カルバヨグは人口12万人,サマール島北部の西海岸に面した町で西サマール州の中心地である。町は海岸沿いに走る幹線道路を中心に広がっており,名前不明の川が町を東西に分断している。
町の中心部はこの川のあたりで,西側にはバススタンド,東側にはシティホールや聖ペテロ・パウロ教会がある。川の河口の西側は干潟になっており,市民の植林した(と思われる)マングローブ林が広がっている。
東側はコンクリートの突堤になっており,ここには魚市場があり,横の川は漁船の船着き場にもなっている。町の主要産業は漁業であろう。多くのアウトリガーを備えた漁船が河口の船着き場や,南東側の海岸に停泊している。
ガイドブックにはカルバヨグの周辺に滝や鍾乳洞があると記されているが,個人的に回るのは困難であった。
分岐点で降ろされる
レガスピ(06:00,90ペソ)→イロシン(09:00,25ペソ)→マトゥノグ(09:45,132ペソ)→アレン(11:45,80ペソ)→カルバヨグ(13:15)と移動した。
昨夜は19時頃から断続的に強い雨が降った。04時を過ぎても上の屋根から水が下のトタン屋根響いている。半分寝ぼけながら今日の移動は大丈夫かなどと考えていた。幸い05時には雨は上がっていた。トラシクルでローカル・バススタンドに向かう。残念ながらここからはサマール島に向かうバスは出ていなかった。そのためイロシン,マトゥノグで乗り換えとなった。
食事はバススタンドの食堂で中皿に入った焼きそばが18ペソだ。一方でファストフードは100ペソあるいは150ペソもするのにずいぶん盛況である。中産階級の増加がファストフード店を支えているようだ。
ここがルソン島の南端
バスは定刻に出発した。ダラガでたくさんの乗客が増えほぼ満席に近くなる。大きなゴミ処理場があり,子どもを含めた10数人が資源ごみを回収している。
左前方に上部が雲に隠された大きな山が見える。おそらくブルサン山であろう。周辺にはヤシの木が多く,水田は相対的に少ないので見通しはよくない。ジャンクションポイントで3人の乗客が降ろされた。
ヨーロピアンとフィリピーナのカップルはトライシクルで移動していった。フェリー港のあるマトゥノグまでは150ペソと運転手は口々に言う。
僕はそのままジープニーを待ち続けることにする。10分も経たないうちにジープニーはやってきた。フェリー港の入り口近くには「ここでルソン島とはお別れ」という案内板があった。
マトゥノグのフェリー港
ジープニーは港のすぐ手前で止まってくれた。しかもすぐに船が出るというので,昼食はお預けで乗船する。待合室では乗船券と勘違いして保険(15ペソ)をかけてしまった。
死亡時が1万ペソ,医療費で1000ペソとなっており,これはまったく役に立たない。それにしても相対的にずいぶん保険料が高いような気がする。フィリピンのフェリーはそのくらい危険ということなのかな。
海岸と子どもたち
船の上からはヤシの木と小さな家屋が点在するマトゥノグの海岸が一望できる。子どもたちが船の近くで泳いでいる。やはり,海辺の町の子どもたちである。泳ぎは達者だ。
カルバヨグのバスターミナルに到着する
2時間ほどでサマール島の最北部にあるアレン港に到着する。ここでもカルバヨグ行きのジープニーが待機しており,またもや昼食はお預けである。車内は超満員で身動きもままならないほどだ。道路のコンクリート舗装にひび割れがあり,ときどき大きく揺れる。
カルバヨグではバススタンドのところで降ろしてもらった。ガイドブックに記載されている「シーサイド・イン」まではトライシクルで50ペソもすると告げられ,周辺で宿を探すことにした。
City Lodge はバススタンドのすぐ横にある
幸いバススタンドの東隣に「City Lodge」があり250ペソで泊まることができた。部屋は6畳,1ベッド,トイレ・シャワーは共同で清潔である。部屋には机もあり設備には問題ない。
難点はシャワー室が異常に狭いことである。これでは脱いだ服が濡れてしまう。もっとも,暑い時期のフィリピンでは服が濡れることはさほどの問題ではない。
お手製の凧を運ぶ
凧揚げの主役は男の子で,凧はほとんどが手作りだ。日本でも僕が子どもの頃(昭和30年代)には凧は自分たちで作るものであった。当然,できの良いものと悪いものがあり,凧作りの上手な子はスターであった。
凧,ゴム動力の飛行機,メンコ,ビーダマ,メンコ,チャンバラ,カンけり,馬乗り・・・,当時の子どもたちはお金のかからない方法で楽しさを工夫していた。
遊びの中にさまざまな技術があり,それらをは心身の成長につながったと思っている。子どもたちの間の協調性も遊びの中から身に付いた要素も多い。
こうしてみると人間にとっての幸せとはなんなのだろうと考えさせられる。子どもの頃に比べると比較にならないほどモノは溢れ,快適な生活となっている。
しかし,当時に比べて日本人は幸せになっていないだろう。それは日本人の幸せに対する感性あるいは感度が大きく低下しているせいだろう。貧乏や苦労の中でも幸せを見つけることができるが,豊かな生活の中でも幸せを感じられない人も多い。
市場に着いたら大雨になる
川沿いの突堤にある魚市場に到着したら,予告なしに大雨となる。シートが屋根代わりとなっているところから水が激しく落ちてくる。しかし,周りの人たちは落ち着いたもので,商品にビニールシートをかけて雨宿りとなる。
ノコギリガザミ
魚市場にはヒモでしばられたドロガニ(ノコギリガザミ)がたくさん売られている。ガザミは日本では「ワタリガニ」と呼ばれることが多い。
このカニはマングローブの根元の泥の中で暮らしているので,マングローブガニとも呼ばれている。正式な名前かどうかは分からないが,僕は「ドロガニ」と呼んでいる。
挟みの力がとても強いので取り扱いには注意が必要であり,穴の中に入っているカニを素手で取り出すのはなかなか大変な作業だ。他のカニやエビと同じように黒褐色の甲羅はゆでると真っ赤になる。
ウツボの仲間は日本でも食用にされる
市場にはウツボ(ウナギ目・ウツボ亜目・ウツボ科)も並べられている。ウツボ科には200種が知られており,世界中の熱帯から温帯にかけての暖かい浅海に生息するものが多い。
日本でもウツボ(学名: Gymnothorax kidako)だけが食用となっている。とはいうもののヘビを連想させる姿のため,特殊な事例に限定されるようだ。僕も今まで食べたとことはない。
鋭い歯と大きな口を持つ大型肉食魚であり,最大で4mほどにもなる。ウツボ類の口は肉食魚類としては小さい。しかし,捕えた獲物をを食道に進めるための「咽頭顎」を持っている。
この構造によりウツボは大きな獲物を飲み込むことができる。この顎の構造は上顎と下顎が補助骨を介してつながっているため,体に比してずいぶん大きなものを飲み込むことのできるヘビ類に類似している。
突堤通りで出会った子どもたち
突堤の陸側には民家が並んでおり,子どもたちの姿も多い。カメラを向けると喜んで被写体になってくれる。東南アジアの子どもたちは概して写真は撮りやすい。中でもフィリピンはもっとも子どもたちが友好的な国である。
実はこの国の友好性は子どもに限ったことではない。フィリピン人の国民性を表す言葉を一つだけ選ぶとすれば「hospitality」であろう。外国人を含め知らない人にもこころのこもったもてなし,歓待をする。「hospitality」に裏打ちされた陽気で明るい国民性は僕にとってはとても居心地のよいところに感じる。
楽観的で陽気な国民性の反面,フィリピンの所得配分には著しい不公平がみられ,国民の27%は1日・1人・1ドル(46ペソ)以下という絶対的貧困の状態に置かれている。
貧困ラインを1日2ドル以下とすると国民の半数以上は貧困層ということになるだろう。経済が多少成長しても,高い人口増加率がそれを打消し,フィリピンの貧困問題は解決の糸口が見えない。
コンクリートと石積みの突堤の間は水路になっている
川の東側にはコンクリートの突堤,川の西側は大きな岩を積み重ねた堤防のようになっており,川は水路のようになっている。この水路にはたくさんの漁船が停泊している。突堤には魚市場があり,水揚げは市場の裏側,つまり突堤の東側で行われている。
水路にはたくさんの漁船が停泊している
この地域の漁船は両側に左右方向の安定性を高めるアウトリガーと呼ばれる補助装置を取り付けてある。子ども用自転車の補助輪と同じようなものだ。
このような構造をもった船をフィリピンでは「バンカー・ボート」と呼んでいる。小さいものは長さ2mほどのものから,大きなものは50人ほどの乗客を乗せるものがある。
石積み突堤の先は大きな干潟になっている
川の西側には干潟が広がっている。川の運んできた泥は長い年月をかけて遠浅の地形を生み出した。このような淡水と海水が入り混じるとこでも生育できる樹木があり,それらを総称してマングローブという。
干潟は潮の干満により大きく表情を変え,引き潮のときには広い泥地となる。ここは子どもたちの格好の遊び場所となっている。
干潟にはマングローブの林がある
この干潟にはマングローブの林があり,あちこちに若木が育っている。マングローブの種子は親木に付いているときに発芽し,ある程度成長したところで落下する。そのまま泥地に刺さって成長するものもあれば,水に浮いて移動し,新たな土地で成長を開始するものもある。
特異な環境である干潟のマングローブ林は海の生物のゆりかごとなっている。マングローブの複雑な根により大きな捕食動物が入り込めないので,そこは多くの生物の子どもたちが育つ場所である。
マングローブの落ち葉は,海域の栄養分に還元される。マングローブは沿岸漁業資源の要であり,それを失うと,海の生産性は大きく減少する。
フィリピンでも薪炭材の需要,エビ養殖などにより多くのマングローブ林が破壊されたが,ようやく人々もマングローブ林の重要性に気が付いたようだ。
林から少し離れたところでは,同じくらいの若木が育っている。おそらく,人々が植林したものであろう。干潟が一面に緑に覆われると,この地域の漁業も持続可能な形態に移行できるかもしれない。
子どもたちは波打ち際で水遊びをしている。靴をはいている僕はそこまで行くことはできない。でも子どもたちのほうからこちらにやってきてくれた。
水はきれいであり,フィリピンでもっとも貧しい島の一つとされるサマール島には豊かな自然が残されている。暴力的な経済成長ではなく,この自然を損なわない持続可能な経済運営や社会の発展が求められている。
一緒に干潟にやって来た子どもたちの記念写真を撮る
川の西側は大きな岩を並べた堤防のようになっている。干潟にアクセスするにはこの堤防を伝っていくのがもっとも確実だ。潮が満ちると干潟もマングローブの根も水面下に沈む。そのような状態の写真を撮りに行くと,子どもたちが僕のあとをついてきて,記念写真となった。
漁港から東側にある海岸をしばらく歩いてみる
突堤の東側は海岸に沿って幹線道路が続いている。この辺りは漁師の縄張りのようだ。多くの漁船が停泊しており,遠くには見張り小屋がある。サマール島の西側には小さな島が点在しており,少しかすんで風景の一部となっている。
この地域の魚の燻製づくり
大きなざるの上に乗せて煙でいぶす
水揚げされた魚はほとんどが鮮魚として市場で取引される。余ったものは保存食となり,ここでは開きや丸干しと並んで燻製も多かった。海岸にある家で燻製作りの様子を見学することができた。
三連の土製のかまどのような構造体があり,その上に鉄棒を組み合わせた網を敷く。魚はその上に並べられ,ザルが被せられる。かまどでどのように火を焚くのかは分からないが,結果は立派な燻製となっていた。
陸側にはこんな風景もある
地域の主要産業は農業と漁業であろう。町から少し陸側に入るとこのような農村風景も広がっている。フィリピンは緑の革命により一時期,コメの自給を達成したが人口増により再び輸入国になっている。2010年の生産量は精米ベースで1080万トン,輸入量は250万トンとなっており,世界最大のコメ輸入国となっている。
フィリピンの人口は9200万人,1人当たりのコメ消費量は150kg(日本は70kg)である。現在のフィリピンではコメが主要なカロリー源になっている。ところがコメ生産量の伸びは人口増加を下回っており,輸入量は拡大傾向にある。
今後40年間で増加する5400万人分の食糧を輸入に頼ると,2050年のコメ輸入量は1000万トンにもなる。それは世界のコメ貿易量の1/3に相当する。人口増加の抑制はこの国の至上課題なのだ。
サツマイモはタガログ語でカモテ
この地域では重要な補助食料となる
潮が満ちているので小さなマングローブは水の中となる
突堤は凧揚げにとってかっこうの場所だ
カルバヨグではときどき雨に見舞われた。亜熱帯の雨は夕立のようなもので,30分ほど全力で降り,その後は晴れ上がる。すると子どもたちが外に出てきて凧揚げが始まる。突堤の上は障害物が少ないので,かっこうの凧揚げポイントとなる。
聖ペテロ・パウロ教会
カルバヨグのシティ・ホールのすぐ近くに「聖ペテロ・パウロ教会」がある。カソリック人口が多いフィリピンでは教会はコミュニティの中心となっている。この教会は二人の聖人の名をもっている。
「ペテロ」はキリスト12弟子の一人で,聖書の外典ではキリストの昇天後にローマで宣教し,逆さ十字架にかけられて殉教したとされている。
「パウロ」はキリスト12弟子には含まれておらず,ユダヤ教徒の立場からキリスト教徒を迫害する側についていた。しかし,復活したキリストの声を聴き,目が見えなくなる。
ダマスカスでアナニナにより癒されたパウロはキリスト教徒に改宗し,初期のキリスト教教義の確立に大きな影響を与えた。このような二人の聖人の名前をもつ教会がこの町にある。
聖堂の正面祭壇では聖週間のミサが行われている
4月の第2週はキリストが布教のためエルサレムに入り,ユダヤ教の大祭司により捕えられ,十字架に架けられたことを記憶するため「受難週(プロテスタント)」あるいは「聖週間(カソリック,聖公会)」と呼ばれる。世界中のキリスト教国では受難週の各曜日における出来事を福音書の記述に従って再現する行事が行われる。
聖週間のミサのため広い聖堂は満席である
カソリックのフィリピンでは「聖週間」の呼び名が一般的だ。4月8日は水曜日であり,10日が「聖金曜日」となり,この日にイベントが行われる。聖週間の間,教会では毎日何回もミサが行われ,毎回大勢の人々が参加する。
カルバヨグは4月10日に出ようと考えていた。チェックアウトしてバススタンドに行くとどうも様子がおかしい。バスは1台もいないし,食堂も閉まっている。
少し英語の話せるおじさんが「今日は聖金曜日なのでバスは無いよ」と教えてくれた。宿に戻り再びチェックインすることになった。おかげで,この町の聖週間の行事を見ることができた。
子どもたちが青いマンゴーを売っている
教会の横の道路ではこれからキリスト受難劇が執り行われる。その人出を見込んでのことか,青いマンゴーの店が出ていた。店番は子どもたちである。
フィリピンでは未熟なマンゴーを野菜か漬物のように食べる。酸味が強いので軽く塩をかけるとさわやかな味に変わる。この日は2回いただき5ペソの出費となった。
キリスト受難劇|ローマ兵に足蹴にされるイエス・キリスト
幹線道路でキリスト受難劇が始まった。当然,道路は通行止めとなる。この場面はローマ兵により総督邸に連行されるキリストである。キリストの時代にこの地域を支配していたのはローマであり,皇帝の代理人として総督を置いていた。
キリスト受難劇|口々に死刑にしろと叫ぶ
ローマはユダヤ教の改革者であるイエス・キリストに対しては中立の立場であり,まだ罪人と決まっていないときに兵士が劇のように暴行を加えることはなかったことだろう。
観客の中で長衣を身に付けている人々はエルサレム市民の役で劇に参加している人々である。人々はキリストを指さし,何かを叫んでいる。聖書の内容からすると「死刑にしろ」と言っているのだろう。
キリスト受難劇|総督ピラトが判定を下す
聖書の記述では捕えられたキリストは大祭司のところに連れて行かれた。そこでキリストが「人の子が全能の神の右に座り,天の雲に乗って来るのを見る」と述べたという。これは大祭司にとっては神を冒涜する言葉であり,人々は死刑にすべきと叫んだ。彼らは翌日イエスを総督に引き渡した。
総督のピラトはキリストに罪を認めることはできなかった。しかし,ユダヤの民はイエスの死刑を口々に叫び,最後にピラトは「この人の血について私には責任はない。お前たちの問題だ」と言って,イエスを鞭打ってから十字架にかけるために引き渡した。
キリスト受難劇|十字架をかつぎゴルゴダに向かう
イエスは十字架を背負いゴルゴダの丘までの道を歩くことになった。兵士たちは茨の冠をかぶせ「ユダヤ人の王,万歳」と侮辱した。イエスは他の二人の罪人と一緒に十字架に架けられた。ユダヤ教の祭司長や律法学者や長老たちは「今すぐ十字架から降りるがいい,そうすれば信じてやろう」と侮辱した。
聖週間の山車|十字架を背負うイエス・キリスト
この日は聖金曜日のため町の食堂はすべて閉まっており,食事に苦労した。結局,三食ともパンを食べて過ごすことになった。今日は聖週間のハイライトであり,教会のミサはほぼ満席状態である。
夕方になるとキリスト受難の像を載せた何台もの山車が教会の周囲にやってくる。子どもたちを目当ての露店も出ている。
聖週間の山車|十字架から降ろされたイエスを悼む聖母マリア
聖週間の山車|山車のあとをバランガイの人々が歩く
ミサが終了すると,人々は山車と一緒に町を歩き出した。山車ごとに集団ができているので,この山車はバランガイ単位で作られているようだ。路上では行進の様子をうまく撮れないので,近くの家の高い塀に上がり,腰をかけて写真を撮っていた。
行列の人々とあいさつを交わしながら,写真の枚数が増えていく。ざっと,1万人の人々がこの行列に参加していると推定した。教会の内部では十字架のキリスト像を拭いたり,その足に口づけする人々が長い列を作っていた。