ジャイガオンはシルグリからバスで2時間弱,ブータンのプンツォリンに接した国境の町である。ブータンは現在でも準鎖国の国である。魅力的ではあるが個人旅行では簡単には訪問できない国なのだ。
何でも1日200ドルを旅費として使えば入国が可能だという。それはバックパッカーにとっては1週間か2週間分の旅費に相当する。しかし,ここジャイガオンからノービザでプンツォリンに入ることができる。
ただし宿泊はできないので,夜はインドに戻らなければならない。午前中の早い時間帯(8時頃まで)にはイミグレの係官がおり,ビザの無い第3国人は入国できない。彼らがいなくなると(警官はいるが)ノーチェック状態になる。ちょっとドキドキしながら門をくぐるとそこはブータンである。
注)2008年現在,第三国人はビザ無しではこの国境を通貨できなくなっている。国境の溝のところには警官が目を光らせており,ビザ無し入国が見つかった場合,1日あたり1000ドルの罰金が課せられるという。
中国とインドに挟まれたブータンは面積3.8万km2(九州と同程度),人口63万人の小国である。人口の3分の2がチベット系,3分の1がネパール系となっている。公用語はゾンカ語であるが,学校教育は英語が採用されている。
左の地形図で国境線を見るとプンツォリンの西側では平地はインド,山岳地帯はブータンとはっきり別れていることに気が付く。ずいぶん分かりやすい国境線である。
現地語の国名は「ドゥク・ユル」でこれは「雷龍の国」を意味する。龍の国らしく国旗にも龍があしらわれている。チベット仏教のカギュ派のドゥク派が国教となっており,これが龍の国の由来となっているようだ。
ブータンは2008年まで絶対王政の国であった。国王の意向により長い間「鎖国政策」がとられ,1972年に第4代のジグメ・シンゲ・ワンチュク国王が16歳で即位したときは,貧困,識字率,乳幼児死亡率のどれをとっても世界で最悪の水準であった。それらは,鎖国政策がもたらした負の遺産であった。
しかし,鎖国のおかげでブータンの伝統や文化は,グローバリゼーションの荒波に翻弄されること無く受け継がれてきた。第3代国王の時代の1960年代からブータンも少しずつ開放路線に踏み出すようになった。道路や学校を建設しされ,診療所が開設され,国連への加盟も実現した。
英明さで知られており,国民の敬愛を集めていた第4代国王は慎重に開放政策を進展させた。彼は国の発展,国民の幸せについて考察し,「国民総幸福量(Gross National Hapiness)」という概念を考案した。その主柱となる指標は下記の四点である。
(1) 持続可能な開発
(2) 環境保全
(3) 文化の保全と振興
(4) 優れた統治
この中には「経済発展」は含まれていない。自然資源を損なわずに身の丈にあった経済を指向することにより,貧困を克服することができた。これは絶対権力を有する英邁な国王と人口63万人のブータンだから実現できた離れ業であろう。
第4代国王の指向する道は地球環境問題の研究者が提唱している新しい価値観とも一致している。グローバリゼーションが目指すものは企業優先の競争社会であり,そこにおける価値とは「金儲け」の一点である。金を儲けた会社や個人が社会の成功者なのである。
金を稼ぎより多くのものを所有したいという価値観は人間の根源的な欲求である。それを野放しにするのか,社会的規制を設けていくかにより,社会のありようは大きく異なってくる。ブータンでは国王の主導により,モノは溢れてはいないが安定した社会を構築することができた。
2008年にブータンでは第4代のジグメ・シンゲ・ワンチュク国王退位し,28歳の息子ジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクが新国王に即位する。同時に新憲法を制定してブータンは立憲君主国となる。この民主化を推進したのが第4代国王である。
彼は「暗愚な国王」が国を破滅の道に導くことを危惧して民主化を選択したという。確かに英明な君主が政治を行うのが国にとっては一つの理想の姿である。僕は民主主義の価値観は否定しないが,「衆愚政治」という言葉もあるように,民主主義が必ずしも世界を良い方向に導くとは限らない。
限りある地球の資源を食いつぶしながら,経済の規模をしゃにむに大きくしていき,規模の拡大が止まると「不景気だ,景気対策が必要だ」と声高に要求するようになる。日本では一人当たりGNPが4万ドルを越えても国民の生活は決して幸福とはいえない。
カリンポン→ジャイガオン移動
カリンポン(08:45)→シリグリ(13:00)→ジャイガオン(14:15)と155kmをバス(75Rp)で移動する。カリンポンからジャイガオンへの直通バスがあるので助かる。バスはかなりの年代物で,しかも2+3の一列5人掛けである。
バスは定刻にほぼ満席状態で出発した。30人乗りとはいえ,横幅のあるバスがジー道を走るのだから大変だ。山道では慎重に運転するので,ジープに比べるとかなり遅い。
平地になると周囲は広大な茶園になる。茶園はシリグリを過ぎ,ジャイガオンまで断続的に見えた。規模からするとダージリンの何十倍もの規模である。さて,このお茶のブランドは何になるのであろうか。
ホテル・カンチンジュンガ
バスは国境の匂いが漂うジャイガオンに到着した。車掌が安宿を教えてくれたので,ホテル・カンチンジュンガに泊まることにする。部屋(75Rp)は3畳,T/S共同,まあまあ清潔である。町には2件の銀行があるが,どちらも外貨両替はやっていない。
寝るときはファンを弱にしてフトンを被って寝た。標高は280mなのに,平地の酷暑とは無縁の世界である。緑が多いとこれほど過ごしやすい気候になるものなのかと感心する。
国境の門をくぐる
宿は幹線道路沿いにあり,3分歩くと国境ゲートに出る。ブータン式の門は,何となく日本の寺院の山門に似ている。門の中央は車道になっており,両側に歩道がある。警官が立っているのでちょっとドキドキするが,インド人と一緒に門をくぐる。
門の向こうはそれほどブータンらしくない。ブータン人はあまり見かけないし,子どもたちは民族衣装を着ていない。それでもブータンの男性は「ゴ」を,女性は「キラ」を着用している。丈の短い着物に似たゴと革靴の取り合わせはちょっと笑える。
門の道をまっすぐ行くと右に公園,左にグランドがある。グランドで遊ぶサッカー少年は完全に洋風の運動着である。公園にいる女の子の一部は民族衣装の「キラ」を着用している。子どもたちは写真に対する警戒感はまるでない。かわいい子どもたちが集まってきてすぐ集合写真になる。
学校の制服は民族服でも放課後の服装は洋風化している
夕食はブータン側でとる。メニューの内容はかなりインド的である。国境のインド側は宗教上の禁忌により飲酒は禁じられている。こちら側では飲酒はフリーなので,インド人はこの町で大いに飲んでいるようだ。ほとんどの食堂は酒を出すスタイルである。
インド側はマンゴーの季節である。僕の愛用していたスイス・アーミーナイフは前の旅行時に空港で没収されてしまったので,ステンレスの小皿とプチナイフを買う。20Rpの出費であるが,これでマンゴーは食べ放題である。今日のマンゴーは2個で20Rp,品質はまったく問題がない。
早朝のジャイガオンの市場歩く
7時に国境ゲートに行くと,民族服のイミグレ係官がチェックしており,ビザ無しの第3国人は入国できない。どうやらこれが本来のルールーで,僕たちはゲート係官の好意(おめこぼし)により,町に入れるらしい。
そのうちイミグレ・スタッフはいなくなると考え,近くの市場で時間をつぶす。日本ではゴールデン・ウイークに入り,果物屋を見ているとき,熟年の日本人女性に出会った。彼女はツアーでこれからブータンに入るとのことであった。
ブータン寺院
9時過ぎに国境ゲートに再度行ってみると読み筋通り,係官はいなくなっている。門をくぐると,真っ直ぐに大通りが山の方に向かっている。その左側にもう一本平行する道がありブータン寺院が見える。
本尊は着飾っているため何だか分からない。その両側に雷龍の像が配されているのはいかにもブータンらしい。ブータン寺院には巨大なマニ車を納めた建物がある。マニ車の周囲に坐る場所があるので,お参りに来た人はここに集まる。小さな子どもが自分よりはるかに大きいマニ車を回そうとする。さすがに重過ぎて回らない。父親が少し手伝うとゆっくり回り出す。
服装からすると田舎から出てきたと思われる夫婦が壁際に坐っている。日に焼けた肌が農民であることを示している。仲むつまじく話をしている2人にお願いして写真にする。画像を見せてあげると,もう一枚正式に撮ってくれと頼まれる。
長屋風の建物の庭で機織りを見る
ブータン寺院の先に2列になった長屋のような建物がある。家の前の作業スペースでお母さんが腰機で60cm巾の布を織っている。近くで子どもたちが遊んでいたので,折り鶴を教えてあげる。
何人かの子どもが制服に着替えて出てきた。少し茶色の入ったグレーの制服は,長い袖のブラウス,丈の長い着物,短い上着の組み合わせである。これはブータンらしくてとてもよい。
午後の授業のため待機している子どもたち
同じ制服の子どもたちが長屋の前を通る。彼女たちについて行くと学校がある。まだ入門時間になっていないのか,生徒たちは公園で遊んでいる。最初の一団を撮ると子どもたちが集まってきていい写真にならない。そのうえ,折り紙は迫られるし,サインは書かされるしで貴重な時間が過ぎていく。
この学校の授業は2部制になっているようだ。昼過ぎに午前授業の生徒たちが出てくる。週番の生徒が子どもたちの流れを指導している。午前の生徒が出終わると,公園で待機していた生徒が一斉に校庭に入る。
代わりに午前授業の生徒たちが被写体になってくれる。授業は英語化(国語はゾンカ語)されているので,ある程度の会話は可能だ。校庭では生徒たちが整列し,お経(と思う)を唱えている。
トラックで村に戻る子どもたち
学校の外では生徒たちが軍隊のトラックに乗り込んでいる。自宅が遠い子どもたちを,このトラックで送迎するようだ。トラックの上の女の子はカメラを向けると隠れてしまう。さっきまでの子どもたちと異なり,写真に拒否反応を示す子どももいるようだ。トラックは出発し,山に続く道を登っていく。
この町から通っている子どもたちはまだ近くの公園にいる
Lower Secondary School
山の方に歩いていくと,もう一つの小学校がある。ここは低学年用らしい。看板は「Lower Secondary School」になっている。う〜ん,これは一体どういう意味なんだろう。
教室の中には先生がいなかったので,中に入り何枚か写真を撮る。外に出ると,校庭にいた犬たちが吠えかかる。一匹が吠えると他のものも吠えるのでやかましいし,ちょっと危ない。石を投げるとすぐ逃げていくが,吠え声は止まらない。
山道を少し上ってみる
山道に入ると道路標識があり,首都ティンプーまで172kmとなっている。道路の周囲は2次林,3次林になっており,風景は見るべきものが無い。意外と交通量は多く,トラックが山の向こうに消えていく。見晴らしの良いところではブータンの山々が見える。シッキムと同じように折り重なるように山が続いている。
高校生(?)でもまったく同じ制服,同じ笑顔である
公園の近くまで戻ってくると制服の女生徒が歩道に坐っている。高校生(?)でもまったく同じ制服,同じ笑顔である。
国境の溝
ゲート以外のインドとブータンの国境はどうなっているのであろうか。それはコンクリートの溝になっている。巾は1.5m,深さは1mなのでその気になればすぐに渡れる。でも,そんなことをする必要は全く無い。両国の人々は完全に行き来が自由になっている。
お金も両国の通貨が1:1で交換されている。それどころかどちらの町でも通貨は混ざり合って使用されている。ブータンでインドルピーを出して買い物をすると,いつの間にかブータン紙幣やコインが紛れ込んでくる。国境を離れるとブータン通貨は使用できなくなるので,ジャイガオンを去る前にブータン通貨はすべて使わなければならない。