ロンボク島西海岸に位置するスンギギは島内で最初に観光開発が進められたビーチリゾートである。海岸近くには高級ホテルが立ち並ぶが,少し内陸に入ると自然豊かな集落となり,ゲストハウスもいくつかある。リゾートらしく海岸沿いの道にはレストランや土産物屋,旅行代理店,両替屋が立ち並ぶ。
海岸の中央部に300mほどの岬が突き出ており,そこの北側が海水浴場になっている。観光客用に開発されたビーチは現在では地元の人たちが大挙して遊びに来ており,ずいぶんにぎわっていた。岬の南側の海岸にも砂浜はあるが,こちらはまったく人影がなかった。海水浴場の北側にはちょっと海に突き出した丘があり,そこはバリ島に沈む夕日のビューポイントになっている。
クタ→バタンバイ→スンギギ 移動
バリ島のクタからロンボク島への移動はブラマ社のシャトルバスを利用した。料金は15万ルピアであり,その中にはクタ(車)→バタンバイ港(フェリー)→レンバル港(小型バス)→スンギギの料金が含まれている。インドネシアの交通費としては高く,地元料金の3倍くらいということになるが,バリ島内のベモによる移動における料金交渉の面倒さを考えると便利さと快適さの代償ということになる。
05時に起床しシャワーを浴び,買い置きのパンを食べてから出発する。ブラマ社の事務所までは歩いて10分である。05時台のクタは昼間の喧騒がうそのように静まっている。05:40に事務所に着くと,明かりはついているものの誰もいない。二人の日本人女性がやってきた。彼女たちはウブッに向かうのでチケットを買うためにやってきた。
ヨーロピアンはデッキで日光浴である
06時過ぎに車がやってきて,サヌールの事務所に向かう。そこがブラマ社の中継点のようで,それぞれの行き先に合わせて小型バスに乗り換える。サヌールからウブッに向かい,そこでもう一度小型バスに乗り換える。今度はフランス人女性の二人連れが加わった。バリ島では東西方向の幹線道路は無いので,フェリー港のあるバタンバイまでは1時間半ほどかかった。
08:15に港にあるブラマ社の事務所に到着した。到着したフェリーから大小のトラックが出てくるので排気ガスがひどい。ここのゲートはブラマ社のチケットを見せると通してくれる。大型のフェリーは乗客で溢れるようになる。フェリー施設の屋根には「P.T Indonesia Ferry」と記されていた。この会社名はジャワ島のクタパンからバリ島に移動したときにも見かけた。
バリ島に向かうフェリーとすれ違う
フェリーは09:30に出発した。入江から出るとアウトリガーのカヌーが浮いている。この舟のアウトリガーは8の字を縦に割ったような形状をしている。優美な曲線に加え小さな帆も立てられるようになっている。バタンバイ港に向かうフェリーともすれちがった。航行中の自分の船は写真にならないので,この船を代わりに撮ることにする。外国人旅行者はエアコン室もしくは前方のデッキで日光浴である。
バリ島とロンボク島の間はロンボク海峡となっており,有名なウォーレス線が走っている。ウォーレス線はダーウィンと同時代の英国人の採集学者アルフレッド・ウォーレスが提唱した動物種の境界線で,その東側がアジア区,西側がオーストラリア区となっている。つまりウォーレス線は動物種を基準としたアジア区とオーストラリア区の境界線ということができる。
ロンボク島にはリンジャニ山がそびえる
ロンボク島の海岸線が近づくと,その背後に活火山のリンジャニ山(3726m)が大きく見える。面積4725km2のロンボク島に富士山ほどの火山があることになる。島そのものが火山活動により生み出されたといってもよい。アンダマン諸島から大スンダ列島,小スンダ列島と連なる「赤道の首飾り」と呼ばれる島々はアジア・プレートとオーストラリア・プレートの境界に位置する火山フロントにより形成されたものである。
日本列島もプレートの境界にできた火山フロントにより形成された。地理的にはウォーレス線はアジア・プレートとオーストラリア・プレートの境界線ということができる。フェリーは13時にレンバル港に到着した。船を下りるとブラマ社のスタッフが待機しており,小型バスでスンギギまで移動する。風景はバリ島と類似している。
アスティティ・ホテル
小型バスは14:30にスンギギの事務所に到着した。ここが今日の移動の終点ということになる。ガイドブックでチェックしておいたエレンまでは徒歩10分というところだ。途中でコミッションを稼ごうとする男性につきまとわれて苦労する。ロンボク島もバリ島と同様に外国人旅行者にたかろうとする人たちが多いという印象を植え付けられた。
エレンの部屋代は一律に7.5万ルピアだと言われ,アスティティに行く。入り組んだ路地の奥にあり,地元の人の案内でようやくたどりついた。改装が行われたのか古びた雰囲気はなく,部屋もずいぶん広い。6万ルピアの部屋は10畳,ダブルベッド,トイレ・シャワー付きでとても清潔である。客室は中庭に面してコの字形に配置されており,部屋の前にはイスが用意されている。この宿もリゾートを意識している。
宿の周辺はのんびりとした田舎の風景だ
宿は海岸沿いの幹線道路から少し内陸に入ったところにあり,周辺は緑の多い集落となっている。この辺りは移住してきたバリ人が多いところで雰囲気もバリ島に類似している。庭先に竹で編んだ大きめの縁台があり,プラスチックのバスタブで赤ん坊が行水をしている。近くの子どもたちの写真を撮り,お礼にヨーヨーを作ってあげる。小さな子どもの半分横を向いたカメラ目線がおもしろい。
休日のためか海岸で遊ぶ人は多い
夕日の時間帯に間に合わせるため16時からビーチに向かう。幹線道路からビーチに向かう200mくらいの細い道の間にバイクが並び,ビーチから戻る人と向かう人がすれ違うのに苦労するほどだ。日曜日なのでビーチはずいぶんにぎわっている。たくさん並んでいたバイクはこの人たちの足となっているのだ。
砂浜の南側は小さな岬になっており,砂浜がきれいな弧を描いている。北側は岩場になっており,その向こうに突き出した丘の向こうに夕日は沈みそうだ。ガイドブックの地図は海岸が西に面しているようになっているが,45度くらいずれており,海水浴場からは水平線に沈む夕日は見えない。
海水浴場の北側にある小さな丘
砂浜から岩場を回り込んで北側に行こうとしたらこれは不正解であった。やはり,いったん道路に出るのが正しい選択であった。しかし,引き返すのもしゃくなので,カメラをザックにしまい,岩登りをしてようやく丘の上に出た。道路は海岸を縫うように近くを通っている。
丘の小さな寺院にも祈りの風景がある
丘の上には小さな寺院があり,人々が集まっている。お堂に向かって女性が供物を奉げており,人々は地面に座ってそれを眺めいている。岩場の突端からは下で釣りをしている人々が見える。波は穏やかで岩場の波打ち際にいても危険はない。岩場の北側にも狭い砂浜があり,そこからの夕日は良さそうだ。寺院では別の女性が小さな壺に入れた「聖なる水」を刷毛を使って参列者にふりまいている。
岬を巡る道路から見た夕日の風景
夕日の時間が迫っているので道路に出て海岸近くのヤシの木のシルエットを撮ってみるが,さほどきれいには写らない。ここの夕日撮影の本命は海岸に下りて,波打ち際からのものだ。
海岸に出るとバリ島に夕日が沈んでいく
前方にはバリ島のアグン山(2567m)が広いすそ野を見せており,夕日はその右側に沈んでいく。空一面が黄金色のグラデーションに染まり,目の前の岩場の間を満たす水面が赤みの強い金色に染まっていく。絵にかいたような夕日の風景は僕のアジア旅でも5本の指に入るものである。アグン山,岩場の水面とその向こうに広がる海,どれが欠けてもこの雄大な風景は完成しない。
ここでも人々の祈る姿がある
刻々と色彩を変化させていく夕日の風景を飽きもしないで眺めていた。いつの間にか砂浜には人々が集まり,夕日に向かって手を合わせている。合わせた手を額から頭上に上げる動作は,寺院で祈る姿と同じものである。太陽がアグン山の向こうに沈んでも残照はまだ空を薄く染めており,アグン山は先ほどよりもはっきりと見えるようになる。
道路に戻りもう一度ヤシの木のシルエットを撮る。今度はなかなかいい感じだ。道路わきには焼きトウモロコシの露店が何軒か出ている。夕暮れの海を眺めながら1本いただく。3000ルピアの小さな幸せを味わっているとき町全体が停電となる。これは困った。記憶をたどりながら,足元に注意しながらなんとか宿に戻る。この停電は2時間以上続き,ライトをもって夕食に出かけるとになった。
ロンボク島西側にはココヤシが多い
07時に起床,昨日の睡眠不足に加えて,気持ちよく寝られたので寝過ごしてしまった。ガイドブックには朝食が出ると記載されていたのでしばらく部屋の前で待っていた。何も起こらないのでスタッフに確認すると,やはり朝食は付いていないようだ。
外に出て近くの超ローカル食堂に入る。出来合いのいんげん炒め,魚とチキンの空揚げ,それにごはんをつけて5000ルピアである。ローカル価格はこの程度なのだろう。
リンジャニ山のトレッキング案内
宿の壁にリンジャニ山のトレッキング案内があった。ロンボク島の北側には複数の火山が並んでおり,リンジャニ山は現在もっとも大きなものである。リンジャニ山の東側には古い火山と思われる巨大な地形があり,それを含めると火山域は東西50kmほどにもなる。さらにリンジャニ山の西側にも火山がある。
リンジャニ山は画像のように巨大なカルデラをもっている。カルデラは過去の大きな噴火により陥没した地形であり,切れ目のない外輪山に囲まれている。直径はおよそ6kmで東半分は新しい火山が埋め,西半分はカルデラ湖になっている。左の画像では左が東にあたる。この外輪山の最高地点が3726mということなのだろう。大噴火以前の姿を想像すると4000mをゆうに超えていたようだ。
ちょっと警戒している近所の子ども
スンギギでは複数の会社がスンババ島への路線をもっている。料金をチェックすると意外なことにブラマ社がもっとも安かった。ルートはスンギギ→マタラム→ビマ→サペであり,サペでフェリーのチケットを買って,フローレス島のラブハンバジョーに移動できる。
サペまでが17万ルピアで,フローレス島に渡るフェリーは4万ルピアである。ブラマ社のコモド・ツアーは2泊3日,チャーター船で回ることができるので魅力的ではあるが,料金は200$であり,ちょっと手が出ない。翌日のサペまでのチケットを購入する。
人を積み上げたトーテムポール
ホテルの敷地内で人を積み上げたトーテムポールを見かけた。人の上に人が乗るように連なっているものはおそらく祖先を表すものだろう。連綿と続く祖先からからのつながりがこのような造形を生み出したのであろう。今回の旅行では類似のものをカリマンタン島のロングバグンで見かけた。
イリアンジャヤに住むアスマットの人々,彼らはパプア系であるが,まったく同じような構成の彫刻柱の文化もっている。「ムビス」と呼ばれる彫刻柱は祖先と子孫を繋ぐ生命の樹であると考えられている。アスマットの人々は木に刻んだ祖先を崇拝した。しかしキリスト教によって魂の木彫りは邪教とされ,彼らの彫刻は単なる芸術となり,さらには観光土産の木彫りになったという。
南側の海岸から小さな岬を望む
昨日のビーチの南側は半島状に海に突き出しており,その南側にも砂浜が広がっている。こちらの砂浜は一般に開放されていないのかほとんど人影はない。海の色は素晴らしい青であり,海に突き出した土地の緑やヤシの木のシルエットと合わせて,いかにも南国という風景に仕上がっている。砂浜を移動すると半島の中ほどにバリ島のアグン山が見えるところもある。
沖合には三角帆,アウトリガーをもった漁師の小舟が浮かんでいる。幅が狭く船首と船尾がベニスのゴンドラのように高くなっている。この形でアウトリガーをもたない舟は台湾の先住民族が使用している。舟の形状の類似は偶然なのかもしれないし,台湾周辺を起点として太平洋に拡散していた民族移動のなごりなのかもしれない。
ここの海岸は別荘地になっておりタコノキが繁茂している
今日は波があり,岬の先端付近には白い波頭のラインができている。岬に向かって歩こうとすると,砂浜は海に向かって大きく傾斜しており歩きづらい。陸側は個人の住宅か別荘地のようで,芝生もよく手入れされている。やはり,ここの砂浜はプライベート・エリアなのかもしれない。砂浜との境界にはタコノキが群生している。
タコノキの実
タコノキ(タコノキ目・タコノキ科)はアフリカ・アジア・オセアニアの熱帯地域が原産の特異な形態をもつ樹木である。地上1.5mくらいのところから多数の支持根を出し,全体でもろい砂地の上で地上部を支えている。この支持根の形状から「タコノキ」と呼ばれている。
若木にはぶら下がったパイナップルのような実が付いていた。タコノキには多くの種類があり,実の形状もずいぶん異なっている。ここのものは実の形状からアダン(Pandanus tectorius )であろうと推測した。アダンは沖縄にもあり,地元の人はこの実を食べることはなく,落ちたものはヤシガニやヤドカリの食料になる。
岬に近づくと道は波を被るようになる
砂浜は途中から幅1mほどのコンクリートの護岸となっており,陸側は柵で仕切られている。砂浜から続いているタコノキは大きく護岸に覆いかぶさっており,その下を歩くことになる。コンクリートの歩道なので歩きやすくはなったものの波しぶきをモロにかぶるようになる。波の押し寄せてくるタイミングを見ながら危険地帯を通過する。
岬の先端部は人工構造物で補強されている
コンクリートの護岸は半島の先端部まで続いている。さらに先端部はコンクリートの太い円柱を埋め込んで補強している。なぜか半島の先端周辺ではきれいな波が立っていた。夕方の引き潮のときに再訪して,周囲が岩礁地帯であることが分かった。この岩礁により少し深いところの波は進行を妨げられ,表面の波が先行してきれいな波が立つようだ。
昨日のビーチは今日も人出が多い
半島の北側は昨日のビーチに続く砂浜となっている。日曜日であった昨日よりは少ないものの相当の人出である。欧米人のリゾート客は数えるほどであり,大多数は地元の人々である。
先生に引率された小学生が来ていた
先生に引率された小学生の集団が複数来ており,けっこう写真をせがまれることになった。グループAの集団は海を見に来た程度であり,普段着のまま裸足で砂浜を歩くだけだ。グループBの集団は男子生徒は上半身は裸でハーフパンツ姿が多い。女子生徒はおそろいのジャージー姿である。子どもたちは水に浸かることはしても泳ぐことはない。
小学生グループAの食事風景
グループAの子どもたちが食事を始めた。こちらはお弁当を持参しており,めいめいのザックから取りだし,砂浜の上で食べ出した。こちらのグループは遠足気分だ。
小学生グループBの食事風景
グループBの子どもたちも先生の指示で整列し,昼食となる。こちらはインドネシアでよく見られるポリエチレンを貼った紙に包まれたお弁当であり,ごはんの上におかずが乗っている。子どもたちは列をつくり,先生から次々と受け取っていく。
そばで写真を撮っていた僕にも回ってきたので先生たちと一緒にありがたくいただくことにする。ベースがごはんなので何の問題もない。どちらの集団の子どもたちも昼食が済むと整列して帰って行った。僕も宿で一休みすることにしよう。
この子は色白だね
近くに母親に抱かれた子どもがいた。マレー系とは思えないほど色が白い。
近所の子どもたちの撮影会を開く
午後は近所の集落を回って子どもたちの写真を撮ることにした。子どもたちも大人たちも写真に対する忌避感はまったくない。困ったのは子どもたちに一人ひとりの写真を要求されることだ。日差しが強くないが明るい場所に立ってもらい個別写真を何枚撮ったことだろう。
宿の周辺はココヤシが多い
集落のすぐそばまで丘の斜面が迫ってきており,ココヤシの林となっている。生産性の高いココヤシは人々の貴重な財産なのだろう。
ココヤシの幹から板材を切り出す
生産性が落ちたからなのか,木材の必要ができたからなのだろうか,2本のココヤシの木が伐り倒されていた。これをチェーンソーを使って角材や板材に仕上げていく。この技には感心した。出来上がったものは立派な木材である。
ココヤシの葉は屋根を葺く材料になる
ココヤシの葉は屋根を葺く材料にもなる。近所の女性たちが大きな葉柄の両側にある葉を山刀で切り落としていく。この細長い葉を二つ折りにして芯材を挟むようにして止めていくと,屋根を葺くための長方形のユニットが出来上がる。一つの屋根を葺くためにはそのようなユニットが数十必要になる。
ヤシの葉を使用して屋根を葺く文化は東南アジアでは広く普及している。ただし,ココヤシの葉は幅が狭いので,使用されるのはニッパヤシやサゴヤシが主流である。ここではたまたまココヤシの木が伐られたので,その廃物利用として葉が利用されたのであろう。ヤシの葉を利用した屋根葺きの文化も安価で長持ちのするトタン屋根に押されるようになり,集落の景色も少しずつ変わっていく。
再び近所の子どもたちの撮影会となる
集落を歩いていると大人の人に呼び止められ壁の無い東屋のような縁台でお茶をいただくことになった。床は切り裂いた竹を並べたもので通気性はとてもよい。
お茶はわりと薄かったが,おそらく紅茶系であろう。このお茶なら日本茶のように何杯でも飲むことができる。行商のおばさんがやってきて皮をむいたキューリも出された。これも,暑い気候のインドネシアではありがたいおやつだ。
ごちそうになってばかりもいられないのでキューリ代は払おうとしたら家の人に制止された。どうやら僕はお客さんの扱いらしい。お礼に近所の子どもたちを集め,写真を撮り,ヨーヨーを作ってあげた。このおもちゃの製造工程はおとなも興味深そうに眺めていた。
今日は祈りの風景はなかった
夕方になったので昨日の小さな丘に向かった。丘の上には人影はなく,その先にはバリ海の青い水面が広がっている。
海岸で何かを拾い集めている
砂浜の先は岩場になっており,潮だまりの生き物がたくさん観察することができる。サンゴ礁のかけらは散らばっているものの,生きたものは沖合でなければ見ることはできない。岩場の先端部では地元の人たちが何かを採取している。僕のクツではそこまでたどり着けないので袋の中を見ることはできない。
サンゴのキクメイシかな
砂浜の先は岩礁地帯となっており,潮だまりにはたくさんの生き物がいる。クツをはいたまま少し歩いてみた。大きな岩にはフジツボがたくさん付いており,潮が引いた今は殻が乾燥しており,活動は停止している。潮だまりにはカイメンやソフトコーラルの仲間が潮が満ちてくるのを待っている。砂浜には白いサンゴのかけらがころがっている。表面の模様からキクメイシの仲間だと推測した。
フジツボ
潮間帯の岩に取りついているフジツボはどうみても貝の仲間に見える。しかし,フジツボは甲殻類の仲間に分類されており,石灰質の殻をもつ固着動物とされている。孵化してから一時期は自由遊泳性のノープリウス幼生となり,これが甲殻類に分類される理由である。とはいうもののフジツボは甲殻類(エビ,カニ)とずいぶん形態が異なる。
岩に固着する生活のため甲殻類の歩脚に相当する器官は細い触手状の足となり,それでプランクトンをつかまえる。フジツボの殻はカニの甲羅に相当するもので貝類と同じように成長する。自ら動くことはできないので近くに仲間がいないと繁殖できない。そのため幼生は他の個体の近くに着底する性質をもっており,結果として群生することになる。
二日目の夕暮れも素晴らしい
夕日の時間帯になると昨日と同じようにアグン山の右側から黄金色のグラデーションが始まる。今日はアグン山の上に雲があり,夕日効果を少し強調している。先ほどから何かを採取したいた袋を手に持った男性がフレームの中に入ってくる。彼のシルエットは夕日の光景にごく自然に溶け込んでおり,いい写真になったと自負している。
道路に上がり,そこからヤシの木のシルエットとアグン山を重ねた1枚も僕のお気に入りになった。ロンボク島も観光開発が進んでおり,バリ島化が懸念されているが,スンギギの周辺はまだ自然とともに暮らす人々の生活が残されている。
ココヤシが青空に映える
宿の近くの畑から丘に登れそうな道があった。この畑ではヤシの木とキャッサバが栽培されている。ヤシの木の最上部を真下から見上げるとおもしろい構図の写真になる。丘の斜面が始まるあたりに畑の持ち主の家がある。家の主人から「どこに行くのか」と聞かれ,「丘の上です」と答えると「注意していきなさい」とアドバイスされた。確かに道は途中から落ち葉が積り,滑りやすい急斜面になっていた。
丘の上からは僕の宿のある一画が眺望できる。遠くにアグン山がかすんでおり,なかなかの風景となっている。この方向を見る限りでは緑の豊かな風景であり,近くの山すそは明らかに最近植えられたヤシの木の農園になっている。丘からの帰りに畑の持ち主の家に1歳半くらいの小さな子どもがいたのでヨーヨーを作ってあげる。
ワタノキがあった
キャッサバの畑の中に高さ3mほどのワタの木があることに気が付いた。栽培されているワタは一年草あるいは多年草であるがここちらは本木であり,ワタと同じような葉をもち,ワタのような実を付ける。ワタとはアオイ科ワタ属(Gossypium)の植物の総称である。
世界の栽培ワタはアフリカ起源で,インドに伝播して多様な栽培種となった「アジアワタ」と中米・南米起源の二種がある。インドで栽培される本木の「キダチワタGossypium arboreum)」から一年草の生活形をもつ栽培ワタが作り出された。ここにあるものは「キダチワタ」のようだ。ワタの繊維を木綿というのは,その昔にキダチワタからワタを作っていた名残かもしれないと勝手に推測してみた。
ネナシカヅラはこれでも植物である
灌木の上を黄色のひものような不思議な植物が覆っていた。ネナシカズラ属(Cuscuta)の仲間であろう。ネナシカヅラはつる性の寄生植物であり,クロンキスト体系では単独でネナシカズラ科 (Cuscutaceae) としているが,APG植物分類体系でもヒルガオ科に含めている。
ネナシカヅラは名前のように寄生植物であり,葉緑素がないため黄色,橙色,赤色となる。つるが分岐しながら伸びて他の植物や地面を覆うように成長する。世界の温帯から熱帯に広く分布し,日本にも「ネナシカヅラ」「マメダオシ」が分布している。
外観的に類似している植物にスナヅル(クスノキ科・スナヅル属)があるが,別属の植物であり,収斂進化の一例とされている。日本では小笠原諸島,九州南部,南西諸島の海岸に自生している。