乾燥地帯の多いパキスタンにあって,スワート川沿いの広い谷は,緑が豊かで古くは「ウディヤーナ(庭園)」と呼ばれていた。また,「ガンダーラの奥の院」と称されることもあった。
ラワルピンディとペシャワールを結ぶ道路はGT道路(Grand Trunk Road)と呼ばれている道路の一部であり,このあたりの地域はかってガンダーラと呼ばれていた。
GTロードは南にラホールを経由してインド世界に,西はハイバル峠を通りカブールを経由して中央アジアにつながっている。この道は古代のシルクロードの一部であり,北はパミールやヒマラヤを越えて中国西域,西チベットともつながっていた。また南西に向かうとイランを経由してバグダッドとも結ばれていた。
この東西交易の交差点に位置するパキスタン北部は人や物が移動しただけではなく,東西の文化が交錯したところであった。BC6世紀にインドで生まれた仏教はBC2世紀にはこの地域に伝わり,この道を通って中央アジアや中国世界に伝わっていった。
逆に西からは中央アジアの勢力がインド世界に侵入する経路にもなっている。BC325年にはアレクサンダー大王がハイバル峠を越えてこの地に侵入してきており,ギリシャ文化がもたらされた。
彼のもたらしたギリシャ文化と仏教が出会い,ガンダーラの仏像ができたといわれているが,ことはそれほど単純ではない。仏像が生まれたのは2世紀のことであり,しかもガンダーラとマトゥラ(デリーとアグラの間)で同じ時期に始まっている。
BC3世紀からBC1世紀にかけてガンダーラ地域はギリシャ系の「バクトリア」に支配されていた。この時期には仏像は生まれておらず,カニシカ王の開いたクシャーン王朝の時期に仏像は生まれた。
もちろん,初期の仏像はギリシャの影響を強く受けており,ギリシャ彫刻そのものといえる仏像もある。しかし,この時間的な隔たりはどうして生まれたについては僕の時代の世界史は教えてくれなかった。
それは,1-2世紀に成立したとされる大乗仏教が大きく関わっている。出家により個人が解脱を目指した上座部仏教においては,(ブッダの教えにより)ブッダの姿を刻んだ仏像はタブーとされていた。
しかし,衆生救済を掲げる大乗仏教においては,在家信者の祈りの拠り所が求められた。特にカニシカ王がインド西北部を征服するときには多くの犠牲者が出ており,人々はその苦しみからの救済をブッダに求めた。こうして,仏像の制作が始まり,それは仏教とともに各地に伝わっていった。
スワート地域では大乗仏教が隆盛を極め,そのことは403年にこの地を訪れた中国の求法僧法顕が,「500の僧院があり,みな大乗を学ぶ」と記している。
3世紀からガンダーラ地域はササン朝ペルシアの支配下に入るが,宗教に関しては寛容であったので仏教は引き続きこの地で栄えていた。しかし,6世紀にこの地域を征服したエフタルは徹底的に仏教施設や仏像を破壊した。
630年に玄奘三蔵が訪れ,1400の僧院を見たが,そのほとんどが廃墟となっていたという。その後,イスラム教が勢力を伸ばし,この地域から仏教は姿を消した。現在のスワートには当時を偲ぶ仏教遺跡が数多く残されている。
スワートの中心地はミンゴーラで,標高980m,パターン(パシュトゥーン)人の多い町である。そのためか,アフガン戦争の後,タリバンの勢力が浸透してきている。
2008年に入っても,パキスタン政府軍によるタリバン勢力の制圧とその報復としての自爆テロがパキスタン各地で発生している。2008年10月現在,外務省の危険度情報は「渡航の延期をお勧めします」というレベルになっている。
チトラル→ミンゴーラ 移動
チトラル(07:30)→ロワライ峠(11:15)→ティマルガラ(15:40)→ミンゴーラ(17:30)と乗合ワゴンを乗り継いで移動した。この区間は217km,途中にロヤライ峠越えの難所がある。
チトラルのバススタンドはメインストリート沿いにある。スワート行きの車は無いので,ペシャワール行きの乗合ワゴンに乗り,途中で乗り換えることにする(料金250Rp)。パキスタンではジーゼル燃料がずいぶん値上がりしたそうで,その影響が乗合自動車料金にも表れている。
道路状況は良くない。連続する振動と暑さのためけっこう消耗する。ロワライ峠の少し手前,標高2200mの地点にチェックポストがあり,30分ほど休憩となる。車は峠越えに備えてラジエターに水を補給する。人間も水や食料を補給する。
僕は昼食休憩とは分からずにチャーイを飲んでいたところ,となりの人が牛肉入りごはんにヨーグルトをかけたものを分けてくれた。ヨーグルトの酸味が効いて意外とさっぱりした味だ。
ここから先は九十九折の道を800m上り,3000mのロワライ峠に達する。冬期にはこの峠は雪で閉鎖されるので,チトラルは飛行機を除けば陸の孤島になる。峠の途中から下を見ると道は連続したSの字を描いている。トラックがこの峠を越えるのは本当に大変だ。我々の車もトラックが待機所で道を譲ってくれるまではひたすら,その後を付いて行くしかない。
峠を降りるとディリの町になる。ホテルもある大きな町でここで本当の昼食となる。ここからティマルガラまでの3時間は舗装されておらず,ひたすら振動と暑さに耐えるしかない。標高の高い北部から下りてくると耐え難い暑さである。
乗り換えとなるティマルガラのバススタンドはとても大きく勝手が分からない。乗客の一人がミンゴーラ行きを教えてくれた。ここから先は舗装されており,緑豊かなスワートの谷をワゴンは可能な限りの速度で走り抜け,ミンゴーラのバススタンドの横に止まった。
プリンス・ホテル
10年ぶりのミンゴーラはずいぶん騒々しい町に変わっていた。バススタンドから街の方角に歩き,2軒のホテルで満員お断りと言われ,プリンス・ホテルにたどりついた。3泊で500Rpに値切り,前払いしてようやく宿が決まった。
部屋は6畳,2ベッド,トイレ付きでまあまあ清潔である。しかし,寝る頃は三輪車が騒音をまきちらし,真夜中には大型トラックとTVの音が響いてくる。翌朝,町を歩くと昨夜の雷雨で道路は泥だらけになり,下水からはひどい臭いが漂ってくる。
三輪タクシー
街中の騒音源の一つがこの三輪車だ。意外にも燃料はLPガスを使用している。狭い街の中では利用する機会がないし,たまに乗ろうとするとさっぱり止まってくれない。ということで一度も乗れずじまいであった。
ちょっと遠くへ出かけるときは「スズキ」と呼ばれる乗り合いトラックが役に立つ。「スズキ」はこの街だけではなく,パキスタンの北部で共通的に使用されている。14kmほど先の遺跡まで乗ってわずか5Rpであった。
博物館は高いのでパスする
街の南に博物館とブトカラの遺跡がある。さして遠くはないので方向をチェックして乗り合いトラックに乗り込む。博物館はすぐに分かったが200Rpの外国人料金はひどい。あっさりあきらめてブトカラ遺跡を探すことにする。
案内標識は一切ないので,地元の子どもにでも聞かなければまずたどりつけない。途中でたくさんの子どもたちに出会い写真を撮る。
遺跡案内の子どもたち
そのとき,しゃがんでフレームを合わせていたら,他の子どもが背中のザックを開けたようだ。ザックの異変に気が付いたとき,ボールペンが2本消えていた。僕がザックをチェックしたとき,何人かが一斉に逃げて行ったのはそういう訳であった。
観光客が多いせいか他の子どもたちも「ワンルピー,ワンペン」とうるさい。ようやく崖の下に小さな遺跡がみつかり案内料のキャンディーをあげることにする。
ブトカラ遺跡
大きい方のブトカラ遺跡探しも苦労した。地元の人に聞いてもあちっだ,こっちだと要領を得ない。畑の中の道をずいぶん無駄に歩くことになった。最後に親切なおじいさんが遺跡まで連れて行ってくれた。
おじいさんに手を取られ,歩いていくのはなんだか気恥ずかしい。男女の分離を厳しく規制しているイスラム社会にあっては,男同志が手をつなぐのは特別な意味はない。頭では理解していてもなんだか気恥ずかしい。
遺跡は100m四方に広がっている。中央にほとんど崩れた大きなストゥーパ,周辺に小さなストゥーパの基壇が残っている。ここも中に入るには200Rpと言われ外から写真を撮るのにとどめる。
シャンカルダール遺跡
ミンゴーラの南14kmのところに大きなストゥーパがある。「大唐西域記」には,ブッダの死後,舎利は8国に分けられ,その一つをウディヤーナ国の上軍王(ウッタラセーナ王)がもらい受け,ここに埋納したと記されている。
しかし,その時代には巨大なレンガ造りのストゥーパを造る習慣はなく,疑問符がつく。もっと,後代のものであろうと推測する。
乗り合いトラックに乗り,集金人にシャンカルダールと伝えておくと,ちょうどストゥーパの前に止まってくれた。街道には美しいポプラ並木が日陰を作り,スワート川に近い北側には緑一色の水田が広がっている。
その反面,南側は乾燥した村になっている。高さ27.4mのストゥーパはレンガではなく石積みで造られていた。残念ながら最近の修復部分はきれいになり過ぎて違和感がある。
果物は豊富だ
ミンゴーラは果物が豊富だった。町には果物屋が集まっている一角がある。値段を聞いて毎日少しずつ購入する。大きなマンゴーは2個で25Rp,新鮮で合格点の味である。
大きな桃は1個5Rp,ちょっと固いけれどちゃんと桃の味がする。リンゴは2個で15Rp,酸味がありおいしい。メロン1切れは5Rp,味が薄くいまいちだ。ということでこの町では久しぶりに果物をいただくことができた。
大勢の子どもたちに囲まれる
表通りから裏通りに入るとレンガ敷きの道になる。向こうからかわいい4人の子どもがやってくる。小さな子どもを肩車しているところが絵になる。先を行くと広場があり大勢の子どもたちに取り囲まれる。子どもたちが多すぎて写真にならない。
1軒の商店から日本語で呼び止められた。主人は日本で13年間働いていたそうで,達者な日本語を話す。7UPをごちそうになり,しばらく彼の日本語の相手をする。
食べ物の思い出
騒音と排気ガスのため好きになれない町だが,いろんな人に親切にしてもらった思い出が残った。屋台の煮豆屋では,煮豆+野菜+チャパティのセットで7Rpであった。主人は「お金はいいよと」言ってくれるが無理やり払った。
プリン屋の青年はいいよいいよとお金を受け取らない。さとうきびジュースを飲んだら,となりのおじさんが2人分を払ってくれた。外国人が珍しいだけなのか,それともイスラムの教えによるものなのか,ミンゴーラの男たちは気さくで親切であった。