デリーの北西約450km,パキスタン国境に近いアムリトサルは人口は110万人,パンジャーブ州最大の都市である。パンジャーブ州はインドでもっとも豊かな州で,シーク教徒が多い。アムリトサルにはシーク教最大の聖地「黄金寺院」があり,多くの巡礼者がこの地を訪れる。
シーク教の開祖ナーナク(1469-1538年)は,全能の神の前では人は平等であるというイスラムの教えと,神はさまざまな形となって人間の前に現れるというヒンズー教の教えを併せた教義をつくった。そして宗教と軍事力に裏打ちされたパンジャブ人独自の王国を作っていった。
1947年のインド・パキスタン分離独立により,パキスタン・パンジャブにいたシーク教徒がインド・パンジャブに移住してきて,シーク教徒の密度が高まった。それにより,シーク教徒の「独自の国」をという運動が盛んになってきた。その中で過激派が台頭し,多くの穏健派が殺害された。
ビンドランワレ師を核にした過激派は1984年6月,重武装をして,黄金寺院に立てこもった。時のインディラ・ガンジー首相は武力制圧を決意し,軍隊に寺院突入を命じた。
6月6日未明,黄金寺院を戦車で包囲し,部隊は寺院の正面から突入した。過激派600名以上が殺害され,黄金寺院の浮かぶ池は血に染まったという。この黄金寺院事件がシーク教徒に恨みを残し,10月31日にインディラ・ガンジー首相は首相官邸でシーク教徒のボディー・ガードに射殺された。
パキスタン→インド国境移動
パキスタン側のゲートをくぐり歩いて国境を越える。ここは国境の雰囲気がよく出ている。さてインド側のイミグレーションの効率の悪さは驚くほどであった。
EDカードはどこにあるか分からないし,出そうとしても受け取る人がいない。ようやく渡すと15分経っても戻ってこない。団体客がインドから出国しようとしていたので忙しいのは分かるが,文句を言いたくなる対応である。
カスタムもX線検査をしたうえ,荷物を開けさせられた。カスタムの用紙に係員のサインがないとゲートから出してもらえない仕組みになっている。
Tourist Inn
アムリトサルまではタクシー(20Rp)とバス(10Rp)を乗り継ぐことになる。バスはメインストリート沿いのバススタンドに着く。バスの中で話をしていたおじさんは,町に付くとリキシャー屋に早変わりして,彼のリキシャーで「Tourist Inn」に向かうことになった。
部屋はドミトリータイプで広さは16畳,4ベッド,T/Sは共同である。シーツはきれいに洗濯されており,すぐ外のトイレ,シャワーも清潔である。料金は100Rp,この広い部屋に一人だったので夜はちょっとさびしい。室内は天
も壁も床も真っ白で,映画「2001年宇宙の旅」の最終シーンで,ボーマン船長が暮らした部屋のような雰囲気だ。天井からしっくいが落ちてくるので,ベッドの場所を選んで寝るようにする。
ターバン姿の男性が多い
外を歩くとシーク教徒の聖地の町らしくターバン姿の男性が多い。また,頭に荷物を載せた巡礼者をよく見かける。地方から聖地の巡礼にやってきた人たちのために,黄金寺院の敷地の一部に巡礼宿がある。
シーク教の主流派となっているカールサー派の男性は,髪の毛と髭を切らない。長い髪はターバンと一緒に巻き込んでいる。ターバンは単に頭に布で巻いているだけのものではなく,宗教的な意味合いから,きちんとした作法に基づいている。
インド圏の男性は帽子のよう頭に布を巻いたり載せたりしているが,それらはターバンではない。シーク教徒は比較的裕福で教育水準の高いものが多いため,英国統治時代には官吏や軍人として登用されることが多かった。そのため,一般的にインド人はターバンを巻いているというイメージが定着した。
殺生を禁じられたシーク教徒は商人になる人が多い。巡礼宿は裕福な信者の寄進により運営されており,無料で宿泊と食事が可能だ。外国人もこの宿に泊まれるが,体験者の話では,夜は人々の話し声がうるさくてとても眠れないとのことだった。
黄金寺院の入り口
巡礼者の後を付いていくとちゃんと寺院の入り口に到着した。入り口左側には土産物を扱う門前市が並んでいる。ATMの使用できる銀行もあり便利な環境だ。シーク教最大の聖地は,異教徒や外国人も問題なく中に入ることができる。靴を無料の預かり所に預け,足を洗ってから中に入る。
忘れてならないのは帽子あるいは大きめのハンカチなどを用意することだ。シーク教徒は神に頭髪を見せてはならないので,寺院の内部では頭を隠す被り物が必要である。
湖に浮かぶ黄金寺院
入り口の向こうは階段になっている。その階段を登りきると,目の前に湖と黄金寺院のパノラマが見えるようになっている。階段は別に無くてもいいのに,なかなかの演出である。
参拝者は一様にここからの風景を記憶に刻み付ける。中にはひざまづいて床に額をつけている人もいる。寺院全体を白い建物が取り囲んでおり,その内部は7割くらいが湖になっている。建物の内部なので本来は池ということになるが,とても広いので湖という表現がふさわしい。
黄金寺院はその名の通り黄金色に輝いている。湖の中央にあり,細い連絡橋だけで結ばれているため,湖に浮いているようにも見える。
白亜の建物も見事だ
周囲の建物と湖の間はきれいに石板が敷きつめられており,湖の回りを一周することができる。湖を囲んでいる白い建物群も印象的だ。白亜の殿堂という言葉がふさわしい。ドームを配した中央のひときわ目立つ建物は,ムガール建築様式を取り入れたものだろう。
どうしてこのように多くの建物が必要なのかは分からない。ただ言えることは,この建物が俗世と聖地の境界になっており,それ無しにはこの聖地は成立しないということだ。
信者は湖の中で沐浴することができる。そのため何ヶ所かの鎖場があり,これにつかまって中に入ることができる。簡易ターバンやスカーフで頭を覆った子どもたちが沐浴というよりは水遊びに興じている。
無償奉仕
湖を取り巻く建物の1階部分は回廊になっている。女性たちがそこの天井や壁の漆くいをはがしていた。カメラを向けると思い思いにポーズを取ってくれた。英語はまったく通じない。
僕の推測では,彼女たちは熱心な信者で,聖地のために何かしたいとこの労働奉仕を買って出たのではないだろうか。建物の白さはこのような労働により維持されているのだ。
小さなイベント
30人ほどの人が集まっており,その前で白服,ターバン姿の男性がマイクに向かって説教をしている。彼は手にはサーベルをもっており,説教の場にはそぐわない。
寺院内部の聖なる空間で吟じられる経典を聞く
巡礼者は手に手に木の葉の容器に入れたお供え物を持ち,それを寺院の入口で清めてもらう。寺院内部には小さな空間があり,楽師の音楽にあわせ,聖なる経典が朗誦されており,それは歌のようにも聞こえる。その声はスピーカーを通して外部まで響いている。中に入ろうとする信者が通路に溢れているので,聖なる空間には長居はできなかった。
1919年のアムリトサル虐殺事件の現場
第一次世界大戦(1914年-1918年)中の1917年に英国インド相モンタギューは戦後にインドの自治権を拡大するという約束をしたが,それは形式だけのものに終わり,1919年にはローラット法(破壊活動容疑者に対する令状なしの逮捕,裁判ぬきの投獄を認める)が発布された。
この措置は多くのインド人の反感を買うことになり,同年の4月にアムリトサルを中心としてパンジャーブ州では大暴が発生した。多くの施設が暴徒に襲われ,十数人の英国人が殺害された。
治安部隊が投入され,集会禁止が通達されたにもかかわらず4月13日には2人の民族指導者の逮捕に抗議する非武装の集会がアムリトサル市で行われた。
女性や子供も参加し非武装で非暴力の集会参加者に対して英国領インド帝国軍一個小隊が無差別に発砲を始めた。さらに避難する人々にも執拗に銃撃を続け,1500名以上の死傷者を出した。この後,戒厳令が発令され暴動は収束したが,インドの反英運動は激化することになった。
この年の4月から始められたマハトマ・ガンディーの非暴力抵抗運動はこの事件を契機に大きな潮流となり,インドの独立運動の理念となった。虐殺事件を引き起こしたダイヤー准将は英国政府からも厳しく非難され,大佐に降格の上に罷免されたが訴追されることはなかった。
また,インド独立後も英国政府は謝罪することはなく,ようやく2013年にキャメロン首相が現在は公園となっている事件の現場を訪れ,献花し,しばしこうべと垂れた。
故郷に戻る
午後になると聖地の巡礼を終えた人々が帰っていく。集団巡礼の人々はトラックで故郷を目指す。トラックの荷台には仕切りがあり,前部は女性専用のスペースになっている。
男性のスペースはそれに比べて狭い。シーク教では女性が大切にされるのかな。どの人々も巡礼を終えた満足感に溢れているようだ。そのせいかカメラを見る表情は穏やかだ。
巡礼宿の風景
巡礼宿の食事を一度ためしてみたくて夕食時に訪れてみた。残念ながら夕食の時間は18時からで,僕が来たときはすでに終了していた。洗い場にはターリーに使われるような金属製の皿が山のように積まれていた。
人々は巡礼宿の中庭に敷物を敷いてのんびりとくつろいでいる。もしかしたら,この人たちは暑い室内をさけて,中庭で寝泊りしているのかもしれない。
夕暮れの聖地
昼間の黄金寺院はすばらしいけれど,夕暮れどきもお勧めである。夕焼けに映える白い建物群は昼間とは違う風情がある。空と一緒に湖も次第に茜色に染められていく。
もう少し暗くなると建物の上部の灯りが点けられ,湖に建物が写るように演出されている。幻想的な光景であるが,三脚無しでは写真にならない。この写真が手ブレでどうにもならなかったのはかなり残念だ。
アムリトサル駅
線路の反対側の地区を駅まで歩いてみた。車とバイクの店がどこまでも続き見るべきものは何も無い。駅のホームでは乗客が盛大に横になっている。昨夜は巡礼宿で夜遅くまで起きていたのだろう。かれらもこれから故郷に帰るところだ。
キングサリの仲間であろう
キングサリ(Laburnum anagyroides,マメ科,キングサリ属)と思われる。もしくは,インド圏や東南アジアでしばしば見かけるナンバンサイカチ(Cassia fistula,マメ科,カワラケツメイ属)かもしれない。ナンバンサイカチは英語名がゴールデン・シャワーとなっているように多数の総状花序が垂れ下がる。写真のものは花序が少ないのでキングサリと判断した。
祭り用の食べ物を作る
宿の南側の路地では小さな祭りをしていた。スピーカーで大音量の音楽を流し,それに合わせて踊っている人たちがいる。男たちがお祭り用の食べ物を作っている。小麦粉をこね,丸め,油であげている。
近寄ると大いに歓迎され,あれを写せ,これを食べろ,水はいいのかとすごかった。その合間に子どもたちがつきまとうのでそうそうに退散した。申し訳ないが親切心も過剰になるともういいよという気になる。