チトラールから南に約20km,険しいチトラール川沿いの道を行ったところにアユーンの集落がある。ここからさらに谷川沿いにジープ道を奥に入ると,ルンブール,ブンブレット,ビリールと呼ばれる三つの谷がある。
ここに居住しているカラーシャ族は,イスラム教が周辺に浸透していった中でも独自の自然信仰と文化を保持し続けている。そのため,ウルドゥー語で「異教徒の住むところ」という意味のカフィリスターンとも呼ばれている。女性は独特の民族衣装を着ており,旅行者の人気は高い。
最も開けているというか旅行者が多いのがブンブレットであり,いろいろなイベントも多い。それに対して今回僕が訪れたルンブールは宿泊施設も少なく,その分,観光化されていないカラーシャの人々の生活を見せてもらうことができた。
なぜこの地域に特異な文化をもつ民族集団が生まれたかについては,「アレキサンダー大王に従ってきたギリシャ人兵士の末裔」などという話があるが,おそらく紀元前1500年頃にロシア南部からアフガニスタンに移動し,農耕と牧畜で定住するようになったアーリア人の末裔であろう。
アーリア人はアフガニスタンから二手に分かれ,さらにイランとインドに移動していった。彼らは地域の先住民族と混血しながら,現在のイランやインドの主要民族となった。
アフガニスタンにほど近い険しい山岳地帯に位置するカラーシャにもアフガニスタン・アーリア人が住み着き,その後,外界と隔絶したあるいは交流が極端に少ない状態が続いたため,特異な民族集団となったと考えられる。
アフガニスタン・アーリア人は自然現象を神とする宗教観をもっており,神に犠牲を捧げる祭祀を行っていたという。それはカラーシャの人々の自然崇拝と類似するものがある。
カラーシャは3500年前のアフガニスタン・アーリア人の文化や習俗の一部もしくは相当部分を保存したタイムカプセルのようなものかもしれない。この特異な民族およびその生活習俗については次のサイトで詳しく記されている。
(1) カラーシャ族の生活
(2) カラーシャ族の春祭り・ジョシとその音楽
(3) パキスタン・カラーシャ族とは
カラーシャへの道
チェックアウトしてチトラルのメイン・ストリートの坂を登り,橋を過ぎたあたりからアユーン行きの車を探す。何人かの人にたずねてみたがさっぱり要領をえない。ようやく親切な人がポログラウンド前のガソリンスタンドに連れて行ってくれた。
アユーン行きの車は少なくとも20年は経つような日本製のハイエースだ。車は乗客を集めるために町を一回りし,出発時には14人の大人と7人の子どもが詰め込まれた。その人数がこの車の定員らしい。老朽車はそれでも元気に川沿いの舗装道路を走る。
工事のためアユーンのジープ乗り場の手前1kmのところで下ろされてしまった。メインザックを背負って坂道を登り,アユーンの広場に到着した。アユーンからはカラーシャの3つの谷行きのジープが出ている。
アユーンはちょっとした村くらいの集落である。7年前に来たときは本当に小さな集落であったが,だいぶ村らしくなった。村の男たちは顔から判断する限りではパシュトゥーン人である。
パシュトゥーン人はアフガニスタンの主要民族であり,パキスタンでもアフガニスタンとの国境地域にたくさん居住している。彼らもまたアフガニスタン・アーリア人の末裔である。
体格がよく。頬ひげを盛大に生やしており,とてもいかつく恐ろしげに見えるが,とても気の良い,かつ旅人には親切な人たちである。マイナーなルンブール行きのジープは2時間待たされた。今度のパセンジャー・ジープの荷台には大人11人が乗ることになり,極めて窮屈である。
谷沿いの道路は狭いしアップダウンも多く,運転手に命を預けますの状態が続く。約1時間のがまんの末,バラングル村に到着する。もちろん,この間は写真どころではない。
バラングルGH
バラングルでは唯一の「バラングルGH」に泊まった。村の有力者が経営しており,建物の2階の4室が客室になっている。部屋は縄ベッドが2つ,床はコンクリート,テーブルが1つある。トイレとシャワーは離れにあり,夜は懐中電灯を持参しなければならない。
建物の下には川の上流から引いてきた水路があり,それが生活用水になっている。近くには食事をできるところはないので,3食付で250Rp(500円)の宿代に不満は無い。夜間は電気も使用できるので電池のチャージも可能だ。食事もこの山奥では望めないほどおいしい。
宿泊客は毎年ここに来るというデンマーク人の女性一人だけだ。彼女は毎年ここに来ており,今年もすでに1ヶ月近く滞在しているという。その彼女も僕の滞在二日目には帰国の途につき,宿泊客は僕一人となった。
GHの部屋の前はテラス(一階の屋根)になっており,そこから狭い道路を挟んだ斜面にカラーシャの人々の家がある。テラスのイスに坐って早朝から夕方まで彼らの生活が観察できる。もっとも僕も彼らに観察されているわけだ。
このゲストハウスができたのは10年前,電気が使えるようになったのは8年前だという。20分ほど歩いた上流に日本の援助で水力発電所が造られたという。
夜になるとテラスの縄ベッドに横になり星空が楽しめる。周囲に明かりがあるので,パスーで経験した星空ほど環境は良くないものの,日本のそれの比ではない。谷が両側に迫っているので視界は広くない。
暗い夜空に散らばる光の点が山にさえぎられたところから,黒く塗りつぶされたような空間に変わる。男たちが放牧のため山に登っている季節のためか,村ではほとんど犬は見かけなかった。もちろんテレビの音などは聞こえてこない。
完全ともいえる静寂の中で星空を見ていると谷山浩子の「銀河通信」の歌詞がふと浮かんでくる。
真夜中ひとりで 黙っていると
遠く遠くから 電話がかかる
もしもし きみは元気ですか
淋しくて 泣いてはいませんか
それはどこか 宇宙の果ての
知らない星からの 長距離電話
窓をあければ 暗い夜空に
いちめんの星たちが 光さざめく…
食事はこのような集落では考えられないほどしっかりしたものであった。滞在二日目の食事内容は次の通りである。
朝:クルミパン,紅茶
昼:ジャガイモとレンズ豆のカリー,チャパティ
夜:チキンカリー,ごはん
バラングル村の家屋
一休みして谷の上流の景色を見に行く。すぐ近くで新しい家を建てている。狭い村には大工さんはいないので家は自分で建てなけらばならない。もっとも,家造りは人手のかかることなので,日本の「結い」のような相互助け合いの制度はあるのかもしれない。
伝統的な家の壁は平たい石を積み上げて造る。近くにはたたくと薄くはがれる頁岩がたくさんあるので,壁作りの材料には事欠かない。石の壁と柱を組み合わせて立派な家ができつつある。屋根は作業場として使用されるので,天井に梁を渡し頑丈に作る。
パキスタン北部は険しい山々により東西方向チトラル,スワート,ギルギットに分断されている。にもかかわらず,家造りはかなりの共通点が見られる。
(1) 壁は石積みであり柱が少ない
(2) 壁面の石積みは一定の間隔ごとに板材が入る
(3) 屋根はフラット,突き出しており下はテラスになっている
ルンブールの谷の家屋もおよそこのようにして造られている。もっともこの地域は木材資源が豊かなので突き出したテラスを支えるのに柱が使用されているし,板壁の家もある。家屋は壁に囲われた部分とひさしが張り出したテラスからできており,テラスは斜面の下の家の屋根と同じ高さになっている。
家屋は斜面にひな壇状に並んでいるので,このような構造になっているようだ。狭い空間を効率的に使用するための工夫である。そのため,雨が少なくないこの地域でもフラット屋根が採用されたと考えられる。
このようなひな壇状の集落構造はイランのカスピ海南岸地域にも見られる。それは共通の文化から発展したものなのか,狭い斜面という環境に適応した結果がたまたま同じ構造を生み出したものなのかは分からない。もっとも,下流側で谷が広がったところには平地に独立した家屋がある。それらは基本的に同じ造りなので,屋根がフラットなのは他の理由があるようだ。
特筆すべきことは壁の石積である。板状の平らな石を水平に渡した板の上に積み上げていく。80cmくらいの高さになると次の板を渡し,さらに石を積み上げる。このようにして出来上がった壁面は(少なくとも片側は),ほとんど凹凸がない。大変な技術である。
この技術は水路を造る時にも利用されている。チトラルやフンザでも同じような石積みを見かけた。生活圏のまったく異なる地域で同じ技術が使われているということは,少なくとも技術の交流はあったということかもしれない。
宿のとなりにある水車小屋に引かれた水路の先では女性たちがよく洗濯をしていた。子どもたちも集まってくれるので,たくさん写真を撮ることができる。洗濯物を石の上に置き棒で軽くたたく方法で,石けんや洗剤は使用していない。
日が傾いてくると刈った草を束にして運んでいる子どもたちを見かけた。男の子は肩にかつぎ,女の子は頭に乗せている。斜面の集落には家畜が残っているのかもしれない。
朝は05時台からテラスのイスに坐って集落の家の様子を観察する。かまどの煙の具合からして06時頃から朝食が始まるようだ。こんな朝早くから見学されて,集落の人々はとても迷惑であろう。
谷に沿って上流を歩く
谷の上流に向かって歩いてみる。集落は宿の前の斜面にかたまっているだけなので,すぐに家屋は見えなくなる。谷川の水は手が切れるほど冷たく,十分に飲むことができそうなほどきれいだ。山の雪解け水が水源になっているようだ。
谷川の本流に並行して人工の水路が造られている。水路は谷に沿って集落まで続いており,集落の生活用水にもなるし,近くの水車を回す動力源にもなっている。斜面の集落から谷川まで水を汲みに行くのは難儀なことだ。こうして上流からの水路を造ると集落の高さまで水を引くことができる。
川との段差が大きくなるときれいな石組みの土手を築き,その上を水路にしている。このような作業は男性の仕事であろう。この谷では男性は牧畜,女性は農業とジェンダーによる分業ができている。僕が見た範囲では家を造ったり,水路を造るのは男性の仕事のようだ。
少し歩くとかわいい「への字」形のつり橋がある。中央部が両側より高くなっているのは構造上の理由なのだろう。つり橋は歩くと揺れる。向こう岸で民族衣装の2人の少女に出会い写真を撮らせてもらう。
髪は栗色,目の色は茶色と青,肌の色も周辺の地域人たちに比べると薄い。お礼に水ヨーヨーを作ってあげる。彼女たちはゲストハウスの近くの娘さんで,この一件から僕のヨーヨーのうわさは村中に伝わっていった。
その先にはもう一つの小さな橋がかかっている。こちらは両側から腕のようにように伸びた支柱によって支えられた,見るからに危ないものだ。カウンターウエイトとして支柱の端にはたくさん石が積んである。
男の子がこの冷たい谷川で水遊びをしている。この谷でも男性は平地のパキスタン人と同じシャルワールカミーズという,ひざ丈のワンピースのような上着とゆったりとしたズボンを着用している。
男の子はこの服装のまま水に入り,体が冷えたら陽射しで暖まった大きな岩に坐って体温を回復させている。ズボンは乾かすためにやはり大きな岩の上に広げている。
道の山側には岩盤が露出しているところがある。海底で泥が積もってできた堆積岩である。本来は水平な地層になっているところが,45度あるいは垂直になっているところが多く,この地域が受けた大きな力が実感できる。
ここの岩はまるで本のページをめくるように層状に剥離する性質をもっている。そのため,周辺には厚さ1cmほどの石の板が散乱している。このような岩は堆積岩によく見られる性質で頁岩とも呼ばれている。海底あるいは湖底で堆積したためよく化石が発見される。
有名なところではジュラ紀の始祖鳥の化石が見つかったドイツのゾルンホーフェン,カンブリア紀の生物の博物館とも言われるカナダのバージェス頁岩などがある。ここのものに何か見つからないかと探してみたがそう簡単に見つかるものではないようだ。
木材流し
川の上流から何本もの角材が流れてくる。家を造るために必要な木材は上流の山で伐採し,柱や丸太に加工してから水の流れによって下流に送る。しかし,水量が十分ではないうえ,大小の岩が水路をふさいだり,流れの方向を変えるため,長い木材はすぐに引っかかってしまう。
1本が引っかかると次々に同じ場所で停滞が発生する。若い男性たちが時には水につかり,それらを棒で動かして再び流れに乗せようとする。雪解け水は冷たく,木材は重いので重労働だ。
滞在2日目も同じように見学していたらさすがに彼らも寒いのか谷から上がってきた。近くには別の男性が火を焚いてお湯をわかしている。彼は木材流しの若者たちのためにお茶とパンを持ってきて準備している。砂糖のたっぷり入った紅茶は冷え切った体にとっては何よりのごちそうであろう。
男たちは僕をこのささやかなお茶会に招いてくれた。山の男たちのもてなしの心がこもったお茶をいただく。熱いお茶でこころも暖まり,皆さんにお礼を言って歩き出す。
女性の服装とヨーヨー大作戦
05:30に起き出す。夏とはいえ,四方を山に囲まれている谷からはまだ太陽は見えない。空が明るいので部屋の外は十分な明るさである。南と北はすぐ山が迫り,谷の幅は200mほどしかない。谷川は西から東に流れている。しかし,東側には高い山があり,GHの2階から見ても仰角は30度ほどある。
したがって夏でも日照時間は短い。日の出は7時,日の入りは6時といったところだ。その代わり,空はいつまでも明るい。夜は民家の明かりがちょっとじゃまであるが,かなり暗くなる。昨夜はテラスの縄ベッドに横になり,星空ウオッチを楽しんだ。
カラーシャが旅行者に人気があるのは女性たちの独特の服装にある。大人も子どもも足首までの黒を基調にした貫頭衣を着ている。肩から胸にかけての部分,袖口および足首のあたりにはきれいな刺繍が施してある。
頭飾りや帯は同系統の色合いの織物だ。伝統的な頭飾りは背中に届く長い直垂(ひたたれ)があり,たくさんの宝貝やビーズなどが縫い付けられている。ここではその名残なのか頭飾りと同じものを背中に垂らしている。
首には何重にもなったビーズの首飾りを着けている。髪は額のところで3つの三つ編みをつくり,額の中央のものは頭の後方に回している。頬と額には民族伝統の模様を描いている人もいる。娘さんにはこの模様は少なく,小さな点になったり,何も描いていない人もいる。
とにかく,他に類例のない服装である。彼女たちは明らかにヨーロッパ系の顔立ちをしている。金髪や青い目の人もおり,そこからアレキサンダー大王に従ってきたギリシャ兵士の末裔など言う伝説も生まれている。
僕は旅先で仲良くなった子どもたちにプレゼントするため,日本からたくさんのヨーヨーセットを持参してきた。特にカラーシャのかわいい娘さんを撮るためではない。手はじめに川の上流で二人の娘さんに作ってあげたら,このヨーヨーはあっという間に村中の評判になってしまった。遊び方が単純なのですぐに上達するところが受けたらしい。
宿の下には大勢の女性が集まり,口々に「この子に1個」と訴える。2階のテラスを仕事場にして30個ばかり作ってあげた。その後,どこに行っても気持ちよく写真を撮らせてくれた。家の中もある程度入ることができ,村の生活の一端を見ることができた。
初日の夕方,もう暗くなってきた頃,子どもたちが多いパキスタン人の観光客の一団がやって来た。村の女性たちが集まってきて大人に何かを売り込んでいる。周辺の地域と交流がほとんど無かったカラーシャの村にも,ジープ道ができてから貨幣経済が浸透してきた。
しかし,現金収入といえば家畜のヤギを売る程度のものである。観光客に売る女性たちの装身具は貴重な収入になる。それはしかたがないことなのだが,下で繰り広げられるこのような光景を見るのはつらい。
水力発電所の修理
この近隣の村の電気は村毎の水力発電により供給されている。1基あたりの発電容量は40kw程度の小さなものだ。上流から水路で水を引き,鉄パイプを通して下の発電所に導き,落差を利用して発電機を回している。
簡単なシステムとはいえ安定した発電のためには,水路や発電機の管理は欠かせない。隣の村では水路と導水管が壊れ電気の無い生活を余儀なくされている。バラングルの村でも発電機の調子が悪く出力が半減しているという。
この村には地元の青年と結婚して村のしきたりに従って暮らしている日本人女性がおり,電気に関する話を聞くことができた。この村でも発電機が老朽化したので,来年の春から交換工事を開始するという。
AGA KHAN(イスマイリ派の財団)のエンジニアが不足しているのでメンテナンスが心配だという。8年で発電機を交換するというのはあまりにも早すぎる。やはり,メンテナンスに問題にありそうだ。
発電機の状態や電圧,負荷状況を監視する仕組みも必要だね。基幹配線とあるまとまりごとにブレーカーを設ける必要があるだろう。この女性とはそんな話をしていた。
この村の問題点は二つある。人口の増加と経済格差が生まれたことである。人口は20年前に比して2倍になっているという。この小さな谷が養える人数には限界がある。
経済格差は財産が金銭に変わってしまったので,祭りなどに見られる共同体内の富の再分配機能が低下してしまったという。一見平和にみえるこの集落にも,外の世界と同じ問題が出てきているということだ。
集落の下流側を歩く
バラングルはルンブール谷の奥にある。歩いて下流の村を見に行く。立派な橋があり,その少し先に麦畑が広がっている。これほど面積の広い畑はこの谷にはそうない。このような平地では畑の中に家屋が点在している。
近くには「Kalash Home GH」がある。壁面の石積み,テラスの造り方など,この地域の建築様式がよくわかる。新しくてきれいだが,肝心の村から離れすぎている。
道路右手の崖の上には大きなイベント会場がある。急な斜面を上っていくと,こんなところにも家がある。一軒は半分が斜面にはみ出しており高い柱で支えられており,高床式の住居のようだ。
がけの上にはちょっとした広場があり,これなら近くの人たちが集まってイベントをできるかもしれない。暗くなってからイベントの練習があるというので子どもたちに案内されて,このイベント会場に案内された。もちろん僕はトーチが必要である。
しかし,上に着くと広場は真っ暗であり,これではまったく写真にもならない。人もほとんど集まっていなかったので,そうそうに引き上げることにした。トーチがあるといってもこの急な斜面を下るのは大変だ。