亜細亜の街角
1955年にアジア・アフリカの首脳はこの町に集まった
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バンドン  (地域地図を開く)

ジャカルタから東南に200km,標高768mの高原にあるバンドンは年間を通して涼しい気候に恵まれている。現在の人口は200万人を超え,ジャカルタ,スラバヤに次ぐ大都市である。多民族国家であるインドネシアには公式には民族という概念はなくすべてがインドネシア人となっている。

国語はインドネシア語であり,それ以外にも多数の「地方語」が認められている。インドネシアの民族をあえて考える場合は「地方語」がキーになる。最大の話者数をもつ地方語ジャワ語であり彼らはジャワ人と呼ばれる。次に大きな言語グループはスンダ語で彼らはスンダ人と呼ばれている。ジャワ島の中でも西部はスンダ語を使用するスンダ人が多く,バンドンはその中心地となっている。

パダン(10:15)→ジャカルタ(12:00) 移動

フライトは10:15なので06時前から宿の前のバス停でミナンカバウ国際空港行きのバスを待つ。新空港はパダンとブキティンギの中間地点にあり,距離は45kmほどある。宿で06:30のバスがあると教えられた。しかし,30分が経過しても見つけられなかった。さてどうしようと思案しているとタクシーが止まった。空港まで5万ルピアで行くという。通常の料金は10万なのでこれは魅力的な申し出である。

怪しげなタクシーではなく,どうやらブキティンギに戻る車のようだ。このタクシーは途中で2人の客を拾い,乗り合いタクシーのようになった。空港はさすがに遠く,不安になる頃にようやく標識が目に入った。 07時に到着したのでさすがにチェックインには早すぎる。出発ロビーにはイスが用意されていらず,乗客は建物の外のイスで待つ仕組みになっている。

藍色の空

僕は2時間前にチェックインを済ませた。 航空会社はライオンエア,インドネシアの格安航空会社である。パダン→ジャカルタの料金は36万ルピアと確かに安い。空港税の4万ルピアを払い搭乗待合室に入る。 乗客は便名の表示が出るとカウンターで搭乗券の氏名と身分証明書(IDカード,パスポート)を照合してもらいサインをもらう。

高度が上がり,綿雲の上は深い藍色の空となる。ジェット旅客機の飛行高度は約10km,そこは対流圏(厚さ12km)の上限に近く,その上は成層圏である。太陽光は大気中の分子や光の波長より小さい微粒子にぶつかり散乱し,このとき青のように波長の短い光が強く散乱されるので地上からは空が青く見える。青より波長の小さい紫や藍色はより散乱されやすいので高高度から見る空は藍色が強くなる。

消えるスマトラの低湿地林(泥炭湿地林)

スマトラ島の東海岸は泥炭湿地林となっており,その面積はスマトラ島全体の1/4にも及ぶ。一般的に熱帯の森の土壌は貧弱である。枯れた植物は旺盛な分解系生物の活動により速やかに分解され,他の植物に再利用されるためである。しかし,湿地のような環境では分解速度はずっと遅くなり,分解されずに残った植物体は泥炭化していく。そこには膨大な量の炭素が固定されている。

泥炭湿地林は最後まで開発に抵抗していたが,今では信じられない速度で破壊が進んでいる。開発により湿地は排水され,乾燥化した泥炭は速やかに分解され,大量の二酸化炭素が排出される。森林破壊を含めるとインドネシアは世界で3番目の二酸化炭素排出国となる。雲間から見えたスマトラ東部には整然と区画された土地が広がっていた。

スンダ海峡に出る

スマトラ島とジャワ島を隔てるスンダ海峡に出たのでクラカタウ島を探したが,80kmほど離れておりまったく視認できない。現在のクラカタウ島は4つの島からできているが,6万年前は高さ2000mの大きな火山島であった。この火山島は大噴火により消滅し,一部の外輪山が島となっている。1883年の大噴火以前は3つの火山をもつ大きな島と,周辺の2つの島からできており,最高峰は800mであった。

1883年の噴火の規模は「スミソニアンカタログ」ではVEI=6となっており巨大噴火であった。最近のVEI=6クラスの噴火には1991年のピナツボがある。火砕流は40km離れたスマトラ島に達し,噴火で引き起こされた津波(高さは記録されていない)による死者は36,000人となっている。左の現在のクラカタウの航空写真はwikipediaより引用させていただいた。

ジャカルタ到着(12:00)

ジャカルタ空港で円の両替のため,両替所を探したが国内線のターミナルにはないようだ。空港から市内まではシャトルバスが運行されている。空港ターミナルから出て道路を横断したところにバススタンドがあり,チケットを買うひまもなく停まってくれたバスがガンビル駅行きだったので乗り込む。

ガンビル駅は空港とシャトルバス(2万ルピア)で結ばれており,ジャカルタからボルネオ島のバンジャルマシンに飛んだ時にも,このシャトルバスで空港に移動した。所要時間は交通事情に左右され,今回は45分であった。

ジャカルタ・ガンビル駅(13:30)→バンドン(16:30) 移動

ガンビル駅には各駅停車の近郊列車が停車せず,長距離の特急・急行だけが停車するようになっている。短距離客と長距離客を分離し,混雑を緩和しようとしている。北側のコタ駅を始点とする鉄道はしばらく高架鉄道となって南に向かう。ガンビル駅の乗り場も2階(3階)にある。

ガンビル駅での待ち時間は40分しかない。あわただしく昼食をとり,発車15分前にバンドン行き(2.5万ルピア)の列車に乗り込む。ジャカルタ→バンドンの特急・急行は便数が多いので2等なら事前にチケットを手配する必要はない。車両はおそらく日本の中古品であろう。車内は扇風機が回っており,窓は上部の1/3が開くようになっている。これは外の風景を撮るのにとてもありがたい。

ジャカルタとバンドンの距離は約140km,標高差は700mある。ジャカルタを離れると一面の水田地帯となる。ジャワ島の面積は12.7万km2,人口は1.24億人である。日本の1/3の面積の島に日本と同じ人口が集中しており,人口密度は981人/km2となっている。一部の都市国家を除き,これほど人口密度の高い島はない。

しかも,東西1000kmのジャワ島の中央部には3000mを超える火山が連なっており,平地は限られている。この島がこれほどの人口を養うことができたのは火山性土壌と適度な降水量のおかげである。火山噴出物には豊富なミネラルが含まれており,これが生産性の高い農業を支えてきた。スマトラ島東部やボルネオ島の人口がはるかに少ないのはひとえに農業生産性が低いためである。

標高が上がっていく

棚田の風景

標高が上がると平地の風景からなだらかな山並みの風景に変わっていく。そのような中でもわずかばかりの平地や緩斜面は水田となっている。傾斜の緩いすり鉢状の地形では底から斜面の半分くらいまでは棚田となっており,斜面の上部には森が残されている。

人口密集地では生産性の向上は重要であるが,生産の持続性はさらに重要である。この持続可能な農業形態が慣習法により守られてきたので,ジャワ島では1500年にわたり,多くの人口を扶養することができた。高原地帯にも規模は小さくなるものの平地があり,そこも一面の水田となっている。

バンドン駅に到着

バンドン駅は平面構造で南口と北口は線路を横切って通行するようになっている。雨にそなえて通行帯の上にだけ屋根がかけられている。

Arimbi-3

列車から降り,通行帯を通り安宿のある南口に出る。ホテルの客引きがスラバヤは閉鎖されたと教えてくれたので,Arimbi 3 に泊まることにした。

部屋は3畳,1ベッド,トイレ・マンデーは共同,まあまあ清潔である。料金は5.5万ルピアと設備に比して高い。近くにはArimbi 1 があり,こちらは外観とフロントからするともう少し程度は良さそうだ。駅の南側は再開発のためか,Arimbi 以外の安宿は見当たらない。

Arimbi-1

チパナス温泉から戻ってきたときはHotel Arimbi 1 に宿泊した。部屋(5.5万ルピア)は4.5畳でトイレ・マンデー付きで清潔である。同じ料金でもHotel Arimbi 3 よりはかなり程度は良い。

バンドン駅南口

バンドンの町は鉄道線路により北と南に二分されている。旅行者が立ち寄るエリアはほとんど南側にある。南口の前は大きなロータリーになっており,その中央には小さな蒸気機関車が展示されている。かって日本で活躍していた蒸気機関車に比べるとまるでおもちゃのようなものだ。ダージリンを走る山岳鉄道はトイ・トレインと呼ばれており,その機関車と同じくらいの大きさだ。

インドネシアの鉄道は17世紀からのオランダ統治時代にコーヒー,ゴム,砂糖などの植民地作物の運搬のために敷設されており,ゲージ(線路幅)もまちまちであった。この機関車はその頃のものであろうと推測する。

バンドン駅北口

北口はきれいに整備されており,低層階の駅舎はとてもインドネシアらしい雰囲気をもっている。町の商業地区は南側にあるので,北口はいわば裏口になるのだが,近代的なビルの南口に比べるとずっと落ち着いた雰囲気が好ましい。

日系の食堂がある

南口の駅舎内には日本の「ほか弁」の出店があり,これにはちょっと驚いた。清潔そうな店内の奥にメニューが飾ってある。弁当タイプ,トリ丼セット,ABCDという4種類の定食,シーフードなどの文字が読める。定食は1万ルピアとインドネシアの安い食堂と同じレベルなので2回利用した。

盛り付けも味付けも日本と同じであり,このスタイルでインドネシア人に受け入れられているようだ。ジャカルタから到着したときはその日の最初の食事であった。とてもおいしくいただいてしまい写真は撮り忘れた。ジョグジャカルタへの移動日は06時台にもかかわらずちゃんと営業していた。一口食べたところで写真のことを思い出し,チキンカツ定食を写真に収める。

夕食は羊の串焼き

宿の周辺には食堂がたくさんあり,そのほとんどが串焼き屋である。夕食はそのような店で羊の串焼きをいただく。ごはんと串焼き5本で1.4万ルピア(140円)であり,まあまあの味であった。羊の串焼きは中国西域で毎日のように食べていた。ウイグル人の食堂や屋台で炭火であぶっている良い匂いがしてついつい手を出してしまう。

日本ではある種の臭みのため羊肉は敬遠されるが,ジンギスカンのようにスパイシーなタレを使用するとすばらしい味が楽しめる。中国西域では長い羊肉食文化の中でスパイスに磨きをかけており,串焼きのマトンは臭みがまったく感じられず,ジューシーなおいしさ楽しめる洗練された味である。店により串の長さと肉の量が異なり,小は1元(15円),特大は3元であった。小食の僕では特大の2本は多すぎる。

子どもたちの遊び場がある

壁画が多い

駅の東側を南北に走る「Jalan Otto」通りを南に歩く。この通りの正式名は「Jalan Otto Iskandardinata」と長い。「イスカンダル」は宇宙戦艦ヤマトですっかり有名になったが,アラビア語のアレクサンドロス(アレクサンダー)大王のことである。アレクサンドロスは西アジア地域でも英雄として記憶されたため,男性名として広く使用されている。

ところが,本来は「 Aliskandar」のつづりであったものが,アラビア語では「Al」は定冠詞となっているので(誤って)省略され,「iskandar」となったらしい。「イスカンダル」は地域による変化を受けつつもイスラム世界に広まっている。この通りの歩道はずっと壁が続いており,さまざまな絵が描かれている。絵柄からして地元の中学生や高校生の作品のようだ。

跨線橋からの眺望

道路はひどく混雑している

「Jalan Otto」を南に行き「アジア・アフリカ通り」を目指す。この大きな通りはバンドンの南北を結ぶ幹線道路にはなっていない。鉄道線路のところで分断されているのだ。500mほど東側では線路が高架になっており,南北道路はつながっている。この通りの先にはパサール・バルという大きな商業施設があるためか交通量は多い。そのうえ,たくさんのアンコタが駐車しており,道路を狭くしている。そのため,一方通行にもかかわらずのろのろ運転となっている。

歩道も物売りで混雑している

通りの西側は歩道に品物を並べて商売をしているため,大変な混雑である。ここの歩道は建物の軒先が歩道を覆っているので雨の心配がないのだ。歩道の両側にシートを広げ商品を並べているので,広い歩道もすれ違うのがやっとという状態である。車道も車に混じってベチャ(三輪自転車)が客待ちをしており,混雑に拍車をかけている。

色の良いライチー

パサール・バルを過ぎると状況は改善される。露店は出ているものの通行を妨げるようなものではない。果物の露店でずいぶん立派なライチーを見かけた。中国南部原産で世界の熱帯・亜熱帯地方で栽培されている。現地語の発音をカタカナ表記するとライチもしくはライチーとなる。これを漢字にすると茘枝となり,その日本語読みはレイシとなる。英語のlychee は現地語の発音を音訳したものとなっている。

果実は直径3cmほどで果皮は赤いうろこ状になっている。枝にたわわに果実がつくので,枝ごと折り取って市場で売られている。果皮を手でむくと乳白色で多汁の果肉があり,その中に黒い大きな種子が1個入っている。上品な甘みと香りがあり,個人的にはマンゴスチン,釈迦頭,マンゴーと並んで最も好きな熱帯産果物である。

道路の混雑・その2

距離がとれなくて全景が入らない

「Jalan Otto」と「アジア・アフリカ通り」の交差点を東に向かうと前方に「マスジット・ラヤ・バンドン」の白いミナレットが見える。バンドンの名を冠したこのモスクは地域で最大のモスクなのであろう。建物は白を基調としたT字形をしており,縦棒の先端部は西のメッカの方角を向いている。このため周辺の道路建物の向きとは少し角度がずれている。

横棒の両側および縦棒部分にそれぞれドームが置かれており,東から見ると3つのドームが並んで見える。中央のドームは左右のものより奥にあるにも関わらず,一段高く見えるような設計になっている。建物の東側には二本の巨大なミナレットを置いている。東側全体は緑の公園になっているが,その東端からでもミナレットの全景をフレームに収めるのは難しい。

礼拝風景

建物は横になったT字形となっており,横棒が約100m,縦棒が約70mある。横棒部分が東に面しており,正面入り口もそこにある。礼拝堂は横棒部分と縦棒部分の両方にある。つまり東側から見ると横に長い礼拝堂と,中央奥のほぼ正方形の礼拝堂に分かれており,間は中庭のようになっている。

建物に3つのドームがあるのはドームの下は礼拝堂があるということを意味しているようだ。今日は金曜日なので人出は多い。内部は横幅80mほどの空間になっており,前の1/3は二階構造になっている。さすがに,異教徒の僕は奥の礼拝堂まで立ち入る気にはならなかった。

礼拝堂の外側に回廊がある

これほどの空間をもっているのに女性用の礼拝空間は設定されていないようだ。女性たちは礼拝堂の東側壁面とアーケードにより構成される幅4mほどの回廊のところに一列になって座っている。彼女たちがそこに座っている理由は分からないが,おそらく連れの男性の礼拝が終わるのを待っているのであろう。

AA会議博物館

1955年にバンドンで「アジア・アフリカ会議(AA会議)」が開催され,その会場は博物館になっている。参加国は29ヶ国である,その多くが第二次世界大戦後に独立したアジアとアフリカの国であった。この会議の開催に尽力した各国の指導者としてはインドのネルー首相,インドネシアのスカルノ大統領,中華人民共和国の周恩来首相,エジプトのナセル大統領の名前が挙げられる。

1955年以降も定期的に開催されることになっていたが,世界情勢と各国の政治情勢の流動化により第二回は開催されなかった。それでも,反帝国主義,反植民地主義,民族自決の基本精神は1961年に開催された「第1回非同盟諸国会議」に引き継がれた。会議では「世界平和と協力の推進に関する宣言」を採択し,「平和十原則」が定められた。

平和の銅鑼

AA会議に参加したアジア・アフリカの国は29ヶ国であり,その当時の独立国はほとんど網羅されていた。アジアやアフリカにおける民族自決の精神はその後の独立運動を後押しし,現在では両大陸の独立国は(旧ソ連を含めると)100ヶ国を越えている。しかし,アフリカの国々では独立後も内戦や紛争が絶えず,AA会議の「平和十原則」からはほど遠い状況が続いている。

2005年にはバンドン会議50周年を記念してAA諸国の首脳が一堂に会した(アジア・アフリカ・サミット)。会議への参加国はかつての29カ国から106カ国に増加し,会議では帝国主義的なグローバリゼーションに対抗しながら新しいアジア・アフリカの戦略的な連帯に関する宣言を行った。博物館にはこのときの平和の銅鑼が展示してあった。

ここがAA会議の本会議場

もちろん,博物館にはAA会議時の多数の写真や資料も展示してあり,当時の首脳のなつかしい姿を探すことができる。大会議室には2005年のアジア・アフリカ・サミットの参加国の国旗が並んでいる。1955年にアジア,アフリカの首脳がここに集まり「平和十原則」を決定したことを思うと感慨深い。

各国首脳が滞在したサボイ・ホマンホテル

AA会議博物館の前の通りは「アジア・アフリカ通り」となっており,その少し東側にAA会議で各国の首脳が宿泊したサボイ・ホマン・ホテルがある。1880年に開業したこのホテルは現在でもバンドンの高級ホテルとして営業している。ネットの予約情報でチェックしてみると9月の平日ならツインで125$のところを79$で利用できるとなっていた。この料金の中には税金とサービス料,朝食が含まれている。由緒のあるホテルにしてはずいぶん安い。

サボイ・ホマン・ホテルでお茶を飲む

たまには贅沢をするかとここでお茶をした僕は3万ルピアを支払うことになった。入り口には彩色されたガルーダの木彫り像が迎えてくれる。カフェンの雰囲気は素晴らしいし,サービスも洗練されている。しかし,貧乏性の僕にはちょっと敷居の高いところであった。ちなみにカフェの客の大半はインドネシア人のようであり,ビュッフェ・スタイルのランチは10万ルピア(約1000円)である。

絵画屋の店先

インドネシアの絵画はオリジナリティはそれほど問われていないようだ。「アジア・アフリカ通り」には観光客が多いせいか,路上や店先にたくさんの絵画が展示されている。たまたま覗いた店の中になじみの絵を見つけちょっと驚いた。右側の壁の中央にある果物と風景画は「メダン」で見たものとまったく同じであった。写真や有名な絵画をそのまま模写する手法はこの国では当たり前のことのようだ。

ショッピングセンター内のオープン・カフェ

コの字形に建物があるショッピングセンターの上にガラス屋根が取り付けられており,明るいオープンカフェとなっていた。う〜ん,このアイディアはなかなかのものだね。

結婚式ビジネスは盛況だ

イスラム国のインドネシアでも結婚式に花嫁が着るのは西洋風のウエディング・ドレスのようだ。シルバー・ビジネスが盛んな日本と異なり,若年人口が多いインドネシアでは結婚式ビジネスが盛況である。この結婚式商談所には式に必要なあらゆるアイテムが揃っているのか,相談に訪れるカップルは引きも切らない。

看板のあふれる街

列車時刻表

バンドンからジョグジャカルタへのチケットはさすがに前日に購入した。料金は11万ルピア,08時出発である。駅には列車の運行表はあるものの,ジョグジャカルタ駅が見つからず,「明日,午前中,ジョグジャカルタ」と書いたメモを窓口に出すとチケットを売ってくれた。

ワヤンは小規模な売店や質素な食堂

子どもたち

宿の周囲は駅前にもかかわらず,再開発が進んでいないため古い家屋が残っている。子どもたちはわずかなスペースを見つけて遊んでいる。建物の軒先でゴム飛びをしていた子どもたちにカメラを向けると他の子も集まってきて集合写真になった。バンドンはスラウェジ島のメナドと並んで美人の里としても知られている。どこが美人の条件になるのか分からないが,確かに整った顔立ちの子が多い。

ベチャは消えゆく運命にある

自転車の前に客席を取り付けた三輪自転車の「ベチャ」はインドネシアの庶民の足として長い間親しまれてきた。自転車というこで営業距離も2kmくらいのものであり,大きな道路には入れないなどの制約がある。

道路が自動車中心に変わってきたことにより,都市ではジャマもの扱いされるようになった。すでにジャカルタでは乗り入れ禁止となている。他の大都市でも早晩ジャカルタと同じ措置が取られる可能性は高い。

バンドンの町もアンコタが縦横に走っているので移動の手段には事欠かない。ということでバンドンの街中のベチャはかなり暇そうだ。雨上がりの交差点では何台かのベチャが寂しく置かれている。


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