1960年代にフィリピンの国際稲研究所(IRRI)で開発された新品種(IR8)は,従来品種の2-3倍の収量が期待できる画期的なものであった。IRRI(イリ)米と呼ばれる高収量品種はアジア各地で栽培されるようになり,多くの国でコメの自給を達成できるようになった。これが「緑の革命」と呼ばれる近代農法である。
モンスーン気候のバングラデシュでは,伝統的に雨期に稲作,乾期に野菜等を栽培してきた。ブミヒンと呼ばれる土地なし農民は,1年を通して農作業の手伝いにより収穫の一部を受け取り,なんとか農村で暮らすことができた。過剰な人口を抱えるバングラデシュでは,長い間農村がその受け皿となってきた。
ところが,「緑の革命」による新しい農法は,乾期だけに稲作を行う「乾期米のモノカルチャー体制」に変わった。バングラデシュでも高収量品種が導入され,コメの生産量は倍増した。その結果,悲願の「コメの自給」は達成されたかに見えた。しかし,...
高収量品種は大量の化学肥料,農薬,水を必要とする。高価な化学肥料と農薬は生産コストを増大させるとともに,地力の低下を招くことになる。高収量品種を導入してから2-3年は確かに収穫量は倍増したが,地力の低下とともに収穫量は落ち込んでいった。
また,乾季における稲作に必要な水はほとんどあるいは相当部分を地下水に頼ることになる。雨期に涵養される地下水は,乾季の稲作でそれ以上に大量に吸い上げられることになり,地下水位の低下,枯渇という問題も出てきた。
バングラデシュの一部には自然の砒素が潜んでいるところがある。乾季に地下水を大量に使用することにより,砒素が地下水に混ざるようになった。飲料水を井戸に頼っている農村では,広範囲に砒素中毒が発生するという事態が発生している。
「緑の革命」では「乾期米のモノカルチャー体制」に変わったため,雨期の仕事が無くなり,農作業の手伝いで食べていたブミヒン(土地無し農民)は農村で暮らせなくなった。彼らは都市に追いやられ,伝統的な農村社会は崩壊していった。
工業化の進んでいないバングラデシュでは,都市の労働人口は農村を追われてきた人々を吸収するにはまったく不十分であった。彼らは都市の貧困層を形成することになる。
一方,化学肥料と農薬のため土地はやせ,水田から貴重なタンパク源の小魚が消えた。伝統的な農村の自給自足体制はくずれ,農民が市場で野菜や魚を買う姿が普通になった。コメの価格は下がり,費用のかさむ農業は収益を圧迫する。農民は赤字でコメを作らざるを得ない状況が出てきている。
この反省からバングラデシュでは伝統的な雨期米農業に回帰しようとする「ノヤクルシー運動」が起きている。化学肥料や農薬で痛めつけられた土地を回復させるのには長い時間が必要であり,その間の収量低下はさけられない。
しかし,自給自足体制の復活が「農村で多くの人々が暮らしていける」ことのカギとなっている。タンガイルの近くのヒンガノゴル村では,近代農法と伝統的農法が並存している。
ダッカ(50km)→タンガイル 移動
ダッカ・モハカリBS(08:40)→タンガイル(11:30)とバス(60タカ)で移動する。宿のすぐ南のBSからモハカリBS行きの市バスに乗る。このようなとき人々はとても親切でありがたい。モハカリはロータリーの周辺にある路上のBSである。
そこで「タンガイル行きはあっちの路上だよ」と教えられた。そちらに向かって不安になるくらいの距離を歩いていくと,路上に停まっているオンボロのバスが見つかった。恐る恐る聞いてみるとやはりこれがタンガイル行きのバスであった。
バスは客待ちのためこちらで4分,あちらで5分というように停車する。幹線道路に入ってもしょっちゅう停車する。ダッカを離れると緑の水田地帯になる。道路の状況は良い。タンガイルの北でバングラデシュを東西に分断する大河ジョムナ川に最初の橋が架かったので,ダッカ・タンガイル間の道路も整備されたのであろう。
ボラシュバリ・ホテル
バスはタンガイルの旧バススタンドに到着する。ここは幹線道路の脇で,目の前にチャーイ屋があったのでまず一杯とお茶にする。英語のできる人が話しかけてくる。「今ここに到着してホテルを探すところだ」と言うと,「ホテルを紹介するから付いてきなさい」と言ってくれる。
援助大国日本ということもあるだろうが,バングラデシュ人の親切が嬉しい限りである。ボラシュバリ・ホテルは町で唯一のまともな宿泊施設かもしれない。もっとも建物の外観はあまりホテルとは思えない。部屋(100タカ)は6畳,1ベッド,蚊帳,机,T/S付きでまあまあ清潔である。
立派なモスク
宿のすぐ近くには立派なイスラム教のモスクがあり,異教徒でも入ることができた。白でまとめられた内部は落ち着いたたたずまいをみせている。敬虔なムスリムの人々が祈りにきている。どの宗教でも祈りの姿はなにかこころに響くものがある。
夕方,リキシャーに乗って宿に戻ろうとしたとき,ボラシュバリ・ホテルでは分かってもらえなかった。このモスクの画像を見せて,なんとか宿に着いたありがたいモスクである。
昼食のため少し歩いてみたが気のきいた食堂は見当たらない。金曜日のせいか街の商店は大半が閉まっている。その中で小さなスーパーマーケットが見つかった。ありがたいことにそこには探していた円形パッケージのベビーチーズがあった。
これは栄養補給のため毎日1個ずつ食べている旅行の必需品である。店主は英語ができるので,食べ終わったチーズのパッケージを見せ,「この商品はありますか」とたずねると案内してくれた。同じ会社のダブルサイズ(2段になって16個入り)ものがある。値段は2.4$ととても安い。
この先のインドでも簡単には手に入らないかもしれないので2個いただく。ふとベトナムのホーチミン市にあるベンタイン市場で同じものの8個入りを2個で5$と言われたことを思い出す。
ジョムナ橋を見に行く
タンガイルの近くにジョムナ橋がある。ジョムナ川は遠く西チベットに源をもち,チベット高原を横断し,インドの東端を回り込み,バングラデシュを2分してベンガル湾に注いでいる国際河川だ。
1998年にバングラデシュで最初の橋がかかった。開通式の日には国中がお祭り騒ぎになったという。これによりダッカと西のラジャンヒ地区は陸路で結ばれるようになった。橋の総工費は10億ドル,この国最大の公共工事であろう。
タンガイルからローカルバスに乗ってこの橋とジョムナ川を見に行く。バスは川から1kmほど手前に止まった。あたりはバングラデシュらしくない風景である。幅数百mほどの裸地になっており,真ん中に鉄道線路が走っている。その向こうにはジョムナ橋に通じる取り付け道路がある。
道路の両側は金網とバラ線で仕切られており,まるで日本の高速道路のようだ。川に向かって少し歩くと道路の料金所が見える。幹線道路は歩けないので線路の上を歩いて橋を目指す。鉄橋があり軍隊が監視している。僕が「橋を見に行くんです」と言っても通してくれない。
彼に「橋の向こうから写真を撮らせてくれ」と頼み,1枚だけ撮らせてもらう。線路は周辺より数mも高いところにあり,その先にようやく橋が見える。道路が1本,鉄道が1本,その横には送電線の鉄塔が並んでいる。
ジョムナ橋
線路から降りさらに川の方にほうに歩いてみる。道路はなく川までは裸地が続いている。少し草の生えたところでは何頭かの牛がつながれている。車のわだちが橋の近くまで続いており,その向こうにゆるやかにカーブする橋が見える。
たくさんの橋脚をアーチ型のコンクリートがつないでいる。送電線の鉄塔が橋のカーブに沿って並びまるで帆船のマストのようだ。しかし,橋の周辺一帯は金網で囲われ,橋にも川にも近づくことはできない。川沿いの金網は1kmほども続いている。仕方がないので金網の間から写真を撮ってがまんする。
川幅は1kmほどか。川に橋を架ける場合,直線にするのが普通だ。しかしこの橋はゆるやかにカーブをしながら対岸に向かっている。何かこの地域固有の事情があるのかもしれない。ジョムナ橋の東側はジョムナ川の氾濫原になっている。背の低い雑草だけが生える広大な土地が広がっている。土壌は砂地であるが作物は育てられるらしい。
広大なバナナ園が広がる
一部の土地は新しいバナナ農園になっている。川沿いの低地なので雨期になると水に沈みそうだ。その季節までにこれらのバナナは十分な高さまで生長することができるのであろうか。
バス乗り場に戻りチャーイをいただく
バス停まで戻ると近くの集落にチャーイ屋があるので2タカのチャーイをいただく。男たちが寄ってくるが会話は成立しない。何組かの少年の写真を撮り,町に戻るバスに乗り込む。幹線道路に出ると,ラジャンヒ地区に向かおうとする人々が道路わきでバスを待っている。
ヒンガノゴル村に向かう
昨夜はけっこう寒かった。部屋の前には布団がたくさん積んであるのに,毛布1枚で寒い思いをしながら寝る。それでもカゼもひかずに朝を迎えることができた。近くの食堂でロティ(薄いパン)を注文したらチャパティ(油を引いた鉄板で焼いたもの)系が出てきた。いつものパンはここではナン・ロティというようだ。
タンガイルの南7-8kmのところにヒンガノゴル村がある。宿のスタッフにあらかじめ行き方を教わっておく。リキシャーで乗り合い三輪自動車(ベビータクシー)乗り場に行き,ヒンガノゴル行きのものを探す。この小さな三輪車は後ろに8人,前に2人が定員のようだ。こちらがあせっても定員以上にならないと発車しない。結局,大人12人,子ども2人で出発した。道路が悪いうえ,サスペンションは無いに等しいので振動がじかに伝わってくる。バングラデシュで経験したもっともひどい乗り物である。約30分のがまん料は15タカである。
乾期米農業と伝統農業が並存している
ヒンガノゴル(Hinga Nagar)村では緑の革命による乾期米農業と伝統農業が並存している。そのため,乾期米の水田に混じって,刈り入れ寸前の麦や,野菜の畑がある。乾期米の水田では一面が緑色に染められている。ちょうど穂が出た状態である。
大量の水を必要とするため,ポンプで地下水を汲み上げている。エンジンがうなりきれいな水が噴き出してくる。周辺にはかんがい用の池や川はないので,地下水だけで乾期米を栽培している。確かにこれでは地下水が不足するのも当然だと思う。
伝統農業の畑では
乾期米を栽培していない畑では麦,タバコ,ニンニク,キューリなどが実りの季節を迎えていた。老人は小さな枯れた茎を目印にしてニンニクを掘り出していた。とても小さいニンニクだ。日本のニンニク一かけら程度の大きさである。化学肥料と農薬で痛めつけられた土地が回復するまでは,まだまだ長い時間がかかるようだ。老人はただひたすらやせた大地の恵みを掘り起こしている。
タバコ栽培
換金作物のタバコ栽培も行われていた。畑にいるのはすべて女性たちである。1mくらいに伸びたタバコの葉をつんで,乾燥小屋に運んでいる。その近くでは女性たちがつるの付いた豆殻を広げて乾燥させている。小さな子どもたちが豆殻の上で遊んでいる。カメラを向けるとちょっとこちらをにらんでいる。持参のフーセンをふくらませてあげると,母子ともども笑顔になる。
風船でごきげん
写真に気をよくした子どもたちに連れられて小さな集落に案内される。集落には女性,子ども,老人しかいない。日向の写真は周囲の木の影が入りきれいに撮れない。ヤシの葉をあんだ家の壁の手前はちょうどよい日陰になっていたので,子どもたちや希望する大人を撮影してあげる。
自分の画像をみたときのいろいろな反応がおもしろい。子どもたちの集合写真はオートとマニュアルの両方でとってみた。結果はオートのほうができが良い,まだ修行が足りないようだ。
籐を削る
村の通りの反対側の地域も歩いてみた。びんろう樹の並木がいい木陰を提供してくれる。男性が丸い籐の表皮を裂いて皮籐を作っている。籐は亜熱帯から熱帯の森に自生するやし科の植物で,竹とともに生活用具を作るため非常によく使用されている。
多くはつる状で表皮にはトゲが生えており木に巻きついて成長する。一方,ラタンはまっすぐで外観は竹に似ている。男性はラタンを裂き,ある厚みを残して中の芯を取る作業をしている。周辺にちらばる芯の残骸が作業量の多さを物語っている。
気持ちのよい時間を過ごすことができた
村の中には子どもが多い。僕があるくと彼らがついてくる。大きな布をスカーフのように頭から被り,残りで上半身を覆っている少女の姿がとてもこの国らしい。ヤシの葉を編んでいる素敵な少女の写真も撮れた。おばあさんが孫を抱いて一緒に撮ってくれと飛び入りで参加する。
気持ちの良い時間を過ごすことができたお礼に子どもたちにフーセンをプレゼントする。お母さんたちが自分の子どもを連れてきて「この子にもあげて」と訴える。
こんなとき決して差別にならないように気を付けている。集落を去るときお孫さんと一緒に写真に入ったおばあさんは,ヤシの葉を編む手を止めて見送ってくれた。こういうことはとても印象に残る。
街の南側を歩く
街の南側はすぐに田舎の雰囲気に変わる。染物の家がある。家の前にある2列の竹ざおには青色に染まった糸が干されている。中庭に入るとこちらには黄色の糸が干されている。土器の大きな釜の上に大鍋が置かれ,中には染色液が入っている。ここでは染色液を加熱して使用しているようだ。
集落の家の中庭で子どもたちが遊んでいる。中庭というよりは何軒かの家に囲まれた小さな空間といったほうが正しいようだ。子どもと大人がなんとなく並んでしまうのでどうもフレームがうまくいかない。女の子はちょうどよくまとまってくれる。
子どもたちが一人にしてくれない
子どもたちに写真のお礼にキャンディーをあげるとその情報はすぐに伝わり,近所の子どもたちが集まってくる。まあ,キャンディーはたくさんあるからいいけどね。子どもたちは集落を見学する僕の後をずっとついてくる。「ねえ,君たち,これが最後の写真だよ」といって一枚撮る。