ダラムサラ (地域地図を開く)
英国統治時代の避暑地であったダラムサラは,1959年にインドに亡命したダライ・ラマ14世の亡命政府が置かれた。周辺にはそのとき,あるいはそれ以降にチベットを脱出した6000人にあまりのチベット人が暮らしている。
ダライ・ラマ亡命後,チベット仏教界の高僧たちも亡命し,ダラムサラはチベット仏教と文化の一大センターになった。インドにあるチベット世界として旅行者の人気も高い。
中国とチベットの関係は中国を清朝が支配していた頃までさかのぼって考える必要がある。清朝の全盛期ともいえる乾隆帝の時代の1792年にネパールのグルカ族のチベット侵入に対抗するため出兵している。
これ以降,清朝はチベットに大臣を派遣し,その権限をダライ・ラマと同格とした。これにより,チベットは独立した勢力から清朝を宗主国とする関係となった。しかし,清朝の国威が衰えるとチベットは再び独立した勢力に戻った。
現在の中国は清朝の最大版図を中国領と考えているようだ。チベットも18世紀の終わりからから数十年間は中国の支配下にあったので中国の領土なのだと主張している。
しかし,清朝が間接的にチベットを支配していた時期およびその前後もチベットは英国やロシア,モンゴルと一定の外交関係をもっている。特にインドを植民地とした英国はアッサムやシッキム地域とチベットの国境線を1890年のシッキム条約で確定させ,チベットをロシアとの緩衝地帯としようとした。
辛亥革命により中華民国が成立した時期に中国,英国,チベットの三者会談が開かれ,中国は「チベットは中国領の一部である」と主張している。これはチベットの独立を認める英国の主張と対立し,会談は物別れに終わった。
1949年に中華人民共和国が成立すると中国は即座に人民解放軍をチベットに送り込み,全域をを制圧し自国に併合した。チベット人の抵抗は武力で鎮圧され,1959年の蜂起を機にダライ・ラマはインドに亡命した。
チベットは「西蔵自治区」となったが,他の少数民族自治区と同様に,漢人の共産党が支配する構造が一貫して続いている。1959年以降もチベット人への大規模な人権侵害は続き,一説によると100万人もの人々が命を失ったとされている。
文化大革命の時代には紅衛兵が送り込まれ,多くのチベット仏教の寺院が破壊され,僧侶は還俗させられた。経済成長の時代になっても,中国政府は漢人の移住を奨励した。
現在のチベットでは漢人がチベット人を上回っており,自治区内でもチベット人は少数派になっている。チベット人は民族のアイデンティティーを奪われ,文化的にも経済的にも漢人に隷属する生活を強いられている。
アムリトサル→ダラムサラ 移動
アムリトサル(09:00)→パタンコット(12:15)(13:45)→ダラムサラ(17:30)とバスを乗り継いで438kmを移動する。アムリトサルのバススタンドは宿から3kmほど離れておりリキシャー(20Rp)で行く。ダラムサラへの直行便はないのでパタンコット乗換えとなる。
パタンコット行きのバス(45Rp)はすぐに見つかった。北部インドでは快適なバス移動を期待してはいけない。暑さと,狭さと,振動に耐えて目的地に早く着くことを祈るしかない。たまに,すいたバスに乗れたらそれはヒンドゥーの神様の思し召しと思えばよい。
荷物室はほとんどないので,荷物はすべて客室に持ち込まなければならない。混雑してくると,荷物のスペースを確保するのが大変だ。
出発時にバスは満員になる。次の大きなバススタンドに着くと大半の乗客は降り,新たな乗客で満員になる。これを3回繰り返してパタンコットに到着する。このスタンドにはちゃんとキップ売り場がある。そこでダラムサラ行き時間を確認しキップ(68Rp)を買う。
昼食をとりゆっダラムサラの町くり休憩するとバスが入ってくる。このバスも満員になる。風景は平地の水田からしだいに山の風景に変わっていく。何ヶ所か写真に撮りたいところもあったが,3人掛けの真ん中ではどうにもならない。
インド人はバスの出入り口付近に固まる傾向があり,前の席を確保したい僕にはいい迷惑だ。ダラムサラへの道は舗装されており,特に難所もなく,バスは下のダラムサラのバススタンドに到着した。ここからミニバス(7Rp)に乗り換え400m上のダラムサラに向かう。
ダラムサラはチベット仏教最高位の地位にいた「ダライ・ラマ」の亡命先として世界的に有名になる。彼の亡命後,この町でチベット仏教が学べるということで,多くのヨーロピアンを惹きつけるようになった。
旅行者も多く,安宿もチベット食堂も充実している。僕の泊まった「Kalsang GH」の3畳ほどの部屋代は70Rp,食事はチベット料理やパスタが30-40Rpで食べられる。居心地のよい町なので長期滞在者も多い。
さすがは標高1800mの避暑地である。涼しくてよく寝られた。それどころか毛布一枚では少し寒いので長袖を着て寝ることになる。翌朝,町は雲海の中にすっぽり入っている。