北部辺境州に属するチトラールはアフガニスタンとの国境に近く,絶えず中央アジアの影響を受けてきた。この地域は19世紀末までは独立した藩王国となっており,イギリス統治時代も自治区として内政を任されていた。
王政が廃止され,パキスタンの管理下に置かれたのはわずか45年前である。町にはアフガニスタン出身のパシュトゥーン人が多く,レストランも床にあぐらをかいて坐る,アフガニスタン式のところが多い。
宿の北側をチトラール川が北から東へと向きを変えながら流れており,町はその両側に広がっている。チトラルから上流側はマスツージ川となっており,シャンドールを越えて一泊したマスツージから流れ下ってきている。
チトラル川はこのあと南下し,途中で向きを変えてアフガニスタンに入り,ジャララバードの近くで再度東に向きを変え,カブール川としてパキスタンに入り,GTロードに並行してインダス川に注ぐ。周辺の山岳地帯の地形がこのような複雑な経路を生み出している。
チトラールとペシャワールを結ぶ道路はしばらくチトラール川沿いを走るが,そのまま行くとアフガニスタンに向かうので,途中から標高3200mのロワライ峠を一気に越えて一つ東側の谷に出る。
このルートは11月頃から5月頃まで雪に閉ざされる。そうなると飛行機が唯一の交通機関となるが,天候が悪いと文字通り陸の孤島になってしまう。チトラールの北西60kmにはティリチミール(7708m)があり,機嫌がよければその美しい姿を見せてくれる。
チトラールはアフガニスタンとパキスタンの微妙な関係を反映しており,外国人は警察署に出向いて,「外国人登録(無料)」をしなければならない。この登録はカラーシャ・バレー行きの許可証を兼ねているので,どのみち警察には行かなければならない。
City Tower Hotel
チトラルを訪れる旅行者は多いので安宿も充実している。その中で「City Tower」に宿泊した。2ベッド,T/S付き,十分に清潔,見晴らしもよい。150Rpではこれ以上は望めないお勧め宿である。
チトラル点描
チトラルの町は10年前に比べるとずいぶん家が増えていた。特に西側の山の斜面にはかなり高いところまで家が建っている。狭い通りに車の通行も多くちょっと危険でもある。
それでもチトラールの居心地の良さは変わっていなかった。中央アジアの香を漂わせる素朴な町である。食事のバリエーションもこれまでよりだいぶ増え,その点もありがたかった。
ざっと一回りして夕食は宿の近くで野菜カリーとナンをいただく。地元の食堂にメニューは無いし,英語もあまり通じないのでなべのフタをあけて,「これを下さい」で注文した。15Rpの夕食はなかなかの味だ。
商店街を歩く
インドから西の地域には,「しょう油・味噌」のような万能調味料はない。それに代わり人々はさまざまな香辛料を組み合わせて,料理の味を作り出してきた。その食生活スタイルは現在でもほとんど変わっていない。
スパイスの取引はどんな小さな町でも行われている。店先に積まれたさまざまな色のスパイスの粉末のため,ときにはひどいくしゃみにおそわれることもある。
空き地で遊んでいる子どもたち
表通りに面した空き地に有料の小さな遊具があり,子どもたちが集まっている。空き地の西側は急な斜面になっており,そこにも多くの住宅が建てられている。何人かの子どもの写真を撮ってあげたら,近くで遊んでいた別の子どもたちが集まってきて集合写真になる。
気の毒だけれども,男の子はあまり絵にならないので,こういう場合,男の子と女の子に分けて写真を撮ることが多い。ムスリムの国ではこの作戦はたいてい成功する。
10年前を思い出しながら街を歩く
標高1500mのチトラールは夜になるとそれなりに冷え込み,寝心地はよい。宿の前の通りに何軒か食堂があり,そこでゆで玉子,ナン,スープで朝食をいただく。朝食については選択の余地はなかった。
このところたんぱく質とビタミンが不足しているので,玉子はありがたい。トリ1羽をそのまま茹でたスープもなかなかおいしい。しかもこれで15Rpである。
10年前の記憶を思い出しながら,メインストリートを北に歩いていく。10年前にアフガン人の掘っ立て小屋のような食堂があったあたりは,商店街に変わっており,当時の面影は何も無い。道は少し先でチトラール川に出る。川の水量は豊かで,流れはとても早い。
橋を渡り,川原に下り,逆に南に歩く。10年前にはテントの張ってあった川原にも,今では石垣に囲まれた家が密集している。一部残った川原は薪の販売所になっている。昔ののどかな風景はあとかたもなかった。
石垣の家の近くで写真を撮ってみる。最初は家の中に逃げ込んでいた女の子も,2人,3人と出てきて被写体になってくれた。しかし,どの子もひどく汚れた顔をしており,ここの暮らしが楽ではないことを物語っている。
チトラルの木(チナールの木)
シャヒー・モスクの裏手,チトラル川の近くに巨大な木が並んでいる。正式名称はチナールといいカエデの仲間である(と思っていた)。高さもさることながら,枝を張り出し大きな葉を茂らせている。この木が3本も集まれば森のように見える。そのため僕は密かにこの木を「トトロの木」と呼んでいる。
今回,旅行記を変更することになり,ネットで調べてみた。しかし,お酒のチナールはヒットしても木の方はさっぱり出てこない。検索を「チナール カエデ」にしても何も見つからない。
おかしいと思い,「チナール プラタナス」で検索してみると,田中芳樹の大河ファンタジー小説「アルスラーン戦記」の中で「プラタナスの園(バーゲ・チナール)」という地名があることが分かった。
この小説の原典は19世紀のイランの作家であるナギーボル・ママレクのアルスラーン・ナムダルという本とされており,作中の名称は基本的にペルシャ語となっているとされている。(以上wikipedia)
こうしてようやく,チナールはペルシャ語起源であり,チナールの木はプラタナス(スズカケノキ,鈴懸の木)の仲間であろうということが判明した。
この木はチトラルの町のいろんなところにある。チトラル・フォートの横の道では200mほどの立派な並木なっている。またポログラウンドの東側では人々に木陰を提供している。
シャヒー・モスク
宿の前の道を右に行くと,すぐにシャヒー・モスクに出る。このモスクは約100年前にこの地方の太守によって建てられたものだという。正面の屋根に3つのドームを並べ,その両側にミナレット(尖塔)を配置している。
ドームとミナレットの組み合わせは,見る角度によっていろいろと変化しておもしろい。異教徒は中に入れない。10年前はここのイマーム(宗教指導者)が中に入れてくれた。その結果,イスラム教への入信を強く迫られ,断るのに苦労した思い出がある。
金曜大礼拝のときは,大勢の人々がお祈りにやってくる。女性は家の中でお祈りするのかモスクには来ない。中庭に入りきれなくなった人々は,横の芝生の上でお祈りをしていた。
周囲にはいろいろの露店が出ており,礼拝を終えた人々は露店で買い物を楽しむ。この光景はイスラム圏では普通に見られる。露店の中にハミ瓜と同系統のメロンを切り売りする屋台が出ている。値段は一切れ5Rpとお安い。
とりあえず一切れをいただく。糖度のちょっと低いメロンは水分の補給にはもってこいだ。もう一切れをいただく。メロンを除くと,チトラルでは果物を食べる機会がほとんどなかった。
八百屋にある半分干からびたような果物は食べる気にならない。リンゴにも挑戦してみたが,小さいうえ酸味も甘みも乏しい。これは間引きをしない栽培方法に原因がありそうだ。
チトラル・フォート
シャヒー・モスクの少し先にチトラル・フォートがある。その昔この地域を支配していた藩王の居城である。現在でもその子孫が住んでいるため,中には入れない。入り口まで行って正門の装飾を見せていただく。
インド・イスラーム様式の門は,三角屋根の両側にチャトリ(小塔)を置き,四隅に小さなミナレットを配している。傷んでいるが趣のある建造物だ。
門の両側は高さ3mほどの石塀になっており,中は見えない。ちょうどそのとき,守衛の娘さんが昼食を届けにたずねてきた。「ちょっと,建物の前に立って」とお願いして一枚撮らせてもらう。この年頃の娘さんの写真は簡単には撮れないので,このような機会は最大限に生かさなければならない。
ここを後にして,警察署に行き外国人登録を済ませる。この書類はカラーシュバレー行きの許可証を兼ねている。担当係官はちゃんと英語を話すし,とても愛想がよい。ものの10分で証明書は入手できた。
小さなモスクで
チトラル・フォートの前の道をのんびり歩いてみた。チナールの木が豊かな枝と葉を茂らせている。小さな川を渡りその先に小さなモスクがある。注意して見ていなければ見逃しそうなモスクだ。
入り口のところに小さなサンダルがたくさん置いてある。中を覗いてみると子どもたちがコーランを学んでいる。アラビア語で書かれたコーランは翻訳されることがない。コーランはアラビア語で語られてこそコーランなのだ。子どもたちはまずコーランを音として丸暗記するところから始める。
女の子の写真が難しい区画もある
この近くではパシュトゥーン人の家屋が多い。一軒の家の前で子どもたちが遊んでいる。男の子は問題なく写真になる。その勢いで女の子の写真を撮っていたら,家の戸が開き,年長の女の子が彼女たちを家の中に呼び戻した。この地域では保守的な家庭が多く,ときどきこのようなことが起きる。
酒を飲まない人々
いかつい男たちが並んでいる。飲み屋ではない,ここはチャーイ屋である。黒い服を着たおじさんが無愛想にミルクティーを作っている。コーランにより酒が禁止されているこの地域では,チャーイ屋が男たちの社交場になっている。
ここのチャーイはなぜか小さなポットで一人分を作る。客が多いのだから,大きな容器で人数分を作ればと思うのだが,ご主人はのんびりと小さなポットでチャーイを作り続ける。ここは効率が最優先される社会ではない。
ティリチミールが見える
「City Tower」の2階の部屋で気持ちよく目覚めた。快晴の空にティリチミールがくっきり浮かび上がっている。カメラを持って屋上に行く。早朝の日差しに雪山は輝いている。一方,谷はまだ夜の暗さの中にある。
しばらく屋上のイスに坐り神々しい風景を眺める。この風景を眺められるだけでもこの宿に泊まる価値がある。さあ,そろそろ朝食に出かけなければならない。
西側の斜面の家を訪ねる
町は一通り見たので,西の斜面を探検に行く。昨日の夕方は,メインストリートから斜面に向かう道のところで子どもたちの写真を撮った。彼女たちは斜面に新しくできた家の子どもたちであろうと見当をつけ,斜面に続く道を歩いていく。
じきに道は無くなり,家と家の間を登っていく。ようやく水平方向の道に出る。谷側には屋根,山側には壁と門がある。道幅は50cmか1mしかない。中にはこの道の上に家の2階がテラス状に張り出しているところもある。眼下にはチトラールの町が広がっている。
さらに上に行こうとすると近くの少年たちから待ったがかかった。銃を持った人たちがおり,危険だという。確かにこの地域ならありうると判断し,さして収穫のないまま引き下がることにした。
平和な街の風景
いかつい男たちが並んでいる。飲み屋ではない,ここはチャーイ屋である。黒い服を着たおじさんが無愛想にミルクティーを作っている。コーランにより酒が禁止されているこの地域では,チャーイ屋が男たちの社交場になっている。
ここのチャーイはなぜか小さなポットで一人分を作る。客が多いのだから,大きな容器で人数分を作ればと思うのだが,ご主人はのんびりと小さなポットでチャーイを作り続ける。ここは効率が最優先される社会ではない。