タメルからタヒティ・チョークに向う (参照地図を開く)
宿からクランク状に南に行くとタヒティ・チョークに出る。ポカラ行きのツーリスト・バスのチケットが必要なので旅行代理店を探してみたがこの間にはまったく見当たらなかった。結局,このチケットは毎日朝食をとっていたレストランと同じ敷地にある旅行代理店でとってもらうことになった。タメルから少し離れると観光客を対象とした商店は少なくなり,地元の人々の買物エリアになる。
宿からクランク状に南に行くとタヒティ・チョークに出る。ポカラ行きのツーリスト・バスのチケットが必要なので旅行代理店を探してみたがこの間にはまったく見当たらなかった。結局,このチケットは毎日朝食をとっていたレストランと同じ敷地にある旅行代理店でとってもらうことになった。タメルから少し離れると観光客を対象とした商店は少なくなり,地元の人々の買物エリアになる。
タヒティ・チョークには柵で囲われたストゥーパがある。チョークとは広場をもった交差点で,タヒティ・チョークでは5本の通りが広場に集まっているので,次のアサン・チョークに向う道を選択するのはけっこう難しい。念のために地元の人に確認してから進むことにする。
このあたりまでくると商店はほとんど庶民の日用品を扱う店になる。さして広くない通りに人があふれ,写真をとるための空間を確保できないほどだ。
アサン・チョークはカンティ・パト通りの歩道橋の交差点ともつながっている。この歩道橋のある交差点はいつも乗り合いワゴンを利用するところの近くだ。このあたりまでくると商店はほとんど庶民の日用品を扱う店になる。
金物屋の店先にはピカピカに輝く真鍮の容器が並べられている。チョークにはたいていヒンドゥー寺院があり,アサン・チョークにはアンナプルナ寺院があるが人通りが多いため写真は大変だ。
インドラ・チョークの少し手前というかほとんどチョークに面したところにアカシュ・バイラヴ寺院がある。屋根は一層ながらパゴダ様式にのっとっており,最上部の屋根の上には金属の飾りを取り付け,そこから寺院の正面に金属で編んだ細い帯を垂らしている。ネパールの寺院は概して床面積に比して高さがあるため,すらりとした印象が強いが,この寺院はずいぶんずんぐりしている。
寺院は二階にあるという不思議な造りであり,ヒンドゥー教寺院のため,異教徒は二階に上がれなかったと記憶している。それなりの格式をもった寺院のようだ。外から見ると入り口の周囲は真ちゅう細工で飾られており,二頭の獅子が守っている。正面からの写真ではこの獅子はあまり迫力を感じないが,横から見るとなかなかの造形である。
入り口の横にはこれも真ちゅう製の二本の旗がある。これはネパールの国旗に類似している。ネパールの国旗は世界でも類をみない三角旗が二つ組み合わさった形状をしている。これは18世紀に興ったシャハ王朝に由来している。三角旗そのものはヒンドゥーではよく見られ,王朝のシャハ王家と代々宰相職を世襲していたラナ家で独立に使用されていたものが組み合わさったものである。
いちおう,二つ重ねた直角三角形はヒマラヤの山並みを表すとともに二大宗教であるヒンドゥー教と仏教を意味していると説明されている(wikipedia)。しかし,ネパールは2008年に国王制は廃止され,連邦共和制に移行した。そうなると,旧体制に由来する現在の国旗にも影響が及ぶのではと考えられる。
アサン・チョウウから南西に行くとインドラ・チョークに出る。この途中にセト・マチェンドラナート寺院がある。通りに面した狭い路地が入り口となっており,その奥に大きな寺院空間がある。うっかりすると前を通っても気がつかないほど入り口は目立たない。中に入ると建物に囲まれた中庭のような空間の中央に寺院がある。ここはヒンドー教と仏教が混交した空間となっている。
ここにはなぜか警備員が常駐している。このような警備はネパールの寺院では初めて見るものだ。入り口正面には寺院本体があり,そこに安置されている本尊は確かに白いお顔をしている。供物が多いせいか,周辺には非常にたくさんの鳩が住み着いており,降下物に要注意である。
本堂の周辺には仏像を刻んだストゥーパが列をなしているところがあるか思えば,ヒンドゥーの神像がおかれているところもある。また,周囲の建物の壁には金属製のプレートが張られ,仏像やヒンドゥーの神々の姿を見ることができる。
マチェンドラナートとはネワール人の土着の神とされており,雨をもたらし,豊穣を司るものとされている。それをヒンドゥー教徒はシヴァ神の化身,仏教徒とは観音菩薩と考えている。つまり,二つの宗教共通の神ということになる。
カトマンドゥ盆地にはカトマンドゥとパタンに二つのマチェンドラナート寺院があり,前者はセト(白),後者はラト(赤)で識別されている。雨と豊穣の神らしく4月,5月の暑季にマチェンドラナート祭が執り行われ,普段は寺院に安置されている本尊を山車に乗せて町中をねり歩く。
インドラ・チョークからそのまま南西に進むとダルバール広場に出る。塀に囲まれた大きなタレジュ寺院がどんと待ち構えている。しかし,この寺院は立ち入り禁止となっており,周囲を囲む塀のため写真も難しい。幸い高い基壇の上にあるので北側からほぼ全景を撮ることができる。周辺の小祠堂はバリ島のヒンドー寺院に似ているという印象を受けた。
タレジュ寺院はカトマンドゥ盆地の守護神とされてきたが,18世紀にネパールを統一したグルカ族のシャハ王朝でもそのまま守護神とされてきた。タレジュ女神を祀るためのタレジュ寺院は王室寺院であり,ヒンドゥー教徒でも年に一度の秋の収穫祭にあたるダサイン大祭の期間以外は中に入ることはできない。
クマリの館の東側はハサンタブル広場となっている。広場の南側にある白い建物の1階にサイト・オフィスがあり,そこで1日券を2日券に変更してもらった。広場には露店の土産物屋が集まっており,20年前に比べてずいぶん整然としているという印象を受けた。広場の前のニュー・ロードを東に向うとダルバール・マルグから真っすぐ南に向かうカンティ・パト通りに出る。
さすがにカトマンドゥ第一の観光地である。あらゆるところに土産物屋が店を出している。いつも眼にする土産物に混じってヒンドゥーの神をモチーフにしたマリオネットがあった。神様をこのようなものにしてよいのかという気になるが,こころの広い(なんでもありの)ヒンドゥーでは許されるようだ。
おりん(丸い容器の形をしたもの,お鈴)に似た仏具と,それをたたくための木の棒のセットが売られている。棒は日本の仏具よりも太い。この棒で鐘の外側をなぞって回すと澄んだ音が響く。鐘の大きさと形状により,それぞれの共振周波数をもっているようだ。
この音はどこかで聞いたことがある。そう,映画の「風の谷のナウシカ」の冒頭で,王蟲に追われたユパを助けるためにナウシカが使用した蟲笛にそっくりな音だ。コミックスのナウシカでは蟲の声に合わせて「ギギギギ・・・」という音で描写されているが,アニメでは澄んだファーンという音になっている。僕は日本のおりんでは試したことはないけれど,同じような音がするのではと推測する。
外国人はダルバール広場の入域料を払わなければならない。パシュパティ・ナートのひどい料金を知っているので,いくらかなと思いながらチケット売り場に行くとガイドブックに記された300Rpであった。ダルバール広場の周辺は交通規制をしており,これは(当然のことではあるが)ありがたい。
チケットは一日券なので翌日も使用できるようにクマリの館の南東にあるサイト・オフィスに出向く。必要事項とサインを記入した名刺大のカードをチケットに取り付けてもらう。これで2日券となる。1日目は午後に訪問し,天気が悪くなったので,翌日に出直すことになった。やはり,2日券にしておいたのは正解である。
南東側にはガッディ・バイタックとナラヤン寺院が向かい合っており,その向こう側にクマリの館が見える。クマリの館の前の通りの先は(東側)ニューロードになっており,表通りのカンティ・パト通りに続いている。
現在は王政が廃止されているが,それ以前はインドラ・ジャトラ祭のときにはガッディ・バイタックのテラスから国王が祭りを眺めていたという。共和制となった今はそこから祭りを眺めることができる人がいるとすれば,それはこの国の元首であろう。
ハヌマン・ドゥカ(旧王宮)の西側にはシヴァ寺院がある。チケットを買うとき一緒にもらったダルバール広場の観光案内にはマジュ・デガ(Maju Dega)となっており,こちらが正式名称らしい。
ここは何段もの石の基壇の上に寺院の本体があるので,そこまで上るととても眺めが良い。寺院は木造になっており,その床に腰をかけて休憩をとりながら,下を行き交う人々や周辺の寺院を少し高い位置から眺めることができる。
北東側には手前にシヴァ・パールバティ寺院があり,その背後にはこの広場で唯一の西洋建築物である白亜のガッディ・バイタック(Gaddi Baithak)に続くバグワティ寺院がある。
二つの寺院の間がダルバール広場のメインストリートである。広場は一部を除き車両の通行が禁止されており,いちおう観光客の安全は担保されている。
シヴァ・パールバティ寺院は正面二階の窓からシヴァ神と神妃のパールバティが顔を出していることで知られている。この窓は望遠レンズでしっかり撮ってみた。なんと,シヴァ神の左手はパールバティの脇から回り胸に触れている。なんとものどかなものである。
ネパールではクマリのような処女信仰がある一方で,寺院の張り出した庇を支える支持柱の彫刻にはミトゥナ(男女の交合)を表すものもあり,まさにいろんな文化が混交している。
この寺院は現役ではない。ネパールやインドからの訪問者にとっては現役のヒンドゥー寺院にはお参りするが,文化遺産となった過去の寺院を訪れる人はほとんどいない。まるで神々はすでにここから立ち去ってしまったというばかりの扱いである。
この像は外国人にとってネパールでもっとも有名な神像の一つであろう。ユーモラスで愛嬌のある黒い顔の神像である。
バイラヴは日本では「畏怖神」あるいは「摩醯首羅」とされており,破壊と再生を司るシヴァ神の破壊神としての姿である。別名を「マーハ(大きな)・カーラ(黒い)」といい,仏教にも取り入れられ「大黒天」と呼ばれる。また,シヴァ神は「舞踏王」,「大自在天」などとも呼ばれている。
破壊神の神格なので像をよくみると右手には刀をもち,左手には生首をぶら下げにしており,足下には悪魔を踏みつけにしている。
この像の前でうそをつくと神罰により死が下されるという言い伝えがあり,中世の時代には罪人をここに連れてきて罪を白状させたという。現在のカーラ・バイラヴは祈りの対象となっており,多くの人々が途切れることはない。
カトマンドゥ盆地は古来から「クマリという不思議な生ける女神」が信仰の対象になっている。クマリは文字通り生きている少女であり,カトマンドゥ盆地の守護神とされるタレジュ女神をその体に宿している。
クマリは世俗的な力は一切有しないが,時の国王でさえその額で少女の足元に触れ平伏しなければならないのである。クマリは国王の額に祝福のティカをつけ,それにより国王は国を統治する力をクマリを通して受けるとされている。もっとも古い記録によると5世紀頃のリッチャヴィ王朝の時期にドゥルガー女神の一形態を王国の守護神としてとして崇拝していたという記録がある。
現在のロイヤルクマリはダルバール広場にあるクマリの館で半幽閉的な生活を送っており,館の外に出るときは年に数回の祭りの時だけである。クマリは出血などによりクマリの資格を喪失するまで,クマリの館で過ごし,その後は一般人の生活に戻る。クマリの資格を喪失するということは体内に宿っていたタレジュ女神の神格が外に出てしまったことを意味する。
そうすると,新しいクマリを選出するための儀礼が始まる。2008年に共和制が発足したため,厳密にはロイヤル・クマリは存在しなくなった。カトマンドゥではクマリ制度の存続が危ぶまれたが,その後に新しいクマリが選定されており,いちおう制度は存続することになった。
NHKの番組では二つのクマリに関する番組を見たことがある。やはり,少女の時期を一般の子どもとはまったく異なる生活を送ったクマリにとっては社会復帰はかなり難しい課題であることが分かる。
また,ロイヤル・クマリ制度に関する儀礼とともにタレジュ女神がなぜ仏教徒の無垢な少女の体に宿るようになったかという逸話を扱った番組もある。
その昔,ネパールの王たちは守護神と話をしたり遊んだりする習慣があった。あるときカトマンドゥの王がいつもと同じようにタレジュ女神とサイコロ遊びを楽しんでいた。
ところが王は赤い衣装を身にまとい,輝くように美しいタレジュ女神に心が乱れてしまった。王の心の内をみてとったタレジュ女神は,「この次,あなたの前に現れるときは純真無垢な乙女の姿となっているでしょう」と言い残して消え去ったという。
この寺院は1549年にマッラ王朝のマヘンドラ王によって建立され,本尊のタレジュ女神の安置された聖室には王族以外は入ることができないとされている。ネパールが王政を廃止して共和制になったので,この寺院の管理と一般公開がどうなるのかは興味のあるところだ。
西側の門は工事中のため開放されていた。もちろん,警察が警備しており中には入れない。垣間見た範囲では下部の石段の部分にはかなりの草が生えており,管理状態はあまり良くないようだ。
カーラ・バイラヴ像の裏側(南側)には20m四方ほどの石の基壇があり,その中心にプラタップ・マッラ王の塔が立っている。高い石造りの塔の上にはプラタップ王と2人の妻,5人の息子の像があるという。大きな写真で確認してみると確かに中央の王の膝や周辺に何人かの像がある。王の顔は南の王宮の方を向いている。
旧王宮の入場料は250Rpであった。ジャガナート寺院の南東,旧王宮の建物がL字に曲がるところに観光客の入ることのできる旧王宮入り口がある。ここもいくつかの見どころがあるので入ってみたいが料金がじゃまをする。ハヌマーン・ドゥカは正確には王宮の入り口である「ハヌマーン門」のことである。しかし,現在では建物自体をハヌマーン・ドゥカと呼ぶようになっている。
入り口の両側にはシヴァ神と神妃のパールバティを乗せた二頭の獅子像が控えている。門の上部には三連の門飾りがあり,この彫刻も見ごたえがある。その左側にある像はおそらハヌマーン神のものであろう。近くによってもよく分からなかった。
この基壇の上は人が上がることが少ないのか鳩の餌場になっている。観光客か地元の人が餌をまくため,この周辺には大変な数の鳩が集まっている。塔の東側にはジャガナート寺院があり,その横にはインドラプール寺院,北側にはカーラ・バイラヴ像の支持壁の裏側が見える。ジャガナート寺院は16世紀に建立されたもので,一層と二層の屋根の庇を支える支持柱は見事な彫刻で飾られている。塔のある基壇に人が入ると鳩はいっせいに飛び立ち,その多くはジャガナート寺院の屋根に止まることになる。
この周辺に本当に鳩が多い。カーラ・バイラヴ像の西側から見た写真にもたくさんの鳩が入っている。写真の手前にカーラ・バイラヴ像の支持壁の上部があり,その向こうにインドラプール寺院,ビシュヌ寺院,タレジュ寺院の屋根が連なっている。
広場のあちらこちらにはサドゥーがいる。写真のモデルになって喜捨を要求する人たちである。僕は近くからは一枚も撮らなかった。レンズを望遠にして道路を挟んだところから彼らを撮ると喜捨を求めて歩いてきた。これには少なからず驚いた。
ハヌマン・ドゥカから北に伸びる建物の壁面にある段のところに10数人の女性たちが座り歌を歌っていた。おそらくヒンドゥーの神々に対する賛歌であろう。この人たちは僕が広場から戻る頃まで同じように歌い続けていた。
僕は自称仏教徒としている。世界的には宗教を信じていないと言うと,この人はちょっとおかしいんじゃないかと思われる国が多い。そのため,宗教はなんですかと聞かれると,仏教徒と答えるようにしている。宗教について知ることについては熱心であるが,本質的に無宗教である。それでもときどき,彼女たちのように宗教的法悦を感じるのも悪くないなと思うときもある。
インドラ・チョークから北に向かう。この通りの右側にコインの木を見つけた。なんのことはことはない木に古いコインがたくさん打ち付けてあるだけのものである。コインは重なり合うように取り付けられており,木肌はまったく見えない。60cmくらいの物体が通りの横に置いてあり,ちょっと不思議な光景だね。
この通りをさらに進むとタヒティ・チョークに出るが,その手前の路地を左に入るとカテシンプー・ストゥーパのある広場に出る。ここも周囲を建物に囲まれており,中庭のような構造になっている。どうもカトマンドゥ盆地の仏教施設はこのように中庭のようなところにあるものらしい。宗教的には少数派である仏教徒のネワールの人々が宗教施設を中心に暮らしているようだ。
広場の中心にはストゥーパが置かれており,その上部の四辺にはブッダの眼が描かれている。あいにく,このストゥーパも化粧直しか修繕中で周囲には竹のやぐらが組まれている。スワヤンブーナートに続き,残念なことである。中央の大ストゥーパの周辺にはいくつもの小ストゥーパがあるので一回りして写真を撮る。
広場の北側には新しい寺院がある。外観はチベット寺院に類似している。本堂は閉まっており,中には入ることができなかった。自称仏教徒としてはなにがしかのお布施をすることにはやぶさかではないが,不思議なことにこの施設のどこにもドーネイション・ボックスはなかった。
旧市街の通りにはところどころに家屋の下をくぐりぬける小さな門があり,その一つに入ってみると思いがけなく広場に出た。広場は中庭のように4-5階建ての家に囲まれている。通りに面した家屋は家と家が完全にくっついており,通りから広場に入るときは家屋の一階部分がトンネルのようになっている。そこには柱になった神々の像があり,なかなかの趣である。この広場は旧市街の通りと東側の表通りを結んでいるのでけっこう人通りが多い。
5歳くらいのとても人なつっこい女の子がいる。カメラを向けても笑顔で動じない。しばらくすると彼女が母親と一緒にもう使用されていないポンプの近くにやってきた。他にも写真を撮った子どもたちがいたのでヨーヨーを作ることにした。カトマンドゥでは初めてのヨーヨー作りである。
この中庭に面した建物は隣のものと完全に密着している。中には200年を越えている家もあるという。そのような家も両側から支えられるようになっているので,現在でも人が居住している。家の下層階は生活空間ではない。かっての家畜小屋や物置などに使用されており,3階以上が生活空間となっている。
4階から顔を出しているおばあさんを含めて窓の写真を撮る。4階からロープを垂らしている人もいる。小さなもののために1階まで下りるのは大変なのでロープで吊り上げる方法がとられている。おや,あそこでも吊り上げられていると思ったら鳥かごだった。