チットールガルはラジャスターン州の南部,ウダイプールの北東112kmのところに位置する町である。この町がガイドブックに掲載されているのはラージプートのメーワール王国が遺した悲劇の城塞のためである。
この城塞は町のすぐ東側にそびえる標高180mの台地の上に広がっている。台地の地形に合わせて東西800m,南北2.5kmの範囲が城壁に囲まれており,そこには宮殿,ヒンドゥー寺院,ジャイナ寺院,巨大な塔,貯水池などが残されている。この城塞はインドでも最も広い城塞の一つとされており,7世紀のマウリヤ朝の時期にすでに砦があったとされている。
サンチー→ボパール→チットールガル 移動
僕はすでにでボパール→チットールガルのスリーパー・クラス(二等寝台)のチケットを購入していた。しかし,そのチケットには座席指定はなく,代わりにWL8と記されている。WL8はウエイティング・リストの8番目ということで,予約済みの中から8人キャンセルが出ると座席が確保できる。
ボパール駅の予約窓口は駅舎から少し離れたところにあり,そこには予約状況を確認できる専用の機械が設置されている。タッチパネル式の画面に自分のチケットの予約番号を打ち込むと状況が表示されるようになっている。幸いキャンセルがでたおかげで僕の予約番号の画面には車両番号と座席番号が表示されていた。この情報をチケットに記入しておく。これで今日の移動の寝台は確保できた。
チットガール駅で朝を待つ
日が暮れるとどんどん涼しくなる。窓からの風と,天井の扇風機からの風が体温をうばっていく。僕は半袖の上に長袖を着て寝る体制に入ったがこれは重大な判断ミスであった。寒さは想像以上でちゃんと長袖を二枚着込むことにしたのはチットールガル到着の1時間前であった。
02:50にチットガールに到着する。ホームでチャーイを一杯いただく。車内のチャーイはティーバックになっており,チャーイの味わいはなかった。連絡橋を渡って駅舎側に出る,リタイアメントルームは200Rpと表示されている。これではちょっと使用する気にはならない。駅の中は横になっている人たちが大勢いる。ここで列車を待っているようだ。ざっと40人くらいはいるだろう。石の床の上に薄い布を敷いて寝ることができる特技を彼らはもっている。
駅の石畳の上に座りパソコンを出して日記を書く。バッテリー残量はは89%から始まり,1時間弱で70%になった。実稼動で3時間が限界のようだ。後ろでやかましい女性の声がする。聞いている人もいないのになにやらまくしたてている。彼女はあちこちと動きながら人を見つけては語りかける。会話ではない,一方的に彼女が話しているだけだ。
子連れの大きな集団がやってきた。彼らはたくさんの布と毛布を準備しており,駅舎の一画に自分たちの野営地を作った。何人かの子どもが野営地の外で遊んでいたので写真を撮る。暗い環境でも一応の写真になった。大人からこっちにおいでとしつこく誘われ,かれらの布の上に腰を下ろすことになった。この布はフェルトでできており,かなり厚く重いものである。こんなものまで移動のときに持ち運ぶのだ。
LAV-KUSH Hotel
06:30に行動を開始する。駅前広場の食堂でサフランで色づけされたごはんとチャーイをいただく。ごはんは新聞紙に盛られて出てきた。これはインドでは珍しいことではない。どちらもおいしい,これで10Rpの朝食が終了する。宿探しはオートリキシャーのお世話になる。人のよさそうな運転手に「200Rpくらいの安宿を探している」と告げると,「バススタンドの近くにあるよ,料金は30Rp,だましのないちゃんとした料金だよ」という。距離は1.5kmほどだというのでOKをだす。
LAV-KUSH Hotel(200Rp)は24時間制の宿である。24時間制というのはチェックインから24時間滞在できるシステムである。僕がチェックインしたのは07:10なので,翌日の07:10まで使用することができる。部屋は8畳くらいの広さがあり,片側は窓になっている。
チットールガルではホーリーの最中のようだ
チットールガルの町の中心部には南北の幹線道路とそれにT字で交差する東に向う道路の交差点あたりである。この中心部交差点の近くにバススタンドがあり,南に1km弱のところに鉄道駅がある。中心部交差点から東に伸びる道路は町を二分する川にかかる橋を渡り,少し先に僕の泊まっていた宿がある。城塞はこの地区の東側に位置している。
バススタンドに向かって歩き出す。おかしい,周辺の商店はほとんどがシャッターを下ろしている。今日は土曜日のホーリーにあたるので商店の多くは店を閉じているのだ。ホーリー祭はヒンドゥー教の春祭りであり,3月の満月に行われる。ホーリーでは近所の知り合いはもとより,通りがかった見知らぬ人にまで顔や身体に色粉を塗りつけたりする。カメラをもった旅行者にとってはかなり危険な祭りである。
女性がバケツリレー方式で土砂を運び出している
宿とバススタンドの間には川がある。現在は乾季のためほとんど水は流れていない。そのタイミングで新しい橋の工事が行われている。橋の手前には驚いたような表情で大きな口を開けているモニュメントがある。これは遊園地の入り口になっている。しかし,現在は新しい橋を架ける工事のため遊園地は休業状態となっている。
橋から見ると橋脚を立てるために周辺の地面を掘り下げている。ここには重機はなく,10人ほどの女性がバケツリレー方式で土砂を運び出している。人件費の安いインドではこのような光景が良く見られる。女性たちの服装はやはりサリー姿である。インドでは既婚女性がサリー以外の服装をしているのはほとんど見かけない。
ラジャスターンらしい壁画
橋を渡った左側に川に下りる道があり,その斜面を支えるコンクリートの壁にラジャスターンらしい壁画があった。道路わきの擁壁を飾るだけのものとは思えない出来栄えなので写真をとることにした。ムガール帝国時代の服装をした軍隊の行進やきらびやかな衣装の女性たちが描かれており興味深い。
このような服装からラジャスターンはイスラム色の強い地域かと思っていたら,そうではなかった。チットールガルの城塞を建造したのはヒンドゥー教徒のラージプートであり,彼らは北インドの支配者であった。ラージプートの支配地域はイスラム勢力により侵食されたものの,その名はラジャスターン(ラージプートの土地)の州名に残されている。
チットールガル鉄道駅はラジャスターンらしい建物である
バススタンドの少し先から乗り合い小型自動車が出ており,駅前まで5Rpで乗せてもらった。この幹線道路は線路と交差しており,そこは開かずの踏み切りになっている。車は幹線道路の横にある地下道を通って再び幹線道路に合流した。この地下道はバイクやリキシャーのためのバイパスになっており,踏み切りは一回あたりの閉鎖時間が長いのでこのよう側道ができたようだ。
州政府観光局のオフィスはホーリーのため閉まっていた。駅からずっとついてきているオートリキシャーの運転手は観光局の裏手にある州政府経営の高級ホテルに連れて行ってくれた。その結果,州政府観光局のツアーはずいぶん前に無くなっており,現在はオートリキシャーをチャーターするしかないということが分かった。
ホーリーの危険地帯
ホーリーはインド特有の粉かけ祭りである。本来は春の到来を祝い,相手の健康を祝して顔に色粉を塗る行事であったが,現在ではずいぶんエスカレートし,だれかれかまわず粉を塗ることのできる危ない祭りになっている。街中には色とりどりに染まった若者がバイクに分乗して走り回っている。また,路地などにも粉を塗ろうとねらっている一団もいる。
この過激な祭りで揉め事が起きないようにするため相当数の警官が動員されている。このような警察官の配置も旅行者が被害にあうのは食い止められない。僕は背後から黄色の粉をかけられシャツとザック,さらにはカメラにまで粉がかかってしまった。粉はこすると繊維の間に入り込むので,まずカメラ本体を警察官に借りたハンカチでほろい落とす。帽子に付いたものはそのままはたいて落とす。
象が歩いている
宿の近くを象使いを乗せた象がゆっくりと歩いていた。今日はホーリーの祭りなのでどこかのイベントに呼ばれているのかもしれない。象の顔の周辺にはきれいな模様が描かれており,後ろ足はホーリーの色粉をかけられたのかいろんな色で染まっている。インド象はアフリカ象に比べて小型とはいうものの,近くで見るとやはり巨大である。
橋の少し手前の家で
さすがに日中に歩き回ると疲れる。パソコンを1時間ほど操作し,30分ほど横になってから夕食の散歩に出かける。橋の手前にポンプがあり,その坂の下の家の5歳くらいの女の子が表に出てきた。坂の下には貧しい人々のバラックのような家が何軒か並んでいる。
カメラを向けると8歳くらいの姉が走り出てきた。さらに少年が加わる。どうやら三人だなと見当をつけて彼女たちの家でヨーヨーを作ってあげると,いつの間にか6人になっている。3個でおしまいと宣言することもできたが,今日はお祭りなので6個の大盤振る舞いである。記念の集合写真を撮ってお別れする。
夕食のメニュー
夕食のメニューは少年のいる食堂でいただいた。ターリーにしようとすうると地元の人用なのでスパイシーだよと注意を受けた。そうか,マサラは注文により一つずつ作るが,ターリーのカリーは作り置きなのだ。
さて何にしようかと思案して,このメニューは何ですかと質問すると,店員は僕を連れて行き,調理場の前に並んでいる野菜のうちトマトとカリフラワーを指差した。なるほど,そのような組み合わせのマサラであったか。それならば,ジャガイモとナスでもマサラができるだろうと注文すると,なぜかトマトとナスの組み合わせになって出てきた。スープはほとんどなく,マサラ味の野菜炒めといったところである。
橋の少し手前の坂の下に昨日の象がいた
朝食を食べにバススタンドの方に歩くと,途中でポテト・ポア屋があり一皿いただいてしまった。近くにはチャーイ屋もあり,合わせて10Rpの朝食となった。橋の少し手前の坂の下に昨日の象がいた。象使いの男性はまず布でたたいてほこりをはらう。
次にバケツの水を手柄杓に汲んで水をかける。バケツ3杯であの広い象の体がだいたい濡れることになる。昨日も写真を撮らしてもらったので,おじさんに50Rpを渡す。この国では,特に緑の少ない地域では象を養うのは大変なことなのだ。
多くのシギに混じって大型の鳥がいる
橋の工事現場の近くに大きな緑色のインコが止まっていた。ホンセイインコ(オウム科・ホンセイインコ属)の仲間であろう。鮮やかな緑色をして,赤い嘴,首の周りの黒い帯,楔型の長い尾をもったこの大型インコはアフリカ,インド,中国南部,東南アジアに12種が分布していてる。食性は果実,穀物など植物性のものである。美しい姿から世界中でペットとして飼育されており,その一部が野生化している。日本でも東京都における野生化が報告されている。
工事中の橋の近くに大きな水溜りがある。そこにいろんな水鳥が集まっている。望遠レンズを試すには適当な題材である。さきほどちょっと眺めた範囲では頭とクチバシの黒い大きな鳥も見えた。水辺に下りていく道はないので,遊園地の中を通り,工事中の土が盛られているとこから降りることになった。ここで小さな誤算が生じた。工事関係者のおじさんが僕の後をついてくるのだ。
野生の鳥は物音に敏感なので僕はずいぶん注意して近づいていたのに,おじさんはあろうことかペットボトルを踏んでいらざる音を立ててしまった。鳥たちのうち僕に近いものはいっせいに飛び立ってしまった。彼を追い払うわけにもいかず,難儀した。
数多く群れているのはセイタカシギ(セイタカシギ科・セイタカシギ属)である。ユーラシア大陸の暖地,アフリカ北部,オーストラリア,南北アメリカ大陸に渡り鳥または留鳥として分布している。日本でも稀ではあるが観察されており,繁殖が確認されたこともある。体長(嘴から尾羽の後端まで)は40cmほどであるが,それに匹敵するくらいの長いピンク色の脚がよく目立ち,セイタカシギと判断するのはそれほど難しくはない。すらっとしたピンクの長い脚のためか「水辺の貴婦人」と呼んでいるサイトもある。
セイタカシギやアカアシシギに混じって大型の鳥がいる。大型,黒い頭,少し湾曲して先端が細いくちばしからクロトキ(コウノトリ目・トキ科・クロトキ属)と判断した。日本で絶滅してしまい,中国からの借り物で繁殖が試みられている朱鷺(コウノトリ目・トキ科・トキ属)の親類である。朱鷺は絶滅危惧種になっているが,クロトキは中国東部,東南アジアの一部,インド,スリランカで繁殖ししており,絶滅の心配はない。頭部が黒いのは羽が抜けて黒い皮膚が裸出しているためである。
朝のチャーイを楽しむ
インドの朝はチャーイで始まる。露店のチャーイ屋は早朝から暗くなるまで営業しており,煮出した紅茶に沸騰したミルクと砂糖がたっぷり入ったチャーイは日本で飲まれている紅茶とはまったく別物である。車内販売ではティーバッグを使用しているものもあり,これはとてもチャーイとは呼べない代物である。熱いチャーイは酷暑のインドに不思議と合う飲み物である。僕も毎日4杯くらいはチャーイを小さなグラスで楽しんでいた。値段は3-5Rpといったところだ。
石材を造る
宿の横には石材の加工場がある。インドでは歩道や一般の家屋の床材に石が使用されることが多いのでその需要は高い。大理石は高級品であり,寺院や公共建造物に使用される。一般的に使用されるのはその土地で採取しやすいものである。ここの加工場では灰色の石材を使用している。
採掘場である程度加工された石材の仕上げ加工がここでは行われている。作業員の男性はマスクもせずに石板を定尺に切りそろえている。カッターの刃にはどのような材質の金属を使用しているのか,水をかけられた電動の回転刃はまるで木材を切るようにゆっくりと石材を切っていく。
チットールガル砦ツアー出発
昨日約束したオートリキシャーの運転手は09時を少し回った頃にやってきた。彼のオートリキシャはまだ新しい。僕が乗り込むと砦を目指して動き出した。頭の中に3時間で主要部を見る計算をしようにも見どころがどのくらいあるのかわからないが,おそらく5ヶ所くらいなので1ヶ所あたり30分である。これは僕のペースからするとかなり急ぎの見学となる。
チットールガル砦は高さ150mほどの岩山の形状をそのまま生かしたもので,全長が2300m,幅が800m程度の範囲を占めている。この面積の範囲を高い城壁で囲い,頂上部に通じる道は一本しかない。道はずっと上りとなる。構造的に見て,大部隊でこの砦を攻めるにはこの取り付け道路を攻略するしか方法は無いようだ。この重要な道路は外側の城壁で囲われており,7つの門で守られていたという。
城壁にはハヌマーンが群れている
第一の門から外側の城壁の中に入る。この砦の中には現在でも3000人ほどの人々が暮らしている。運転手の男性も子どもの頃はこの城壁の内側で暮らしており,父親は現在もそこに住み続けているという。もちろん,現在は新築の家屋は認められておらず,改修だけが認められている。
第二の門から少し行ったところにビューポイントがある。城壁にはハヌマーンが群れている。中には子連れのものもおり写真に収めた。小さな子どもは母親の胸に四肢でしっかりしがみついている。ハヌマーンの尾は1mほどの長さがあり,地上を歩くときにどのようにするのか興味のあるところであったが,今回の写真では半円を描き頭の方に回していた。もっとも地上をすばやく移動するときはこのようになるかどうかは分からない。
町を見下ろすビュー・ポイント
ここは城壁の上部に出ることができるので町を一望できる。城壁の上から眺めると砦に向かった家屋の壁面が青色で統一されている。ジョドプールのメヘラーンガル砦から眺めた町の色彩と非常によく類似している。とはいうものの,ジョドプールほどの統一性はなく,かなり別色のものも混ざっている。
ラナ・クンブハ宮殿跡
宮殿跡の少し手前にチケット売り場があり,ここで入場料100Rpとオートリキシャの入場料5Rpを払う。宮殿跡は王族の居住地であったところだろう。その一部は天守閣のように城壁より高くそびえている。16世紀にイスラム勢力の攻撃により,この城は三度目の陥落を迎える。
武勇と名誉を貴ぶラージプートの女性は名誉の死を,男性は最後まで戦い抜いて戦死した。この殉死と戦死によりチットールガルはラージプートの名誉と栄光の場所となった。城壁の上に出ている宮殿のもっとも高い部分の一部は黒く煤けていた。運転手の話では勝利の塔の近くに女性たちが火葬の炎の中に身を投げたところがあるという。
この姿はこの城塞の最後の場面を如実に物語っている
宮殿の内部は特に見るべきものはなかった。外壁から立ち上がっている物見塔のような建物はここではもっとも高いところであり,支配者の一族はここから周辺の平野部を眺めていたのであろう。往時は白かった漆くいは剥げ落ち,一部は黒くすすけている。この姿はこの城塞の最後の場面を如実に物語っている。
ヒンドゥー寺院
道路を挟んでラナ・クンブハ宮殿跡の反対側に精緻なレリーフに飾られたヒンドゥー寺院がある。立派な寺院にもかかわらず,この寺院ついてはガイドブックはもちろんネットからもまったく情報を見つけることができなかった。寺院の両側は石組みの城壁になっており,まるで城壁の一部を壊して寺院を建造したような印象を受ける。石材はタール砂漠と同じ色の砂岩である。
インドのヒンドゥー寺院らしく,少し赤みの入った薄い茶色をした堂々とした壁面は全面が精緻なレリーフで飾られている。レリーフは層構造をもっており,下段には象や民衆像が壁面を取り囲んでおり,上段にはレリーフというよりは彫像のような神々の大きな像が彫り込まれている。この神々の彫像はとても新しいような感じを受けた。
ミーラー・バーイ寺院は王族の義理の娘の名が付けられている
ヒンドゥーのミーラー・バーイ寺院はチットールガルの王族の義理の娘であるミーラー・バーイの名が付けられている。日本語のサイトではほとんど取り上げられていないが,ミーラー・バーイの物語は英文のサイトにいくつか見つけることができた。
彼女は王族と結婚しているにもかかわらず,クリシュナ神に恋をして,禁欲あるいは苦行によりクリシュナ神に近づこうとした。彼女は家庭を捨て,死ぬまでクリシュナ神を賛美する詩を作り,それを口ずさみながら放浪した。彼女の詩は北インドや中央インドで現在も広く詠い継がれており,彼女は聖人とされている。そのような背景から彼女の名前を冠した寺院が造られた。
ミーラー・バーイ(Miara Bai)寺院
ミーラーバイ寺院は大小二基あり,建物の周辺のスペースが狭いので本院の全景写真を撮るのは難しい。この寺院も周囲の壁面は多くの彫像やレリーフで飾られている。シカラ(高塔)の写真は背後から撮った方が感じが出る。シカラの下部には神殿の形をしたところがあり,その内部にはビシュヌ神(クリシュナ神はビシュヌ神の化身の一つである)の彫像が見える。おそらくどこかにミーラー・バーイの姿もあるのではと思うが,写真を眺めてもそれらしいものは見つけられない。
この寺院は聖室の中まで写真を撮ることができる。小さな方の寺院がミーラー・バーイに捧げられたものなのかもしれない。こちらの聖室には左のようなレリーフもあり,もしかしたらこれはクリシュナに近づいたミーラー・バーイではないかと想像する。
ジャヤ・スタンバ(勝利の塔)
ジャヤ・スタンバ(勝利の塔)は15世紀にラナ・クンブハがマルワール王国との戦に勝利した記念に建てたものである。細身の9層の塔で高さは37mもある。壁面は一面に神々の彫像やレリーフで飾られている。この塔は内部の螺旋階段により最上部まで上ることができる。しかし,4層以降は明り取りの窓が無く真っ暗となリ断念した。
勝利の塔はこの城塞のシンボルとなっており,塔を背景に女子高校生の集団が記念写真を撮っていたので僕も便乗させてもらう。ちょうど太陽が彼女たちの正面にあり,かなりまぶしそうだ。白のゆったりとしたズボン,空のように青い長い上着,首のところから背後に下げる白いショールが制服となっている。たしかにここからの記念写真はちょうどよいアングルになる。
砦の貯水池
勝利の塔から人々が歩いて行く方向に向うと一段下がった崖の下に貯水池があった。貯水池は牛の口をかたどった泉からの水を蓄えたことからゴームクと呼ばれている。ゴームクという地名はガンガーがヒマラヤの氷河から流れ出るところにもあり,そこはヒンドゥー教徒の聖地になっている。しかし,泉だけではとてもこの池の水をまかないきれそうもないので,おそらく雨水をここに流し込む仕組みがあったのだろう。
乾季の今も水が残っており,観光客のいるところと反対側では地元の女性たちが洗濯をしている。池の手前にある寺院のような建物からはチットールガルの市街地を一望でき,ここは城塞の西の外れに位置しているようだ。半砂漠地帯にありながら市街地は意外と緑が多い。城壁のすぐ近くまで民家が密集しており,ジョドプールと同じように青い壁が多い。
集合写真の要求があり何枚も撮らされることになった
急な石段を下ると貯水池の近くまで下りることができる。さきほどの女子高校生に加えて,もう一つの女子学生の集団がやってきたので,この石段付近はとても混雑している。踊り場のところに集まっている人たちの写真を撮ったら,次々と集合写真の要求があり何枚も撮らされることになった。
貯水池から戻ると12時である。運転手はあと3つ見どころがあるというが,暑さで疲れていたので宿に戻ることにする。宿の前で約束の200Rpを運転手に手渡し,お礼を言ってお別れする。
第一の門から城壁の横を歩く
夕方の時間帯になったので城塞の第一門の少し先にあるビューポイントを目指して歩いてみた。午前中はオートリキシャーですぐに到着したのだが,歩くとなるとなかなかハードだ。第一門の先は城壁の内側に一段低くなった通路がある。ここは戦闘員が移動するためのものであろう。
ここに上ると銃眼のすきまから町を見下ろすことができる。ところどころに外側に半円状にせりだした構造物があり,そこには窓が開いており町と夕日を眺めることができる。ビューポイントにはまだだいぶ距離があるので,ここから夕日の写真を撮ることとにする。この城壁の道は第二門まで続いていた。