スリガオはミンダナオ島の北東部がビサヤ諸島に向かって突き出している半島の先端部に位置しており,ミンダナオ島最北端の町である。マニラからサマール島,レイテ島を経由してダバオに向かう長距離バスがミンダナオ島に上陸するのもスリガオである。
人口は14万人,スリガオ・デル・ノルテ州の州都である。フィリピンにおける最小の行政単位である「バランガイ」の総数は54であり,このうち21はミンダナオ島周辺の島々にある。
町はスリガオ川の東側に広がっており,中心部は1km四方ほどにまとまっている。中心部から1.5kmほど離れた南東部の海岸にフェリー港があるが,リロアンからの船は北西部のリパータに到着する。
リロアン→スリガオ 移動
06時にチェックアウトしてトライシクルでフェリーポートに向かう。待合室のある建物の陸側に面した窓口で施設使用料(15ペソ)とスリガオまでの一般船室のチケット代(250ペソ)を支払う。
06:30に数人の乗客が動き出したので一緒に船に向かう。乗客の一人に「スリガオ行きですよね」と確認すると,「たぶんそうだよ」という頼りない返事であった。念のために船の関係者に再確認することにした。
船の名前はオーシャン・キングU号,所属はシーマリーン・トランスポートとなっている。フィリピンのフェリーにしてはきれだなと思っていたら,この船には天長丸という船名が残っており,日本の中古品であることが分かった。「天長丸」でネットを検索すると天草の牛深−蔵之元を結ぶフェリーが見つかった。
ほとんどの表示は英語に書き換えられており,塗装も新しくなっているようだ。ビジネスクラス(300ペソ)にはキャンティーンも備えられている。エコノミーは二層の屋根のある甲板に座席があるだけなので景色を見るのには都合がよい。
しかし,船はいつまでたっても出航しない。船員に確認しても「遅れている」ことしか分からない。08:10,定刻の07時から70分遅れで船は動き出した。すぐにリロアンの全景が見えるようになる。
西側の海上から見ると小高い丘から半島のような地形となっており,浜辺は水上集落が密集している。平地がほとんどないので,必要に迫られて水上集落を形成したように見える。
この絵のような風景はリロアンのページ(前ページ)の見出し画像に使用した。その左側は町の中心部であり,そこにはバススタンドや魚市場がある。
小山と半島のような地形はフェリー港の南西側に小さな湾を形成しており,港を出る直後にだけこの地形を見ることができる。
船は半島の先を回るように南に向かい,その辺りからは二つの島が橋で結ばれていることがよく分かる。パナオン島はレイテ島の脊梁山脈の一部であり,たまたま一部が現在の海面より低かったので島となった。
レイテ島の南西側は半島のような地形となっており,パナオン島と合わせて逆U字の奥行きの深い湾となっている。東西二つの低い山並みはしばらく続いており,それが途切れるとミンダナオ島の先端部がはっきり見えるようになる。こちらの先端部も地峡のような構造となっており,パナオン島との距離は20kmとは離れていない。
リロアンに向かうフェリーとすれ違う
レイテ島の最南端のあたりでリロアンに向かうと思われる同型のフェリーとすれちがった。こちらの船名は「Super Shuttle Ferry 18」となっていた。西側にはボホール島があるはずだが,確認できなかった。
しかし,湧き上がるような積乱雲が島のおおよその位置を示している。洋上では水分を含んだ大気は島の斜面を駆け上がり上昇気流となり,雲を生み出すことになる。
半島状のレイテ島の最南部が途切れても,パナオン島はまだ南に続いている。パナオン島とミンダナオ島の間の20kmほどの海域はスリガオ海峡と呼ばれている。大戦末期の1944年10月に米軍がタクロバンとその南側に再上陸したとき,日本海軍はこれを阻止するため総力をあげて「捷一号作戦」を遂行した。
このときの一連の海戦は「レイテ沖海戦」と総称されており,シブヤン海海戦,スリガオ海峡海戦,エンガノ岬沖海戦,サマール島沖海戦に細分される。米軍も太平洋方面の大半の軍事力を投入しており,太平洋戦争の一つの天王山となった。
結果は米軍の圧倒的勝利に終わった。日本軍は空母4隻,戦艦3隻,重巡6隻をはじめ多数の艦艇を失い,連合艦隊は壊滅した。その後はフィリピン,硫黄島,沖縄と玉砕戦が続き,B29による長距離爆撃は日本本土の都市を廃墟とした。
スリガオ港に到着する
リパータに到着するとフェリー桟橋には別の船が接岸しており,オーシャン・キングU号は桟橋の横に接岸しただけで,桟橋との間をつなぐものはない。
船員が金属製のはしごを取り付け,「お急ぎの方はここから下りてください」と伝える。僕は桟橋にいた船員にサブザックを持ってもらい,メインザックを背中に背負って,2.5mほどのはしごを降りた。
港で客待ちをしているジープニーは他の客は来ないと判断して動き出した。降りるとき荷物に気を回し,かつ運転手が「スリガオはいいところだろう」などと話しかけてくるので料金の支払いをすっかり忘れてしまった。
宿で料金のことに気が付いた。特徴のある絵柄のペイントを記憶していたので,外出のとき探してみた。すぐに公園広場の横に停まっているのを見つけ出し,運転手にお詫びしながら20ペソを支払う。
ファーマス・ロッジ
ファーマーズ・ロッジはかなり古い建物であった。内部は一部が改装中であり,シンナーの臭いが漂ってくる。僕の150ペソの部屋は2畳,1ベッド,トイレとシャワーは共同でまあまあ清潔である。共有部がけっこう広く,通りに面したベランダには机があり,ここで日記を書くことになった。
この宿も蚊との戦いで疲れた。夜は涼しいのでファンを止めて寝たらあちこち刺され,2時間おきに薬を塗ることになった。仕方がないのでファンを動かし,長袖のトレーナーを着て蚊の攻撃に備えることにした。睡眠の質が良くないため起床は06:20になった。
スリガオの食事は安くておいしかった
スリガオの食事は安くて変化に富んでいたので楽しいものになった。初日の昼食は市場の近くの食堂でごはんとチキン炒めで45ペソであった。味付けも見た目ほど濃くなく,おいしくいただくことができた。夕食は周辺の食堂が閉まってしまうのでジョリビーのハンバーガーセットで57ペソであった。
二日目の朝は散歩がてらに朝食の食堂を探しに出かける。サン・ニコルス通りを少し歩いたところに食堂があり,小魚の南蛮漬けの値段を聞いたら10ペソだという。フィリピンでももっとも安い部類に入る。
ちょうど野菜の煮物ができあがったので,そちらをいただくことにする。ごはんと合わせて20ペソである。夕食のミルクフィッシュの水煮は25ペソ,安くておいしい食事にごきげんである。
郊外のバスターミナル
町の中心部から4kmほど離れたバスターミナルまではジープニーが運行されている。ここでサンボアンガまでのバスについての情報を集めることができた。便がよさそうなものはBathelor Bus でスリガオ→ブトゥアン→カガヤンデオロ→サンボアンガの路線をもっている。
ルネタ公園の北側にある市庁舎
フィリピンの町はどこでも市庁舎があり,そのあたりが町の中心となっている。スリガオでも市庁舎,大きな公園広場,スリガオ大聖堂が北から南へと3つのブロックを形成しており,ここが町の中心となっている。
大小によらず炭焼きにする
フィリピンではこのような魚のバーベキューをよく目にした。60cmもある大きな魚をそのまま炭火で焼くので,表面はこげこげになる。とはいうものの炭火で焼いた魚なので十分においしい。
早朝に市場周辺では野菜の露店が並ぶ
青果市場では果物をよく買っていた。スリガオではマンゴーが中くらいのものが2個で18ペソ,アボガドは2個で16ペソであり,1日あたり17ペソでビタミンの補給をかねて幸せな気分に浸れる。
久しぶりのせいかアボガドはとてもおいしく感じられた。そのためか,種が大きくて果肉の部分が少ないような気がする。
ココナッツの栄養分は白い胚乳の部分にある
日本人はココナッツは中の水を飲むものと考えているが,その栄養分はほとんど白い胚乳に集中している。胚乳をくだいて乾燥させるとココナッツ・パウダーになり,砕いて水で煮詰めるとココナッツ・オイルがとれる。
したがってココナッツを買ったら,二つに割ってもらい,この胚乳の部分をスプーンなどで削って食べるのが僕の流儀である。スプーンがなくても大丈夫である。外側の殻を三角形に切ると立派なスプーンになる。
公設市場|ミルクフィッシュ
市場では建物の前で野菜などを商う人たちの写真をとる。小ぶりのマグロは十分に新鮮で刺身にできそうに見える。値段は1kgで90ペソと普通の魚と大差ない。
リロアンでは66kgの大きなマグロが解体されており,その値段は140ペソ/kgであったので,ここのものはかなり安い。その他に刺身にできそうな魚が何種類もあったので,調理のできる環境があれば,刺身三昧の暮らしができる。
魚市場でよく見かけるのはサバヒー(サバヒー亜目・サバヒー科・サバヒー属)である。台湾と東南アジアの島嶼部ではもっともよく食べられている魚であり,養殖もされている。白身がミルクのように白いことから,英語ではミルクフィッシュと呼ばれている。
公設市場|青とオレンジのものはニシキブダイ
魚市場ではカラフルなサンゴ礁の魚もたくさん並べられている。「ラハダトゥ」のページでも紹介したが青とオレンジ色のものはニシキブダイ,薄茶色の地味なものはクサビベラであろう。
コメの値段
市場でのコメの価格は1kgあたり34-37ペソであった。3月中旬に到着したサンボアンガでが30-38ペソであったので少し高くなっている。フィリピンでは一人平均で1年間に145kgのコメを食べる。1ヶ月あたりでは12kgである。コメの値段が1kgについて40ペソになると480ペソの出費となる。必要カロリーの7割程度はコメに頼っている。
フィリピン人の半数は1日2$(約100ペソ),1/4は1日1$(約50ペソ)以下の生活水準と考えられるので,収入の1/6あるいは1/3はコメ代になる。国際的なコメ価格は需要の増加により値上がり傾向にある。
人口の増加にコメ生産が追い付いていないため,世界最大の輸入国となっているフィリピンにとっては政府供給米の逆ザヤも大きな負担になっている。
スリガオ大聖堂は公園のすぐ南にある
スリガオ大聖堂は公園のすぐ南にあり,全景を撮るのは難しい。大聖堂は現代的な建築であり正面右側に鐘楼を備えている。内部は普通の十字架プランであり,十字架の上部に相当するところが祭壇となっている。
9時前であるが結婚式が行われている
内部では結婚式が行われていた。カソリックの多いフィリピンでは結婚は厳粛な儀式であり,聖職者がそれを執り行う。結婚する男女は祭壇の前で「永遠の愛」を誓う。
結婚の誓いの中にある「死が二人を引き離すまで・・・」という一文はカソリックではそのままの重みをもつ。カソリックでは原則として離婚は認められておらず,フィリピン人同士の婚姻においては離婚はできない。
フラワーガールにしてはちょっと大きいので普通の出席者かな
イコンのような聖母子画
大聖堂の左右の壁面には聖母やサント・ニーニョ(幼きイエス)の像などに混じって額に納められた聖母子画が飾られていた。木製の重厚な額のせいかこれはイコンのように見える。イコン(聖像)は東方教会固有の信仰対象であり,その形式は教会の教義により厳格かつ細密に規定されている。
ユダヤ教および初期キリスト教においては偶像崇拝を禁止する立場から,神を描写することが禁止されていた。それでもキリスト,聖母子像,聖人のイコンは東ローマ帝国内に広まっていった。
キリストを神とするならばこれは明らかに教義に違反するものであり,730年にはイコン崇敬を禁じる勅令が出されている。しかし,「三位一体」の教義が確定し,神の子でありかつ人の子であるキリストの「人としての姿」を描くことは認められるようになった。
14時に戻るともう一組の結婚式が行われていた
午後に大聖堂を訪問するともう一組の結婚式が行われていた。こちらはすでに儀式は終了しており,親族や友人たちとの記念撮影に入っていた。
結婚式の写真や映像を残すため,専門のカメラマンやビデオ撮影者が一部始終を撮影している。ビデオでは照明を使用するので,それに便乗すると明るい写真が撮れる。
おめかしをしたフラワー・ガール
結婚式ではバージン・ロードに花をまく少女が必ず登場する。だいたい同じような衣装で身を飾っている。彼女たちがもっているかごの中にはまだ花びらが残されている。
もちろん,自分たちの役回りがどのような意味をもってるのかは理解していないのであろう。大人に言われるままに花びらをまいた後はけっこう退屈しており,僕の写真に喜んで入ってくれた。
スリガオ川の橋の上から内陸部を眺望する
洗濯を片付けて北西のリパータ方面に歩き出す。スリガオに来るとき風景がきれいだなと思った道である。天気が良くて体感温度は35℃くらいだ。
周辺には養殖池のようなところがいくつかあるが,現在も使用されているかどうかは不明だ。スリガオ川に架かる大きな橋がある。ここはだいたい町はずれになる。
川はほとんど河口に近く200m先はもう海になっている。陸側は遠くの山に向かってほとんど流れのない水面が続いている。
橋の手前に海岸に出る道があった
大きな橋の手前に海岸に出る道があった。この海岸はヤシの実の殻が散乱していることを除くときれいなところであり,水質も悪くない。
改装中のホテルのような建物があり,その前の海は網で囲われていた。ここで4人組の子どもたちに写真をせがまれた。写真のあと彼らはサリサリ・ストアで1-2ペソの氷菓を買って家に戻っていく。
僕もなんとなく彼らの後をついて行き,子どものたくさんいる家にたどりつく。写真のお礼は5個のヨーヨーと3個のフーセンになる。
奇妙な植物
なんとも奇妙な植物である。茎のところからねじり曲がった種子の入った緑色の豆のさやのようなものがびっしりと付いている。今までこんな植物は見たことがない。
グンバイヒルガオのほふく前進>
砂浜にはハマヒルガオが大きな群落を作っていた。帰国後にwikioedia で調べてみると葉の形から同種の「グンバイヒルガオ」であることが分かった。習性はハマヒルガオと同じである。つるのようなライナーを出して着実に生息域を広げていくが,つる植物ではなく匍匐性植物となっている。
見分け方はハマヒルガオの葉は腎臓のように一部が欠けた円形であるのに対して,グンバイヒルガオはその名の通り軍配のように二つに折れるような形状をしている。
亜熱帯の海岸ではグンバイヒルガオが優勢だという。非常に強い植物のようで砂浜の一角はこの植物で完全に埋め尽くされていた。また,種子は海水に浮き,潮の流れに乗って分布域を広げるという海浜に非常によく適応した植物である。
こうしてみるとスリガオはほとんどゼロメートル地帯である
お姉さんが肩車で歓迎してくれる
海岸と陸の間に入江のような水面があり,そこは小さな子どもたちの遊び場になっている。僕がカメラをもって近づくとパフォーマンスを見せてくれた。この子どもたちも写真好きで何枚も撮ることになった。
ニッパヤシとココヤシが一緒にある風景は珍しい
ココヤシとニッパヤシが近くにあったので写真にした。ココヤシの実は食料になり,ニッパヤシの葉は屋根を葺く材料になる。どちらも地域の人々にとっては重要な資源である。
ココヤシは海岸にも生えるが1日の半分くらい水に浸かる環境では生きられない。それに対してニッパヤシは水辺の植物であり,水路の近くや湿地を生息環境としている。そのため二つの植物が同じ場所に生えていることはあまりない。それが,ここではうまくフレームに入ってくれた。
干物を作る
フィリピンでは魚の保存食として干物もよく利用される。ここにあるものは魚が小さいため,そのまま丸干しにされている。日本のように出汁をとるためのではなく,戻して野菜などと一緒に煮込んで食べることが多いようだ。
帰りはトライシクルに拾われて町に戻る。僕は地元価格の15ペソを手渡そうとしたが,運転手はどうしても受け取らなかった。フィリピンではよくこのような「hospitality」に出会うことがある。
しかし,どこの国でも良い人もいれば悪い人もいる。どのようなどきでも100%人を信用するのは危険だということを思い起こす必要がある。
スリガオの北東および東側には多数の小島が点在している
フェリー埠頭近くの小さな桟橋から海辺の集落を眺める
町の北東部にあるフェリー埠頭はどちらも立ち入り禁止となっていた。しかたがないのでその先にある小さな桟橋で写真を撮る。この客船は近代的な船にもかかわらず,両側にアウトリガーという安定板が取り付けてある。そのため桟橋には接岸することはできず,船首を桟橋に近づけて,その間に渡し板をかけて乗り降りする。
今日も雲行きが怪しくなる
スリガオでもけっこう雨にたたられた。雨は町歩きの大敵である。近くに雨宿りのできる場所がないと町まで戻らざるざるを得ない。今日も雲行きが怪しくなり,トライシクルで宿に戻る。案の定,しばらくすると強い雨が降り出した。