バンドゥンの周辺には火山が多く,それに付随して温泉もある。インドネシアの温泉は温水プールのようなものが多く,日本人にとっては温泉とは言い難い。その中で南西に50kmほど離れたガルッ近くのチパナス(チパナスは温泉を意味する言葉で地名ではない)は宿にまでお湯が引かれており,部屋の湯船で温泉が楽しめる。温泉街は開発が進んでいるが,まだ鄙びた温泉地の雰囲気は残されている。
チパナスはバンドゥンからジョグジャカルタに向かう幹線道路から少し山に入ったところにあり,周辺の農村風景も楽しめる。幹線道路をさらにほど20kmほど行くと小さな集落で伝統的な暮らしをしているカンプン・ナガの集落があり,この周辺では素晴らしい棚田の景色を楽しむことができる。
バンドゥン(08:20)→チパナス(10:20) 移動
Hotel Arimbi-3 のフロントには複数のガイドがたむろしており,パパダヤン山への登山ツアーをしきりに勧める。この山は硫黄分を含む噴気により黄色に染まった火口とエーデルワイスの花の大群落が楽しめる。しかし,費用も50万ルピアくらいになるのでお断りした。すると,チパナスまで20万ルピアで車を出すという。これもミニバスを利用すると2万ルピアはかからないので「ノー・サンキュー」である。
07時にチェックアウトしKebon Kelpa バスターミナルまではアンコタで移動する。ガイドブックではここから郊外のチチャフウム・バスターミナルへのミニバスが出ていることになっているが,アンコタのたまり場になっていた。このような交通事情の変化はよくあることだ。幸い今朝はチチャフウムに向かうアンコタがあり助かった。
チチャフウムには多数のバスやミニバスが停車しており勝手がわからない。ミニバスの車掌に「ガルッ」行きのバスについてたずねるとすぐに場所は分かった。バスは入線していなかったので,目の前の食堂で朝食をとる。ここには横一列に食堂が並んでおり食事には苦労しない。ごはん,魚のスープ,オムレツの組み合わせで1.2万ルピアは妥当な値段である。
ガルッ行きの小型バス(1.3万ルピア)が入線したので乗り込む。08:20にバスは動き出し,街中を一回りして乗客を集め,満員になったところで本格的に走り出した。途中には何ヶ所か棚田の風景が見られた。バスはチパナスとの分岐点となるT字交差点で僕を降ろしてくれた。周辺にはアンコタがたくさん停まっており,チパナスと言うとすぐに動き出し10分たらずで温泉街に到着した。
Penginapan Neo
目についた2軒の宿をチェックすると料金は10万ルピアとお高い。すっかりここも観光地化しており,大きなホテルもできていた。 3軒目のNeo は2泊で17万ルピアとなりここに決定する。部屋は10畳,ダブルベッド,トイレ・ホットシャワー付きでとても清潔である。
蛇口からは温泉が出るので,西洋式のバスタブで温泉につかることになる。ちょっと味気ないものの無味無臭の単純泉で汗を流し,ついでに洗濯をしておく。屋上には物干しもあり利用させてもらった。温泉に入るとなんとなく疲れが出てきたので,しばらくベッドで横になる。チパナスの標高は約1000m,夜はバンドゥンよりさらに涼しく,毛布を被って寝ることになる。
チパナスの村を歩いてみる
チパナスとは熱い水,つまり温泉を意味する言葉であり,インドネシアの各地にはチパナスがある。僕の訪問したチパナスはガルッの北西数kmのところにあるもので正式な地名は別にあると思うのだが,確認できなかった。google map でも「cipanas」という地名は見つからない。チパナスはガルッを通る幹線道路から上ってくる道路の両側に村が広がっている。
ジャワの建物はほとんど赤茶色のレンガを使用しており,統一感があるという印象を受ける。道路は宿の少し先でロータリーになっており,そこで終点である。チパナスは水の豊かなところで大小の池が点在している。道路の周辺の池の景色はノーサンキューであるが,山に向かって左側に向かうと水に恵まれた田園風景が広がっており,これは絵になる。
洗濯物を干す
チパナスの家並みを抜けていくときに屋根に干した洗濯物を見かけた。瓦は熱帯の強い日差しで暖められているので,物干しざおに干すよりも早く乾くのだろう。この洗濯物を屋根に干す文化は,東南アジアの各地で見られる。
水辺の風景
チパナスから少し離れると絵のような水辺の風景が広がっている。その向こうにはココヤシがすらりと立っており,空の青さとともに南国の風景を演出している。このような池はため池の機能をもっているのであろう。
水田と野菜畑の風景
少し先には見事な水田風景となっている。一枚の田んぼは広く,こちらもココヤシの林を背景にしている。栽培方法の違いによるものなのか,水田の水はずいぶん少なく土を湿らせている程度だ。別のところでは黄色に色づき,そろそろ収穫が近い水田もある。赤道直下なので水事情が許せば一年中コメがとれる。
標高が高いし,ミネラル豊富な火山性の土壌なので野菜の栽培もさかんだ。場所によってはビニールシートによるマルチ栽培も行われている。かなり成長した葉物野菜の畑にはマルチは行われておらず,栽培品目により異なるようだ。ここにはちょっと珍しいバナナか芭蕉が見られる。
水浴びの風景
集落から少し離れて所に小屋がいくつかある。ここは共同のマンディ場である。標高1000mといえども赤道直下にあるので日中の気温は高い。一仕事すると水浴びで汗を流したり,体を冷やしたりしたくなる。このようなときにインドネシアでは水を溜めた大きな容器からひしゃくで水を汲んで体にかける習慣がある。これをマンディ(mandi)という。
インドネシアの宿にはトイレも兼ねたマンディ・ルームがあり,小さな風呂桶のようなところに溜まっている水を汲んで体にかける。マンディが基本のためインドネシア人は入浴の習慣はないが,ここの温泉地ではみんな共同浴場を利用していた。水浴びを終わった子どもがいたので写真を撮り,お礼にヨーヨーを作ってあげる。さっきまではタオルを巻いていた一番小さな子どもの笑顔がとてもいいね。
男の子は池で遊ぶ
女の子はマンディ小屋でちゃんと水浴びをするのに対して,男の子は道端の池で遊んでいる。こんなところにもイスラム社会の縮図が見て取れる。
女の子は洗濯に出かける
東南アジアでは子どもたちはよく家の手伝いをする。特に女の子は母親の家事の一端を引き受けている。タライいっぱいの衣類を重そうに運んでおり,これから洗濯のようだ。
中国的な服装の女の子
家から顔を出しているこの子の服装はなんとなく中国風である。そういえば顔立ちもマレー系とはちょっとちがうような気がする。インドネシアには「人口の5%にすぎない華僑が経済の80%を牛耳ている」とよくいわれている。80%の真偽は分からいないが,多くの財閥が中国系であるのは確かだ。
中国系インドネシア人がすべて裕福というわけでもない。ただし,彼らはマレー系の地元民(プリブミ,マレー語のブミプトラに相当する)に比べてはるかに勤勉である。
子孫の繁栄と財をなすことが人生の目的である中国人と熱帯気候の中であくせく働かないことを選択しているマレー系では最初から勝負にならないのも事実である。民族,習慣,宗教,経済力の差はこの国の不安定要素となっている。
子どもたちがたくさん集まってくる
村の子どもたちは大人が見ている範囲ではとても写真好きになる。家の前で写真を撮ってあげると,友達を連れてくるのですぐにたくさん集まることになる。最初は家の入り口で撮っていたら,子どもたちが増えすぎたので前の通りに出てもらった。大人の目があるところなので小さな子どもたちも集合写真に入ることが許される。
青果の移動販売車が来ている
チパナスに戻る道に果物などの移動販売車が止まっており,近所の人たちが集まっている。子どもたちがいたので一枚撮らせてもらう。
黒い芒(ノギ)をもった稲
少し黒っぽいイネを見つけた。近寄って観察しているみると籾から黒い芒が出ていた。芒は「のぎ」あるいは「のげ」と発音され,禾と表記されることもある。芒はイネ科の植物の種子がもっている針のような突起である。小麦や大麦では穀粒から針状の長いヒゲが伸びており,それが芒である。芒には小さなとげがたくさんあり動物などに付着しやすい。
植物にとっては動物を媒介して種子を広く伝播することは重要な戦略である。そのため芒があると考えられている。コメの野生種や古代種にはちゃんと芒が付いていた。しかし,稲作においては芒は触るとチクチクするし,作業の邪魔にもなる。そのため,近代品種では芒がないように品種改良されている。その結果,日本のコメには芒は無くなっている。ここにある品種は古い性質を保持しているものだ。
レモンも栽培されている
この辺りではレモン(ミカン科・ミカン属)の栽培が行われており,青い実が実っている。一部は黄色く色づいており,熟すると黄色になる種類のようだ。ちょうど花が咲いているものがあり,1枚とってみた。原産地はインド北部,クエン酸を含む酸味の強い果実が世界中で愛好されている。常緑樹であり楕円形の葉は厚みがある。
花は四季咲きでありここのものにも花が付いていた。つぼみは薄紫で5弁の花は白である。強い香りがするとされているがそれほど感じなかった。レモンの果実はラグビーボール形かと思っていたら,この木にはほぼ球形に近い実が付いていた。
アンコタが通学の足になる
宿の近くにはアンコタのスタンドがありガルッ方面と結んでいる。14:45頃,子どもたちがアンコタに乗り込もうとしている。この状況はチパナスに学校があり,子どもたちはチパナスとガルッの間にある自宅に戻るところであろう。滞在中に小学校は見つけたが,この子どもたちは中学生に見える。
バトミントンはインドネシアの国民的スポーツ
共同温泉に向かう途中でバドミントンを楽しんでいる人たちを見かけた。コンクリートのコートの周囲を竹で編んだシートで囲んで風よけにしている。バドミントン
はインドネシアの国民的スポーツであり,中国,韓国と並ぶ世界の強国でもある。
北京オリンピック(2008年)では金,銀,銅各1個を獲得している。バドミントンの競技数は5なのでこれは大変な偉業である。プレーヤーの足元に注意していただきたい。彼らはなんとサンダルやビーチサンダルでバドミントンの素早い動きをこなしているのだ。
共同温泉を経験してみる
夕方は少し上にある共同浴場に行ってみた。どうやら女性用もあるようだ。大きな湯船に20人くらいの人が入っている。もちろんパンツははいたままである。たまたまマレーシアで短パンを買っておいたのでそれが役に立つことになった。
ここのお湯はけっこう熱く,僕でもちょっと熱いと思うほどであった。一般的に日本人は生活習慣から熱いお湯に入ることには慣れており,他の国の温泉に入ると「ぬるい」ということになる。ところがここの温泉は十分に熱い。やはり,小さいころから熱いお湯に慣れているためなのだろう。
夕暮れのパパダヤン火山
夕暮れ時のパパダヤン火山が池の水面に写るところを写真にしようとしたが,水面の水草にジャマされてしまった。パパダヤン火山はチパナスの南西20kmほどのところにある活火山である。バンドゥンの宿では50万ルピアの山歩きツアーに誘われたがお断りした。パパダヤンは標高2655mの複式火山であり,頂上部には4つの大きなクレーターがある。
1772年の噴火では巨大な岩なだれを引き起こし,40の村を破壊し,3000人の人々が亡くなっている。2002年の小規模な噴火では猛毒の硫化ガスや一酸化炭素を噴出している。ツアーでは火口の一つを巡る2kmの山歩きにより,地獄谷のような光景と硫黄の結晶により黄色く染まった火口を眺めることができる。さらにその先にはエーデルワイズ咲く平原がある。ただし,危険な火山山行なのでガイドは必須だ。
池で食器を洗う
チパナス周辺の池はあまりきれいとは言い難いが,人々の生活用水として利用されており。この女の子は食器を洗っている。時刻は16:40なのでこれから夕食ということなのだろう。
教室の中は暗かった
18時過ぎに小学校を見つけた。夕食をかねて散歩をしているときのことだ。教室の中には先生がおり,生徒の書いたものをチェックしている。残りの子どもたちは遊んでいる様態なので写真を撮らせてもらう。しかし蛍光灯だけの室内はとても暗く,動く子どもたちのためこんな写真になってしまった。
チパナスの朝焼け
06時少し前に朝焼けとなり,宿の屋上から写真を撮る。今朝は雲が多く,それらが茜色に染まっている。朝日と夕日はどうして赤くなるかは空が青く見えるのと同じ現象だ。可視光には赤から紫までのさまざまな波長の成分があり,波長の短いものほど大気中の窒素,酸素,水分子により散乱しやすい。
空が青く見えるのは青系の波長成分がたくさん散乱されており,観察者の目により多く入ってくるからである。太陽の角度が低くなると光が大気中を通過する距離が長くなり,青色の波長成分がより強く散乱され,散乱が少ない赤系の波長成分が相対的に多くなるので太陽自体も,それに照らされた雲も赤みがかって見えるようになる。青系は散乱した光,赤系は直接目に届く光ということになる。
ガルッはちょっと大きな町だ
チパナスには大きなホテルが建ち,山の中にひっそりたたずむ温泉郷のイメージはない。これから訪問するカンプン・ナガも観光地化されていないか心配だ。06:30に幹線道路に通じる下りの一本道を歩き出す。食堂はどこも開いていない。
幹線道路の近くにあるホテルの食堂が開いていたのでナシゴレンと紅茶をいただく。ナシゴレンはまあまあ,しかしグラスに入って出てきた紅茶はあまりにも薄くて,紅茶の味わいはなかった。
幹線道路に出てガルッまで移動し,そこからナガに移動する計画であった。しかし,そう簡単には事は運ばなかった。ガルッはけっこう大きな町であり,アンコタから降りてからどうしてよいか分からない。地元の人に何回か聞いて,ようやくナガを通るミニバスを見つけることができた。
小学校では朝の体操が行われていた
ミニバスは08:50に動き出し,客待ちを繰り返し09時に走り出した。ナガ到着は09:35なのでガルッからの距離は20kmくらいのようだ。途中の棚田の景色はなかなかのものであり,ゆっくり見学したいところである。
ミニバスの車掌は僕に5000ルピアを要求したが,周囲の乗客が支払う金額から判断して3000を渡すと特に文句は出なかった。ナガの入り口で下車して伝統的とは言い難い門をくぐって道路わきの広場に入る。「カンプン・ナガにようこそ」の看板がある。隠れ里にはそぐわない新しいモニュメントもある。
カンプン・ナガの近くは棚田になっている
ガルッから進行方向左側は谷に向かう斜面となっており,棚田になっている。その底のところに集落がある。村の入り口に下りる手前で「ナガ村は外部の人の立ち入りは禁止している」と告げられた。彼は1枚の文書のコピーを僕に差し出した。そこには「2009年5月14日から外部の人から村を閉ざすことを決定した」と記されていた。
ナガの集落は狭い谷の底に白壁と萱葺きのの家が密集している。集落の起源は17世紀に遡り,抗争に敗れた一族が移り住んだのが始まりとされている。おそらく,周辺の村々とはほとんど付き合いがない状態で自給自足の暮らしを続けてきたのであろう。日本でいうと平家ゆかりの人々が住む隠れ里のようなところだ。集落の人々は伝統的な暮らしを守り続けてきており,それが観光資源として着目されるようになった。
カンプン・ナガは立ち入り禁止になっていた
稲作と竹細工で生計を立ててきた集落の人々にとっては大きな変化であったことは想像に難くない。コピーの中には「伝統文化では灯油は使用できない」という一文があった。観光化により灯油という新しい燃料が入ってきたため,伝統的な慣習が損なわれるというのが閉鎖の理由のようだ。燃料をガスに切り替えたいが,灯油のように補助金による低価格となっていないため,実現には時間がかかるのであろう。
僕はアジア以外はほとんど歩いたことはないが,どの国でも近代化の波は少数者の文化を洗い流してしまう現状に胸を痛めている。ナガの集落がどのように近代化と付き合うかは,彼ら自身が決めることで外国人が口を挟むことではない。この村では自分たちの伝統を維持していきたいという意志を感じ,谷の上から写真を撮るだけで集落を後にした。
モスク付属の幼稚園
道路の近くにモスクがあり,その裏手には付属の幼稚園があった。5人の男の子と9人の女の子が机に座っている。男の子も女の子も正座をしている。ムスリムの人々は礼拝の動作の一部として正座に近い姿勢をとる。このイスラムの作法の影響なのかこの国では正座はよく見られる。女の子は頭髪を完全に隠す専用のスカーフを着用している。スカーフの色は白が多いが,色物でも問題無いようだ。
イスラム教の聖典コーラン(クアルーン)はアラビア語で音読しなければならない。翻訳版はコーランとはみなされないのだ。そのため,子どもたちは意味が分からないまま,コーランを読めるようにならなければならない。これは子どもたちにとっては大きな負担であろう。しかも,アラビア文字はローマ字よりずっと認識性が悪く,発音も単純ではない。
このサツマイモはおいしかった
ガルッ方面に歩いていくと小さな食堂があった。ここでミー・スープ(インスタントラーメン)とコーヒーをいただく。網戸の中にふかした赤いサツマイモがあったので少し下さいとお願いすると半分をくれた。いわゆる紅イモである。これがなかなかおいしい。
北海道でジャガイモ育ちの僕はどちらかというとふかしたサツマイモはのどにつまるような感じがして積極的には食べようとはしない。そんな僕でもこの紅イモは食べやすかった。サツマイモも粘性の強いものと,そうでないものがあり紅イモは後者のようだ。
水を送る
道路からナガ村に行けそうな下りの道があったので寄り道をしてみた。斜面の下はけっこう広い平地になっており,道は村の方に続いている。けれども,切り倒した木が道をふさいでおり,これは侵入禁止ということだ。村の人々の意志を尊重し素直に元の道路に戻る。この道の下り始めるところに竹で支えられたホースが通っている。これは言ってみれば水道管である。
視界が開けると棚田の風景が広がる
道路わきは林となっており,林が途切れると視界が開ける。緩やかな斜面が谷を形成しており,底のところに集落がある。谷底の平地と斜面の一部は農耕地となっている。ここでも斜面上部の森は残されており,地域環境を守る慣習が生きている。
コメを乾燥させる
農家の庭先では収穫したコメを乾燥させている。日本ではコンバインが稲刈りと脱穀を同時にこなし,稲わらは刻まれて水田に戻される。収穫した籾は水分含有量が高く,その状態では変質しやすいので,収穫後すみやかに乾燥作業が行われる。乾燥機は灯油を燃やしてその温風により水分含有量を15%くらいまで減少させる。
乾燥機が無かった時代は水田の近くに物干し竿を大きくしたようなハザに稲の束を架けて乾燥させていた。現在でも魚沼コシヒカリのようなブランド米ではおいしさを追及して自然乾燥も行われている。米価が日本の1/5から1/10の東南アジアでは自然乾燥しか方法がない。ここでは道路で乾燥させるようなことはしないで,大きなザルを並べて丁寧に乾燥させている。この方法ならば急な雨にも十分対応できる。
棚田は田植えの直後がもっとも絵になる
棚田が最も美しく見えるのは田植えの前か直後だと思う。地形に合わせた畔の曲線がよく分かるからだ。稲が伸びてしまうとそうはいかない。ここの棚田は緩斜面にあり,標高差も少ないのですごいというものではない。しかし,日本人の僕にとっては水田の風景はこころの原風景のようなものだ。のんびりと棚田の写真を撮りながら歩くのは至福のひとときである。
ヤシの実を蒸している
道路わきの小屋の前から煙が上がっている。近づいてみると長さは1mほど,太い房にぶどうのように青い実が鈴なりについている。煙の上がっているドラム缶の近くにはこの房状の実が山積みになっている。ここの人々は青い実を房から取り外し,ドラム缶に積めて蒸している。ドラム缶の横には実が外された長い房がこれまた山積みになっている。
おじさんが蒸し上がった実を小刀で割ってくれた。内部は3室に分かれ,半透明の果肉が詰まっている。「これは何の実ですか」と彼にたずねると,道路の反対側にあるヤシの木を指さしてくれた。その木には確かに下垂している房状の実が付いていた。
大きさと実の付き方は異なるものの,果実の構造はオオギヤシに類似している。とすると,内部の半透明の部分は果肉ではなく胚乳ということになる。さきほどおじさんが割ってくれた実を食べてみると,少しにがみはあるものの十分食用になる。
この珍しいヤシの木についてはネットで調べてみたがこれはという情報は見つからなかった。このヤシの木はボゴール植物園で見ており,そのときに学名のプレートを確認しなかったことが悔やまれる。
果物の販売小屋
ここは車の通りが多いので果物の販売小屋が目につく。運転手から分かりやすいように商品を吊るしている。商品の大部分はバナナであり,高いところにあるものはかなり黒ずんでいる。
どこまで行っても棚田が続いている
アンコタに乗り,来るときチェックしておいた棚田の見えるところで降ろしてもらった。道路からでは樹木がじゃまをして視界はよくない。棚田のビューポイントと棚田に入れるところを探しながらしばらく歩いてみる。少しずつ視界が良くなり,水田の風景が見えるようになる。谷の底の部分はほとんど平地であり,そこから斜面に向かって少しずつ棚田となっている。
ゆるくカーブした道路の先が見えるようになり,道路の下はすり鉢状の水田となっている。傾斜が緩いので棚田のイメージはない。見渡す限りの水田の風景は日本の原風景と重なる。この写真を見せて日本の山村の風景と言ってもたいていの人は信用してくれるのではないだろうか。
竹に打ち付けて脱穀する
来るとき稲刈りをしていた水田ではすでに脱穀も終わりに近づき,一部は袋に詰められていた。脱穀は束にした稲を太い竹に打ち付ける方法だ。これではムシロの外に籾が飛んでしまうのではと心配する。緩い斜面とはいえ棚田の構造になっているので,1枚の田は小さく,機械化は難しい状況だ。
刈取り前の稲を見ると短粒米である。おそらく熱帯ジャポニカ種なのであろう。ジャポニカ種は熱帯型と温帯型がある。日本で栽培されているものは温帯ジャポニカ種であり,そこには縄文時代に入ってきた熱帯ジャポニカの遺伝子が受け継がれている。