ラワルピンディ (地域地図を開く)
450年前,ムガール帝国時代にデリーとペシャワールを結ぶGT(Grand Trunk)ロードが造られ,ラワルピンディはその中継地として発展した。首都がイスラマバードに移されるまでは,暫定的な首都でもあった。
町は鉄道線路を挟んで北が旧市街,南が新市街となっている。旧市街の中心フォワラチョウクと新市街の中心GTSモスクの間は,スズキと呼ばれる乗り合い軽トラックが頻繁に走っている。
450年前,ムガール帝国時代にデリーとペシャワールを結ぶGT(Grand Trunk)ロードが造られ,ラワルピンディはその中継地として発展した。首都がイスラマバードに移されるまでは,暫定的な首都でもあった。
町は鉄道線路を挟んで北が旧市街,南が新市街となっている。旧市街の中心フォワラチョウクと新市街の中心GTSモスクの間は,スズキと呼ばれる乗り合い軽トラックが頻繁に走っている。
ペシャワール(09:40)→ラワルピンディ(14:20)と列車で移動する。宿の前から市内バス(料金3Rp)に乗りカントメント駅に行く。キップは駅の窓口で簡単に買うことができた。
キップの表にはペシャワール→ラワルピンディ,裏には「AC Low」と記載されている。汽車が入線してくる。客車番号を確認するとエアコンの車両に案内された。「えっ,50Rpしか払っていないのに」と驚く。
広軌鉄道のため客車の巾は広い。4人掛けの座席と1人用に分かれている。4人掛けの座席は3段ベッドになっており,中段のベッドは背もたれとして収納されている。荷物は座席の下か,上段のベッドの上に置くことができる。
冷房はかなり強く半そででは寒い。しかし,乗客が増えてくるとちょうどよいレベルになる。乗客はほとんど家族連だ。バスは利便性が高いが,家族の場合は列車のほうが楽しい。子どもたちは広い空間でのびのびできるし,家族間の会話も容易だ。
列車は定刻に発車した。街を出ると農村風景になる。さすがに列車からの眺めはバスの比ではない。列車はしばらくインダス川,GTロードに沿って走る。さすがにインダスは大河の風格である。
はるか遠いチベットに源をもち,この下流では数千年前に高度かつ独特の都市文明が花開いた。インドを目指したアレクサンダーの東進を断念させた川でもある。
列車は定刻にラワルピンディに到着した。列車の旅の良さを見直した移動であった。しかし,その後の宿さがしはひどかった。旧市街のMurree Road 沿いのいくつかのホテルに行くと,エアコン付きの高い部屋以外は満室と断られた。その後も2軒のホテルで断られ,結局,新市街に戻り「Al-azam」に宿泊することにした。一辺が1kmの正方形の経路で元に戻り,さらに500mを荷物を背負って歩いたことになる。
旧市街の中心部ラジャ・バザールから新市街のGTSモスクに行くスズキ(乗り合い軽トラック)を見逃したのは痛かった。それに乗れば1.5kmくらいは助かったのにと悔やむ。
暑い中をさんざん歩かされたため,首から下げていた貴重品袋は汗で濡れ,パスポートにも大きなしみがついていた。2階のフロントでチェックインする。スタッフの対応は良い。日本人旅行者が多いのでフロントには日本語の本も置かれている。
部屋はパキスタン流にいうと4階,日本的にいうと5階であった。ここは最上階である。カギはちょっと怪しく,カギを閉めてもドアはガタガタと動いてしまう。貴重品は持ち歩いた方が良さそうだ。もっとも,その前にパスポートをベッドの上に広げて乾かし,僕はシャワーを浴びることにする。
部屋(150Rp)は8畳,2ベッド,T/S付き,まあまあ清潔である。窓の外はテラスになっており,ドアを開くとテラスから街を眺めることができる。周辺には高い建物がないのでかなりの眺望である。
この部屋ではネズミ騒動を経験した。シャワールームのドアを開けるとネズミが床を走り回っている。向こうもびっくりしただろうが,僕もびっくりしてドアから離れた。ネズミは窓側のベッドの下にもぐりこみ,息を潜めている。お互いに逃げ場のない状態である。困った,どうやってネズミを追い出したらいいのだろう。とりあえず,タオルを伸ばしてベッドをバンバンとたたいてみた。
ネズミが飛び出し,窓の網戸についている小さな穴から外に飛び出していった。網戸,窓,外の構成になっているので,この穴は窓の開閉のためのものであった。窓が開いていたのがお互いに幸いした。
宿の前のチョークには早朝からスコップやツルハシを携えた大勢の男たちが集まっている。都市に出てきてもみんなが職にありつけるわけではない。出生率の高いパキスタンでは他の途上国と同様に,農村で暮らせなくなった人々が都市に流入している。しかし,高度成長期の日本のように都市流入人口を吸収できる産業は育っていない。ここに集まっている人たちは日雇いの仕事を求めて待っているのだ。
1950年には4000万人であった人口は50年で4倍となり,2035年には3億人に達すると予測されている。面積は日本の2倍ではあるが,国土の大半は乾燥地であるパキスタンがどうやってこの人口を養い,職を与えることができるのであろうか。
人口爆発,経済格差,イスラム原理主義の浸透…,ムシャラフ大統領が辞任し,文民大統領の時代になっても,社会の混乱は大きくなり,この国の将来に明るい展望は見えない。核兵器を持つ国の不安定化は新たなテロの脅威につながる。
今日は古い仏教遺跡があるタキシラに行くことにする。タキシラはラワルピンディの北西35kmにあるガンダーラ最大の遺跡で,1980年に世界遺産に登録されている。遺跡の面積は26km2もあり,歩いて見られる範囲は限られている。
ガンダーラとは古い地名であり,東はタキシラ,西はペシャワールあたりまでと考えられている。この地域には紀元前3世紀から紀元5世紀にかけて大乗仏教が隆盛し,多くの仏教施設が造営された。しかし,6世紀に中央アジアからエフタルが侵入し,仏教施設や仏像は破壊された。その後はイスラム勢力がこの地域を支配するようになり,仏教はガンダーラから消滅した。
それでも,ガンダーラには多くの仏教遺跡が点在している。タキシラはガンダーラの東の中心地として位置づけられていた。ペシャワールの東側周辺にも多くの遺跡が点在しているが,そこは北部辺境州に入っており,ペシャワール市を除き外国人は許可なく立ち入ることはできない。
新市街のGTSモスクのとなりにある「VARAN Bus Terminal」から,タキシラ行きの直行便が出ている。パキスタンではイスラムの戒律により「男女の分離が」規定されているため,前の1/3くらいのところに鉄格子の仕切りがあり,前の座席は女性専用になっている。
小さな峠を越えるとタキシラになる。バスを降りると岩山を背景に芝生があり,そこには戦車が展示したあった。「パキスタンには2人の大統領がいる。一人は文民の大統領,もう一人は参謀総長である」と言われように,この国では軍部の影響力が強い。この展示物はそれを物語っている。
そういえば,現在のムシャラフ大統領(2008年辞任)も参謀総長のときに,大統領から解任されそうになり,無血クーデターを起こしている。記念に戦車の写真を一枚撮ってから,近くのスズキに乗って博物館に向かう。
しかし,博物館の入場料は,パキスタン人10Rp,外国人はその20倍の200Rpとひどい料金なのでパスする。僕も10倍までは許容するつもりだが,さすがに20倍はひどい。10年前は外国人料金がなかったので,世界遺産登録で国の方針が変更されたようだ。
それではと田舎道をのんびり歩いてダルマラージカの遺跡に向かう。周囲は緑の多い荒地になっている。道路わきにタマリスクの木があった。中国西域のタクラマカン砂漠の周辺では,高さ2mほどの潅木であったものが,ここでは高さ10mほどの立派な木になっている。
遺跡保存のため農業も限定されているようだ。道路の周辺には潅木と草地になっており,サバンナを思わせる風景が続く。小さな流れに沿って少し歩き,飛び石伝いに渡ると,丘の上まで立派な石段が整備されている。この石段を登りきったところにダルマラージカの遺跡がある。
原型はアショーカ王がブッダの聖遺物を収集し,ここを含む8つのストゥーパに分納したとされている。その後,何回か補修や大改修が行われて直径45mもの大きなストゥーパとなった。20-30cmほどの大きさの切石を積み上げた構造になっており,上部は崩れてしまっている。
崩れていない部分も風化が進み,わずかにたまった土砂を足場にペンペン草が生えている。大ストゥーパの周辺にはたくさんの関連施設と思われる,方形の基壇が残されている。
近くに小屋があり,男性が2人出てきて,ここの見学料200Rpを請求される。日本円にすると400円に過ぎないが,パキスタンでは宿代と二食に相当する金額である。彼らに断って離れたところから写真をとって引き上げることにする。
ついでにユネスコ世界遺産の表示板もあったので記念に撮っておく。世界遺産になったといっても,団体客を除いてここにやって来る観光客は少ないようだ。僕が訪問した時は暑い時期だったこともあり,この遺跡には誰もいなかった。
タムラー・ナーラー川の土手を歩いていると,対岸では男たちが薪にするため斜面の樹木を伐採している。さすがにラワルピンディの街中では薪を使用しているところは見かけなかったが,この地域ではまだ薪炭材に頼っているところが多いのかもしれない。
途中で自転車の男性から声をかけられた。
「どこに行くんだい」
「博物館に戻るところです」
「まだ,だいぶあるよ,後ろに乗っていきなよ」
というような会話が交わされ,親切な男性の自転車に乗せてもらい,博物館に戻ることができた。
タキシラ博物館の周辺には石屋が多い。家の床に使用するような石板を作る作業所では,加熱を防ぐため大量の水を流しながら巨大な岩を丸鋸でスライスしている。どのような刃をつけているのか,丸鋸はゆっくりと岩を切り取っていく。
大きな木の下が作業場となっており,男たちが金槌とタガネで石を削って乳鉢の形をつくっている。削られた破片が周囲を飛び交っている。彼らがおおよその形を整え,仕上げはグラインダーで滑らかにするようだ。スパイスを多用するこの国では乳鉢は一家に一個の必需品であろう。
庭先には石製の乳鉢,皿,ふた付き容器などが並んでいる。自然石を加工し,30cmX100cmほどの板状にしたものが120Rpだという。パキスタンの物価はかくも安い。1日働いて職人たちの収入はいくらくらいになるのだろう。
この近くではお墓に使用する石棺も製造している。イスラム教徒にとっては墓は重要なものである。「最後の審判」の日に死者はよみがえり,アラーの前で天国行きか,地獄行きかの審判を受けなければならない。
アラーはあらゆる悪事も善行も見逃すことはなく,その軽重により一人一人の行き先が決められる。この「最後の審判」を受けるため,イスラムでは火葬にはしないで,肉体をできるだけ完全な形にしたまま土葬にする。イスラムにおいては遺体を傷つけるということは大きな侮辱的行為となる。
ここでは,石板と石柱を組み合わせて長方形の囲いを造っていた。底板はなく,側板の表面には花をあしらったような紋様が彫り込まれている。通常はこのような石棺に納めるが,棺無しにそのまま土葬にすることもある。
どちらの場合においても墓には墓碑が置かれる。ラワルピンディの街中では墓碑を彫る工房をいくつか見かけた。親族の依頼により,専門の職人が亡き人の思い出を刻んでいく。
ラワルピンディに戻るバス(10Rp)はピールワダイの近くまでしか行かなかった。スズキ(5Rp)に乗ってようやく旧市街の中心にあるチョークまで戻ることができた。
ここはスズキの溜まり場になっており,それなりに装飾されたスズキが数十台集まっている。1.5kmほど離れたGTSモスクに行くものもあるが,のんびり歩いて帰ることにしよう。
夕方に宿の南側にあるKFCを覗いてみた。ハンバーガー,フライドチキン,飲み物のセットの値段が220Rpであった。日本とたいして変わらない。石板の120Rpと比べると,KFCの値段がいかに高いかがよく分かる。経済発展が生み出した経済格差は,危険な状態にまで達している。
パキスタンの首都のイスラマバードとラワルピンディは,2つ合わせて一つの町を形成しているといってよい。イスラマバードが政治,ラワルピンディが商業を受け持っている。イスラマバード(イスラムの都)と名付けられた新しい都市は,広さが東京23区に匹敵する。
1959年に遷都が決定され,1961年から原野を開拓して新首都の建設が始まった。当然,計画都市となりパキスタンの他の都市とはずいぶん景観が異なっている。
大きな道路は直角に交差しており,一辺が1.5kmほどの大きなブロックを形成している。なぜか,そのような道路は基本方位に対して45度ずれている。そのため,道路から方角を読み取るのはちょっと難しい。
中心部と思われるところは「ゼロポイント」となっている。9.11米国テロに関連した「爆心地」を意味する用語として,日本のメディアでも使用されるようになったが,ここでは市の中心程度の意味なのだろう。
二つの町は20kmほど離れており,その間にはバスが頻繁に走っている。僕の乗ったバスはゼロポイントが終点であった。ここから4番のバスで市の北端にある「シャー・ファイサル・モスク」に向かう。空間が多く,緑が多い街並みである。そこに近代的な建物が十分な距離をおいて立っている。
ファイサルモスクの白い姿が見えたのでそこで降ろしてもたっら。ファイサル・モスクをはイスラムの守護人を自認する,サウジアラビア国王の寄進で造られた,とても近代的なシルエットをもつ美しい建物である。ここは市の北端にあたり,背後にはもう山が迫っている。
中央のピラミッドの内部にある礼拝堂の収容人員は大して多くない。右側の2階に広い床面があり,そこが一般の礼拝場所である。さらに,周辺の広場を含めると,一度に10万人が礼拝できるという。
当然,モスクの内部は写真撮影禁止となっていた。にもかかわらず,もっとも神聖な礼拝堂で堂々と写真を撮っている観光客がいる。外国に行って文化や遺跡を見学するならば,その国の習慣やルールを守るのは最低限のマナーである。
写真が許されているモスクでもフラッシュを使うことは慎むべきだ。大声で話すことも同様だ。それは,礼拝の場所であるモスクの空間を損なう行為である。
モスクの中だけではない。男女とも,特に女性が肌を露出した服装で保守的なイスラムの国を歩き回ったり,人目のあるところで抱き合ったりするのは文化摩擦のタネを蒔いているようなようなものである。
欧米にはTPOというマナーの基本がある。そのとき,その場にふさわしい服装とマナーで行動しなさいというものである。それは,別に欧米の格式高いホテルやレストランだけに適用されるものではない。よその国では次元の異なるTPOが求められることもあることを忘れてはならない。
映画館のCM写真を眺めるのも楽しい。路上ではたくさんの売り物のインコがカゴに詰められている。売り手の天秤棒の反対側には空の小さな鳥かごがつるされており,買い手が付くと,この小さなカゴごと売られるようだ。
旧市街ではいろいろな店を覗いてみた。目立つのは両替屋だ。公認か非公認かは分からないが十数軒が固まっている。イラン,サウジアラビア,アフガニスタンなどの紙幣が見える。僕もアフガニスタンの新紙幣を両替してもらう。
旧市街を散策しているときモスクのドームが見えた。真っ白いドームとミナレットの組み合わせが美しい。内部は花柄の幾何学模様で埋め尽くされている。西側の中央はキラキラ光るミフラーブの壁になっている。
偶像崇拝が厳しく禁止されているイスラム教のモスクにおいては,アラーの神はもちろんのこと,あらゆる絵画や像は存在しない。人々はただひたすら聖地メッカのある西の壁に向かい祈る。光と影の織りなす美しい光景が感動的だ。