ボーダ・ナートからミニバスで戻る
少しお腹が空いたけれどモモでは重いのでリンゴを一個買う。近くに魚の口から水か出る水場があったのでそこでリンゴを洗いいただく。幹線道路に出てミクロを探したがカトマンドゥ中心方面をどう車掌に説明してよいかとまどっていたら,親切なおじさんがタメルに戻るのかと聞かれ,そうですと答えるとカトマンドゥ方面の車両をチェックして乗せてくれた。インドではしょっちゅうこのような親切な人に出会った。嫌な思い出の多いカトマンドゥにもこのような親切な人もいる。
市内の中心部に入っても車掌は降りる場所を教えてくれなかった。みんなの降りるところで下車する。バグバザールのあたりだったようだ。見覚えのある時計塔があり,ダルバール・マルグ通りであることが分かった。
ジャカランダの青い花
近くの交差点に鮮やかな青紫色の花をいっぱいに付けた街路樹があった。僕としては初めて確認できたジャカランダである。これに類似した木は何回か見たことはあるが,樹高が高く花を確認することはできなかった。
wikipedia で調べるとジャカランダは種名ではなくノウゼンカズラ科・ジャカランダ属に属する49種の総称であった。原産地は中南米で樹高も低木から高木になるものが含まれている。確かに花の形状はキリのように先端で5裂しており,マメ科のものではない。
スワヤン・ブーナートに向う
チェトラ・パティ・チョークに出て西に進む。このチョークでタメルの観光地区は終了し,その先はネパール人の普通の生活地区となっている。しかし,古い街並みはどんどん新しくなっており,写真の題材には乏しい。
ヴィシュヌ・マティ川は完全に死んでいる
ヴィシュヌ・マティ川にかかる橋を渡る。美しい名前にそぐわず川は完全に死んでいる。周辺はゴミ捨て場となっており行政の怠慢をそのまま反映をしているようだ。この川に限らずカトマンドゥ周辺の川はすべて同じような状態だ。カトマンドゥ首都圏には160万人の人口が集中しており,ゴミ処理と水処理の機能がなければこのようなことになる。
川沿いにあるインドラヤニ寺院
橋の手前にはヒンドゥー寺院がある。カトマンドゥの旅行記を見ていたら名前が分かった。インドラヤニ寺院というらしい。三層の屋根をもった立派な寺院である。
屋根がトタンで葺かれているせいか日本の三重塔に近い。それでも屋根は大きく張り出しており,それを支える支持柱には多くの神々が刻まれている。
驚いたのは支持柱の下に横一線に並んだ白いものはすべて頭蓋骨もしくは悪霊の顔を題材にしている。う〜ん,これは何を意味しているのか…。
地図にない仏教寺院
石段を上っていくとビジェシュワリ寺院に出る。この辺りの小さな寺院はほとんどガイドブックには記載されていない。石段の上に入り口があり,その両側を獅子像が守っている。この獅子像は寺院の守護者らしく精悍な顔つきをしている。
中庭には多くの仏塔が並んでおり,ここが仏教寺院であることが分かる。しかし,ネパールらしくヒンドーの神々もここには同居している。中庭の周囲にはたくさんの石像があり,訪れる人もいなかったのでゆったりとした気分で写真を撮ることができた。
石段が始まる
この寺院を回り込むようにして登っていくと再び道路に出る。この道は一本道であり,方向音痴の僕でも迷うことはない。道の辺りはチベット系の人も多い。金属細工のおじさんは直径40cmほどの大きな真ちゅう製の鉢に絵を貼り付け,たがねでその線をたんねんにたたいている。一個仕上げるのに二日かかるとのことだ。
スワヤン・ブーナートはカトマンドゥの町を見下ろす丘の上にある。どのような宗教でもここに施設を造ろうと考えるような一等地である。丘のふもとには登り口の門があり,その周囲には商店や市場がある。門の先はずっと石段が続いており,全部で385段あるそうだ。途中で工事が行われていたので,この数字は変わるかもしれない。
外国人用の料金所があった
石段の最初の1/3はゆるやかであり,残りの2/3はかなりの急勾配である。息が切れて何度も立ち止まることになる。巡礼の道としてはなかなかの苦労を演出してくれる。ところどころにヒンドーの神々や動物の像が置かれている。しかし,石段を上るのが精一杯である。この周辺はサルが多いところでモンキー・テンプルとも呼ばれている。今日はニホンザルに似たものを10匹ほどしか見かけなかった。
息を切らせながら登っていき,あと10mというところで外国人用の料金所があった。南アジア諸国の人は50Rp,その他の外国人は200Rpとなっている。この金額はFSMCにより管理されている。「Federation of Swayambu Management & Consevation」,この団体は一体なんだろう。カトマンドゥーはこのようにあらゆる観光施設に高い入場料を設定している。
カトマンドゥを一望する
この場所からはカトマンドゥの広い範囲を一望できる。中心部は緑の少ないレンガ色の建物が密集している。道路,上水道,下水道,電気・・・この街は都市インフラの整備を置き去りにしてひたすら膨張してきた。
ブッダの眼が描かれた部分は改修中であった
石段の上部にはストゥーパがあり,その手前に巨大な金剛杵(ドルジェ)が置かれている。ドルジェは仏教の法具であり,ストゥーパは仏教信仰のシンボルである。しかし,スワヤンブナートの空間にはチベット仏教寺院の他にもヒンドゥー教寺院があり,明らかにそちらの方が繁盛している。このドルジェは観光客の人気が高くなかなか前があかなかった。
ドルジェの基壇にはチベット暦の十二支の動物が刻まれている。十二支に動物を割り当てリ習慣は仏教文化圏に広く普及しているが,地域によって若干異なっている。ストゥーパの上部にあるブッダの眼が描かれた部分は改修中で竹の足場で覆われていた。あと2週間で完成すると土産物屋の人は言うがそれでは間に合わない。
狭い空間でネパールの宗教建築の三つの様式がそろう
スワヤンブー・ナートの上は仏教とヒンドゥーが混ざり合った空間となっている。ストゥーパのすぐ横にはヒンドゥーのシカラがあり,近くには金箔を貼られたパゴダ様式のアジマ寺院もある。ということでスワヤンブナートの狭い空間でネパールの宗教建築の三つの様式(パゴダ,仏塔,シカラ)をすべて見ることができる。
北側のチベット仏教寺院
ここのチベット仏教寺院は少し変わっている。正面に高さ6mの巨大な観音菩薩像があり,それが本尊となっている。寺院は本尊のある壁の背後にある。本尊から左奥に進むと入り口がある。そこでは10数人の僧侶が読経をしていた。チベット仏教につきものの楽器が入ったにぎやかな読経である。
壁際の空間には外国人観光客が一列に座っている。しかし,ヒンドゥー教徒の人々は敷居をまたぐことはない。ネパールでは多くのヒンドゥー寺院は異教徒の立ち入りを拒んでいることが影響しているのかもしれない。このヒンドゥー寺院の異教徒立ち入り禁止は特異なもので,本家のインドにおいては一部を除き立ち入りは認められている。
キルティプールに向う
シティ・バスターミナルに行くと笛をもった誘導係のおじさんがいた。これは幸いとキルティプール行きの乗り合いワゴンを教えてもらった。これほどスムーズに乗ることができるとは驚きである。乗り合いワゴンはほぼ満席状態で朝のラッシュの始まったカトマンドゥの市内を南下していく。
チョークと呼ばれる交差点では大変な混雑である。少なくとも交通に関しては市内は仁義無き世界である。我先にと交差点に入るので双方向とも身動きがとれなくなる。世の中には信号器という便利なものがあるんだけれど・・・。キルティプールと思しき地形が見えてきた。丘の斜面にびっしりと家屋が張り付いているのでその上が目的地であろう。斜面の家屋の下のところで下車する。地名を確認すると「ニューバザール」であった。
確かに古い町並みは少し残っているが
キルティプルはカトマンドゥ中心部から南西に5kmほどのところにある。距離的には南のパタンとほぼ同じくらいのところだ。ここは日干しレンガの家々が並ぶ景観の美しい町とガイドブックに紹介されている。カトマンドゥのひどい状態をさんざん見てきたので,僕の期待はけっこう大きかった。しかし…。
丘の上の部分には確かに古い家屋は残っているがそれだけであった。15年位前にNHKの「はるばると世界旅」という番組でキルティプールがとりあげられたが,そのときのイメージとはずいぶん異なっている。テレビ番組を見てイメージを先行させると「えっ,こんなところだったの」ということになる。
水汲みの風景もほとんど見られない
古い家屋も新しい家屋も4階建てが多い。1階と2階は生活空間ではないようだ。台所が最上階にありそこは男子立ち入り禁止になっている。生活空間は3階であったと思う。窓から顔を出す人は確かに3階か4階からからである。
わずかに水くみの風景が残っていた
牧歌的なのんびりとした人々の生活は見ることができなかった。水場の代わりに水道がありこの時間帯は水運びの風景もほとんど見られない。斜面のところで女の子が共用の水道から水を汲んで容器に入れている。大きな容器は母親が持っていった。これが唯一の水汲みの風景であった。