ソロの正式名称は「スラカルタ」であり,1745年にマタラム王国の王都がソロの地に移されたことからソロと呼ばれるようになった。中部ジャワを支配していたマタラム王国は1749年にスラカルタのススフナン王家とジョグジャカルタのスルタン家に分裂している。スラカルタの王家はさらに2つに分裂し,現在のソロの町には北と南に2つの王宮が存在する。
ソロとジョグジャカルタはオランダからの独立戦争時に対照的な運命をたどることになる。独立を支持したジョグジャカルタは新生の共和国で一定の地位を保つことができたが,オランダを支持したソロは自治権を失うことになった。それでもソロは落ち着いた文化的色彩に富む町であり,僕にとっては観光化が著しいジョブジャカルタより居心地はよい。
プランバナン→ソロ 移動
宿の下の食堂で朝食をとり,通りの反対側でソロ行きのバスを待つ。5分くらいでソロ行きのバスをつかまえることができた。ソロまでの所要時間は1.5時間,途中でバスの乗り換えはあったが順調に到着した。バスを降りるとベチャの運転手がうるさいので,食堂に入りのんびりお茶を飲む。
ここでもベチャの運転手に話しかけられ,1万ルピアで宿まで行ってもらうことになった。実際にはバススタンドからミニバスが出ているので大通りの王宮近くで降ろしてもらう選択肢もあった。しかし,ルーシー・ペンションの場所を探し当てるのが大変そうなのでベチャにお願いすることにした。
ルーシー・ペンション
ベチャの移動速度は時速10kmくらいなので,街を見学するには便利だ。王宮で道が遮られたのでここを1/4周してルーシー・ペンションに到着する。ペンションは細い路地にあるのでやはり見つけるのは骨だったことだろう。1階の僕の部屋は階段の下にあり,マットレスと小さな座り机があるだけの簡素なものである。窓は無い。
ドアを開けるとこの家の居間と台所と食堂を兼ねた空間となるので,まるでホームステイをしているようなものだ。でも,この家のご主人も家族も気さくな人たちで居心地は悪くなかった。トイレとマンデーは僕の部屋のすぐ隣にある。水浴びをして小さな扇風機にあたっているととても気持ちがいい。部屋代も3万ルピアなので3日間滞在することにする。
宿の前の路地
宿の前は250mほどの狭い路地になっており,ここでは部分的ながら人々の生活に触れることができる。通りでは暗くなるまで子どもたちが遊んでおり,歓声が絶えることがない。のんびり歩いていると家の前に置かれた長椅子に女性たちが座っておしゃべりに花を咲かせている。幅4mほどの狭い路地であるが,夕涼みのため外に出ている人もけっこう多い。
木造とコンクリートの違いはあるものの,一昔前の日本の下町の路地に似た雰囲気をもっている。インドネシアにおける最小の行政単位は「カンポン」であり,ジャカルタにも家屋が密集し,それを路地がつないでいるカンポンは残されている。このようなところを歩くとインドネシアの庶民の今に触れることができる。
夕方の礼拝
宿の前の路地を東に行くと小さなモスクがある。18時前に夕方の散歩をしていると暗くなったモスクの中庭にじゅうたんを敷いて礼拝の準備をしている女の子がいる。明かりの灯されたモスクの中は3つに分割されており,中央のブロックは男性,両側のブロックでは女性が礼拝をするようになっている。しかし,女性用の空間は狭いのでこの女の子たちは中庭で礼拝するようだ。
子どもたちは普段の服装の上に礼拝用の足首まで届く長いスカートおよび頭と上半身を覆う長いスカーフを着用している。男性には特別の服装規定はないが,女性の場合はこのような服装が社会的慣習として残されている。
マンクヌガラン王宮の南半分
google map で確認するとマンクヌガラン王宮の本来の敷地は300m四方ほどのほぼ方形となっているようだが,現在は細長い建物で囲まれた150mX200mほどの範囲が王宮としての管理区域となっている。敷地の南側は空き地になっており,どこに管理権限があるのか分からない状況だ。
空き地の東端にはかっての王宮の一部であったと思われる2列の細長い建物がある。東側の道路から建物に開いている門をくぐって中に入るとそこは建物に囲まれた中庭になっており,北側には少し傾いた大きな榕樹が葉を茂らせている。そこは旧王室とは関係のなさそうな人々たちの居住区になっている。子どもたちが遊んでおり,何枚か写真を撮らせてもらう。
マンクヌガラン王宮の北半分
マンクヌガラン王宮敷地の北側は細長い回廊状の建物に囲まれており,そこには旧王室の末裔が現在も居住している。南側には池と方形の屋根の無い建物があり,この建物の構造はジョグジャカルタの王宮にあるものとほぼ同じだ。
池の中央には白鳥にしがみついている天使像がある。また,中庭には中国やヨーロッパから持ち込まれた調度品や石像が飾ってあり,良くいえば国際色豊かな,悪くいえば統一感のない構成になっている。
王宮の一部は博物館になっており,事務所で1万ルピアを払うとガイドを付けてくれる。彼女は多少日本語も話すが,英語でもいいよと言うと急に饒舌になり,いろいろと説明してくれた。残念ながら博物館内は写真禁止であり,見学したものを逐一思い出すことはとてもできない。
ジャワ様式の壁の無い建物
ジャワの建築には壁の無い建物がよく見られる。ジョグジャカルタの王宮にもこのような建築物があり,王室行事や芸能鑑賞などが行われていた。暑い気候のジャワでは壁がなく,天井のない建物は大勢の人が集まる場所として必要であったのだろう。
このような建物はマタラム王国の特色であり,それ以前の王朝時代やバリ島では見られない。大きな食堂を覗くと居住者がテーブルに着いていた。これは失礼しました。
ここのソンカは9つ穴であった
王宮の中には(おそらく直営の)土産物屋があり,おばあさんの前には立派なソンカ(フィリピンでの呼称,ボルネオ・マレーシアではジョカあるいはチョンカと呼ばれていた)が置かれていた。たまたま見かけた他のサイトでも同じような画像が掲載されており,このおばあさんは客寄せのためいつもこのようなスタイルで商売しているようだ。
この遊び道具はインドネシアからフィリピンにかけて(遠隔地ではグァムにもある)残されており,民族移動の流れを類推させてくれる。ここのものは竜のような動物の形をしており,9X2列の穴と両側の少し大きな陣地穴の構造になっている。
9X2列の穴は今まで見た中ではもっとも多く,原理的にはいくつでも同じように遊ぶことができる。フィリピンで習った遊び方は「バナウエ」を参照していただきたい。
金曜日は大礼拝の日だ
金曜日はイスラム教徒にとっては集団礼拝の日であり,大勢の人がモスクに集まることになる。宿の近くのモスクを覗いてみると,たしかにたくさんの履物が置かれていた。
ミー・スープ(汁そば)はとてもおいしい
ジャワ島はインドネシアとしては華僑が多いのでマレー料理以外にも麺類や雑炊が充実しており,ソロでも安くておいしい食事を楽しむことができた。レジ市場近くの屋台では昼食にミー・スープ(汁そば)をいただく。フィッシュ・ボールが入っており4200ルピアである。やはり,マレー料理とは異なり旨味の基本(味の素)が日本と同じなので安心して注文することができる。
ソト・トリウンドゥ(牛肉雑炊)は朝ごはんの定番のようだ
翌朝は06:30にお出かけする。マンクヌガラン王宮横の通りにはこの時間から営業している食堂があった。朝のメニューは牛肉を入れた雑炊だけである。牛肉は半煮えの状態で旨味が十分に残されている。期待通りの味で朝食には最適だ。ジャワにもこんな料理があったんだとうれしくなる。ただし,値段は8000ルピアとちょっとお高い。
ソト(牛肉雑炊)の食堂はちゃんとした建物の中にあるが,なぜか入り口のところで屋台のような給食セットからソトを容器に入れている。まるで,ずっと屋台の商売でお金を貯めて,ようやく新しい店がもてたかのようだ。
ハッジの称号
この店のソトは合格点の味であり,このように早朝から商売をしている食堂は少ないので翌日もお世話になることにした。インドネシア語で牛肉は「サピ」なのでソト・サピという料理名なのかなと思っていたら,店の壁には「SOTO TRIWINDU」と記されていた。
その下には「HAJI YOSOSUMARTO」と記されており,横には彼女の写真から加工したプレートが貼られていた。おそらく店の主人の母親か親族の女性であろう。
イスラム教徒は一生のうち一度は(経済的に可能ならば)メッカへの巡礼が義務付けられており,それを成し遂げた人には「ハッジ」の尊称が与えられる。それは本人だけではなく家族にとっても大きな名誉なのだ。このハッジの尊称をもつ女性の名を汚さないようまっとうな商売をしているようだ。
ナシ・リヴは外れであった
ソロの名物料理は「Nasi Liwe」だそうだ。バナナの葉の上にご飯と注文した具を乗せたものである。表通りにあるちょっと立派な「Nasi Liwe」の店に入る。店のおばさんに先客の食べているセットの値段を聞くと1.5万ルピアだという。
う〜ん,どうしようかと思案しているとおばさんはそのセットを作って持ってきてしまった。これは新手の押し売りだね。味は大したことはなく,個人的には値段に見合ったものではないという感想だ。
こんなものより朝食でいただいた「Soto Triwindu(牛肉雑炊,8000ルピア)」や翌日の夕食に屋台でいただいた「雷魚の照り焼き(7000ルピア)」の方がずっとおいしいと感じた。特に雷魚の照り焼きはごはん,紅茶がついており,あまりの安さに気の毒に思い1万ルピアを渡してしまった。
Psar Legi(レジ市場)
王宮から少し北に行くとレジ市場に出る。野菜,果物,乾麺,日用品などが大量に並べられており,活気がある。庶民の暮らしの一端を見ることのできるこのような市場は僕にとってはお好みの場所だ。
市場は小売りだけではなく小さな商売をしている人たちの仕入れの場所でもある。大量の品物を買って運搬する手段は市場に待機しているベチャ(三輪自転車)である。
バイクの普及が著しいインドネシアでは,バイクと荷車を組み合わせた運搬手段もあるがこちらは人は乗れない。ということで大量の品物を買った女性たちは自転車ベチャを利用する。たくさんの荷物も人を運ぶベチャのおじさんはいつも大変だ。
ここでは女性たちが荷物の担ぎ屋をしている
ここでは女性たちが荷物の担ぎ屋をしている。背中のカゴには20kg以上の野菜や果物が入っており,これは大変な労働である。背中を曲げるようにして担いでいるので,その姿勢では腰が曲がってしまう。日本の農村では現在は腰の曲がった老人は珍しいけれど,一昔前は過酷な労働により腰の曲がった人が当たり前であった。
このプルメリアはきれいだ
通りに面したところに比較的背の低い白黄色系のプルメリアの木があった。もっともよく見かけるプルメリアは花弁の根元の部分がほんのり黄色になったもので清楚な美しさに溢れている。ここのものは花弁の黄色の部分が花弁の先端近くまで広がっている。このタイプもとても艶めかしい。
土産物屋が集まる一角が新しくできていた
マンクヌガラン王宮の敷地の南側には土産物屋が集まる一角が新しくできていた。ソロも観光客を大々的に呼び込もうとこのような施設を建設しているようだ。数棟の大きな家屋はすでにできあがっており,道路側の面には伝統的な仮面が取り付けられている。現在は歩道部分の舗装工事が行われており,30cm角ほどの敷石がたくさん積まれている。
観光客の目を引くためなのか大きな木鼓(もっこ)が歩道に取り付けてあった。この丸太の長手方向の一部に穴を開け,内部をくりぬいた太鼓は日本語では木鼓あるいは割れ目太鼓という。この道具は楽器だけではなく,音が遠くまで届くことから通信手段としても利用されていた。アフリカ,南米,東南アジア,太平洋の島々で使用されており,文化の伝播だけではなく複数地域で並行発生したようだ。
まるで路面電車のようだ
北側のマングヌガラン王宮と南側のカスナナン王宮の間には大きなスラマッ・リヤディー通り東西に走っている。その道路わきに線路があり,ときどきジーゼル機関車に引かれた路面電車がやってくる。カラフルな車体にひかれて写真にする。速度はせいぜい自転車程度なので撮影は簡単だ。
カスナナン王宮近くのモスク
カスナナン王宮は東西500m,南北250mほどの敷地にある。その北側には二棟がつながったジャワ風の壁の無い大きな建物がある。ここは本来は王宮の一部であったことだろう。この建物の北側は200m四方ほどの広場となっており,西側はクレウェル市場となっている。この市場はやはり多くの人々が出入りしており活気がある。
この市場の北側にモスクがある。モスクの礼拝堂の建物もジャワ風の壁のない大きな空間をもった建物になっており,(扉が閉ざされていたため確認できなかったが)おそらくその奥が礼拝堂の入り口になっているのではと推測した。
このモスクのミナレットは一本,とても均斉のとれた姿である。最上部に設けられた展望台のような構造は詠唱台である。本来の機能はアザーンを詠唱するための場所であり,往時はムアッジンと呼ばれる人がここから独特の節回しのアラビア語で礼拝の時間を知らせる呼びかけをしていたものである。それと並行してここでは巨大な太鼓や木鼓によりアザーンを知らせていたようだ。
現在では詠唱台の周囲にはスピーカーが取り付けられ,そこからアザーンが流れるようになっている。現在の技術をもってすれば定時に録音されている内容を放送することはたやすいことであるが,どこのモスクでもスピーカーは採用しても録音を使用するような手抜きはしない。
植物繊維を編んだ土産物
カスナナン王宮の近くにはたくさんの露店が出ており,土産物が並んでいる。カスナナン王宮はソロの観光名所の一つなので訪れる人も多いのだろう。土産物の中でなにかの植物繊維を編んで作った動物などの人形が目についた。象,ライオン,龍,恐竜など多彩な動物が並んでおり目を楽しませてくれる。
クレウェル市場にはバティック(ジャワ更紗)の生地や服がこれでもかというくらい並んでいる。外側には果物屋があり,釈迦頭(バンレイシ)を買ってみた。釈迦頭は食べごろを見分けるのが難しい。個人的な経験では腐る寸前がもっともおいしく,クリームのような甘みが楽しめる。それが早すぎると固く,出来の悪いリンゴをかじっているような食感であり,甘みも少ない。
カスナナン王宮・イベントホール
カスナナン王宮の本体というべき王宮博物館は金曜日は閉館されていたた。王宮の北側にはジャワ風の壁の無い大きなイベント会場がある。ほぼ同形の二つの建物が並んでおり,その間をつないで一つの建物として利用できるようになっている。
このような建物は王室の行事などで使用されるものなので,おそらくかっては王宮の一部であったものだろう。建物の北側には大砲も据えられている。
ただし,この建物は本来のジャワ風の壁の無いものとはかなり異なっており,単純な切妻屋根になっており,天井をもち,柱も左右にあるだけだ。切妻の部分には紋様が描かれており,西洋建築の影響が強い。一つの建物の大きさは20mX37mほどもある。
クレウェル市場前の通り
イベントホールの西側は横に長いクレウェル市場となっている。ここは衣料品がメインとなっており,店はすべて建物の中に治まっている。インドネシアの伝統的なバティックは一部を除きプリントにとって代わられており,この市場にあるものもほとんどプリントである。
まあ,可愛い
売り場の一角に可愛い女の子がいた。母親はここで店を切り盛りしている。カメラを向けると,母親が「ほら,カメラを見るのよ」と女の子をカメラ目線にしてくれた。
スクー寺院に向かう
滞在二日目は「スクー寺院」を訪問した。カスナナン王宮博物館は2時間もあれば十分なので手隙の時間を利用することにしよう。
ソロから「スクー寺院」までは約36km,バスを乗り継いで行くことになる。大通りに出て市バスに乗り,東の終点のパルールに行く。ここでカランパンダン行きのバスに乗り換える。このバスはずいぶん混んでおり,しばらくは立つことになった。
街を抜けると水田が目につくようになる。標高は130mから450mくらいまで上るので,少しずつ水田に段差が見られる。カランパンダンのバススタンドでグロロッ行のコーチに乗り換える。この接続は問題なかった。おばさんんたちが買い出しに来ており,大変な量の荷物と人がコーチに詰め込まれる。これはあまりにもひどい扱いだ。
15分ほどでグロロッに到着する。時刻は09時を少し回った頃だ。バスはその先まで行くので車掌か運転手に「グロロッで降りるよ」と伝えておく必要がある。ただし,このカタカナのように発音しても現地の人にはなかなか通じないので要注意である。車掌はこの15分の区間に5000ルピアを要求した。せいぜい2000ルピアの距離なので指で2を示しても車掌は5だと言い張る。
どうやら終点まで行くと思われたらしく,最後は3000ルピアということになった。5000ルピアは日本円の50円に相当する。日本で旅行記を書いていると,10円,20円の争いには苦笑せざるを得ないが,現地に滞在しているときはけっこう真剣に値段交渉をしていた。ここから上りの道が続き,周辺の起伏の多い土地は段々畑か棚田になっている。
スクー寺院のピラミッド
グロロッのバススタンドの標高は約900m,ここからスクー寺院までは急な坂道を130mほど登らなけれならずけっこうきつかった。この区間は3000ルピアのバイタクのお世話になるべきであった。スクー寺院は道路から一段高いマウンドにあり,入り口の門から真っ直ぐの道が奥のピラミッドまで続いている。
現在は門は利用できないようになっており,横から入ることになる。15世紀にマジャパイッ王朝により建造されたヒンドゥー寺院でありながら,主神を収める神殿に相当するものが見当たらない不思議な宗教施設である。最大の建造物は上部を切り落とした形状のピラミッドであり,確かにマヤのピラミッドに酷似している。構造的にはこの上で宗教的な儀式が執り行われたのであろう。
カメの甲羅がテーブルになっている
このピラミッド状建造物も内部に聖室のような空間をもたないし,上部も数m四方のスペースがあるだけだ。そう考えるとここは寺院ではなく祭祀場のような位置づけの施設に見える。
ピラミッドの石段の両側およびその二つを底辺とする三角形の頂点のところにもう一つの大きなカメの石像がある。カメの甲羅は平らなテーブル状になっており,これらはお供え物を置くためのものであろうと推測した。
女子中学生が見学に来ていた
石畳の中央通路の周辺は芝生になっており,そこにいくつかの石像が置かれている。また,石塔にもレリーフが残されている。そこにはガルーダやガネーシュのように分かりやすい神々を除くと,ヒンドゥーの神と分かるものはなく,この地域固有の造形が並んでいる。
不思議な寺院は人気の観光地らしく,先生に引率されて中学生の一団が見学に来ていた。子どもたちはムスリムなのであろう。宗教的な意味づけは分からないまま,ピラミッドに上り,下の子どもたちとかしましく会話をしていた。
ピラミッドの上からの眺め
ピラミッドの上は数m四方ほどのなにもない空間となっている。ここから入り口の門方向を眺めると写真のようになる。建造時からのままなのか,修復によるものかは分からないが左右非対称の構成になっている。
9世紀にボロブドゥールやプランバナンの寺院群を構築してきたジャワ島の非イスラム王朝とのものとしてはずいぶん趣が異なっている。特に9世紀の建造物は対称性にこころをくだいてきたので,この寺院の非対称性は特異だ。
なんとも不思議な像が多い
周辺にあるレリーフも9世紀の建造物のレリーフに比べると題材も表現方法もずいぶん異なっており,両者の文化の間には大きな断絶があるように感じる。ガイドブックにはソロ地域特有の精霊崇拝に基づくものだという説明がある。
Jumog滝までは1kmの歩きである
ガイドブックにはここからタワンマングに抜けるルートを推奨いたいたが,どうも雲行きが怪しいので断念した。代わりに「Jumog滝まで1km」とあったので行ってみる。小さな村に滝の入り口があり,3000ルピアの入域料を払って先に進む。その手前には何軒かの簡易食堂があるので,昼食の心配はないようだ。
Jumog滝の手前に小さな滝がある
滝への道からは樹林に遮られてなかなか滝は見えない。川に出て初めて滝の全貌が見えるようになる。大きな滝は上流側にあり,少し下流側にも垂直に近い急斜面を流れ下ってくる小さな滝があり,こちらは水しぶきを浴びることなく写真を撮れる。この滝の下で4人組の女の子が写真を撮っていたので便乗する。
木性シダの並木道
大きな方の滝は滝壺周辺が水煙に包まれておりカメラには有難くない環境である。川沿いには木性シダが並木のように並び,大きく葉を繁らせている。木性シダの若芽はコゴミのように丸まっており,「風の谷のナウシカ」に出てくる「ムシゴヤシ」を思わせる。
成長すると幹は木化し高さは5mほどにも達する。ヤシと同じように成長点は幹の最上部でありそこから葉柄を出し,時期がくると根元からはがれ落ち,独特の葉痕が幹に残る。
それに対してナウシカに出てくる「ムシゴヤシ」は腐海における主要植物であり,高さ50メルテの大森林を形成する。その上部は熱帯雨林のように横に広がる樹冠をもち,全体で比較的高さの揃った林冠を形成するようだ。
これが滝の本体
木性シダが伸ばした葉の下を歩いて行くと展望台があるが,そこからでは滝の迫力はかなり減じられる。川から見ても樹木に邪魔されている。撮影ポイントまで近づき,カメラを出して急いで何枚かを撮り,タオルにくるんで水煙の領域から脱出する。滝の落差は20-30m,十分に立派なものであった。周辺は深い緑に覆われており,緑と白い水流のコントラストも素晴らしい。
マンクヌガラン王宮では踊りの稽古が行われていた
夕方,マンワヌガラン王宮に行くと30人ほどの女性たちが伝統的な踊りの練習をしていた。年齢は中学生から高校生くらいである。特別にダンサーを目指すような練習には見えない。このような伝統舞踊はジョグジャカルタのような大きな観光地でもなければプロの踊り手として生計を立てることはできないだろう。
彼女たちは一定の型を覚え,イベントのようなときに披露するのではと推定した。低い西日は壁の無い建物の中心部まで入ってきており,腰に巻いた帯のような薄い布を彼女たちが持ち上げると鮮やかな色彩が透けて見える。
歩道にバティックの店が出ていた
歩道を占拠するように土産物屋にバティックが飾ってあった。思わず派手だねえという独り言が漏れてしまった。バティックはインドネシアやマレーシアでさかんなろうけつ染の布地である。本来は布にろうで裏と表に同じ模様を描き,染めを1回もしくは複数回繰り返すことにより目的の図形を布に表現する手法である。
ろうを塗られた部分以外は染色されることになる。染色の後は熱湯でろうを溶かし落とす。ろう模様→染色→脱ろうを複数回繰り返すことにより多色染の布地が出来上がる。とても手間のかかる技法のため,現在では安価なプリント地が主流となっている。ジャワ島のバティックは古くから有名であり,日本では「ジャワ更紗」と呼ばれることもある。
お母さんが客の応対をしている
バティックの露店を開いている女性の近くには二人の子どもが手持ち無沙汰に遊んでいた。姉の写真を撮ると母親のところにいた妹を連れてきたので,今度は二人の写真を撮ることになった。姉の方は画像を見てうなづいていたが,妹の方はちらっと見ただけである。
だるまさんがころんだ
子どもたちが「だるまさんがころんだ」に似た遊びをしていた。日本ではもうこのような遊びの風景を見ることは無くなったので,とてもなつかしい思いがした。この遊びはまったく道具を必要としない。一人が鬼になり,壁や電信柱などを自分の陣地にする。他のメンバーは鬼が後ろを向いて「だるまさんがころんだ」と唱える間に少しづつ鬼に近づくことができる。
鬼が呪文を唱え終わり後ろを振り向いている間,鬼以外のメンバーは動いてはならず,鬼に動きを指摘された人は鬼の捕虜となる。残りのメンバーが首尾よく鬼にタッチすることができると捕虜を含め,鬼以外のメンバーは逃げ出す。唱える呪文は「だるまさんがころんだ」以外にも地域より多くの種類がある。この遊びは日本固有のものではなく,ヨーロッパにも類型はあり,東アジアでも多くの国で見られる。
カスナナン王宮・博物館入り口
金曜日に閉まっていたカスナナン王宮を再訪する。王宮正面の門の背後に特徴的な八角形の塔が見えるが,ここは立ち入り禁止であり,博物館の入り口はそこから左にかなり入ったところにある。入場料は1万ルピア,カメラ・チャージが3500ルピアである。いちおう王宮なので服装は常識的なものではならず,サンダル履きなどは禁止されている。ちょうど中学生の集団が入るところだったので一緒に入る。
中庭を囲む建物が博物館となっており,展示物も撮影可であった。中庭には砂が敷き詰められており,樹木も多く感じの良い空間となっている。大きく葉を茂らせた榕樹の下には井戸があり,汲み上げた水は訪問者に出されている。
カスナナン王宮・博物館展示物
カスナナン王宮の見学者はマンクヌガラン王宮よりもずっと多い。建物の構造も博物館の展示物もそれほど差はないが,地元の人たちの人気の差は歴然としているようだ。展示物は王家の財宝,文化財,馬車,武器などであり,その多くはガラスケースに納められているため写真写りはよくない。
カスナナン王宮・博物館の来訪者
博物館の奥にはもう一つの中庭と壁の無い大きな建物がある。四辺形の建物の各辺に長方形の建物が付加されている。この付加された建物には天井がついている。建物部分の床はすべて大理石が敷かれている。
中央の建物部分は一段高くなっており,その境界にはギリシャ風の石柱とジャワ風の女性像が立っている。また,付加された四辺の建物の入り口の両側にはギリシャ風の女性像が配されている。ジャワ風とギリシャ風が同居する不思議な空間である。大理石の床の範囲は立ち入り禁止なので,外側から写真を撮る。
この日は何か特別の日なのか母親に手を引かれた制服姿の子どもたちがたくさん集まっていたので記念写真を撮らせてもらう。
カスナナン王宮正面(門の裏側より撮影)
門のところまで戻ると,子どもたちが正面扉から中に入っていくことに気が付いた。この王宮でもっとも特徴的な八角形の建物は扉の向こうにあり,なんとか全体の写真を撮りたいものだと考え,近くの関係者と思われる人に内側に入りたいと申し出る。彼がチケット売り場とやり取りをしてから,お許しが出た。どうもここは見学コースには含まれていないところのようだ。
中に入ると灯台のような建物の全貌が現れた。下部には窓もなく,目的の分からない建物である。ガイドブックにはバグン・ソンゴブオノ(世界の塔)と呼ばれており,年に一度,王が最上階の部屋で南海の女神と会っていたという怪しげな逸話が記載されている。実際にはオランダ軍の動向を確認する見張り塔であったとされている。
子どもたちが踊りの練習をしている
ここにも壁の無い建物があり子どもたちが踊りの練習をしている。昨日のマンクヌガランの踊りに比べると動きが速い。周辺には何人かの母親が見学している。練習が終わり,子どもたちは小さな集団になっておしゃべりの時間になったので,一つの集団にオリヅルを教えてあげる。母親の誰かにこの様子を写真に撮られた。写される方には慣れていないので,ちょっと動きが硬くなる。