子どもたちが遊んでいた
アカシアの木にブランコが取り付けられており,その回りで数人の子どもたちが遊んでいた。子どもたちからフォトの声がかかったので一枚撮ってあげた。小道の反対側の家屋から声がかかり,門まで行くと握手とともに中に入ることになった。子どもの一人が少し英語を話し,友だちの名前を紹介してくれた。
なかなかインド人にしては行儀のよい子どもたちだったのでヨーヨーを作ってあげた。この日本のおもちゃはどこに行っても人気が高い。6個でおしまいと考えていたら何人か新しい子どもが増えて10個以上を作ることになった。家の女性がスキムミルクを入れてくれた。熱湯を使っているので僕が飲んでも安全だろう。帰るとき子どもたちは二度も三度も「サンキュー,バイバイ」と合唱するので僕も手を振って応える。
二日目のガートも波が高かった
さえぎるもののない海岸は強い風が吹いていた。滞在二日目は特に風が強かった。アラビア海からの風なのでモンスーンの前触れなのかもしれない。強い風で雲が飛ばされて晴になったかと思うと,黒い雲が出てきて雨が横殴りに降ってくる。それもつかの間,再び晴になり虹がかかる。天気が変わっても風はずっと強いので二日目の散策はここであきらめて宿に戻ることにした。
モンスーンは、ある地域で、一定の方角への風がよく吹き、季節によって風の方角が変化するものを呼ぶ。モンスーンの原理は、海陸風と同じである。大陸は暖まりやすく冷えやすい一方、海洋は暖まりにくく冷えにくいという特徴がある。
そのため夏季には大陸上の空気の方が暖かくなり上昇気流を生じ、それを補うために海洋から大陸へ季節風が吹く。逆に冬季には海洋の方が暖かくなるので、大陸から海洋へ季節風が吹く。海陸風は昼と夜で風向が変わるが、季節風は夏と冬で風向が変わる(wikiprdia)。
アジアモンスーンといえばインド洋から南アジアに向けてが吹き、地域に大量の雨をもたらす夏のモンスーン(6月〜9月)だけが知られているが、冬のモンスーン(11月〜5月)は逆にアジア大陸からインド洋に向けて乾燥した冷たい北東季節風が吹く。このためニューデリーあたりでも冬季はかなり気温が下がり冬服が必要になる。
夏のアジアモンスーンは西アジアに気圧が低い地域ができ、アフリカ東岸のマダガスカル付近に巨大な高気圧からこの低気圧に向かって南西季節風が吹き出す。6月になると、インド南西部からこの季節風が強まり始め、次第に北東へ広がってゆく。
夏のモンスーンは南アジアに大量の雨をもたらし、地域の年間降水量の4分の3以上がこの時期に降る。15億人を超える南アジアの人口を支える農業はこの時期の天水に頼っており、この時期の雨量は南アジアの食糧生産に大きな影響を及ぼす。
インドの最南端では5月末に夏のモンスーンが始まっており、インド洋から強い風と荒波が押し寄せている。マリ・アンマン寺院のガートにも荒波が押し寄せてくるが、天然の岩礁が防波堤となっており、岩礁の手前は比較的穏やかな水域となっている。