亜細亜の街角
いつ来ても地震の修復が行われている
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プランバナン  (地域地図を開く)

9世紀のジャワ島には大乗仏教を信奉する北部のシャレインドラ王朝と南部を支配するヒンドゥー教のサンジャヤ王朝により統治されていた。当時のジャワ島では小王国に分割されており,それらの連合王国が王朝という形態をとっていた。奇しくもシャレインドラ王朝はボロブドゥール,サンジャヤ王朝はプランバナンという傑出した宗教建造物を残しており,どちらも世界遺産に登録されている。

プランバナンは5km四方にわたりいくつもの寺院遺跡が点在する遺跡群であり,その中心にあるのが北からヴィシュヌ,シヴァ,ブラフマーというヒンドゥー教の三大神に捧げられた神殿群である。

3神殿の東側にはそれぞれに対応した3つのヴァーハナ堂(乗り物堂)があり,主神の乗り物が祀られている。ヴィシュヌ神にはガルーダ,シヴァ神にはナーンディ(牡牛),ブラフマー神にはハムサ(白鳥)ということになる。

つまり3対の主神殿とヴァーハナ堂(乗り物堂)が南北方向に並び,さらに中央の南北線の少し北側と南側に少し小さな祠堂が配されており,中心部遺跡群には合計8基の塔状の神殿がおよそ125m四方の敷地に置かれている。これらを総称して「ロロ・ジョングラン(痩身の乙女)」と呼ばれている。

主神殿の中央にあるシヴァ神殿の高さは47mもあり,8基の塔状の神殿が林立する敷地がとても狭く感じられる。それぞれの神殿は近くから見るとほぼ垂直に立ち上がっているようであり,水平方向に広いボロブドゥールに比べるとはるかに地震などの自然災害に脆弱な構造となっている。

1990年に訪問した時も足場が組まれて修復作業が行われていたし,今回は2006年に起きたジャワ島中部地震で甚大な被害を受けたため,さらに大規模な修復作業が行われていた。スマトラ島からパプアニューギニア島にかけての地域の南側ではオーストラリアプレートとユーラシアプレートが衝突しており,しばしば巨大な海溝型地震が発生している。

2006年の地震はジョグジャカルタ東側の活断層が動いたもので,2か所が動いたため,M6.2とM6.1の地震がわずかな時間差で発生し,一部地域では地震波が干渉して大きな揺れになった。大規模な修復期間中は神殿への立ち入りは禁止されることになり,僕が訪問した時は一部の神殿だけは立ち入りが許される状況であった。

プランバナン遺跡公園は中心部神殿の敷地よりはるかに広く,南北2km,東西1kmほどの広さであり,歩いて回るだけでもけっこう大変である。遺跡公園の外側にも関連する寺院が点在しており,その範囲は5km四方にもおよぶ。

ボロブドゥール→プランバナン 移動

早朝のボロブドゥールを見学し,11時にチェックアウトしてバススタンドに向かう。プランバナンに直行するバスはないので,いったんジョグジャカルタに戻り,そこからソロ行きに乗ることになる。バススタンドには来た時よりは少しましなミニバスが待機していた。ミニバスは11:20に出発し,12:50にジョグジャカルタのテルミナルG1に到着した。

すでにソロ行きのバスは入線していた。それでも朝食はカップメンだったので昼食を優先させた。食堂はないので運転手や車掌が利用している屋台でいただく。ごはんに何かの炒め物とオムレツを乗せたもので,唐辛子を除くと十分にいける。値段も4000ルピアと格安であった。バスは30分でプランバナンに到着し,僕は路上で降ろされた。

Hotel Jaya Kusuma

500mほど歩き予定していた宿にチェックインする。しかし,ここは「Hotel Jaya Kusuma」と名前が変わっていた。部屋(45,000ルピア)は8畳,2ベッド,トイレ・マンデー付きで清潔である。2階にある居心地の良い部屋がもらえたので2日滞在することにしよう。

翌日は06時に起床し,マンデー(水浴び)をして部屋に戻ると外のテーブルに紅茶が置かれている。外のイスに座って中庭を見下ろしながら,ありがたくいただくことにする。このサービスもこの宿の印象をだいぶ良くしてくれた。

オッパ川の風景

プランバナン遺跡公園は明日にして西側2.5kmほどのところにあるカラサン寺院とサリ寺院を見に行くことにする。僕にとってはちょうどよい散歩コースである。ジョグジャカルタとソロを結ぶ幹線道路を歩いて行くとオッパ川にかかる橋に出る。のどかな田舎の風景の中を少し濁った水がゆったりと流れている。ジャワ島の人口密度は981人/km2と日本の3倍以上である。この火山の島は豊かな農業地帯となっており,人口の稠密さにかかわらず田園風景を目にすることが多い。

カラサン寺院

カラサン寺院は幹線道路の南側に少し入ったところにあり,標識があったと記憶している。この遺跡寺院から出土された碑文(カラサン碑文)によると,778年にプランバナン地域を支配していたヒンドゥー教国のサンジャヤ王朝の国王とボロブドゥール地域を支配していた仏教国のシャイレンドラ王朝の王女の結婚を祝って建造されたとある。

仏教とヒンドゥー教は対立する要素は少なく両者が混在するような寺院が建造された。聖室に多羅菩薩像があったことから仏教寺院とされているが,ヒンドゥー教の色彩も強い。この寺院は9世紀半ばまでに何回かの改築が行われ遺跡公園のシヴァ寺院にも匹敵するような壮麗な建造物であったようだ。しかし,現在は半分崩壊した状態であり,周囲の小祠堂もほどんど崩れており,在りし日の姿を想像するのは困難だ。

往時はこんな姿だったようだ

カラサン寺院の敷地内には説明板があり,9世紀半ばに最後の増加改築が行われた後の復元図があった。構造的には遺跡公園のシヴァ神殿と類似している。屈折した方形の基壇の上に搭状の建造物が置かれており,登り階段は四方向に設けられている。方形基壇の周囲は52基の小祠堂が周壁のように囲んでいる。

内部空間は中央に大きな主聖室があり,その外側に4つの小聖室が配されている。また,外壁の屈折部にはそれぞれ壁龕(へきがん)が設けられ,仏教とヒンドゥー教の混合寺院であったことから,ヒンドゥーの神像が置かれていたのでは推測される。寺院の上部は多数のストゥーパが飾っており,この様式はロロ・ジョングランのものと類似してる。

外壁のレリーフの痛みはひどい

石段を登り屈折した方形の基壇の上までアクセスすることができる。聖室への入り口,あるいは壁面の壁龕(へきがん)構造の上部にはすべてジャワヒンドゥー独特のモチーフである恐ろしい形相のカーラが彫り込まれている。ボロブドゥールでも石段の途中にカーラをあしらった門があり,宗教建造物では重要な意味をもってるようだ。

ジャワでは人々の厄災を取り除くことは宗教の重要な要素であったらしく,カーラの守る門をくぐるとそのような厄災はカーラに飲み込まれると考えられていた。僕にとっては「ああここにもあるね」程度のものであるが,カラサン寺院のカーラはジャワ古代美術の最高傑作とされている。

カラサン人の外壁には神像を収めた壁龕(壁のくぼみ)とともに立体的なレリーフも残されている。しかし,神像はすでに失われ,レリーフの傷みも相当なものだ。

そもそも,比較的小さなブロックの石材が使用されているため,石組みの強度に問題がありそうだ。ある種のセメントが石材のつなぎに使用されているようだが,地震の頻発するこの地域では解体して相当の補強をしなければ復元は難しいだろう。

寺院の石段の下には大きく口を開けた「マカラ」の装飾もあった。一見すると龍のようにも見えるが,「マカラ」はインドの神話に登場する架空の海獣であり,イメージはワニに近い。密教ととともに日本にも入ってきており摩竭魚(まかつぎょ)と音訳されている。

夕食

僕の夕食時間帯になると市場関連の店は閉まっており,宿の下にある食堂だけが頼りとなる。ごはん,フライドチキン,紅茶の組み合わせで1.9万ルピアはやはり観光地値段である。

翌日の朝食と昼食は市場の近くの食堂でいただく。こちらは野菜が主体であるが3500ルピアと4000ルピアであった。もっとも,宿の下の食堂も2回目はミーゴレンと紅茶を1.8万から1.4万にディスカウントしてくれた。

近くのモスクがライトアップされている

宿の東側にはモスクがあり,夜間はライトアップされている。ちょうど満月だったので二つを組み合わせた写真を撮ることができた。ロロ・ジョングランのライトアップにあやかった(あるいは対抗した)のであろうが,現役の宗教施設ではライトアップは不要だ。

サトウキビ畑

サリ寺院

実はカラサン寺院の見学中にけっこうな雨になり,サリ寺院の見学は翌日の午後となった。雨が小降りになったので宿に戻ることになったが,乗り物が見つからず歩いて帰ることになった。幹線道路にも水溜りが残っており,クツが湿ってしまい,乾かすことになった。

翌日は午前中にプランバナン遺跡公園を見学し,午後はベモに乗って西にあるサリ寺院に行く。ベモは(雨が降っていなければ)幹線道路をしょっちゅう行き来しており片道2000ルピアの便利な乗り物となる。幹線道路沿いで降ろしてもらい,少し北に行くとサリ寺院が姿を見せる。敷地面積は50m四方よりかなり狭く,周辺は民家が密集している。

往時はこんな姿だったようだ

敷地内には案内板があり,建造時の姿を伝えるイラストがある。サリ(精髄)の名前の通り建造時は漆喰で塗られており,美しい白亜の寺院であったようだ。建造時期ははっきりしないが9世紀前半とされている。構造的には塔状の建造物ではなく直方体となっている。

二層の本体部にはそれぞれ3つの空間があるので,仏教の僧院として使用されていたと考えられている。ガイドブックによると外壁のレリーフは菩薩像となっているが,僕の目にはヒンドゥーの神々をモチーフにしたように見える。建物上部は9つのストゥーパで飾られ,正面は東向きになっている。イラストの向きでは大きさは幅17m,奥行き10mとなっている。

壁面のレリーフの保存状態はよい

外壁の中段から上はしっくいが残っており,それが保護膜になったためか立体的なレリーフの保存状態はよい。この二層になったレリーフは全部で70体あるそうだ。一つの壁面でもカビで黒ずんでいるところと比較的白っぽい部分があるので,修復作業が行われたようだ。

第一層の窓の一部は石材で塞がれているが,建造時はすべて窓として機能していたと考えられるものの,上記の復元イラストの中で第一層の窓と第二層のまどは表現方法が異なっており,現在の塞がれた状態がオリジナルとも考えられる。

すでに,同時期か少し以前に建造されたボロブドゥールの仏像と比較するとこの寺院の菩薩を象ったレリーフとはかなり異なっており,ヒンドゥーの神像を想起させる。

それに対して頂部の壁龕(へきがん)を有するストゥーパの構造はボロブドゥールのものと類似している。やはり,この寺院もヒンドゥー色をもった仏教僧院ということができるような気がする。

ロロ・ジョングラン基本構成

翌日は08時前からプランバナン遺跡公園を見学した。入り口は幹線道路に面しており,入園料は11万ルピア(約11$),ツアーで来ていたインドネシア人のチケットは1.25万ルピアとなっていた。この公園を維持し,地震による被害を修復するには多額の費用がかかるので,この外国人価格は納得することにした。

ロロ・ジョングランは遺跡公園の中心に位置しており,敷地の周囲は150m四方ほどの周壁に囲まれており,東西南北に入り口をもっていた。ロロ・ジョングランは単一の建築物ではなく周壁に囲まれた8基の神殿や祠堂の総称である。中核となるのは北からヴィシュヌ,シヴァ,ブラフマーというヒンドゥー教の三大神に捧げられた神殿群である。

3神殿の東側にはそれぞれに対応した3つのヴァーハナ堂(乗り物堂)があり,主神の乗り物が祀られている。ヴィシュヌ神にはガルーダ,シヴァ神にはナーンディ(牡牛),ブラフマー神にはハムサ(白鳥)ということになる。周壁の回りは234もの小祠堂に囲まれていたようだ。現在はほとんどのものが崩壊し,ガレキとなっているが,いくつか復元されものを見るとそれぞれ立派なものだ。

オランダ支配時の崩れた神殿

9世紀の終わりから10世紀のはじめにこの地域で建造された多くのヒンドゥー寺院群(中には仏教寺院も含まれる)は「プランバナン寺院群」と総称される。これらの寺院群は王国の遷都とこの地域がイスラム化したため放置され,1549年の地震でほとんどが崩壊した。

オランダのインドネシア支配時の1937年に修復が行なわれており,そのときのものであろうか,上部が崩れた神殿の写真が博物館に飾ってあった。よくこのような状態から現在のような姿に復元できるものだと感心する。

博物館の庭にはこの地域から出土した多くの石像が屋外展示されている。重要なものは館内に展示されている。館内には修復前の神殿や寺院の状態や作業中の写真が展示されており,興味深い。

どこから撮っても8基の神殿はそろわない

遺跡公園のどこから撮ってもロロ・ジョングランの全景はきれいには決まらない。最も巨大なシヴァ神殿を除くと,だいたい同じような構造であり,個々の建造物を特定するのは難しい。

ロロ・ジョングランを囲む周壁

ロロ・ジョングランの周囲は立派な周壁に囲まれており,恐らく東西南北に門があったのであろう。周壁の外側には多数の小祠堂が囲んでおり,いくつかもものは復元されている。往時の姿を復元するために必要な石材が残されているかは分からないが,小祠堂の基壇部分には多くの石材が残されている。

シヴァ神殿とナーンディ堂

東門の手前から見るとナーンディ堂の背後にシヴァ神殿が重なる構図となる。あるサイトで完全に両者を重ねた写真が掲載されていた。広角のレンズを使用すると,両側の2神殿も構図に含めることができる。ただし,3神殿を含めた構図は樹木が少ないため西側からの方がずっとすっきりする。

もっとも,僕が訪れたときはあちこちでまだ工事のための鉄パイプが組まれた状態であり,3神殿の内部には入れないうえ,西側からの構図は鉄パイプのやぐらが入ってしまい撮影に苦労した。ということでシヴァ神殿とナーンディ堂がもっともきれいに見えるのが東門の少し外側からの構図であった。右側の建造物は外側の小祠堂である。

神殿と祠堂の基本構造

数か所に説明板が置かれており,建造物のいわれや構造図が記されている。最も大きなシヴァ神殿のもので建造物の構造を説明してみよう。基壇は屈性した方形であり,4方向に上に登る石段がある。これはシヴァ神殿だけの構造であり,残りの神殿の石段は東側に1ヶ所,3つのヴァーハナ堂(乗り物堂)は西側に1ヶ所となっている。

石段の上部は天井のない回廊となっており,一回りすることができる。仏教やヒンドゥー教の建造物を回るときは時計回りが正しい方向である。回廊の内側にはほとんど垂直な神殿本体がそびえており,壁面のレリーフは見どころの一つだ。

シヴァ神殿以外は神殿内部に一つの空間(聖室)をもち,そこには神像が安置されている。それに対してシヴァ神殿は聖室の周辺に4つの小空間をもち,そこにも神像が置かれている。中心部の大きな聖室には東側からだけ入れるようだ。

ナーンディ堂から見たシヴァ神殿

ナーンディ堂の西側にはシヴァ神殿がそびえており,回廊から正面の写真を撮ることができる。ロロ・ジョングランでもっとも大きな建造物であり,ここから見るとちょうどよい距離がとれる。ただし,入り口のカーラが石段上部の小塔に半分隠されてしまうのが残念だ。

石段を登り一段高いところにある回廊の外側はストゥーパに似た装飾が並べられた欄楯(らんじゅん)で囲まれている。この装飾は神殿の上部にも多数置かれており,最頂部の冠石も同じ形状をしている。ガイドブックには回廊に面した外壁にはラーマーヤナの緻密なレリーフがあると記されているが,3神殿はすべて立ち入り禁止となっており,これは返す返すも残念であった。

ナーンディ堂東面

ナーンディ堂はヴァーハナ堂の中ではもっとも大きいとはいっても,本体のシヴァ神殿に比べるとずっと小さい。しかし,写真のテクニックのまずさであろうか,上のシヴァ寺院の写真と同じくらい太めに見える。実際にはずっとスリムであり,ロロ・ジョングラン(痩身の乙女)の名前はこちらの方がふさわしい。

欄楯と壁面のレリーフ

ナーンディ堂にも石段の上に回廊があり一回りすることができた。3神殿が立ち入り禁止であったため,この回廊だけを巡ることにになった。基本デザインはシヴァ神殿と同じであり,回廊の上部には一段屈折した方形の神殿本体がほぼ垂直に立ち上がっている。神殿の外壁には一面あたり横に5面,上下二層の神々のレリーフで飾られている。

ナーンディ堂の内部には牡牛像がある

ナーンディはシヴァ神の従者の牡牛であり,ヒンドゥー寺院ではしばしばシヴァ神や配偶神のパールバティを乗せた彫像やレリーフが見られる。ナーンディ堂にはいつもシヴァ神殿の方向を向いた牡牛像が置かれている。

プランバナン独特のモチーフ

神殿やヴァーハナ堂の基壇部分には独特のレリーフが見られる。このレリーフは3つの部分から構成されており,中央が獅子,その両側にはカルパタルの木(天界の木) となっている。カルパタの木の四隅にはいろいろな動物が描かれており,多くのバージョンがある。

はい,これが世界遺産ですよ

外国の観光客からするとプランバナン寺院群はすぐれた文化遺産あるいは宗教的建造物であるが,イスラム教徒のインドネシア人にとっては,自分たちが追い出した宗教の遺産ということで多少とも複雑な感慨をもつのではないかと推測する。

遺跡公園には多くの子どもたちが先生に引導されて見学に来ている。案内板の前で先生は子どもたちにこれらの建造物の背景についてどのように説明するのか興味のあるところだ。

ビシュヌ神殿かな

おそらくビシュヌ神殿と思うがシヴァ神殿以外は決め手となる特徴がないので識別が難しくなる。

足場を組んで修復工事が行われている

2006年のジャワ島中部地震による被害は現在も修復中であった。建物の形状は内部に聖室の空間をもつ細身の塔であり,地震に対してはひどく弱い構造のため,被害は大きかったことだろう。

本家のインドにおけるシカラと呼ばれる高塔を手本としているが,インドでは一部地域を除き地震が発生することはまれである。地震多発国のインドネシアでは保存の難しい建造物である。三神殿も修復中であり,一部は金属柵で囲われている。

まるでストゥーパのようだね

神殿やヴァーハナ堂にはストゥーパに似た形状の装飾が多数使用されている。敷地内の一角にはそのような部材が大量に置かれていた。縦長の半球状の本体と細い円柱状の飾りという単純な組み合わせなのでたまたま類似したとも考えられる。本家のインドでも須弥山を模したとされるシカラ(高塔)で,峰々の頂部には類似の装飾が使用されており,最上部に置かれている冠石もその大きなものと考えられる。

破損した石材を造り直す

地震で落下した石材は破損することもあり,それを補修する作業も近くで行われている。ときには構造材を補うためには新たな石材が必要になることもある。世界遺産に登録されるには一定の基準があり,このような石造建造物ではオリジナルの石材が70%以上が必要とされるという話がどこかのサイトに載っていた。

■調査中

ロロ・ジョングラン(痩身の乙女)のイメージ

遺跡公園は広大である

神像と仏像

ランブン寺院(Candi Lumbung)

遺跡公園内にはロロ・ジョングランの北側にランブン,ブブラ,セウという3つの寺院がある。周辺は芝生や林の環境に整備されており,セウ寺院まではおよそ1kmの散歩道になっている。

ロロ・ジョングランのすぐ北側にある仏教寺院のランブンは東を正面にした本堂を16基の小祠堂が取り囲む構造となっている。すでにいくつかの小祠堂は復元されており,崩れたままの本堂よりはずっと写真写りがよい。現在でも周辺では復元作業が行なわれている。

ブブラ寺院(Candi Bubrah)

ランブン寺院の北側に位置するブブラ寺院も仏教寺院であり,ほぼ崩壊した状態で放置されている。近くにはこの寺院の石材が乱雑に置かれており,復元作業は開始されていない。オランダ統治時代にはこの寺院を含め多くの石像が海外に運び出されており,仮に本堂が復元されても主のいないさびしいものになることだろう。

このように植民地時代や国家の管理が不十分であった時代に国外に持ち出された文化財は数多く,中には原産国の歴史や文化を語るうえで決定的に重要なものも多数含まれている。そのような文化財を原産国に返還することを求める動きが活発化している。その一方で貴重な文化財が博物館などにより適正に管理され,研究され,人々に紹介してきた側面もあり,難しい問題である。

半分崩れたブブラ寺院の中で「ガナ」のレリーフを見つけた。インド神話ではガナ(群衆)はシヴァ神の召使とされており,両手両足で建造物を支える姿で造形化されている。このモチーフはロロ・ジョングランでもしばしば登場しており,プランバナンでは一般的なもののようだ。

ヒンドゥー教ではシヴァ神の息子とされる象の頭部をもつガネーシュはサンスクリット語で群衆(ガナ)の主(イーシャ)を意味しており,シヴァ神の召使の主とされている。僕がこのどちらかというみにくい像に興味をもったのはバンコクの王宮寺院で同じ姿で建造物を支えるたくさんの魔人像を見ているからだ。彼らのユーモラスな表情は僕の脳裏にしっかり焼き付いている。

セウ寺院(Candi Sewu)

遺跡公園内北端に位置するセウ寺院は792年に建造された仏教遺跡である。南側のブブラ,ランブン寺院と同様に正面は東向きになっている。本堂は3重の小祠堂で囲まれており,もっとも外側のものは2列構成となっている。

東側の入り口の両側には一対のクベラ(通称はラクササ)像が門番のように置かれている。この像の内側に2重の小祠堂,その先に本堂がある。南側の寺院に比べると修復が進んでおり,原型はちゃんと分かる状態だ。しかし,本堂周辺は工事中のため立ち入り禁止となっており,ここで見ることができるのは本堂の遠景と周辺の小祠堂だけであった。

セウ寺院を囲む小祠堂

セウ寺院はシヴァ寺院に劣らない威容を誇っており,その周辺には244もの小祠堂が配されている。本堂近くのものはかなり修復が進んでおり,外壁のレリーフが美しい。この小祠堂の中には仏像(頭部が欠落しているので確かではない)が安置されていた。ガイドブックにはヒンドゥー寺院となっているが,修復にたずさわっていた人はロロ・ジョングランの北側の3寺院は仏教寺院だと言っていた。

セウ寺院付属小祠堂のレリーフ

小祠堂は方形の構造物の上に中央の大ストゥーパと四隅に小ストゥーパを置いた構造になっている。中には仏像(あるいは神像)を安置する空間をもっているものもある。

外壁には菩薩もしくはヒンドゥーの神々の像が彫り込まれており,修復されたものでけを見ているだけで大変な時間がかかる。レリーフは1面について3体の像があり,仏教の三尊像のような構成になっている。

また,中央の大きな像の上には一様にカーラが彫られている。このような小祠堂を244基も造る情熱はたいしたものだ。宗教的情熱に頭の下がる思いがする。

インドキワタノキ

ゴバンノアシ(Barringtonia asiatica)であろう

ゴバンノアシ(Barringtonia asiatica)はサガリバナ科の常緑高木である。果実は4稜があり,碁盤の脚に似ているのでこの名がついた。インド洋から太平洋の熱帯地域の海岸やマングローブが生育する潮間帯に分布する。

日本でもサガリバナの仲間ではサガリバナ(Barringtonia racemosa,サガリバナ科・サガリバナ属)がある。東南アジア一帯の熱帯・亜熱帯に,日本では南西諸島(奄美大島以南)に自生する。マングローブの後背地など川の近くに自生することが多い。 サガリバナの花は名前のように下向きに花を付けるが,ゴバンノアシは上向きの花を付ける。花は総状花序であり,花弁は白く,雄蕊が赤く多数あって非常の華やかな印象を受ける。

マンゴーの実は少し膨らみ始めている

なぜか遺跡公園内に鹿が飼育されている

遺跡公園内はなぜか一部が囲われた「鹿公園」になっていた。これはいったいどういう趣向なのだろう。ヒンドゥー教と鹿の関係で思い当たることといえばシヴァ神が鹿皮を身に付けていることくらだ。範囲を仏教にまで広げると,悟りを啓いたブッダがサルナートで最初に教えを説いたときに聞いていたのは鹿だけであったので,その辺りは「鹿野苑」と呼ばれるようになった。

その後でかって苦行を共にした出家者に教えを説き,これが初転法輪である。現在のサルナートは仏教の四大聖地として遺跡公園になっており,そこにはちゃんと「鹿公園」がある。このあたりがプランバナンの「鹿公園」の出どころであろうか。

プランバナンの小さな市場

ボゴの丘の下は緩い傾斜の水田になっている

二日目の午後はベモを使ってサリ寺院を回り,その後は歩いて「ボゴの丘」に向かった。「ボゴの丘」は遺跡公園から南に1.5kmほどのところにある小高い丘であり,ここから遺跡公園,農地,中部ジャワの自然などが眺望できる。丘に近づくと少しずつ傾斜が出てくるので水田は段差のある棚田に近くなる。

パンノキ(Artcarpus altilis)はクワ科の常緑高木であり,大きな葉は7-9裂の掌状となっている。パンノキ属の学名はパン(artos)と果実(karpos)を組み合わせてものとなっており,そのままパンの木ということになる。英語名も「Breadfruits tree」である。果実は直径10-30cm,枝先に2-3個ずつ着生する。果肉にはでんぷんが多く,蒸し焼き,直火焼きなど加熱調理して食用にされる。また火であぶって乾燥させ,ビスケット状にして保存することもできる。

ボゴの丘からの眺望

ボゴの丘に続くと思われる石段を上りつめたところで入域料10$を請求され,あきれて戻ることにした。石段の途中からでも遺跡公園周辺の眺望は得られるので,僕としてはこれで十分だ。

観光バス?

プランバナンの子どもたち

プランバナンではほとんど子どもたちの写真を撮る機会に恵まれなかった。というより,寺院巡りに忙しくて子どもたちと過ごす時間が取れなかったというのが実情だ。ここでも子どもたちは写真大好きであり,遊びを中断してポーズをとってくれた。

インドキワタノキ


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