1947年の印パ分離独立まで,クシュティアは鉄道でコルカタと結ばれた商工業地区であった。しかし,現在クシュティアはバングラデシュの西の外れにある田舎町になってしまった。
この町にはインドの詩聖タゴールとベンガルを代表する宗教詩人ラロン縁の地として知られている。クイティバリには博物館になった「タゴールの家」があり,駅の東にはラロン・フォキールの墓になる「ラロン聖者廟」がある。
町は鉄道の南側に広がっており,鉄道のすぐ北側にはゴライ川があり,数km北西でポッダ川(ガンガー)に合流している。しかし,大きな地図で見るとポッタ川から分流しているようだ。ここでは川は気ままに分流と合流を繰り返し,網の目のように三角州を流れている。
タンガイル→クシュティア 移動
タンガイル(08:40)→Bonpala(10:55)→Dashuria(1130)→クスティア(13:00)と約150kmをバス(135タカ)で移動する。タンガイルからクスティアまでは交通が不便で何回もバスを乗り換えなければなければならない。タンガイルを出たバスはすぐに高速道路になっている長さ2kmほどのジョムナ橋を通る。大きな中洲ができており,場所の良いところでは水田や畑になっている。
「Bonpala」でこのバスから下ろされ,車掌が近くのリキシャーに○○に行くよう依頼する。発車間際の次にバスに間に合った。このバスはダシュリアのロータリー付近で僕を下ろしてくれた。
地元の人にBSについて聞いてみると,すぐに(親切な)男たちにつかまってしまった。そうか日本から来たのか。まあ冷たいものでも飲んでくれ。果物はどうだい。困ったことがあったらこの携帯に電話してくれ。などなどの儀式が終わり,ようやくチケット売り場に到着した。ここでもチャーイが届けられる。ようやく次のバスが来て開放される。
このバスは30分ほど走ると何故か全員前のバスに移動させられる。少し前にはフェリーで渡っていたポッタ川(ガンガー)にも,ハーディング鉄道橋の少し下流に新しい橋がかかっていた。バスは速度を緩めることなく通過したため,鉄橋の写真は撮ることができなかった。
Hotel Padma(ポッダ)
こうして4台のバスを乗り継いでクスティアに到着した。宿は「Hotel Padma」にする。この綴りでポッダと発音するらしい。部屋(100タカ)は6畳,1ベッド,蚊帳,T/S付きで清潔である。
乾期のゴライ川
遅い昼食をとって,町の北側を流れるゴライ川に向かう。川幅は500mほどもあるのにほどんど水は無い。対岸に向かう踏み固められた道がある。雨期には渡し舟が必要な川なのに,今は北の土手の近くに細い流れがが残っているだけだ。そこには竹を組み合わせた仮橋がかかっている。この橋にはちゃんと料金所があり行きと帰りに1タカを徴収される。
日曜日のせいか川は大勢の人々でにぎわっていた。わずかに残った水辺に人々は集まる。飛び地のよう
沐浴・洗濯・水遊びの風景
に残された水たまりには,小さなカエルが泳いでいる。そこは小さな子どもたちのかっこうの遊び場所だ。
メインの水場には洗濯をする人,沐浴する人が集まっている。生活用水を汲んでいく女性もいる。女の子の集団にせがまれてたくさん写真を撮る。おかげでなかなかいい昼下がりの時間を過ごせた。
ラロン聖者廟にて
遠くからかすかに音楽が聞こえてくる。もしやと思いラロン廟に向かう。ラロン(1774-1890)はベンガルを代表する宗教詩人である。彼のような宗教詩人は「バウル」と呼ばれている。
バウルはベンガルの古い民間信仰で一切の経典をもたず,祈りと修行の手段として歌をもつとされている。この歌う修行者をバウルという。バウルはインドの二大宗教であるヒンドゥーにもイスラムにも属さず,独自の宗教観をもっている。
彼らはシンプルな1弦琴のエクターラ(ektara)とドゥブキ(dubki)と呼ばれる太鼓をもって,村から村へと放浪し,バウル・ソング歌うことで生計を立てている。独自の宗教観をもつ吟遊詩人といえるかもしれない。
バウルはUNESCOの「人類の口承及び無形遺産の傑作」の第3回宣言(2005年)に掲載された。ユネスコはすでに有形の文化遺産として「世界文化遺産」を制定している。しかし,芸能,伝承,社会的慣習,儀式,祭礼,伝統工芸・技術,文化空間などの無形文化遺産を守るため,2003年に「無形文化遺産保護条約」を採択した。
これに基づき2009年の政府間委員会で第1回の代表一覧表が作成される。上記の宣言はその一覧表に掲載することを意味する。すでに,日本の能楽,人形浄瑠璃文楽,歌舞伎を含め世界各地の90件の文化が宣言されている。
ラロンはもっとも著名なバウルであり,ラロン廟のあるクシュティアでは毎年3月と10月に彼を偲んで「ラロン祭」が開催され,この時期には大勢のバウルが全国から集まる。
夜になっても広場はにぎわっていた
僕が訪れたのはちょうど最終日であった。廟の手前には大きな広場があり,食べ物屋,土産物屋が集まっている。移動遊園地の施設もある。廟の近くにあるホールでは人々が床に車座になり歌と踊りに興じている。
イスラムの国には珍しく,男女が一緒である。隻腕のバウルは片手で弦をはじいて詠っている。広場の一角ではバウルと問答をする,小さな集団がいくつかできている。聖者廟は5m四方の小さなもので,白い方形の建物の上に白いタマネギ形のドームが乗っている。
廟の前にはいくつかの棺が置かれている。人々は柵の外から,あるいは中に入ってお参りをする。中央会場でイベントが始まった。最初に1曲だけ歌があり,後はずっと演説が続く。退屈なので途中で宿に戻る。
ゴライ川の北側を歩く
ゴライ川の竹の橋を渡り北側の田舎道を歩いてみる。日差しが強く少し歩くと汗になる。道の両側には家が並んでおり,その向こうは水田になっている。小さな集落を訪問すると集落中の子どもと女性が集まってくる。
人数が少ないときはヨーヨーを作ったり,フーセンを配ることもできるが,これだけ大人数になると写真を撮るだけで済ませるしかない。ごめんね…
乾季米の青い水田を見るとちょっと複雑な思いだ
農家の庭先で女性たちが麦を選り分けている。日本ではコンバインが刈り取りから脱穀まで自動的に完了してくれる。
人口の7-8割が農業に頼っているバングラデシュでは,機械化により規模を追求する近代農業は農村社会を崩壊させる危険性を有している。必要なのは農村の自立と安定であり,それは小規模で持続可能な農業からもたらされるはずだ。
集落の回りの稲はちょうど開花時期であった。小さな苗は成長するといくつかの茎に分れる(分けつ)。さらに成長すると茎から穂が顔を出す。これが出穂(しゅっすい)である。日本では田植え後90日くらいで出穂する。
じきに花が咲く。稲の受粉はほんの2-3時間で完了し,花はすぐ閉じてしまう。そのためコメの花が見られるのはほんの一時期だけである。
バングラデシュでは乾期米を栽培するための水は,ため池か地下水に頼っている。水田のあちこちに地下水を汲み上げるポンプが動いている。
やぐらを立てて井戸を掘る
ここでは人々はやぐらを組んで井戸を掘っていた。直径10cmほどの鉄パイプが立てられ,人力でパイプを回しながら掘り進んでいく。多くの地域では涵養量以上の地下水が使用されている。地下水が減少すると何が起きるか,まだ誰も分かっていない。
コーランを憶える
コーランを学んでいる小さな学校があった。世界で10億を越える人々がイスラムを信仰している。当然,彼らの言語は多岐にわたっている。しかし,彼らの聖典コーランはアラビア語以外に翻訳されることはない。
コーランはアラビア語で朗誦しなければ読んだことにはならない。したがって,翻訳されたものはもはやコーランとはみなされないからだ。バングラデシュの子どもたちは,まるで外国語の歌を覚えるようにコーランを丸暗記する。彼らはの学習はひたすらコーランの音読である。
いつもの朝食
バングラデシュには1ヶ月滞在した。食事はほとんど毎日おなじものの繰り返しである。朝食はロティかチャパティ,ダルスープ,オムレツ,チャーイ,昼食と夕食はチキンかマトンか魚のカレー,ごはん,野菜である。
ダッカやチッタゴンを除くとこの国では,これぐらいしか食べられるものがない。しかし,人間の適応性は大したもので,この変化の無い食事も慣れてしまうと苦にならない。
4週間のバングラデシュ旅行もそろそろお終いである。クシュティアからインド国境の開いているジェソールまではバスで3時間ほどの移動である。