亜細亜の街角
マヨン山を間近に見るルソン島南部の中心都市
Home 亜細亜の街角 | Legazpi / Philippins / Apr 2009

レガスピ  (地域地図を開く)

フィリピンで最大の島であるルソン島の大部分の面積は北部が占めている。中央部にマニラがあり,そこから南東に延々と地峡のような地形が600kmほど続いている。レガスピはその終端に近いところに位置しており,マニラからの距離は556kmとなっている。

レガスピのあるアルバイ州は面積2552km2,人口109万人(2000年),日本の県と比較すると面積は佐賀県(2439km2),人口は富山県(111万人)に近い。アルバイ州のあたりでは地峡の幅は50km,東はフィリピン海,西はフィリピン内海に面している。

州都のレガスピは人口16万人,州の東部海岸に位置しており,アルバイ湾を囲むように市域が広がっている。市の名前は16世紀にフィリピンを征服したスペイン人のミゲル・ロペス・デ・レガスピに由来する。もっとも,彼の名前もスペインの町に由来しており,バスク地方に同名の町がある。

アルバイ州のシンボルともいうべきマヨン火山(2462m)は州の中央部に位置し,ほぼ完全な円錐形の秀麗な裾野を広げている。マヨン火山はフィリピンでもっとも活動的な火山の一つでこの400年に50回も噴火している。

レガスピの市域はマヨン山の一部を含んでおり,市の中心部からの直線距離はわずか15kmである。マヨン山の周囲6kmは「永久危険区域」となっており,本来なら居住は認められないのであろう。

しかし,そこでしか土地をもてない多くの人々が村落を形成し耕作を行っている。貧しい人々にとってはそれ以外の生活手段はないのだ。マヨン山の周囲の道路は山頂からおよそ半径10kmの円になっており,この範囲が噴火時の危険地帯のようだ。

レガスピの街の西側にある「ダラガ」,その北側にある「カグサワ」は10kmの圏外にあるが,1814年の噴火では溶岩流が10km離れたカグサワを襲い,火砕流により1200人の死者を出した。

2009年末にも噴火し,周辺地域には避難勧告が出された。このとき避難した「永久危険区域」の住民は約5万人と報道されている。幸い,大きな噴火には至らなかった。

マニラからレガスピまではフィリピンでほとんど唯一の都市間鉄道が運行されていた。僕もマニラから移動するときは鉄道を利用しようとネットで情報を探していたら,2006年の台風のためマニラから50kmほどのところにある鉄橋が崩れ,復旧の見通しは立っていないとのことであった。

バナウェ(20:00)→マニラ→レガスピ(21:00) 移動

マニラに宿泊するつもりは無かったので,ルソン島縦断の大移動になってしまった。バナウエの宿から荷物を回収してバス乗り場に行く。バナウェ・ホテルの前の少し広くなった路上が乗り場となっている。

マニラに向うGLフロリダのバスは停車している時からエンジンを動かして車内を冷やしている。外気温は半袖では肌寒いというのにフィリピンの(冷房の装備されている)バスは律義に冷房を入れる。

もう少し臨機応変に対応したらと言いたくなるが,なんといってもバスの中では運転手が一番偉いのだ。車内では半袖,長袖のマイクロフリース,長袖のトレーナーを着込む。

普通,エアコンバスは個別の冷気噴出し口の調整ができるようになっているのだが,このバスはそれができない。後ろの人がカーテンを荷台に持ち上げて風を防いでいたのでそれに倣う。これでだいぶ楽になった。

バナウェから山を下り,1.5時間ほどで平地に出た。道路状態はとても良い。3回のトイレ休憩で外に出たが,寒気のマントを羽織っているような状態であり,外気の暖かさを感じることはできなかった。

バスは370kmを9時間で走り,05時にクバオに到着した。クバオはメトロ・マニラの一部となっており,エドゥサ通りの両側に多数のバス会社のターミナルがある。ここでマニラから地方に向うほとんどのバスをつかまえることができる。

バス会社のスタッフに二回聞いて,レガスピ行きのスーパー・ライナー社にたどりついた。出発時間は07時,遅くとも19時にはレガスピに到着できる計算であった。

バスは僕の好きなオーディナリー,つまりエアコンなしの車両である。料金も保険料を含め475ペソとエアコンバスの6割程度である。料金の安い分だけ車内は混雑していた。

座席は3+2の一列5人掛けである。僕は3人掛けの座席になり,しかも隣は体格のよい男性だったのできゅうくつな思いをした。バスは日曜日の渋滞に巻き込まれたため,マニラを出るのにずいぶん時間を要した。14時になると左側に海が見えるようになる。同時にココナツの林も目につくようになる。

工事区間が多くバスの速度は上がらない。スクール・ゾーンやNPA(フィリピン国家警察)のチェック・ポストでは道路の片側が交互にふさがれており,徐行せざるを得ない。ナガに到着したのは19時,ここからは乗客一人ひとりの要求で停車し客を降ろすことになる。

カタリーナ・ロッジ・ハウス

レガスピ到着は21時を回っており,おまけにそこは街から離れた空き地でトライシクルも見当たらない。僕とヨーロピアンの男性はバスの車掌にどうやって街の中心部に行くんだと詰め寄るが,そこの大きな通りでトライシクルを捕まえろという頼りない返事である。

幸いその通りには警官がおり,帰宅中のトライシクルを停めて港地区に行くように指示した。運転手は宿の場所が分からないというので,街の中心部にあるLCCデパートに行くよう告げる。そこから予定していたカタリーナ・ロッジ・ハウスまでは歩いて5分の距離だ。

LCCのところでヨーロピアンの旅行者と別れ,カタリ−ナに向う。幸い空室がありすぐにチェックインできた。180ペソの部屋は4.5畳,1ベッド,トイレとシャワーは共同,窓と机があり,まあまあ清潔である。この時間に開いている食堂は無く,近くの深夜営業のスーパーマーケットでパンとミルクを買って夕食とする。

昨夜はシャワーも浴びずに寝てしまった。今朝,あらためて24時間移動の埃をシャワーで洗い流す。洗濯も必要だ。フィリピンには安いランドリーがあり,このところそのお世話になっていた。

宿のスタッフに確認すると近くにはランドリーが無いということなので,久しぶりに手洗いをすることになった。洗濯物は廊下の突き当たりのベランダに干しておいた。風が出ると飛ばされる危険性はある。

レガスピの町

レガスピの町は「レガスピ港地区」と「アルバイ地区」に分かれている。距離は約1kmであり,二つの地区を結ぶリサール通りの両側にも家屋が続いているので町が分かれているという感じはしない。

鉄道駅や港湾施設は港地区にあり,ここが旧市街のような役割を担っている。マニラからレガスピまではフィリピン唯一の貨客鉄道で移動することを楽しみにしていたが,途中で何ヶ所もの不通箇所があり,現在は営業されていない。

港地区の中心はLCCデパート前の交差点である。ここは東西方向のリサール通りと南北方向のケソン通りの交差点がロータリーになっており,そこには巨大なオベリスク風の石碑が立っている。昨夜,トライシクルから下車したのはこのあたりだ。

これは戦没者慰霊塔とされている。フィリピンが大きな戦火に巻き込まれたのは第二次世界大戦だけなのでそのときのものかと思ったら,台座のところにある彫像には先住民のものもある。その姿はセブ島にマゼランが到達したとき彼と戦ったラプ・ラプの像と類似している。

この塔の英文名称は「Battle of Monument」なので戦没者慰霊塔とは意味合いが異なるものなのかもしれない。この塔は南側から撮ると,マヨン山を背景にしたおなじみのものになるのだが,マヨン山は10時頃になると雲に覆われることが多い。

ケソン通りの西側は大きな空き地となっており,夕方からはたくさんの屋台が店を開き,大いににぎわうことになる。僕は屋台の食事が好きなのだが,この町では宿のとなりにある食堂が安くておいしかったのでそこに通ってしまった。

ケソン通りは東端の埠頭から時計回りに港地区の商業地域を1/4周するように囲んでおり,その南側には小さな家屋の密集しているビクトリー・ビレッジがある。見方によってはこの通りは北側の山の手と南側の下町を分けている道路ともいえる。

宿はケソン通りの一本東側のペニャランダ通りにある。この通りでもっとも目を引くのはセント・ラファエル教会である。切妻屋根と鐘楼の組み合わせからなる白いファサードは均整のとれたものであるが,空中を這い回る電線が写真のジャマをする。僕の宿はこのすぐ左側にある。

滞在二日目に大勢の高校生がこの教会に集まっていた。集団でミサに参列するようだが,男子も女子も膝丈の白衣を手に持っている。彼らは制服の上に白衣を着て礼拝に臨んだ。う〜ん,お祈りの服装としては制服だけで十分だと思うのだが・・・。

この教会の向かいにはリサール公園がある。フィリピンでは独立の英雄「リサール」の名を付けられた公園や道路がいたるところにある。道路から奥に向って噴水池があり,その向こうにリサールの銅像がある。この公園は夜間はライトアップされ市民の夕涼みポイントとなっている。

公園の周辺はトライシクルの溜まり場になっている。また,この通りはジープニーの路線にもなっているが,目的の場所に向うものをつかまえるのは旅行者では難しい。近くの人の助けを借りて利用することになる。

無期休業のレガスピ鉄道駅

ペニャランダ通りを少し北に歩くと鉄道駅がある。ここはフィリピン国鉄の南線終着駅である。マニラから移動するときできれば利用したかったが一部区間しか運行されていないのではしかたがない。

建物の正面は石造りの立派なものである。しかし,列車が運行されなくなってから3年が経過しており,西に伸びる線路はさび付いている。

鉄道駅の近くから初めてマヨン山を見る

線路に沿って歩いてみると,マヨン山がきれいに見える。遮るものの無い場所を探して一枚撮る。想像以上に美しい山容である。山の上部は富士山より急になっており,山頂の平らな部分も小さい。

均整のとれた山容という点では富士山より上であろう。もっとも富士山がもっとも美しく見えるのは雪をまとった姿であり,その美しさはマヨン山にはまねができない。

線路は子どもたちの遊び場になっている

線路に戻り先に進むと両側には小さな家屋が密集している。線路と家屋との間はほんの2-3mしかない。現在は列車が通る心配はないので,線路は周辺の子どもたちの遊び場になっている。

人気のあるのはやはり凧揚げである。手製の凧でも良くできたものはわずかな風をとらえてはるか上空まで舞い上がる。もっとも,それには凧揚げの技術が必要なことはいうまでもない。

僕が子どもの頃はまだ凧揚げが遊びの一つとして生きていた。部品となる竹ひごと紙を買って,手製の凧を揚げる遊びが廃れてしまったのはいつ頃からだろうか。自分で遊び道具を改良したり,技術を磨いたりする子どもの世界が残されている地域を歩くと,なぜかとてもほっとする気分になる。

18世紀に建造されたバロック様式のダラガ教会

レガスピの町の西に位置するダラガは1814年の噴火でかなりの被害を受けた。しかし,石造りの教会はなんとか倒壊を免れた。このダラガ教会とその北側にあるカグサワの教会跡はレガスピの観光名所になっている。

町を一回りしてからカグサワに行こうとしたが,どうしても直行のジープニーが見つからず,ジープニーを乗り継いで港地区(7ペソ)→アルバイ地区(9ペソ)→ダラガと移動した。港地区からでもカリマグあるいはリガオ行きのジープニーを探せば直接行くものをつかまえることができたかもしれない。

実際,カグサワから帰るときは港地区まで直行のジープニーが見つかった。料金はよく分からなかったのでレガスピ・ポートエリアと言って20ペソ札を出すとおつりは帰ってこなかった。

アルバイ地区はSMシティやパシフィック・ショッピングモールなどの新しい商業施設が多い。SMシティはバギオやバコロドのものと同じようなものだ。3階まで吹き抜けになっており,その周りに売り場が並んでいる。

1階にはフィリピンでよく目にするファスト・フード店がすべてそろっている。朝食が軽かったのでグリーン・ウイッチでドーナッツと飲み物を(50ペソ)をいただく。

地元の人に聞くとパシフィックの周辺からカグサワ行きのジープニーが出ているとのことであったが,またもや見つけられなかった。ということで,まずダラガに移動することにした。こちらのジープニーはすぐに見つかった。

ダラガ行きのジープニーは心得たもので僕を教会の近くで降ろしてくれた。教会は丘の上にあるので少しばかり上らなければならない。坂の途中でぽつぽつと雨が降り出した。

ダラガは1773年にフランシスコ修道会により建造されたバロック様式の教会である。1814年の噴火で相当の被害を受けたようだが,現役の教会として機能している。もっとも,僕が訪問した時は正面の3つの入り口はすべて閉鎖されており,左側の比較的新しい建物から中に入った。

左の建物は壁面を教会と共有しており,通路のような構造の細長い空間には何体かのマリア像があった。その一つには「Our Lady of the Gate」と記されており,これはちょっと意味不明だ。キリスト教では天国の門を示すのはイエス・キリスト以外にはない。

左の建物の入り口上部には「Our Lady of the Gate Parish」という表示が出ていたので,ゲート教区の聖母ということになり,「gate」 は地区名であった。 礼拝堂内部はとてもシンプルな長方形の空間であった。天井はゆるいアーチ状になっており,壁面とともに木材の地肌を一部だけ残して漆くいに覆われている。

ファサードは切妻屋根の建物と建物に比してずいぶん大きな鐘楼の組み合わせである。白っぽい石造りの建物に見えるが,それが石の地肌の色なのかその上に塗られた漆くいが変色したものなのか判断がつかない。側面に回ってみるとその答えが見つかった。

石材は黒っぽいものでおそらくマヨン火山から噴出した玄武岩であろう。その上に漆くいが塗られている。一部の構造材には加工されていない丸石も使用されている。

地震の多いフィリピンでは「地震のバロック」と呼ばれる耐震構造の教会建築群があり,世界遺産にも登録されている。ダラガの教会にも一部に控え壁のような構造は見られるものの,顕著ではない。

教会には珍しくファサードは東に面しており,聖壇が西側にある構造となっている。そのため午前中が写真の時間帯である。教会の前は広場になっているので正面および正面右からの写真は撮りやすい。工夫するとマヨン山を入れた写真も可能であるが,構図としてちょっと無理がありそうだ。

ファサードは細かい彫刻が施されており,多くの聖人像が配されている。飾り柱にもらせん状の彫刻や紋章が彫り込まれており,とても印象深いものだ。

残念ながらマヨン山の噴火により,漆くいはかなり傷んでおり,往時の輝きからはほど遠い状況である。逆にそれこそが度重なる地震や噴火に耐え抜いてきた証でもある。

ダラガ教会からマヨン山を眺望することができる

ダラガ教会は丘の上にあるので北にそびえるマヨン山を眺望するポイントでもある。残念ながら午前中の遅い時間帯に入っており,マヨン山の上部は完全に雲の中である。やはり,雲のかかっていないマヨン山を見るには早朝にレガスピを出てダラガ教会→カグサワと移動するのがよさそうだ。

マヨン山から半径6km圏内は「永久危険区域」になっている。この教会は10kmほどのところにあり,大きな噴火が発生した場合は被害を受ける可能性は十分にある。にもかかわらず,教会からマヨン山の麓まではずっと家屋が続いている。「永久危険区域」内にも多くの人の生活圏がある。

火山灰地は地味が豊で農耕地に適しているのだ。インドネシアでもジャワ島とバリ島の人口密度はは他の大きな島と比較すると抜きんでて大きい。それは,火山性土壌の生産性の高さによるものである。

ダラガの子どもたちは笑顔がとてもよい

ガソリンスタンドで雨宿り

ダラガのメインストリートに戻りカグサワ行きのジープニーを探していると本格的な雨になり,ガソリンスタンドで30分ほど雨宿りである。

昼食はマックのスパゲティと飲み物で50ペソくらい

ここの店員からマックの近くからジープニーが出ていると教えられ,新装開店中のマックに行く。なんとなく空腹を感じてスパゲティを注文する。出てきたものは,なんと・・・,紙の箱にスパゲティが入っていた。

フィリピンのファスト・フード店でも経費削減のためか,容器は使い捨てのものが多い。今までは発泡スチロールのものが多かったので,紙はそれよりも環境にやさしい。しかし・・・,僕にとっては使い捨ての容器そのものが感性に合わない。

ダラガの町を襲った泥流

マックの近くで首尾よくジープニーが見つかった。運転手に「cagsawa ruin」と告げておいたら,幹線道路から分岐するところで降ろしてくれた。そこにはまさしく「cagsawa ruin」と書かれた看板が出ていたので,思わず笑ってしまった。

カグサワ教会跡は幹線道路から15分ほど歩いたところにある。その間には土砂に埋まったコンクリート製の家屋が点在している。これは,2006年11月30日にこの地域を通過した台風ドリアンによる泥流被害によるものである。

ほぼ完全な円錐形をしているマヨン山からは幾筋もの川がほぼ直線的に流れ出ている。周辺には火山灰や火山礫が厚く降り積もっており,大雨が降ると一気に流れ下ることになる。

これは火山地帯に良く見られる災害であり,1991年に大噴火したルソン島中部のピナツボ山は,三方に巨大な火山灰の泥流をつくり,周辺の家屋を飲み込んでいる。泥流は大雨の度に発生しており,20年近く経った現在でも大量の火山灰が川筋に残っており,泥流の危険性は去っていない。

日本でも1926年の北海道十勝岳の大噴火とそれに続く泥流被害が発生している。この大災害を扱った小説として,上富良野の開拓村に生きる人々を描いた「泥流地帯・続泥流地帯(三浦綾子著)」がある。

火山の近くで生きる人々にとっては避けられない災害ではあるが,多くの人々にとってはそこ以外には暮らしていける場所がないという重い現実もある。

マヨン山の周辺には多くの人々が集落を形成している。台風ドリアンによる午前11時からの6時間雨量は400mmを越えており,正午から午後2時にかけて泥流が発生した。

火山灰を大量に含んでいるので泥流と表現されているが,ダラガの現場を見た印象では岩石を含んでおり,土石流の方が適切かもしれない。泥流(土石流)はマヨン山の西部と南部に流れ下り,家屋損壊は12万棟,被災者は80万人,死者・行方不明者1000人という大きな被害をもたらした。

ダラガ周辺では「Budiao川」を流れ下った泥流が町の一部を飲み込んだ。この川は幹線道路からカグサワ教会跡に向う途中に横切ることになる。

そこに至る道は黒っぽい火山灰を踏み固めたものである。しかし,水はけは悪く道路いっぱいに水が出ている。泥流は大小の石を巻き込み,土石流となって家屋を埋めたようだ。

道路からは石が取り除かれていたが,周辺にはこんな大きなものが押し流されて来たのかと思わされる石がたくさん転がっている。石と火山灰はコンクリート製の家屋の内部に入り込んでいる。

「Budiao川」はそのすぐ先を流れており,堤防のようなものはないので,溢れた土砂が周辺に流れ出したようだ。「マヨン火山における泥流災害調査報告(速報)」には,災害直後の航空写真が掲載されている。それによると,カグサワ教会跡は周辺より少し高くなっているらしく,泥流はこの地域を挟むように流れていることが分かる。

川に出るとマヨン山が大きく視界に入ってくる。泥流の流れ去った川には黒っぽい火山灰が大量に残されている。水量は少なく,川の中では火山灰を採取する水牛が採取用の道具を引いている。川の山側は川よりも数m高くなっており,溢れた泥流は手前側に押出されたようだ。

カグサワ教会遺構

道路の続きのような橋を越えると土産物屋がある。大きな石を加工した彫像が並んでいる。これらの石もマヨン火山から噴出したものなのであろう。橋の向こう側には広場があり,それを囲むように土産物屋が並んでいる。カグサワの教会跡はこのあたりの観光名所であり,訪れる人は多い。ほとんどの人は車でここまでやってきて,広場に駐車している。

ゲートをくぐり,公園風に整備されているところに出ると,マヨン山を背景にカグサワのシンボルになっている鐘楼が見える。1814年の噴火により鐘楼を残し礼拝堂は完全に破壊された。近くには崩れた建物の残骸が残されているだけだ。

1814年の噴火はVEI=4とされている。VEI(Volcanic Explosivity Index)は地震のマグニチュードのように火山噴火の大きさを表す指標で,噴出物(テフラ)の体積の対数の形で表される。ただし,地震のエネルギーの算定よりははるかに困難であり,そのためVEIも国際的に広く認知された尺度はない。

火山噴火のエネルギーの大きさは噴出物の質量で表現したほうがより近い数値になる。噴出物の体積をもとに算定されたVEIは爆発の大きさを定量化した指標である。静かに溶岩を流出する噴火はどんなに大量のマグマを噴出しても「VEI=0」となる。

とはいうものの世界の噴火カタログではVEIにより指標化されているのでこの数値を使用せざるを得ない。このカタログをウェブ・サイトで公表いているのは「スミソニアン博物館の火山サイト」である。ここには過去1万年の巨大噴火のカタログが掲載されている。もちろん,その中には日本の火山のものも含まれている。

VEIは噴出物(テフラ)の体積の対数の形で表されるので数値が1大きくなると噴出物の体積は10倍になる。VEI=4の噴火による噴出物量は0.1-1km3である。20世紀最大の噴火とされている1991年のピナツボ大噴火はVEI=6,噴出物は10-100km3である。

スミソニアン・カタログから日本の火山に関するVEI=4のものをチェックすると1929年の北海道駒ケ岳,1914年の桜島,1988年の会津磐梯山が出てくる。この100年,日本は火山活動に関しては比較的平穏だったようだ。

歴史上最大級の噴火は「超巨大噴火」と呼ばれVEI=8となっている。噴出量は1000km3を越え,これほどの噴火は米国のイエローストーン,ニュージーランド北島のタウポ,インドネシア・スマトラ島のトバの3ヵ所だけである。

NHKの「近未来予測」という番組で,イエローストーンが超巨大噴火を起こしたらどの程度の被害となるかをドラマの形で説明している。イエローストーンでは過去200万年の間に少なくとも4回の超巨大噴火が発生している。

番組では(意識的にか)触れられていなかったが,降灰,火山性噴出物による気候変動になどにより米国だけではなく,現代文明は壊滅するであろう。これは,最大級の地震(M=9)よりも桁違い(およそ1000倍程度)に大きな破壊力をもっている。

マヨン山の場合は周辺に暮らす人々が多かったため,VEI=4の噴火にもかかわらず大きな人的被害につながった。噴火により破壊された教会は再建されることはなく,鐘楼だけが寂しく立っている風景となっている。

この鐘楼は最近,化粧直しが行われたようだ。僕のガイドブックには上部に樹木を生やした写真となっているが,現在の鐘楼はそのほとんが刈り取られている。それにしてもここは観光客が多い。僕は観光地域を外れ,マヨン山を見に行く。

地元の子どもたちのようだ

こちらはかわいい観光客

このあたりは火山から12kmほどしか離れていない

北側には水田がありそろそろ稔りの季節を迎えようとしている。黄色く色付いた水田の向こうに,雲が少しとれたマヨン山がそびえている。フィリピンの人々はここから見るマヨン山がもっとも美しいとしている。

水田とマヨン山だけではちょっと芸がないので地元の子どもたちに写真に入ってもらった。彼らへのお礼にヨーヨーにする。近くには土手があり,その手前の湿地では水牛がのんびりと草を食んでいる。僕が彼の警戒距離以内に入ったのか,水牛は不安そうな眼差しで僕をじっと観察している。

土手の向こうには小川が流れている。水はけっこうきれいであり,流れも早い。この程度の土地の傾斜なら相当の速度で泥流は流れ下ることができるだろう。水田に戻ると収穫した籾を袋に入れた人々がゆっくりと土手に沿って歩いていった。噴火や泥流がなければここは豊かな農地なのだ。

夕食は宿の横の食堂でいただく

暗くなったら歩き回らない主義なので夕食は宿の横の食堂でいただいた。ごはん,魚の素揚げ,ゴーヤチャンプルーのメニューは38ペソである。ゴーヤチャンプルーは沖縄の定番料理であり,かっては日本よりも中国や東南アジアと関係の深かった琉球王国を思い出させてくれる。

LCCの西側の空き地は夕方から食べ物屋台が出る

夕方になるとケソン通りに面した空地には食べ物の屋台が出てとてもにぎやかになる。このような雰囲気は鋤なので,事前に知っていれば夕食はここでいただくことになったことだろう。翌日の夕方,再びトライしようするとものすごい雷雨となり近くの建物に避難することになった。

昼間はこのようになっている

マンゴーは2個で30ペソ,パイナップルは10ペソ

東南アジアや南アジアでは熱帯の果物を毎日のようにいただいていた。今日の買い物はパイナップル(10ペソ)とマンゴー2個(30ペソ)である。パイナップルは外側の固い部分をきれいに取り去ってくれたものなので,切ればそのままいただくことができる。さすがに一日でこの量をいただくわけではなく,二日分である

06時30分|マヨン山に雲がかかっていない!

05:30に起床,トイレに行きたくなって共同のシャワールームに行くと使用中であった。15分後に再び行くとやはり同じ状態であったので思わずノックをしてしまった。ノックは使用中かどうかの確認というよりは「早く済ませてくれ」という意味合いが強い。

朝食もとらずに港地区の南側にある「カプントゥカンの丘」を目指す。ここはマヨン山を背景にした港地区を一望できる場所である。マヨン山は10時頃になると雲が出てくるので眺望時間は早朝と夕方である。

港湾地区を抜けてカプントゥカンの丘に行こうとするが・・・

ガイドブックには港湾施設のあるところから丘に登る300mほどの道が記載されている。ところが・・・,港湾施設は関係者以外立ち入り禁止になっており,先には進めない。

しかも,港湾施設と少し陸側の人口密集地区であるビクトリー・ビレッジを分断するコンクリート製の高さ4mほどもある壁ができており,どこからアクセスしてようか見当がつかない。

分離壁の生活区に入り丘の上から絶景を眺める

おそらく,ビクトリー・ビレッジの中を抜けて行くのだろうと考え,壁の門をくぐって中に入る。僕はこのような地域を歩くのに慣れているが,普通の観光客はあまり近寄らないほうが無難なところだ。

壁に沿って小さな道が続いており,上に登る石段が見つかった。しかし,この道は丘の中腹を回りこんで西に抜けるものであった。私有地と表示され,有刺鉄線で囲われた所をくぐり,丘の上に登ることにする。

滑りやすくひどい藪の中を登るとマヨン山が見えるようになる。しかし,周囲の樹木がジャマをして一望できるという状態ではない。何ヶ所か場所を変えてようやく撮影場所を見つけることができた。

マヨン山を背景にした港地区の眺望はすばらしかった。苦労してここまで登ってきたかいがある。雲は全く無いが湿度が高いので空気の透明感が低い。晴天の青空にくっきりというわけにはいかないが,秀麗なマヨン山を見ることができた。

4合目から上部には樹木の緑はなく,山肌には雨により削られた行く筋もの河道がついている。レガスピの町は1合目あたりまで続いており,これならばレガスピ市でも泥流被害は発生しそうだ。港地区の北西側にも小高い丘があり,そこからもすばらしい眺望が楽しめそうだ。

港湾施設のある海岸の一画と陸側の家屋密集地は壁によって分離されており,その壁は丘の下まで続いている。壁の海側には立派な道路があるが,丘のたいぶ手前で立ち入り禁止となっている。つまり,海側からはこの丘にアクセスできないようになっている。

帰りはのんびり生活区域の中を歩き,写真を撮らせてもらった。特に写真に対する忌避感はなく,子どもたちも行儀よくフレームに収まってくれた。

バイクのトライシクルで運搬される豚を見かけた。通常,このような扱いを受けると豚はあらん限りの声をあげるが,この二頭の豚は猿ぐつわならぬ豚ぐつわをはめられており,鳴き声を上げることはできない。

分離壁の海側はこのような風景となる

ケソン通りに出て埠頭の近くまで歩くと,緩やかな弧を描くアルバイ湾を挟んで港湾施設を一望することができる。施設の背後にふたこぶラクダのようなカプントゥカンの丘が見える。

おそらく,さきほどマヨン山の眺望を楽しんだところは左側の丘であろう。天気が良くなったので海は南国らしい青さに輝いている。マヨン山の風景も一級品であるが,反対側の海の風景もなかなかのものである。

魚市場があるのでもちろん入ってみる

ここの魚市場もフィリピンらしく陽気な売り子が集まっている。売り場のテーブルはビニール・クロスが張られており清潔感がある。魚の種類はそれほど多くはない。大きなシイラの兜首がどんと並べられており,ちょっと驚く。

大きなマグロは200ペソ/kg,同じく太ったカツオは130ペソ/kgである。刺身になるかどうかはとても判定できないが,もしできるとすれば毎日トロが食べられる生活を送れる。

イトヒキキントキであろう

長いくちばしをもつサヨリの仲間かな

シイラは輪切りにされていた

シイラ(Coryphaena hippurus,スズキ目・シイラ科)はマンビキ(宮城・九州)あるいはマンビカー(沖縄)とも呼ばれ,全世界の暖かい海に分布する表層性の大型肉食魚である。

大きなものは体長2m,体重40kg近くに達し,釣りの対象魚としても人気は高い。しかし,日本では評価は低く,魚肉練り製品の原料に使われることが多い。

キハダマグロかな?

海岸通り

マヨン山の眺望を十分に楽しんだので丘を降り,家屋密集地を抜けて,壁に何ヶ所か開けられた門を通ってアルバイ湾の護岸まで移動する。

港湾施設のゲートから北側は緩やかに弧を描くアルバイ湾の護岸になっており,ここは漁師や荷物を運搬する小舟の船着場にもなっている。護岸の堤防は道路面から1mほど高くなっており,海側には船まで下りるための小さな階段がたくさん取り付けられている。

彼らの船は両側にアウトリガーと呼ばれる安定装置を付けているため,横からは接岸できない。船は舳先を護岸に向けて停泊させ,もやい綱で護岸に固定する。船との行き来は幅30cmほどの渡し板を使用している。

ここからのマヨン山もとてもきれいだが,やはり丘の上からの眺望は格別である。護岸を北に進むとケソン通りにぶつかり,その手前にビクトリー・ビレッジの魚市場がある。

午後にもう一度,護岸のところに来てみると船の周囲は子どもたちの遊び場になっていた。バンカーボートの舳先と護岸の間で女の子のグループが水に浸かっていた。カメラを向けると泳ぎながらポーズをとってくれる。しかし,動きのある被写体はなかなか構図がうまく決まらない。

どうやってマレーシアに移動するか

そろそろどうやってフィリピンからマレーシアのサバ州に移動するかを考えなければならないところに来ている。セブからはコタキナバル行きの国際線が飛んでいるが300$(記憶が少し怪しい)を越えているので却下となる。

そうなるとサンボアンガからの船便(約60$)に頼るしかない。ミンダナオ島南西部は政府軍と反政府武装勢力の戦闘区域であり,アブサヤフのように外国人をねらった誘拐を引き起こす犯罪集団も活動している。

できれば,ミンダナオ島の東部からサンボアンガに空路で移動したいと考えていたので,鉄道駅の少し北側にあるカサブランカ・ホテル内にあるセブ・パシフィックのオフィスを訪ね,カガヤンデ・オロもしくはダバオからサンボアンガ行きのフライトを調べてもらった。

サンボアンガからセブに移動するとき利用したエアー・フィリピンの便は1500ペソと格安だったので,どうもこの値段が頭から離れない。カガヤンデ・オロ発はマニラ経由になリ論外,ダバオ発のものは2900ペソと高い。

これはセブに戻ってもう一度エアー・フィリピンのお世話になるしかないという考えに傾いた。訪問予定地であるレイテ島のタクロバンは大きな町なので,ここで航空券を確定させることにした。

海岸通りを北へ歩

カサブランカ・ホテルからそのまま通りを北に向かって歩いてみる。特に目的もなく通りを歩き,気に入ったものが見つかると写真を撮るのも旅の面白さの一つだ。思いがけないところで人々の生活を見ることができる。

かなり規模の大きな墓地があった。キリスト教においては墓は宗教上の重要なアイテムである。ユダヤ教から派生したキリスト教,イスラム教においては「最後の審判」は重要な教義となっている。

キリスト教ではヨハネの黙示録などに「世界の終わりにイエス・キリストが再臨し,あらゆる死者をよみがえらせて裁きを行い,永遠の生命を与えられる者と地獄へ墜ちる者とに分ける」と記されている。

そのため,遺体を(火葬などにより)損傷することなく墓地に埋葬することは,最後の審判に備えるため必要な宗教的儀礼となっている。人々は墓を死者が一時的に眠る場所として考えており,一人ひとりが個別の墓に納められることが多い。そのため,墓地は広い面積を占めるようになる。

フィリピンの人口はおよそ8000万人である。平均的な墓地の面積を6m2(2mX3m)とすると,この人たち全員のために必要な墓地面積は48,000haである。墓地といっても大変な面積が必要になるのだ。土地が狭く人口の多いフィリピンでは簡単に手当てできない面積である。

そのような苦労を知らないように,この墓地には立派な墓が並んでおり,ちょっとした死者の町になっている。10時近くなるとマヨン山には雲がかかり,鋭角的な山頂はもう見ることはできない。

兄と姉は海の中でこの子は一人で遊んでいた

幹線道路から海岸までは500m足らずのはずであるが,東に通じる道がなくけっこう難儀した。ようやく海軍施設の北側で海に出ることができた。フィリピンの海岸とは思われないくらいゴミが少ない。

残念ながら白砂ではなく黒砂の海岸なのでビーチ気分というわけにはいかない。この砂はカグサワに行くときに見たものと同じもので,どちらもマヨン山が吐き出したものだ。

広い砂浜には三人兄弟が遊んでいた。まだ水に入るには小さすぎる末の妹は砂浜でお留守番である。彼女のもっているビンの中にはお兄さんとお姉さんがとってきてくれた貝や魚が入っている。カメラを向けるとかわいい笑顔で応えてくれたので,すぐに仲良くなった。

海から戻ると姉に真水をかけてもらう

水遊びが終わったので三人は海岸から少し内陸に入った家に戻って行く。兄は着替えもせずにどこかに遊びにいってしまった。姉は海水に浸かった末の妹を真水で洗ってあげる。水はポンプで汲み,水槽の水位が上がるとホースの先から出る仕組みになっている。

海岸には漁船はまったく見られなかったので漁師の集落というわけではないようだ。家屋は木材,竹,ニッパヤシでできている。僕の訪問した家の壁面は竹を割って板状にして,それを隙間なく打ち付けている。

ポンプで水を溜める

近所の子どもにもヨーヨーを作ってあげる

着替えが終わったところで写真のお礼にヨーヨーを作ってあげると,奥からもう一人女の子が出てきた。三人は近所の友だちのところにヨーヨーを見せに行く。向かいの家で2個,その隣の家で1個作ってようやく解放してもらった。

お友だちにも作ってね

このあたりはのどかな田舎の風景となっている

シティバスターミナルでサマール島方面の便を確認する

ルソン島南部の中心都市なので交通に問題はない

近くにはLCCのスーパーマーケットもある

ブロック塀に描かれていた

これは屋根葺きの材料である

バスターミナルの西側にも鉄道線路が通っている

女の子の写真を撮るとすぐに子どもたちが集まってくる

ここも子どもたちの遊び場となっている

アルバイ地区のショッピングモール

ミスター・ドーナッツは1個11-16ペソとなっている

ここには民族資本の3大ファストフードが入っている

店の外がオープンカフェとなっている

ジョリビーの場合,たくさんのテーブルが並んでいるのは店の外である。外といっても建物の中の通路に相当するところである。店内にも席はあるが,どうもそとの方が人気があるようだ。

ジョリビーのマスコットと一緒に写真を撮る


バナウェ   亜細亜の街角   カルバヨグ