ボロブドゥールはジョグジャカルタの北西42kmのところにある世界最大級の仏教遺跡である。自然地形を生かし,その上に建造されたピラミッド状の構造物は6層の方形基壇と3層の円形基壇から構成されており,方形基壇の回廊にはすき間なく仏典に基づくレリーフが刻まれている。
ヨーロッパでは文字の読めない人々のため,しばしばキリスト教説話を聖堂壁面にレリーフで表しており,ボロブドゥールはその仏教版のようにも感じられる。
ボロブドゥールの位置するケドウ盆地は豊かな火山灰地であり,人口稠密なジャワ島でこのような巨大遺跡が1000年も忘れ去られたという事実はにわかには受け入れられない。多くの謎に包まれた遺跡を日の出の時間からしっかり見るため,遺跡公園のすぐ外側にある村で1泊することにした。
ジョグジャカルタ→ボロブドゥール 移動
06:30にチェックアウトする。通りにはベチャやバイクタクシーおじさんが待機しており,バスターミナルまでの料金を聞くと2万ルピアだという。彼らはどこに行くにしてもまず2万と答える。そこから交渉を始め,1万くらいに落ち着かせようとする考えのようだ。市バスは2500ルピアなので問題にならない。東側の通りに出るとNo.5の市バスがやってきた。「テルミナルG1」と告げると乗れのサインが出たので乗り込む。
約10分ほどでバスターミナルに到着する。ここは市バスと長距離バスに分かれており,長距離の方は200ルピアの施設使用料が徴収される。ボロブドゥール行きはすぐに見つかった。その隣はソロ行きである。ジョグジャカルタからローカルバスでボロブドゥールに向かう観光客はほとんどいない。道路状態はとても良いので1.5時間程度で到着する。
チトラ・ラサ(なぜか写真が無い)
バスから降りるとコミッション目当ての馬車屋がうるさくつきまとってくる。向かいのチトラに行くと言っても,別のホテルを紹介するとしつこく繰り返すので勝手に歩き出す。ところが目指すチトラが見つからない。それもそのはずである,通りに面したところはパソコンを並べたプリントショップになっており,宿はその裏手にあった。
部屋はシングルが5万ルピア,ダブルが6万ルピアと説明され,気持ちの良い2階のダブルを選択した。部屋は6畳,2ベッド,トイレ・マンデー付きで清潔である。中庭には洗濯場があり,ありがたく使用させてもらう。
バオン寺院に向かう
ボロブドゥールの朝日を見たかったので,見学は明日にすることにして,バオン寺院とムンドゥッ寺院を見学に行く。ボロブドゥールから直線距離でそれぞれ2km,3km離れた2つの寺院は直線状に並んでいることからボロブドゥール遺跡群に含まれている。
個人的にはこの直線の延長線上約25kmのところにムラピ山があることに注目したい。ムラピ山はボロブドゥールの上からも日の出の方角に見えるるので,ボロブドゥールが後述する「巨石文化の山岳信仰に基づく石積基壇遺構に仏教装飾を追加したもの」とする学説に符合する。
とりあえず往きは写真をのんびり撮りながら歩くことにする。道路には人を運ぶための馬車が走っているがさすがにこれは観光用だろうと思ったが,村人にとっては立派な交通機関なのかもしれない。。
周辺の農家はこのような構造が多い
この地域の農家は屈折傾斜の屋根をもつものが多い。緩い傾斜の屋根の上部に急勾配の屋根が乗っている。この構造の目的はよく分からない。二階部分が欲しかったのか,明かりとりの窓が必要だったのか不思議な構造になっている。
軒先の装飾(魔除け?)
軒先にはヒトを模った像が何体か並んでいる。この像の目的も皆目分からない。
バオン寺院全景
バオン寺院に着くとすぐに土産物屋のおばさんがやって来て売り込む。僕はまったく買うつもりがないのに日本語で「これ安い・・・2つで10万」と繰り返し一方的にまくしたてられて断わるのに苦労する。インドネシアの中でももっともしつこい物売りにげんなりである。
この寺院はシャレインドラ王朝時代のものでインドの祠堂の形式をもっている。1903年にオランダが修復しており,そのときは崩壊寸前の状態であったという。確かに外観をざっと眺めても修復時のものと思われる新しい石材がけっこう多いことが分かる。上部には中心の大ストゥーパを囲むように8体のストゥーパが立っている。寺院としての内部構造をもっているが,仏像はすでに失われている。
外壁のレリーフ
側壁部の上面図は基本的に方形であるが,各辺の中央に凸部をもっている。この屈折形状はボロブドゥールの方形基壇と同じである。各面は中央に凸部をもっているので3面構成となっており,中央には聖樹カルバタール,天女,半鳥人を題材にしたレリーフを置き,その両側に人物のレリーフがある。中央レリーフの上部には明り取りのための小窓がしつられてある。また入り口階段の左側面にもレリーフが残されている。
側壁の上部を支える構造は持ち送りという上の石材を少しずつ内側に出していくという方法がとられている。西洋を代表するローマ建築の技術的真髄ははアーチであり,それから派生したヴォールト(かまぼこ型の屋根),ドームであった。しかし,同時期のインドではアーチは導入されず,同じ石造りの建造物でもずいぶん感じが異なる。
プロゴ川に架かる橋
バオン寺院とムンドゥッ寺院の間にはプロゴ川とエロ川が流れている。このうちプロゴ川に架かる橋は車の通行が可能な新しい鉄橋と自転車と歩行者のための旧い鉄橋が隣り合っている。橋脚は中央部に1ヶ所だけある。
アーチ型と吊り橋を除くと鉄橋は大きくガーダー橋とトラス橋に区分される。ガーダー橋は箱状の橋桁で荷重を支えるものであり,トラス橋は三角形に組んだ鉄骨により橋げたを補強したものである。武骨な鉄骨が橋桁を補強するトラス橋はいかにも鉄橋という感じがする。日本ではあまり見られなくなっており,コルカタのハウラー橋を見たときはかなり感動したことを覚えている。
気根がカーテンのように下がっている
ムンドゥ寺院は道路から見えるところにあり,その手前には巨大な榕樹(ベンガルボダイジュ,ガジュマル)がまるですだれのように多数の気根を伸ばしている。道路から見るとすだれに半分隠された寺院という構図になる。観光客が多いのか,土産物屋はこちらの方がずっと多い。
寺院を囲む広場の道路側に巨大な榕樹(ベンガルボダイジュ,ガジュマル)の大木があり,たくさんの気根が地面の近くまで根を下ろしている。その様子はまるですだれのようだ。ムンドゥッ寺院に到着した時もこのすだれの向こうに寺院が見える構図となっていた。
僕はちょっとまぎらわしいのでベンガルボダイジュ(Ficus benghalensis)という呼称はなるべく使用しないようにしている。この名称は釈迦がその木の下で悟りを拓き仏教の聖樹となっているのはインドボダイジュ(Ficus religiosa)と混同されそうであるからだ。また,日本語のガジュマル(Ficus microcarpa)は類縁種であるものの異なった植物であり,結局,無難な中国語の榕樹を使用することが多い。
ムンドゥッ寺院全景
ムンドゥッ寺院はバオン寺院より規模は大きいものの基本構造は同じだ。方形の基壇の上に寺院を乗せている構造はバガンのタッビニュ寺院に類似している。この日は曇り空のため寺院の全景写真は陰影の乏しい平面的なものになってしまい残念だ。
外壁レリーフ・寺院南側壁
ムンドゥッ寺院の入り口は一見アーチのように見えるが,よく見ると持ち送り構造になっている。側壁はバオン寺院と同様に各面は中央に凸部をもつ3面構成となっている。往時はこの3面にレリーフが刻まれていたが,写真にあるもっとも状態の良い南面以外のものは破損がひどくて内容はよく分からない。
外壁レリーフ・鬼子母神(きしもじん)
それに対して基壇側面のレリーフは保存状態がよい。北面には「鬼子母神」のすばらしいものが目についた。彼女の抱いているのが末子である。鬼子母神(ハーリティー)は多くの子どもの母親でありながら,他人の子どもさらって食べてしまう恐ろしい夜叉であった。ブッダは彼女の行いを正すため,彼女のもっとも愛していた末の子どもを隠し,子を失った母親の苦しみを悟らせた。
ハーリティーは行いを改め,深く仏教に帰依し,仏法の護法善神となり,子どもと安産の守り神となった。鬼子母神がザクロと結び付けられるのは,ブッダが子どもの代わりに人肉の味のするザクロを食べることを勧めたという仏教説話に基づいている。しかし,単純に中に多くの種を持っている果実が子孫繁栄に結びついていると考える方が分かりやすい。
外壁レリーフ・毘沙門天(びしゃもんてん)
南面の「毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)」のレリーフもすばらしい出来栄えである。毘沙門天は天部の仏神であり,持国天,増長天,広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神である。天部とは何かを説明するのは難しい。仏教において信仰の対象となるものはその由来により「如来部」,「菩薩部」,「明王部」,「天部」の4つ分類される。
天部(サンスクリットではデーヴァ)はバラモン教の神々が密教に取り入れられ,仏の守護神である護法善神となったものである。つまり,天部とは本来は仏教とは無関係であったインドの神々が仏教の中に神格をもって入ってきたものであり,その中には夜叉や羅刹といった鬼神から転じたものもある。北面の鬼子母神の夫は毘沙門天の配下であり,南面と北面のレリーフはそのような関係で描かれているようだ。
内部には三尊像が安置されている
この寺院は日本の仏教関係者が「世界でもっとも美しい仏像の一つ」と驚嘆した三尊像がある。ヒンドゥー教が主要な宗教であったジャワ島は15世紀末から急速にイスラム化していく。偶像崇拝を禁止しているイスラム教徒が多数派を占めるようになってから500年が過する中でこのような仏像が無傷で残されたことは驚きに値する。
仏像は中央に釈迦牟尼仏,左が観世音菩薩像,右が金剛手菩薩とされている。しかし,明かり取りの窓が無いため内部は写真の撮れる明るさではない。失礼してフラッシュを使用したが,「世界でもっとも美しい仏像の一つ」とされる三尊像の素晴らしさをご紹介できないのは残念だ。
明日はムラピ山からの日の出が見られるかな
この辺りは見通しのきくところではどこからでもムラピ山を見ることができる。写真のように整った成層火山であり,夏の富士山ととてもよく似ている。標高は2968mである。ムラピは「火」を意味しており,「Gunung Merapi」は火の山ということになる。ムラピ山はインドネシアでも最も活動的な火山で,1548年以来68回噴火をしている。
安山岩質の溶岩ドームが崩落する際に火砕流を起こすことで知られおり,しかも火山のごく近くにまで村があるため,爆発規模はVIE=3-4 程度にも関わらず1000人以上の死者を出した噴火も数回発生している。この火山の噴火がボロブドゥールを火山灰で埋めたという説もあるが,VIE=3-4程度の噴火では30kmほど離れた巨大な構造物を埋めてしまうには無理がある。
こんなところでスズメバチが巣作りをしている
夕方の散歩から戻り蛍光灯を点けてベッドに横になっていると蛍光管の端にアシナガバチかスズメバチの小さな巣があることに気が付いた。2匹のハチが巣の手入れをしている。
宿のおばさんは片言の英語しかできないので,現物を見てもらった。おばさんは僕の荷物を隣の部屋に移し,先の平たい竹ざおで巣を削り取った。それでも2匹のハチは部屋から出ないので,灯りを消してドアを閉めた。結局,隣の部屋で寝ることになった。
ボロブドゥールの構造と
西ジャワに残るグネン・パダン遺跡の関連
ボロブドゥールは自然の丘を整地して,その上に切石を積み上げた(空積み)の構造となっている。使用された安山岩や凝灰岩の切石の個数は200万弱,容積は5.5万m3とされている(wikipedia)。最下層が「隠された基壇」となっているのは,上部の重量の一部が水平方向の力に変わったため,当初設計の基壇の外側に石材を付加したと考えられている。
ボロブドゥールは隠された基壇の上に5層の方形基壇があり,さらにその上に3層の円形基壇を置く9層の階段状ピラミッド構造となっており,最上部は巨大ストゥーパが置かれている。6層の方形基壇は相似形であり,完全な方形ではなく各辺が屈折しており,正確には18角形となっている。9層構造は3つのブロックに分けられており,各ブロックの高さの比は下層から4:6:9となっている。
一般的に「ボロブドゥール寺院」と呼ばれているが,この建造物は外から見えるものがすべてであり,内部空間はもっていない。そのため,僕の中では寺院と呼ぶには抵抗がある。しかも,ジャワ島ではこのようなピラミッド状の仏教建造物はボロブドゥールが唯一無二であり,この地に突然現れ,その後も大小を問わず,同様の建造物は残されていない。
ボロブドゥールはシャイレーンドラ朝(8世紀後半-9世紀前半)の時代に建造された。全体の規模と完成度から考えると綿密に設計され,少なくとも50年ほどの時間が必要であったと考えられている。wikipedia には二期に分けて建造されたとなっている。
シャイレーンドラ朝は大乗仏教を信奉しており,それはインドあるいはスリランカから伝来したものであろう。伝来したのは仏典だけではなく,寺院や僧院のような宗教建築物の様式も同様にもたらされたことだろう。
にもかかわらず,この地でまったく類例のない構造の宗教建造物が誕生したのは,ジャワ特有の背景があったからとする学説も多い。それは,ヒンドゥー教や仏教が伝来するはるか以前にジャワ島にも存在した巨石文化の山岳信仰に基づく石積基壇遺構である。
その一つが西ジャワ州の「グヌン・パダン遺跡」である。この遺跡は尾根の高低差を利用した階段状の5つのテラスをもっており,その周囲は柱状節理により柱状になった玄武岩を立てて囲んでいる。最上部のテラスは谷を挟んで先祖の霊が宿っていると考えられた山を望むようになっている。
このような巨石文化はスマトラ島やジャワ島に残されており,中にはピラミッド構造のものもある。ボロブドゥールから仏教に係わる要素を取り除くと,ジャワ島の山岳信仰の形が残される。ピラミッドの頂点から望む山はムラピ山ということになる。
上記のようにボロブドゥールが「巨石文化の山岳信仰に基づく石積基壇遺構」に仏教装飾を追加したものと考えると納得のいくことが多い。日本の研究者の中には奈良頭塔(階段状ピラミッドの形態をもち,かつ内部空間をもたない仏教遺跡)などにも影響を与えたとする論文もある(坂井 隆)。
ボロブドゥールの構造のところで触れた3つのブロックは仏教の「三界(欲界,色界,無色界)」を表すとされている。「欲界」とは淫欲と食欲の2つの欲望にとらわれた人々の世界であり,最下層の隠れた基壇に彼らの表情が描かれている。
「色界」は2大欲望は超越したがまだ欲望や執着が残されている世界である。「無色界」とは一切の欲望や執着を超越した世界であり,仏教における最高の境地とされている。
ボロブドゥールから見る朝日
05:30,ボロブドゥールから朝日のムラピ山を見るため早起きをする。昨夜の雨は上がり,天候は回復しつつある。これなら朝日が期待できそうだ。宿のおばさんにお湯をもらい,朝食のカップメンをいただく。ボロブドゥール遺跡公園は1km四方ほどの広さをもち,その一角に駐車場エリアがある。06時に外と通じるゲートが開き,チケット売り場で12$(12万ルピア)のチケットを買う。
ボロブドゥールの下部に着くとムラピ山がきれいな薄紫色のシルエットになっており,望外の写真を撮ることができた。早朝の入場者の多くは最上部の大ストゥーパからのムラピ山とケドゥ盆地の眺望を楽しみ,思い思いに写真を撮る。確かにそれはボロブドゥールのハイライトの一つである。
無色界の大ストゥーパとストゥーパ群
西側から見るとボロブドゥールの最上部にそびえる大ストゥーパが巨大なシルエットになる。ボロブドゥールの構造で説明したように3つのブロックの高さの比は4:6:9となっている。その比率で計算すると遺跡修復後の高さは33.5mになっているが,建造時は42mであったと推測される。この差は大ストゥーパの頂部が欠落したためであり,往時は頂部の石組みはあと8.5mほど高かったと考えられる。
大ストゥーパには周辺のものとは異なり内部は覗けない構造になっている。実際に内部には仏像は置かれておらず,wikipedia では「大乗仏教の真髄である『空』の思想を強調しているとされ,ジャワ仏教の独自性が示される」と説明されている。
「無色界」は全体として4層構造となっており,中央の大ストゥーパを三層構造になった72基のストゥーパが三重円を描くように並んでいる。ストゥーパの一部は石材が格子状に積み上げられており,中に置かれている仏像を覗き見ることができる。中には格子状の部分が無く,仏像がそのまま露出しているものもある。
無色界から下は方形基壇となっており,その四辺中央には上下するための階段が設けられている。全体構造は四面が対象的に造られており,どれが正面とはいえない構造になっている。下から方形基壇にある4層の回廊を回りながら,登りきるとそこにはストゥーパが整然と並ぶ無色界となる。
このような構造は欲望に満ちた下界(欲界)から欲望を捨て去った色界,さらにはあらゆる執着から超越した無色界に至る修業の道のりを表すとともに,レリーフにより視覚化することにより,文字の読めない在家の人々にも仏典を理解してもらえるようにする意図があったと考えられる。また,全体が仏教の宇宙観を造形化した立体曼荼羅になっているという考え方もある。
無色界から見た色界
無色界から下の色界を見るとこのように見える。回廊の上部は高低はあるもののすべてストゥーパとなっている。ジャワ島に存在した巨石文化の山岳信仰に基づく石積基壇遺構であるグネン・パダン遺跡ではマウンド状のテラスを石柱で囲んだ構造になっており,ボロブドゥールの色界のストゥーパを石柱に置き換えたみるとその類似性がよく分かる。
4層の無色界は円形の基壇となっているが,色界から下は方形の基壇となっており,各辺は3段に屈折している。このような屈折した基壇構造はインドのマイソール近郊のヒンドゥー寺院でよく見られる。また,カトマンドゥのボダナートにある大ストゥーパの基壇も2段の屈折した方形基壇となっている。方形基壇の屈折構造はインド宗教建築では珍しくない。
回廊の壁龕(へきがん)にある仏像
この屈折構造のため方形基壇の回廊は端から端までを見通すことはできず,参拝者はいくつもの角を巡ることになる。回廊から見上げると上部には仏像を収めたたくさんの構造物がある。このような構造物は壁龕(へきがん)というらしい。聞いたことが無い言葉なので辞書で調べてみると「ニッチあるいはアプスを小さくしたもの」とある。一般的には壁から外に突き出した半円形の内部空間を意味するらしい。
アプスはキリスト教会の聖室であり,後陣と訳される。東方教会ではそこは聖職者だけが立ち入ることのできる空間となっている。ボロブドゥールの場合は壁に設けられたものではないが,その構造から壁龕と呼ばれるようだ。ボロブドゥール全体では432の壁龕があり,それぞれ一体の仏像が収められているが,頭部を欠いたものも多い。
第三回廊を埋めるレリーフ
僕にとっては朝日のムラピ山以外にもう一つの楽しみは回廊を埋めるレリーフである。アンコールワットを訪問した時は回廊のレリーフを丁寧にサンプリングしなかったため,あれを撮っておけばよかったと悔いが残った。今回は少なくとも第一回廊の仏伝図と釈迦本生譚はすべて撮る意気込みで臨んだ。各回廊のレリーフ群は次のようになっている。
第一回廊:上段は釈迦の生涯120面
下段は本生譚(前世の物語)
第二回廊:善財童子の巡礼物語128面
第三回廊:善財童子の巡礼物語88面
第四回廊:仏陀72面
吐水口
早朝は気温が低いので元気に第一,第二回廊を歩き通し,目的の写真を撮ることができた。ときには回廊のレリーフから顔を上げ,上層部の仏像を眺めていた。ところどころには吐水口が設けられている。吐水口は想像上の生き物の彫刻で飾られており,その機能は回廊に溜まった雨水を速やかに下層基壇に排出するためと考えられるが,取り付け場所が少し高いところにあるので単なる装飾となっているのかもしれない。
回廊に溜まった水は四面の階段から直線的に下方に流れ下るようになっているが,吐水口から下の回廊に一段ずつ流れ落ちるようになっていると,一層の風情があるだろうと想像する。このような構造はヒンドゥー寺院の外壁にもあり,そこからは聖なる水が出るしかけになっている。
第二回廊を埋めるレリーフ
善財童子の巡礼物語とされているが内容は不明。
第二回廊を埋めるレリーフ
善財童子の巡礼物語とされているが内容は不明。
壁龕の無い仏像
本来は壁龕に収まっているはずの回廊上部の仏像がむきだしとなっている。よく見るとそのような状態のものがけっこう多い。ボロブドゥールは密林に覆われていた状態で1814年にイギリス人のトーマス・ラッフルズ(当時ジャワ総督代理)とオランダ人技師コルネリウスによって発見された。遺跡が土砂で覆われた原因は火山の降灰によるものとする説とイスラム教徒による破壊をおそれて人びとが埋めたという説がある。
発見時はかなり崩れた状態であり,石材の一部は持ち出されていた。1850年代の発掘調査によりほぼ全貌が分かるようになったが崩落の危険性があるため埋め戻された。1900年代の初めにオランダ政府により復元工事が行われている。
下から見上げると
しかし,インドネシア独立後には再び崩壊の危機にさらされ,ユネスコ主導のもと1973年から10年の歳月と2,000万ドルの費用をかけて全面解体・修復工事が行われた。不足していた石材も一部は追加されたが,壁龕の無い仏像のように発見時の状態を保持しようとする部分もある。
インドネシアにおける仏教徒人口は0.4%にすぎない。そのためボロブドゥールをインドネシアの国民的宗教財産であるとした1984年のスハルト大統領の演説はイスラム教徒の反感を買い,1985年に過激派が上部のストゥーパの一部を破壊している。下から見上げるとボロブドゥールは世俗の争いなどを超越した姿を見せている。
隠された基壇
ボロブドゥールの最下層の基壇はその外側に置かれた石材により隠されている。当初の設計では「隠された基壇」も外部から見える構造であったが,上部の建造が進むにしたがい,重量の一部が外向きの水平方向の力となり,最下層の基壇では支えられなくなった。そのため,外側に補強のために石材が追加された。
このため,最下層は本来の意図とは異なり「隠された基壇」となってしまった。1973年からの大修復時にこの基壇の一部は見えるようにされ,ボロブドゥール全体の基本思想である仏教の三界思想が目に見えるようになっている。以下は第一回廊の上段レリーフに描かれた釈迦の生涯120面のうちから日本でもなじみの深いものを紹介する。