パダンは西スマトラ州の州都であり人口80万人の大都市である。古くから金や農産物の交易地として地域の中心地として繁栄しており,17世紀に入るとオランダに占領される。
独立時の人口は5万人程度であったが,周辺地域からの人口流入により人口は急増している。町はインド洋に面しており,中心部の海岸線はほぼ南北方向となっている。
スマトラ島からフローレス島まで続く弧状列島の南側にはアジアプレートとオーストラリアプレートの境界があり,そこではしばしば海溝型の巨大地震が発生している。
僕がパダンに滞在していた2ヶ月後の2009年9月にはパダン西北西沖でM7.6の巨大地震が発生し,建物の倒壊,土砂災害により死者・行方不明者が1100人,住宅全壊8.8万戸という被害が出ている。パダンでも耐震設計が不十分だった多くの大型建造物が損壊している。
ブキティンギの宿でティガティガを紹介される
移動日の前日,宿の管理人に「次の訪問地はパダン」と告げると,彼はティガ・ティガに電話して,「宿代は6.1万ルピアからあるよ」と教えてくれた。彼の好意によりパダンでの宿はほとんど決まりである。
07時にチェックアウトしてベモでバススタンドに移動する。ベモの運転手から「どこに行くんだ」と聞かれ,「パダン」と答えると路上で降ろされた。近くの交差点で待機しているワゴン車がパダンに行くらしい。
まず近くの食堂で朝食である。ここにも出来合いの料理が小皿に載せられている。カリカリに揚げた魚とごはんで1.2万ルピアと高い。しかも,この雷魚に似た白身の魚は食べられる部分が本当に少ない。
食堂の横に待機しているワゴン車の運転手に料金をたずねると1.8万ルピアである。パダンまでは約90kmなので妥当なところだ。乗客が5名の状態でしばらく待機となる。
定員は7名なので客待ちであろうと思っていたら,コメ袋を積んだトラックが横付けした。最後部の座席は折りたたまれ,代わりに5袋のコメ袋が積み込まれた。この車は荷物の宅配サービスも兼ねているようだ。
運転席の横に2人,その後ろの座席に4人の体勢でワゴン車は出発した。道路状態はよい。車はかなりの速度で他の車を追い越していき,2時間でパダンに到着した。僕が降りる前に車はコメ袋の宛先を探し出し,そこで荷物を下ろした。
ワゴン車は路上で僕を下ろし,運転手は僕がティガ・ティガに行くことを確認し,ベモを呼び止めそこに行ってくれと頼んだようだ。ほどなくしてベモはニューティガ・ティガに到着し,予定通りチェックインすることができた。古い方の宿は閉鎖されており,そのためニューということになる。
料金は5.5万ルピアでり,これに10%の税金が加算されて6.1万ルピアとなる。部屋は8畳,2ベッド,トイレ・シャワーおよび物干し台付きで清潔である。宿の周辺は住宅地となっており,これは食事に苦労しそうだな思っていたら,朝食はついており,夜になると通りの向かいに屋台が出るのでなんの問題もなかった。
宿は南北方向の幹線道路である「Jalan Pemuda」に面しており,500mほど西に行くとインド洋が広がっている。町の北側に位置しているので中心部にあるマーケットまでは1.5kmほど離れている。
街中の移動はベモ(小型乗り合いワゴン車)が便利だ。料金は1000か2000ルピアだ。しかし,それぞれ決まった路線をもっているので特定の場所に移動したいときは確認が必要だ。宿から南に移動するときは特に確認の必要はなく,「Jalan Pemuda」通りでベモをつかまえればよい。適当な場所で降ろしてもらい中心部のマーケットを目指す。
モスク近くの市場
マーケットは南北方向の「Jalan Pasar Paya」の両側に広がっている。ここはベモのターミナルになっており,周辺の路上はベモで埋まっている。
ここのマーケットはとても広く,一部しか見学することはできない。婦人服売り場にはスカーフ用マネキンがある。スカーフは女性の必須アイテムであり,となりに帽子があるところをみると帽子でも代替できるのかもしれない。
イスラムが成立したアラビア半島ではしばしば女性をめぐる争いが起きていた。そのためイスラムでは女性は家族以外にはその美しさを見せてはならないと教えている。
このため,はなはだしい場合は外出時に全身を覆う衣服の着用が定められている国もある。マレーシアやインドネシアではさすがにそのようなことはないが,外出時の習慣としてスカーフを着用し,髪を隠す女性は少なくない。これを社会的な強制ととらえるか,ムスリムの価値観に基づく自主的な行為と見るかでずいぶん評価は異なってくる。
蓋付壺のどのように使われるのであろうか
「Jalan Pasar Paya」の東側のマーケットは衣料品が中心であり,上の階には仕立て屋や他の系統の店もある。素晴らしい絵柄の立派な中国陶磁器が無造作に店先に置かれていた。多くのものは蓋が付いている蓋付壺である。
高さ60cmほどもある大きな蓋付壺はいったいどのように利用されたのか不思議に思う。ものを保存するためとしては下が狭くなる形は不向きである。やはり,美味しんぼに出てきたように高級スープの仏跳牆と作るためなのであろうか・・・。
西側にも大きな建物があるが,その通りに面したところはパラソルが4列になってびっしりと置かれている。ここが食料品を扱う露店となっている。現在はマンゴーが旬であり,商品台の上に溢れている。
中心部にあるモスク
マーケットの南側は大きな交差点なっており,その向こうに不思議な外観の大きなモスクが見える。中央のドームはなく,そこは薄い緑色のピラミッド屋根になっている。入り口右側には一本のミナレットがあり,その先端には銀色のドームが置かれている。建物の上部には「Masjid Taqwa」と記されている。
礼拝堂内部はずいぶん広い。床は石材でできており,正面のミフラーブは青色の装飾タイルとアラビア文字で飾られている。ミフラーブから10列ほどは礼拝用のじゅうたんが敷かれており,横長で天井の低い礼拝空間となっている。
途中から天井は数mほど高くなっており,中央部には半円形の緑色の装飾タイルとアラビア文字で飾られている第二のミフラーブのような構造がある。時刻は13時少し前であり,昼の礼拝はすでに終了したのであろう。何人かの人たちは礼拝をしておりが,じゅうたんが切れたあたりには横になっている人も多い。定時の礼拝時間以外はモスクでの行動はかなり自由なようだ。
目立たない中華街
モスクから南に下ると中華街になるが,他の国に比べて中国を意識させるものはほとんど見当たらない。1階が商店となっている2階建ての家並みがわずかに中華街らしさを感じさせる。
インドネシアにおいては華僑はひどく嫌われている。その理由は華僑が富を独占していることに対する妬み,またインドネシア華僑は地元に溶け込む努力をせず,地元民を見下す態度をとる傾向があることも指摘されている。
インドネシア人から見ると華僑は異質のものであり,羨望と憎悪の対象となっている。最近でも1998年の「ジャカルタ大暴動」ではジャカルタの各所で華人経営の商店やスーパーマーケットなどが略奪・放火され,さらに多数の華人女性が暴行された。インドネシアの華人は常に危険と隣り合わせであり,これではとても中華街などは作れるわけがない。
中国寺院で筆談する
中国らしくない中華街において中国寺院だけは目立っていた。ただし,内部は写真不可であった。英語のできるおじさんが中国語を交えながら説明してくれる。
両側の壁には三国志と西遊記にちなんだ絵がたくさん描かれている。どうもインドネシアやマレーシアの中国寺院は西遊記が定番のようだ。於日本三国志西遊記是有名(日本でも三国志と西遊記は有名ですよ)といい加減な中国語で書いてみると,どうやら意味は通じたらしく,おじさんは嬉しそうにうなづいていた。
ムアラ川の風景
中華街の南側はムアラ川となっており,大小の船が係留されている。川といっても運河のような状態である。パダンは古くから金や農産物の交易地として繁栄していたがどこにも港はない。交易船はムアラ川を少し遡って川岸で荷物の積み下ろしをしたのであろう。
凧の尻尾が見えるかな
堤防では凧揚げがさかんであり,はるか上空に出来の良い凧が浮かんでいる。日本のものと異なりインドネシアやマレーシアの凧は大きな楕円形と小さな尾翼の組み合わせが多い。
尾翼の先には10m以上もあるテープが取り付けられているものもある。残念ながらテープは白なので上空では背景に溶け込んで識別は難しい。
できの良い凧はわずかな風をとらえて,どんどん上昇していく。周辺は電線などの障害物がないので凧揚げにはかっこうの場所となっている。糸はナイロンテグスが使用されており,直径20cmほどのリールに巻かれている。一度,上空まで上がった凧は安定しており,小さな女の子がリールを持っているだけでも問題ない。
オランダ時代の古い建物
ムアラ川の北側にはオランダ時代の古い建物が並んでいる。倉庫と住宅を兼ねたような造りだ。地域の商品はそこに集められ,それほど大きくない船に積み込まれて運ばれたことだろう。
東西5000kmにもおよぶインドネシアの多島海では50-300トンクラスの木造帆船のピニシが活躍していた。インドネシアで現役の荷物運搬船として活躍しており,現在はエンジンを装備しているものの基本構造は数百年前からほとんど変わっていない。
アジアには1000年程度の歴史をもつ木造帆船がいくつかある。インドネシアのピニシ,中国のジャンク,アラビアのダウは交易船として,ヨーロッパが大航海時代(15-17世紀)に乗り出すはるか以前から,インド洋,アラビア海,ベンガル湾,南シナ海,ジャワ海などを巡っていた。
橋の上からの風景(上流側)
ムアラ川の川幅は約100m,両岸を結ぶ橋は一本しかない。この橋の上からは川の風景を眺めることができる。上流側はずっと船着き場の風景が続いている。船はそれほど大きくないので桟橋一つについて3-4隻が並んで係留できる。そのような桟橋が数十m間隔で両岸にある。
橋の上からの風景(下流側)
橋の下流は1kmほどで河口になっている。川の南側はすぐ急峻な山が迫っている。その狭い土地に民家が密集しており,モスクもある。山の上はずいぶん緑が多い。南側の先端部は直径500mほどのドーム状の地形となっており,半島のように海に突き出している。ここは,河口を押さえ町を監視するのは最高のところだ。
パダンの町が大都市に変貌すると,ムアラ川のような川岸の施設では全く不十分となる。現在のパダンにはムアラ川から4-5km南の湾に近代的な港湾施設がある。
橋の上では夕方から屋台が出る
橋の両側は歩道となっており,午後からここには食べ物の屋台が出る。焼きトウモロコシと焼きバナナが主要な商品となっている。屋台が終わった後はトウモロコシやバナナの皮が散乱するひどい状況となる。しかし,翌日の屋台の時間にはきれいに片付いている。
バナナケーキ
焼きバナナを注文したら,焼いたバナナを平たくつぶし,細く切ったココナッツの胚乳をかけたものが出てきた。味は悪くないが値段は4000ルピアとちょっと高いおやつとなる。
遊園地
ムアラ川に架かる橋を町の方にまっすぐ歩くと,海岸近くの道路と交差する。ここは変則4差路となっており,そのうちの1本が宿の前の「Jalan Pemuda」につながっている。
交差点の近くには遊園地があり,覗いてみる。小さな子どもたちを対象にしたゴーカートのコースがある。低年齢用なので速度は遅く,コースはタイヤでガードされている。180度ターンのところがあり,ちょうどよい写真ポイントになった。
夕暮れの海水浴場
ムアラ川の河口の北側の海岸は海水浴場になっている。遊園地の先にも入り口があり17時過ぎの海を眺めることができた。海岸の近くは海の家が二重,三重に並んでいる。夕日の時間帯にはだいぶ間があり,太陽が雲間から弱い光を投げかけている。
サーフィン用の波は立たない
パダンの沖合150kmくらいのところにはメンタワイ諸島が連なっている。この天然の防波堤のおかげでインド洋の荒波もここまでは届かないようだ。
穏やかな海岸風景の中で,波だけは繰り返し寄せてくる。それに対してメンタワイ諸島では遮るものがないので,インド洋の大波がそのまま押し寄せてくる。北西側のニアス島は上級サーファーのメッカとなっており,ほぼ1年中,良い波に恵まれるようだ。
パダン料理
パダン料理といえば陳列棚に多くの料理を積み上げ,客は注文をしなくてもテーブルに10種類ほどの料理が並ぶことになる。客は気に入った料理だけをとり,料金はその分だけ支払う。手を付けなかった料理はもとの陳列棚に戻される。
だいたいこのように説明されていると思うが,最近では衛生面から客の注文したものだけをテーブルに出すスタイルに変わってきているようだ。
僕はここでは食事をしなかったが,外から見ると大きな容器に1種類の料理が入っていた。おそらく客の注文に合わせ,ごはんの大きな皿に盛り付けるようだ。東南アジアではカレーのように汁物のおかずでも乾きもののおかずでも,ごはんの上に盛り付ける文化は一般的である。
魚市場を覗いてみる
海岸近くの魚市場で見つけた。さすがに鰹はすぐに分かる。1970年代までは中西部太平洋におけるカツオの漁獲量はほとんど日本によるもので30万トンほどであった。しかし,現在は東南アジアの各国がカツオのまき網漁を行っており,漁獲量は175万トンに増加している。
そのためか,黒潮に乗って日本近海にやってくるカツオは1970年代から減少し,現在の主力漁場はマリアナ諸島周辺となっている。
ハタ(ハタ科・ハタ亜科)の仲間であろう。赤い体に白いスポットがあり,スジハタに似ているという印象だ。香港,広州ではハタ類は「石斑魚」と総称され,高級食材となっている。
その影響か東南アジアでも高級魚となっており,僕も旅行先では食べたことはない。沖縄ではスジハタは「アカミーバイ」と呼ばれ,やはり高級魚となっている。
イスラム教では多くの食の禁忌がある。その中に「鱗のない魚」が含まれている。つまり,ムスリムの人はなまず,うなぎ,雷魚のように鱗のない魚は食べることができないはずだ。これはとても気の毒なことだ。もっともインドネシアでも雷魚は複数回食べた記憶があるので禁忌にはなっていないのかもしれない。
海産物でも甲殻類(エビ,カニ))や軟体動物(タコやイカ)はどうであろうか。ネットで調べてみると宗教上の禁忌とはなっていないようであり,少なくとも甲殻類は問題ないようだ。てはいえ,ヨーロピアンの中にはタコを悪魔の魚と呼び忌避する人もいる。ムスリムの人にはイカも勧めないのが無難のようだ。
小学校におジャマする
パダンではほとんど学校を訪問することができなかった。ようやく先生のいない教室で一枚だけ撮ることができた。ここの制服の色はエンジであり,インドネシアではもっとも多い色だ。
海岸を歩く
宿の朝食はトースト2枚とコーヒーである。これではちょっとカロリーも栄養も不足する。午前中の海岸歩きで屋台に立ち寄り,ゆでバナナとゆで卵ををいただくことになった。午前中の街歩きは西側の海岸を歩いてみる。この海岸をずっと南方向に歩いていくと,昨日の海水浴場に出る。
このあたりの海岸は数10mおきにある突堤で分割されたようになっている。突堤のところには漁師小屋がいくつかあるのでこの構造は漁業と関係しているのかもしれない。今日は波が少あり,高さ1mくらいのきれいなパイプラインができている。
芸術村
広場の向こうにミナン・カバウ風の屋根をもった建物があり,敷地内に入ってみる。ここは絵画工房がいくつも集まっている。多くは写実的な表現方法を採用しており,分かりやすい。工房の先には展示館があり,スマトラの写真展の開催準備が進められていた。
建物の前では写真展のオープニングセレモニーが行われていた。すでに写真の展示は済んでおり,公開前に見学させてもらった。僕が見てきた古い伝統家屋やシアノッ渓谷をなるほどと思うアングルから撮っている。やはり,このクラスの写真になると道具の良し悪しにかなり左右される。
朝食が軽かったので少し空腹を感じていたところに,自転車サイカーに積んだ移動販売車からゆで卵と蒸したバナナをいただく。バナナは水分の多いサツマイモのような食感であり,味もサツマイモに近い。これを3本食べると十分に1食分になる。
さらに,敷地内を一回りして絵を眺める。一人の画家が水牛を題材にした絵を描いていた。ミナンカバウらしいと思って近くに行くと牛であった。暗い背景から明るい赤に塗られた角が浮かんでおり艶めかしい。
橋の上から見るバランサーの付いた小舟
海岸通りを南に下って行くと昨日の海水浴場に出る。ここにはたくさんの海の家(海辺の食堂)があり,ヌードルスープを注文したら,具の入っていないインスタントラーメンがそのまま出てきた。昼食後は昨日は時間切れで中断したムアラ川河口にある円形の半島を上ってみることにする。
橋の上から景色を眺めていると,簡単なバランサーを取り付けたカヌーが通過していった。船の両側に自転車の補助輪のようにバランサーを取り付け,安定性を向上させる方法はスールー海を中心に広く普及しており,特にフィリピン南部の小型漁船はほどんとアウトリガーという安定装置を備えている。また2500-3000年前にインドネシアから東の島々に渡って行った人々も,双胴カヌーや安定装置をもったカヌーを利用していた。
小川で洗濯をする
ムアラ川の橋を渡り対岸の道を下流側に歩いてみた。このあたりは庶民の家屋が多いところだ。その多くは漁業関係者であり,ムアラ川のこちら側に係留されている船の多くは漁船である。家の中で網の修理をする光景も散見される。
水路には簡単なバランサーを取り付けた小舟が何隻も係留されており,この形状の船が普及していることが分かった。この船の欠点は,船の幅の数倍も係留スペースを必要とすることであり,このタイプの船が増えるとスペース問題が出てくる。
生活用水は井戸水が使用されており,洗濯のため大きなタイヤが置かれた共同井戸にバケツを落として水を汲む女性がいた。
また,近くの小さな川は洗濯場になっており,大きなたらいに入れた洗濯物を女たちが手洗いしている。空には今日も10mくらいはある長い尾をなびかせた凧が浮かんでいる。
子どもたち
この辺りで写真を撮るのはまったく問題はなかった。家の前にいる子どもを撮ろうとすると,奥から弟か妹を連れてきて一緒に撮ってということになった。ある家の前には縁台が置かれており,中学生くらいの三人の女の子が携帯を操作していた。う〜ん,携帯の文化はこんなところまで浸透しているいるんだ。
民家の軒先を回り込んで
ムアラ川南側の道は海に半島状に突き出した丘の手前でロータリーとなって終わっていた。その先は右方向に山を巻くように丘の上に続く道がある。この道は民家の間をすり抜けて行くことになり,失礼しますということになる。
旧日本軍の砲台
この道をたどっていくと旧日本軍の砲台がある。岸壁を削り,コンクリートで固めたトーチカのような構造物の中央に口径200mmほどの固定式砲が据え付けられている。方角から考えると町の中心部に向けられており,海側には向けられない。
サカラヤシであろう
道端にトゲのびっしり生えたヤシの仲間があった。果実が付いているとはっきり分かるのであるがおそらくサカラヤシ(ヤシ科・サカラヤシ属)であろう。
サカラヤシは茎が短く,1本の茎から1本の葉柄が出ている。葉柄の下部には長い鋭いトゲが密生しており,果実は葉柄の下のところにかたまって実る。
この果物はサラックと呼ばれており,外皮は赤褐色で鱗状になっているためスネークフルーツともいわれる。この外皮は手で簡単にはがすことができ,内部には白い果肉がある。酸味や渋みがあり個人的にはさほど好きな果物ではない。
丘の上にはサルが多い
この道をさらに行くと海岸を見下ろすポイントがあり,その先は山頂に続く石段となっている。ここを登りきるのは暑さの中では重労働である。山頂には東屋がある。周辺には尾の長いサルが戯れているだけであり,苦労が報われる風景ではない。
託児所のような幼稚園
山から下り,もとのムアラ川沿いの道に出る。そこで託児所のような幼稚園を発見し,オリヅルをたくさん作ることになった。女性の先生が見よう見まねで一緒に折ってくれたので10人ほどの園児全員にあげることができた。