リロアンはレイテ島の東側南端となる半島に位置しているように見えるが,正確にはレイテ島と150mほどの橋でつながったパナオン島にある。島の最北部,つまりレイテ島と結ばれる橋の近くにフェリー港がある。
港の西側は緩い弧を描いており,その海岸沿いにリロアンの町がある。海岸の西端は幅の狭い半島のように海に突き出しており,その付け根のところに小高い丘がある。フェリー港のあたりから眺望するとこの半島状の地形は「ひょっこりひょうたん島」のように見える。
半島部の手前まではコンクリートの護岸があり,漁師の舟が係留されている。その先は半島部の先端まで(平地が少ないせいか)水上集落が続いている。
タクロバン(07:30)→リロアン(12:00) 移動
トライシクルでマーケットに行き,そこから新バスターミナル行きのジープニーに乗る。新バスターミナルでリロアン行きのバスを探したが,地元の人たちは口々に「バスはない,乗合バンしかない」と告げられ,仕方がなくSegod 行きのバンを利用することになった。
バンは運転席を含め5列シートであり定員は18人らしく,定員にならないと動き出さない仕組みのようだ。荷物のスペースはほとんどなく,座席の足元にメインザックを置き,きゅうくつな体勢で移動することになった。
バンは1時間ほどバスターミナルで客を集め,07:30に20人の乗客を乗せてようやく動き出した。前半の2/3の行程は平坦で水田とココヤシの風景が続いていた。後半は山越えとなり,カーブでの横Gのため,後ろの荷物が転げ落ちでくる事態となった。
Segod のバススタンドには10時に到着し,そこにはリロアン行のジープニーが停まっていた。このジープニーに乗ったことは間違いであった。
乗客が乗り込んでから,家屋の床に敷く30cmほどのタイルを屋根の上に大量に乗せ始めた。ジープニーの屋根は荷物を積載できるようになっており,いちおう人が座っても大丈夫な強度である。
しかし,大量のタイルの重さは屋根の強度を超えており,ギシギシと音がするようになる。屋根が下がってきているので乗客が騒ぎ出し,大半の乗客は降りてしまう。
タイルは屋根から下ろされ,荷台に積まれた。この作業のため出発は11時を回ることになり,リロアン到着は12時過ぎになった。今日の移動では2時間ほど無駄時間が発生したことになる。
オフェリアズ・ロッジ
リロアンは小さな町でこんなところに宿があるのか心配になる。ジープニーの乗客があそこに宿があると教えてくれたのは,バススタンドから徒歩1分のオフェリアズ・ロッジであった。1階が食堂,外階段を上がった2階には7室の部屋がある。
トイレ・シャワー付きの良い部屋は350ペソと言われたが,2日滞在するということで300ペソにしてもらった。部屋は6畳,まあま清潔である。シャワーが付いているので早速,頭を洗い,一休みしてから1階で昼食をとる。選択肢はほとんどなく,ごはんとカツオのスープ(水煮)で35ペソは妥当な値段である。
夕食のときには4人の男性がテーブルを囲んでいた。テーブルの中央にはカツオの姿焼きがある。あの厚い身を焼き上げるのは大変な努力が必要であろう。皮の表面がかなり焦げ付いており,苦労の跡が偲ばれる。
この地域ではカツオの調理は水煮(スープ)だけかと思っていたら,こんな調理法もあったのだ。後学のためにかけらをつまませてもらった。カツオ独特のもちもちとした食感であり,味も悪くない。
しかし,日本のたたきには遠く及ばない。魚との長い付き合いから独特の食文化を創り出してきた日本においては,材料をどう調理すれば最高の味が引き出せるかに主眼が置かれており,魚についてもそれぞれの魚種に最適の調理法が考案されてきた。この魚はこのように調理するのがもっともおいしい言えるだけの研鑽と技術がそれを支えている。
宿の北側は広場になっており,そこからジープニーやミニバスが発着している。その北側は砂浜ではなく護岸になっており,近くには魚市場がある。護岸には何隻かのアウトリガーをもった漁船が停泊しており,ここで水揚げと競りもしくは売買が行われるようだ。
海辺の町の子どもたちはさすがに泳ぎが達者だ
護岸は水面から60cmほど高いコンクリートになっているため海に飛び込んだ子どもたちは上がってくるのが大変である。そのため角材を組み合わせた台が護岸から海に飛び出している。
子どもたちは角材の先端に立って,好きなポーズで海に飛び込み,ひと泳ぎしてから角材につかまって護岸に上がることができる。水はとてもきれいで透明度は高い。カメラを向けると4人の子どもが立ち泳ぎでフレームに収まってくれた。さすがに海辺の子どもたちは泳ぎが達者だ。泳ぎに自身のない子は太い竹を浮き輪代わりに泳いでいる。
護岸から数m離れた漁船のずっと先にはレイテ島とつながる上向きのアーチ橋があり,近くのフェリー港には船が入港するところであった。橋の両側にある二つの島は緑に覆われており,絵のような景色に仕上がっている。
Welcome GRORIA
幹線道路に出ると「Welcome GRORIA」の看板があり,人々が小旗を手に持って通りに集まっている。当時のフィリピンの大統領はグロリア・アロヨである。彼女がこのあたりの島を訪問するので,歓迎する人々が集まっているのだ。
確かに大統領一行の車列はやってきた。安全のためか窓にはフィルムが貼られており,大統領がどの車に乗っているかは分からないようになっている。沿道の人々は車列に手を振るだけである。
ついでにフェリー港のところで行ってみる
幹線道路をそのまま北に歩いていくとフェリー港が出てくる。僕はここからミンダナオ島のリバータ経由でスリガオに移動する計画なのでフェリーの出航時間を確認しに行く。リパータとの間に1日4往復のフェリーが就航してり,リロアンからの出発時間は05時,08時,10時,18時となっていた。
地元の子どもたちが港の裏山に案内してくれた。そこからは湾のような構造になったリロアンの海岸を眺めることができた。ヤシの葉のすき間から撮った写真はちょっと面白い構図となった。
日本では水族館にいるロクセンスズメダイ
鑑賞魚にもなりそうなカラフルな魚も売られていた。日本でもよく見かける「ロクセンスズメダイ(スズキ目・スズメダイ科・オヤビッチャ属)」であろう。静岡県以南の南日本,インド洋から西太平洋の熱帯・亜熱帯水域の岩礁やサンゴ礁に分布している。ネットで調べてもおいしいという評価は多くなかった。
バック転で飛び込む
水上家屋のところどころに小舟を留めるための木材を組み合わせて桟橋がある。ここは子どもたちのかっこうの遊び場である。男の子はバック転できれいなダイブを決めてくれた。近くにはゴミが集まっているものの,水はきれいであり,僕が入っても全く問題はない。
ベビーカーを撮ろうとしたら子どもたちが集まってくる
町の西側には水上集落が集まっている
海岸に沿って町の西側に行くと途中から水上集落が始まる。ここの水上集落はごく近い海岸に木製あるいはコンクリート製の杭を立て,その上に家屋を乗せる構造になっている。
ちょうど海岸線のあたりに木道が先に続いており,その両側は水上家屋になっている。多くの場合,水上集落の住民は陸上より水上の生活が快適なので水上生活を選択している。しかし,ここでは,海岸沿いの土地が無いのでしかたなく水上家屋に暮らしているようだ。
岬の先端部には灯台がある
半島構造の先端部には灯台がある。ここは潮が満ちると海水に浸かるようだ。窪地には海水が残っており,周辺はマングローブの林になっている。高さもそれほどないので半島構造の先端位置を船舶に知らせる役割を果たしてきたのだろう。この灯台は現在は使用されていない。
先端からの風景
半島部の先端から眺める海はとても穏やかだ。パナオン島とレイテ島の西南部に挟まれて湾のような構造になっているため外洋の影響は少ない。
セントバーナードに向かう
06時に下に降りると食堂はまだ準備中であった。今日はセントバーナードに行くつもりだったのでそのまま出かけようとすると若い男性に呼び止められた。彼も同じ方面に行くので一緒に行こうと言う。実は昨日の夕食時に1階の食堂でセントバーナードへの行き方について地元の人と話をしていたので,それを聞いていたようだ。
通常の場合,このような話は絶対に怪しい。とりあえず警戒レベルを上げ,トライシクルをシェアして7-8km離れたレイテ島のヒマヤガン・ジャンクションに向かう。
レイテ島の最南端は東側に緩やかな弧を描く海岸線になっており,セントバーナードは海岸線の最奥部にある。ジャンクションで待っていてもバスはなかなかやってこない。彼は営業調査の目的でセントバーナードの2つの地域を訪問するという。
バスを待っているときにネグロイド系の子どもを見かけた。子どもたちは「Welcome GRORIA」の大きな横断幕の下で遊んでいた。フィリピンの先・先住民族を見かけたのは初めてである。
一口に先住民といってもフィリピンの民族構成はかなり複雑で,移住時期の古いものから順にネグリト,原始マレー,古マレー,新マレー四層構造になっている。
ネグリトはBC3.0-2.5万年頃に最初に移住してきた集団で,マレー半島からインドネシア,フィリピンの山間部に居住している。身長は低く,肌色は暗褐色か黒色,毛髪は縮れ毛というように身体的特徴はネグロイドに類似している。
しかし,アフリカのネグロイドとの類縁関係は薄いとされている。移住集団の力関係では新しい民族ほど勢力が強く,それ以前の民族は条件の悪い土地に追いやられている。
大規模地滑りにアクセス道の両側は水田となっている
セントバーナードまではバスで15ペソ,30分の行程である。途中で北側の山の一部がえぐられたようになっており,地肌がむき出しになっていた。一緒に乗ってきた男性はさらに先に向かうようなので,ここでお別れである。
一緒にバスから降りたおばさんがグインサウゴン村(旧村)に行くバイクに屋根を付けたトライクル(40ペソ)を手配してくれた。英語のできる運転手は山崩れの近くまで行ってくれた。
道中の道路はコンクリートで舗装されており,その少なくとも半分くらいは籾の乾燥に使用されていた。籾は道路の端の部分に置かれており,バイクはいちおう籾を避けて通行していた。しかし,道路一面に籾があるところでは,遠慮なく籾を踏みながら走行する。アスファルトであると衛生的に気分がよくないが,コンクリートだと許せる気になる。
バイクが止まったところから,山崩れのの現場までは2-3kmほどあり,間は水田地帯となっている。往復で2時間はかかりそうなのでバイクには帰ってもらった。山崩れの下側には村があったので道がありそうなものであるが,どこにも見つけられなかった。
山崩れ直後の現場写真を見ると崩落した斜面は東に面しており,土石流は村一つを埋め尽くし,川のところで止まっている。川の対岸から500mほどのところに川に平行して舗装道路がある。川と道路の間はほぼ平坦でヤシの木と水田が半々を占めている。
山崩れのところまではたどり着けなかった
トライシクルはこの道を走り,唯一の仮設橋が架かっているところまでやって来たようだ。ここは山崩れの現場の南東側にあたり,橋を渡った先には道路はない。山崩れの現場周辺の地理が頭に入っていれば,舗装道路をセントバーナード方面に戻り,川の向こう岸から眺めるという選択肢はあった。
しかし,そのときは,地元の人に教えられるままに,ずっと南東側からアクセスすることになった。周辺はほとんど水田となっており,その畦道を歩くと先に進めそうだ。ところが,途中から湿地が広がるようになり,クツではあきらめざるを得ない。いくつかのポイントで写真をとって引き返すことにした。
深層崩壊は珍しい現象ではない
セントバーナードの近くの村では2006年に大規模な山崩れが発生した。日本語の調査報告書を要約すると次のようになる。2月17日の午前中にセントバーナードのギンサウゴン(グインサウゴン)地区で巨大な地滑りが発生し,集落全体が土砂に飲み込まれた。
地滑りによる死者は139人,行方不明者は990人に達している。被害者のうち467人は子どもたちで,その多くは土砂に埋まった小学校で授業を受けていた。
現場は西側に急斜面の山が迫っており,地滑りは標高約800mの尾根付近を頂部として発生し,崩壊土砂は標高約20mの集落まで約3.5kmの距離を滑り落ちた。
崩落した土砂の総量は1500-2000万m3と見積もられており,1.2km四方の地域に少なくも10mの厚さで堆積した。崩壊した斜面は100-200mにおよぶV字形の深く切れ込んだ滑落崖が見らる。
一帯の山は溶岩の岩盤の上に火砕流堆積物のもろい地層と火山灰層が100mほど堆積していた。水が沁み込みづらい岩盤の上にもろい地層があると,その境界面付近に水が流れ易くなる。
このような構造の急勾配の斜面はちょっとしたきっかけがあると,地滑りが発生する。今回の場合は,10日ほど前から激しい雨が降り続き,斜面は不安定な状態にあった。
それに加えて,地滑りの直前に20kmほど離れたところでM3.7の地震が発生している。規模は小さいものの,この地震により不安定な地層は液状化し秒速40m(時速144km)という土石流に近い速度で斜面は滑り落ちた。
レイテ島南部の5つの村は政府によって高危険度地域に指定され,住民は予防措置として避難していた。この時期に少なくとも3つの村落が地滑りによる被害を受けたが,人的被害はほとんどなかった。
レイテ島では森林破壊による表層の地滑りや土石流はしばしば発生しているため,政府の防災意識は高い。それでも,ギンサウゴン地区のものは想定をはるかに超える規模の山体崩落であったようだ。この時の山崩れは「深層崩壊」と呼ばれるもので,通常の地滑りよりもずっと深い50-100mほどの深さで山体が滑り落ちたという。
ギンサウゴン地区を飲み込んだ巨大な地滑り(山体の崩落)はV字谷に火山性堆積物が堆積していたという特異な地質構造によるものであったが,数十mもの深部から山体が崩落する地滑りは決して珍しいことではない。そのような地滑りを「深層崩壊」という。
そのような大規模な地滑りがどのようなメカニズムで発生するかについてはNHKが「深層崩壊」という番組で詳しく説明していた。この番組は2009年8月に台湾の少林村で発生した大規模な山崩れを題材にしている。その主要な要因は斜面の深層にある岩盤の破壊である。
斜面では岩盤にかかる応力によりある部分の岩盤に亀裂が入り,もろい構造になる。このような地層構造の地域に長雨が続くと,雨水は少しずつ地層に浸み込み,もろい岩盤の下にある強固な岩盤に到達する。地下水は潤滑油の役割を果たし,数十mもの厚さの地層が一気に滑り落ちる。
このような大規模な山体崩落に対しては防災対策はまったく無力である。私たちにできることはそのような危険性のある地域を特定し,その下流側に村落を造らないことだけであろう。
のんびりと田舎の風景を見させてもらう
この辺りは稲刈りの最中であった。20-30人くらいの集団で刈取りと脱穀作業をこなしている。3年前の大参事などなかったかのように,人々は陽気に写真を撮れと言ってくれる。
ここの稲刈りは稲の高さの半分くらいのところで切っている。腰には1斗かんを下げており,刈り取った稲穂はその中に押し込んでいる。運搬の手間を減らすために,そのような刈取り方法にしているようだ。
小さな子どもがいるので何個かヨーヨーを作る
子どもたちが何人か混じっていたので,お礼にヨーヨーを作ってあげる。稲刈りの人々の背後には新しい小学校の校舎が見える。おそらく,地滑りに飲み込まれた小学校の代わりに建設されたものだろう。
トライシクルでセントバーナードのバスターミナルに戻る
連絡橋のサマール島側でバスから降ろしてもらう
帰りのトラシクルはリロアン手前の橋のところで降ろしてもらい,橋の下の集落を歩いてきた。橋の上からはレイテ島とパナオン島に囲まれた湾のような地形がよく分かる。
パナオン島の北端はほとんど平地がなく,海岸沿いのわずかな平地に集落ができている。その向こうにはフェリー港があり,その先にリロアンの中心部が広がっている。さらに狭い海の向こうにはレイテ島西側の半島が青い影になっている。
串焼きのお店を手伝っている
橋の下に降りると二人の女の子が串焼きの露店の店番をしている。写真を撮ると希望者が集まってくる。この6人さんにはヨーヨーを作ってあげる。ここの子どもたちは写真好きなので一枚撮ると希望者が集まってくる。
魚市場では立派なマグロが解体されていた
魚市場に立ち寄ると70kgもの大きなマグロが解体されていた。日本では生マグロは1万円/kgはする。しかし,フィリピンでは普通の魚の2倍程度の値段であり,サンボアンガで確認した時は200ペソ/kgであった。
フィリピンでは一部のマリネを除き魚を生で食べる習慣はない。この立派なマグロもカツオと同じように水煮(スープ)かグリルになることだろう。次にフィリピンに行くときは醤油とわさびを持参することにしよう。ただし,安全性はまったく保証されない。
滞在2日目なのですっかり写真有名人になってしまった
バイクの一家乗りは珍しいことではない
フィリピンの自家用車はバイクである。とはいうものの国民の半数が貧困ライン(1日2ドル以下)で生活しているので,バイクをもっているのは中流以上の家庭である。そのバイクで一家が移動するのであるから,3人乗りや4人乗りは当たり前である。このバイクは5人乗りとなっており,これはちょっと乗りすぎだね。
夕方は岬の先端部でのんびり海を眺める
鏡のような水面にアウトリガーの付いた漁師の小舟が浮かんでいる。人影は見えないのでテントの下で午睡を楽しんでいるのだろう。
夕日の時間帯は17時30分であった
リロアンの小さな半島の先端から見る夕日は美しかった。西側にはレイテ島の南端に続く細長い半島が伸びており,夕日はその向こう側に沈む。17:20にはまだ明るさが残っており,小さな小舟の上に立つ漁師の姿がシルエットになっていた。
それから10分もすると雲が黄金色に輝き,海の上を黄金色の柱が雲に隠れて見えない太陽に向かって伸びている。夕日としては決して一級品のものではないが,暑さから少し解放されて眺める夕日は感動的であった。