亜細亜の街角
シアノッ峡谷を歩く
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農村風景

標高900mの高原でも平地は水田となっている。稲作のできる限界標高は気候帯により当然異なる。日本では1000mあたりが限界となっており,標高によりイネの品種も栽培方法も異なる。気候の温暖な雲南省では標高2600mくらいまでのところで栽培されている。

世界でもっとも標高の高いところで成功した稲作はネパールのムスタンでなんと3600mである。これは日本の農業技術者近藤氏の努力によるものだ。

アガム高原は赤道直下なのでこのくらいの標高は十分に稲作適地に含まれる。食糧生産が可能であり,かつ涼しい気候という好条件に恵まれたので高原はミナンカバウ人の故郷となった。

リモ・カウンの伝統家屋

リモ・カウンの伝統家屋は破風の反りがそれほど大きくなく,こじんまりとした建物である。写真を撮ろうとすると左側の白い建物がジャマをする。これさえなければヤシの木を背景によい絵となるのに残念だ。基本的には高床式の建物であるが下の部分も壁で覆われており,二階建てのように見える。

下の階には大きな出入り口があるので家畜のための空間であったと推測した。屋根はヤシの葉で葺かれていた。バガルユン王宮の屋根はヤシの繊維で葺かれており,こちらがヤシの葉が使用されえいるのはコストの差であろう。

この建物は心付けを渡すと中に入ることができる。階段を上り頭に気を付けながら中に入る。内部構造はボルネオ島で見てきたロングハウスにかなり近い。

建物の前面は共有部となっており,壁で仕切られていない空間となっている。共有部の背後に家族か個人用の仕切られた空間となっている。このように切妻屋根構造の細長い建物を共有部と個人用に分けて使用する文化は東南アジアの各地で見ることができる。

内部に囲炉裏があり,そこで炊事をしていたため内部は煤けて黒光りをしている。床は竹を加工した板材が使用されている。これは竹を一定の長さで切り,縦方向に二分する。節をとり,内側から5cmくらいの幅で縦方向に切り込みを入れる。これを開くとつながった板材になる。屋根の野地板も半分にした竹を使用しているようだが真っ黒なので確認できない。

道路わきにあった伝統家屋@バリンビン

バリンビンの近くにはこのような伝統家屋がいくつもあり,バイクを止めてもらい何軒かを写真にする。中には住宅用ではないにせよ使用されているものもある。屋根は耐久性の高いトタンになっている。内部構造はリモ・カウンの伝統家屋とほぼ同じである。

緑に囲まれた伝統家屋@バリンビン

農地の近くにも伝統家屋はあり,ヤシの木の風景によく溶け込んでいる。

のどかな田園風景が広がっている@バリンビン

周辺は水田となっており現在は収穫が終わっており,切り株だけが残されている。つながれた水牛はわずかばかりの草を食んでいる。水田の境界はココヤシの林となっており,そこまではずっと切り株の風景が続いている。水田があるので当然,水路があり,その近くに小屋がある。近寄ってみると二人の男性が水浴びをするところであった。

パパイヤとバナナの木

田植えの風景

サンカルに戻る途中で田植えが行われていたのでバイクを止めてもらった。この辺りは完全な平地というわけではなく,畔のところで段差がある。

一枚の面積の広い棚田ということになる。それでも棚田構造なので機械化は進んでおらず少なくとも田植えは完全に手作業である。

日本に比べてかなり成長した苗が束ねられて水田に置かれており,人々は目印なしで田植えをしている。実際,目印を付けたくても水が入っているので無理な話だ。

それでも,無印田植えに人々は熟練しており後ろから見るときれいにラインは揃っている。正確には分からないがここでは農作業における男女の分業があるのかもしれない。代かきまでの力仕事は男性,田植えは女性の仕事と分かれているようだ。

一昔前の日本ではこんな道具が使用されていた

昔の日本では稲の間隔を適正にあけ,かつ草取りが容易になるように代かきの終わった水田の上を田植型枠機という道具を回し押しして,泥の上にラインを引いていた。

左は「ふるさと(矢口高雄著)」から引用させていただいた。物語の舞台は奥羽山脈の山懐に抱かれた秋田県の山村である。物語の中では「型車」と紹介されている。

型車を操作して田植えの準備をするのは家長の朝飯前の仕事のようだ。型車は東北の文化であり,他にも田植えを整然とするため各地でいろいろな工夫があったことだろう。

農家の庭先では籾を乾燥させていた

高原の涼しい気候で野菜の栽培も盛んだ

夜になると屋台が出る

夜になるとジャラン・アハマッ・ヤニ通りの片側は屋台に占拠される。この屋台は意外と値段は高い。ごはん,フライドチキン,野菜の組み合わせが1.2万ルピアである。その前の夜はごはん,魚のから揚げ,野菜で1万ルピアであった。

朝焼けの町

小学校を発見

Iatana Bung Hatta

ヒルズ・ブキティンギの近くに「Iatana Bung Hatta」と記された建物があった。「Hatta」は独立インドネシアの初代副大統領のモハマッド・ハッタ(1902-1980年)のことである。

初代大統領となったスカルノとともにインドネシアの民族主義運動,独立運動において主導的役割を果たした。彼の生家はブキティンギにあり,出自はミナンカバウ人である。スカルノと同様にインドネシアの民族主義運動,独立運動の指導者であり,1945年の「独立宣言」にはスカルノとともに署名した。独立戦争時は新政府の要職につき,とくに外交面で主導的な役割を担った。

独立達成後は副大統領として国家運営にあたったが,次第にスカルノと対立するようになり1956年に副大統領を辞職した。そのような経歴からするとの建物はハッタの住居であったと考えるのが妥当だ。

早朝の時計塔

07時を少し過ぎたころの時計塔周辺はほとんど人通りもなく青空を背景に白い時計塔が映えている。左側の林がなかったら,シンガラン山もきれいに入ったところなので,これはちょっと残念だ。

早朝のムラピ山

早朝のムラピ山はまだ雲がかかっておらずきれいな稜線を見ることができる。ふもとには薄い霞がたなびき,なんかとてもいい感じだ。

早朝の市場を訪問してみたが大した収穫はなかった

ニワトリのケージの上に肉がある

肉屋では生きたニワトリの入ったゲージの上に肉を置いている。これは非衛生的な環境である。 インドネシアは高病原性鳥インフルエンザ(H5N1)で多数の死者を出している。2005年から2011年までの間に177人が感染し,そのうち146人が死亡している(2011年外務省情報)。

このインフルエンザは渡り鳥から地域の野鳥や家禽に感染し,そのような鳥と濃密に接触している人にも感染する。

鳥→人の感染力はまだ非常に小さいが,ヒト感染型に変異すると世界的なパンデミックにより1000万人単位の死者が出る可能性も取りざたされている。鳥から人への感染が多発しいるインドネシアでこのような状況では完全加熱でなければチキンは食べられない。

アメリカデイゴかな?

アメリカデイゴ(マメ科・デイゴ属)だと思うが確信はもてない。南アメリカ原産の落葉低木であり,日本では関東以南であれば育つ。同種のデイゴはずっと耐寒性が劣るので,日本では沖縄あたりでなければ見られない。

和名はカイコウズ(海紅豆)であるが,アメリカデイゴの呼び名が広く使用されている。大きな画像にすると葉の付け根のところに小さなトゲが生えていることが分かる。ネットで検索すると花の感じはずいぶん異なるものもあり,品種により変化があるようだ。

シアノッ峡谷に下りる

ブキティンギでは機会があればラフレシアを見たいと考えていた。しかし,宿の主人に確認してもらうと先週はあったが今週は咲いていないという返事であった。代わりにシアノッ峡谷を歩いてみることにする。

朝食は市場でサテとつけあわせのごはんをいただく。サテはインドネシア風の焼き鳥であり,ピーナッツソースでいただく。ごはんはコメをつぶして葉にくるみ茹でたもので味のないウイロウといったところだ。この2つの食べ物がどうしてセットになっているかは分からない。

峡谷に下る道はパノラマ公園からチェックしておいたのですぐに分かった。かなり色づいた稲穂が頭を垂れている。ただし,朝露が葉を濡らしており,歩き回ることはできない。鳥を追い払うために日本でいうと鳴る子のような仕掛けがあり,綱を引いて鳴らしてみる。

川の水量は少ない

谷底の道は舗装されており,交通量は結構多いのであまりよそ見をして歩くと危険だ。川の水はずいぶん少なく,この峡谷を削ったとは思えない。季節により大きく変動するのかもしれない。

峡谷の崖は高さが100m,ほぼ垂直であり,かなり水の浸食を受けやすい岩のようだ。道路沿いには多くの民家があり,写真を撮りながら歩く。

セパタクロー

峡谷には学校もあり,中学校では男子がセパタクローのゲームを楽しんでいた。ネットを挟んで双方3人のプレーヤーでゲームが進められる。使用するのは籐で編んだ中空のボール(最近はプラスチック製が多い)である,これを足と頭を使ってバレーボールのように3回で相手のコートに返す。

一人が続けて3回までボールに触れてもOKである。コートの広さとネットの高さはバトミントンと同じである。サービスは自陣のセンターにいるプレーヤーがトスを受け,相手のコートに蹴り入れるところから始まる。東南アジアの島嶼部ではとても盛んであり,何回かゲームを目にしたことがある。スマッシュはだいたいヘディングとなり,かなりの速度になる。

シナモンの樹皮を採取する

シナモン(ニッキ,肉珪)はシナモンの木(クスノキ科)の樹皮をはいで乾燥させたものである。原産地は中国南部からベトナムのあたりとされている。上等なものはきれいに円筒状に巻いており,ちょっと品質の落ちるものは削りくずのような状態で売られている。シナモンは清涼感のある独特な芳香があり,スパイスというよりは紅茶やお菓子の香付けの方が身近である。

シナモンは木の樹皮をはいで作られる。採取ごとに木を切っていては生産が追い付かないので,日本の桑の木のように台木を作り,毎年成長する枝の部分を利用するのではないかと推測していたら,ここでは直径10cmほどの木を切り倒して,樹皮をはいでいた。細い枝では良いシナモンはとれないようだ。

乾燥させるとシナモンとなる

はいだ樹皮を乾燥させるとくるくるっと丸まる。ブキティンギの市場ではこのような状態で売られていた。

女の子のおしゃれ好きはどこも同じだ

谷間の小学校の近くでは行商人がアクセサリーを売っていた。女の子は髪飾りや指輪などをグループで品定めしている。宗教や文化の違いによりライフスタイルは異なっていても,女の子のおしゃれ好きはどこも同じである。

学校で男女別に写真を撮る

小学校にはまだ子どもたちが大勢残っていた。写真を撮ろうとするとたくさん集まってきてフレームに入りきらない。しかも男子は動き回るのでフレームの大敵である。イスラム圏では男女を分離する習慣があるので,写真でも男子と女子に分けるのは容易だ。はい,男子は右側,女子は左側というように集団を分けて写真を撮る。

特徴のある岩

この先は峡谷の幅が広くなり水田地帯となる。二期作,三期作が可能な熱帯では水田の状態は一様ではない。谷に下りたところでは収穫が近い状態であったし,途中では刈り取った後の状態の水田もあった。そしてここでは水を入れて田植えの準備が行われている。それにしても,働いている農民の姿は少ない。

前方に特徴のある岩山が見えてきた。周囲のものより固い岩だったのでああろう。水の流れに負けることなく削られなかったようだ。とりあえずあそこまでは歩いてみよう。近づいてみると高さ50mほどの岩塔である。川に面した部分はすっぱりと切れ落ちたようになっており,まるでヨセミテのハーフドームの縮尺模型のようだ。

棚田の風景も見られる

この辺りで谷から上がり帰り道を探すことになる。しかし,田舎道が続いているだけでとても町には戻れそうもない。なんとなく先には集落がありそうなので歩いて行く。

周辺は水田が多い。それも青々としたところ,黄色く色づいたところ,刈取りが終わり茶色くなったところと三色に染め分けられている。熱帯地域では水田の状況で季節を読むことはできない。

緩い斜面も水田になっている。水田の一枚は平らでなければならない。そのため,斜面を畔で区切って少しずつ高いところに向かっていく。これが棚田である。僕にとってはアジアの原風景のようなものだ。

小さな村に到着し3000ルピアの紅茶で一息入れる。ここの客がブキティンギまでバイクを出してくれるということになりパノラマ公園の下まで1万ルピアでお願いする。

竹は大きな株を作る

日本には多くの種類の竹が自生しており,それぞれの土地で独特の景観をもたらしている。しかし,ほとんどのものは帰化植物であり,8世紀頃に中国から持ち込まれたものと考えられている。

竹は温暖で湿潤な気候を好み,アジアの温帯・熱帯地域に広く分布している。竹は不思議な植物で木本のように茎は木質化するが肥大することはない。そのため,草本か木本かは意見が分かれている。

竹は地下茎が横に這い,そこから地上に茎を伸ばすため,ほぼ単独種からなる群落を作る。これを一般に竹林(竹やぶ)という。ところが熱帯地域の竹の中にはあまり横には広がらず大きな株を作るものもある。そのため,日本の竹林とはかなり変わった景観となる。

時計塔広場で出会った中学生

夕方,時計塔広場は夕涼みの人でにぎわっていた。ストリート・ミュージシャンやブレイクダンスの芸人が観客を集めている。その中に女子中学生のグループがいたので写真を撮ってみる。

制服姿の時は必ずと言ってよいほどスカーフを着用していたのに,私服になるとずいぶんカジュアルであり,スカーフは誰もつけていない。こうしてみると服装は日本の中学生とたいして変わりはない。

観光用の馬車

これがパダン料理

西スマトラ州各地の料理の総称してパダン料理(ナシパダン)という。パダンは州都の名前であり,ミナンカバウ地域ではナシカバウという。

パダン料理はインドや中近東の影響を受け,スパイスや唐辛子を使用した辛味系のものが多い。僕は食材の好き嫌いはまったくないが,味についてはけっこううるさい。

インドネシアのスパイス系の料理は似たような味なのですぐに飽きてくる。パダン料理でも魚のから揚げのようなシンプルなものは問題ないが,赤く染まった料理には手が出ない。

テーブルの上に並べられる

パダン料理の食堂に入ると二通りの注文方法がある。なにも指定しないとテーブルの上にはずらった料理の皿が並ぶことになる。その中から自分の食べた分だけを支払う。この仕組みは食事代がいくらになるのか見当がつかないので一人旅の僕は注文したことがない。

もう一つはあらかじめ,陳列棚から自分の欲しいものを注文する。この場合はごはんの皿におかずが乗せられて出てくる。この店でも若者グループはそのスタイルで食べていた。基本的にはインドのカレーと同じで,右手で混ぜながら口に運ぶ。

ケンタッキーの値段を調査する

一人旅でその土地の料理に飽きたときの強い味方はファストフードと中華料理である。地元の食堂より5割ほど高いが慣れた味が楽しめる。今日はケンタッキーの値段を調査してみた。

チキン2ピース,ごはん,国産飲み物のセットが2.7万ルピア,チキンバーガーは1.2万ルピア,スパゲティは1.1万ルピアとなっていた。スパゲティと7UP大を注文すると,税金とサービス料が付加され2.1万ルピアとなった。


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