亜細亜の街角
いやなことが多く1泊で移動することにした
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マニラ  (地域地図を開く)

フィリピンの首都マニラは14の市と3つの町を含む特別行政区域であり,メトロ・マニラ(マニラ都市圏)を意味することが多い。メトロ・マニラは面積636km2,人口は約800万人である。これは,東京都区部が23区(622km2,880万人)からできているの似ている。

メトロ・マニラはマニラ湾とラグーナ湖という二つの水系に挟まれており,もっとも狭い部分は幅10kmに満たない。マニラ市(39km2)はマニラ湾に面し,北はトンド,南はマラテあたりまでの地域であり,少し足を伸ばすとマニラ市の外に出てしまうことになる。

ここはスペインが植民地を築いた頃の市街地に相当する。マニラ湾に面したこの地域は交通の要衝であり,征服者として名高いミゲル・ロペス・デ・レガスピは1571年にマニラを武力で占領した。レガスピが街づくりを行ったのは現在のイントラムロスに相当する。

スペイン統治時代,米国統治時代にマニラ市は拡大・整備されていった。太平洋戦争で日本軍がマニラ市を占拠する直前には大マニラという行政区域を発足させている。大マニラは非武装都市と宣言され戦火による破壊を免れた。しかし,米軍が反転攻勢でフィリピンに上陸した時,日本軍はマニラ市を放棄することなく戦場になった。旧市街は完全に破壊されるとともに,10万人のマニラ市民が犠牲になったとされている。

マニラ市街戦による日本軍の戦死者は約12,000人,米軍の戦死者1,020人であり,市民の犠牲が突出した戦闘であった。「東洋の真珠」とも呼ばれたアジア最初の国際都市は廃墟と化した。

戦後も首都機能はケソン市に移され,マニラ市には破壊されたままであったが,1979年になってようやく国による再建活動が始まった。イントラムロスにあったサン・オウガスティン(アウグスチン)教会だけは倒壊を免れ,フィリピンのバロック様式教会群として世界遺産に登録されている。

イロイロ→マニラ 移動

07時にチェックアウトしてジープニーを2回乗り継いでSMシティに行く。SMシティはフィリピンでもっともよく見られる巨大なショッピング・モールである。この建物の駐車場からは20kmほど離れた新空港行きのシャトルバスが出ている。

といっても,それは普通のワゴン車であった。定員10人の座席が埋まると出発する仕組みになっているので,シャトルの頻度は分からない。料金は70ペソといい値段だ。タクシーならば200から300ペソ程度である。家族連れならタクシー利用という選択肢もある。

空港には08:30に到着する。内部は自然光を利用し,とても明るくきれいな空港である。入り口にはフィリピン航空のキャンペーンガールの等身大のパネルがあった。写真に撮ってみると本物とそれほど区別がつかないので笑ってしまった。

1階にチェックイン・カウンター,2階に搭乗待合室がある。マニラまでの料金は1970ペソ,フィリピン航空はイー・チケット化されている。プリントを出すとすぐにチェックインは完了した。チケットには空港利用料は含まれていないので200ペソは別途支払うことになる。

出発(11:20)の25分前に搭乗が開始される。一列6人X20列の120人乗りくらいのジェットである。窓側の席にしてもらったので離陸直後にはパナイ島の山並みが見てとれた。

イロイロ市の周辺は平坦な土地であったが,町を出ると起伏のある地形に変わる。日本と同様にフィリピンも平地は少ない。山の風景は日本のそれとそれずいぶん異なっている。さして高い山ではないのに山肌には緑が少ない。茶色の山襞がうねうねと続いているだけである。

1960-70年代にフィリピンの森は木材伐採のためにほとんど伐られてしまい,その後,植林などの努力は行われなかったようだ。伐採された木材の多くは日本に輸出された。

眼下の茶色の風景は台風など雨季に雨が集中する亜熱帯地域で森林を失なった土地がどうなるかを,はっきりと示している。日本は針葉樹の単一植林,経済的に見合わないため間伐ができず山が荒れるという問題を抱えているものの,一面の緑に覆われている。

国土の2/3が森林となっている日本が木材の大輸入国である続けるのは地球環境の面から道義的な責任があると言わざるを得ない。農業,林業,漁業の一次産業は地域の環境と結びついており,それらの持続可能なモデルを作り出すことは環境立国日本の第一歩である。

マニラが近づと上空が灰色になっている。この大都市も大気汚染に悩まされているのだ。マニラ市民には喘息や肺炎などの慢性呼吸器系疾患の患者が増加しているという。

2000年から有鉛ガソリンの販売は禁止されたものの,ジープニー,トラック,バスなどのジーゼルエンジンから排出される粒子状物質は健康に被害を与えるレベルに達している。

国内空港のターミナルは国際線のターミナルに比べるとずっと街に近いところにある。国際線のターミナル付近からジープニーが出ているので,国内線ターミナルから街の方向に歩いていくとジープニーが捕まえられるとふんだ。

北の方向に歩き出すと大きな通りに出た。この片側3車線の通りは車の通行がとても多い。しかし,ジープニーの姿は見出せなかった。そのまま北に向かって歩く。

東西方向の大きな通りにでジープニー(7ペソ)をつかまえ,バクララン駅に行くことを確認して乗り込む。地図上の距離は1km,しかしジープニーは相当の速度で15分ほどをかけてようやく駅に到着した。いったいどこを走ったんだろうと不思議に思う。

バクララン駅からはLRT(Light Rail Transit)が出ており,これでペドロヒル駅まで(15ペソ)行くことができる。空港からエルミタまでのクーポンタクシーは440ペソ,これでバコロドでチケットを買い間違え,取り消し手数料として支払った480ペソを相殺することができたとちょっとした達成感に浸る。

LRTの入り口には所持品検査の係員がおり,メインザックを開けて調べられた。この厳重な検査はいったいなんのためなのか疑問だ。ペドロヒル駅はエルミタとマラテの間に位置しており,ここからラブリー・ムーン・ペンション・ハウスまでは500mほどの距離である。

ラブリー・ムーン・ペンション・ハウス

ペドロヒル駅から歩いていくと途中で客引きに出会い,労せずしてたどり着くことができた。この宿はこのビルの3階に入っており,入り口には鉄格子の扉となっており,夜間は施錠されるようだ

400ペソの部屋は3畳,1ベッド,トイレ・シャワー共同でまあまあ清潔である。ひどかったのは部屋の天井に取り付けられているファンである。コンクリートの建物は日中の熱気を溜め込んでいるのでファンは必需品である。

それを動かすとブリキのバケツを棒でたたくような,あるいは頭上をヘリコプターが飛んでいるようなひどい音がする。これは寝るときには大きな障害になった。それでもマニラではこの値段の宿は少ないのでとりあえず一泊することにする。

マラテ教会

まず,マラテ教会からエルミタ教会まで歩くことにする。エルミタは通りによってずいぶん雰囲気が異なる。宿の前の通りの西側はおしゃれなレストランが立ち並んでおり,突き当りのペドロ・ヒル通りには近代的なロビンソンズ・コマーシャル・コンプレックスが大きな姿を見せている。

そのような再開発地域のすぐ近くには小便の臭いがする怪しげな通りがある。新しい街並みと古い街並みの格差が大きいのだ。マニラ湾に並行してロハス大通りが南東・北西方向に走っており,この通りがエルミタ,マラテの基軸となっている。そのため,道路は直交していても方角は分かりづらい。

マラテ教会のファザードはマニラ湾に面しており,両側に鐘楼をもつ石造りの建物である。鐘楼は本体と同じ高さになっているため,ファザードは長方形の上に三角屋根が乗るシンプルなものになっている。

マニラのスモッグに染まったわけではないだろうが,全体的に黒ずんでおり,歴史の重みというより老朽化しているという印象を受けた。ファザードがシンプルなため正面からの写真は単純で面白くない。少し距離をとり斜めの角度からの姿がいいようだ。

建物の全貌は確認できなかったが,内部の構造を見ると十字架プランになっているようだ。帰国後に確認してみると確かに東西方向に長手の十字架プランとなっていた。半円ドーム構造の後陣には金色に輝く聖母像らしきものが置かれている。ステンドグラスの窓が多く,内部が明るいためライトアップされた像はそれほど目立たない。

これが夕方の時間帯ならば薄暗い聖壇に輝く像はもっと映えることだろう。ステンドグラスの一枚はバフテスマのヨハネから洗礼を受けるイエスの絵柄となっていた。これがなかなか筋肉質のイエスとなっており,一枚記念に残すことにした。イロイロの教会に比べて訪れる人も少なく,印象の薄い教会であった。

マビニ通りを歩く

マラテ教会の裏手はマビニ通り,正面はデル・ピラール通りとなっている。デル・ピラール通りをまっすぐ北西に行くとエルミタ教会に出る。教会の前は広場になっており,カレッサと呼ばれる馬車から声がかかる。

この観光用の馬車はとても高い。1時間で150-200ペソは要求される。僕に声をかけてきた御者は50ペソだよと言っているが,その値段で利用できるはずもない。「いらない,いらない」と何度断っても僕の後からついてくる。

カレッサは観光客の立ち寄りそうなところで客待ちをしており,イントラムロスに到着するまで3回もしつこい勧誘を受けた。イントラムロスの手前では怪しげな女性二人に話しかけられ,一緒に街を回りたいような素振りを見せるので,さっさと別の道を行くことにした。

また,エルミタ教会に向う途中のデル・ピラール通りでは明るいうちから,脅しの文句を聞くことになった。中年の男性が日本語で話しかけてくる。
「いい子がいるよ,どうだい」
「いらないよ」
「そんなことを言わないで,見るだけでいいから」
「お断りします」
「私はナイフを持っているね,一緒に来た方がいいよ」

こんなところで何をほざいているのだ。それでも気味が悪い,僕が足を速めると男もついて来る。通りの反対側に移動しても同じようについてくる。しかたがないので,商店の警備に当たっているガードマンの横にしばらくいると,男はようやく離れて行った。

わずか,1時間ほどでこのように煩わしいことばかりである。昔のエルミタはゴーゴーバーの多い歓楽街であったが,昼間歩く分にはこんなことは全く無かった。市長の判断でゴーゴー・バーはこの地区に無くなり,代わりに観光客にたかろうとする人種が増えてきたようだ。

宿は良くないし,初日にいやな人種と何度も会ったためマニラに滞在する気は急速にしぼんでしまい,結局,一日でバランガに移動することになった。

エルミタ教会

マラテ教会からマビニ通りを北西に1km歩くとエルミタ教会の近くに出る。教会の建物は新しいもので特筆するようなことはない。入り口の上に王冠を頂いた聖母像が立っており,足下には何か植物の葉のような造形がある。その造形は建物の前庭にある樹木の葉とよく似ている。

前庭には胎児が描かれている石碑があった。石碑には「In memory of the helpless victims of abortion」と記されていた。カソリックは妊娠中絶に反対の立場をとっており,その啓発のための石碑のようだ。

歴史的に見るとカソリックの中絶に対する見解は微妙に揺れ動いてきたが,1869年のピウス9世の勅書により中絶を胎児の形成時期によらず殺人と見なすようになった。この考え方は現在でも主流となっている。

そのようなカソリック教会の影響を受けてフィリピンでは母体の健康を守るため以外の中絶は認められていない。そのため,闇の中絶や堕胎薬の服用により多くの妊婦の死亡が報告されている。

カソリック教会は家族計画についても否定的な立場をとっている。2009年の初めに,「人口増加が貧困層の拡大につながる」とする国会議員や学者らに対ししてカソリック教会は(人工的な避妊や中絶につながるとして)猛反発したというニュースが流れた。

それでは,カソリック教会は増え続けるフィリピンの人口問題,貧困問題にどのような考え方をもっているかと聞きたくなる。2008年のフィリピンの合計特殊出生率は3.2であり,アセアン加盟国中でトップとなっている。

1世代で子どもの数が1.5倍になる事態に危機感をもたないのであろうか。国の将来がどうなろうとも,カソリックは自らの教義を守り,それを国民に押し付けるのが使命だと考えているようだ。せめて,家族計画くらいは(積極的でなくとも)認めるべきだろう。

礼拝堂は長方形プランであり,両側は窓の多い壁面のため内部は白を基調とする明るい区間となっている。信者のための礼拝イスが二列に並べられ,正面の壁面の一部が聖壇のための窪みとなっている。

そこには神の王国にいるイエス像が飾られている。高さ50cmほどの小さな像ではあるが,ライトアップされているため入り口から入ると正面の窪みの奥で輝いている。神の国を想起させる心憎い演出である。

聖壇の両側には聖母子像とキリストの像が置かれているが,視覚的には正面の明るく輝くキリスト像を引き立たせる脇役になっている。

壁面はなんの装飾も無く,天井の両側に聖書の物語を題材にした絵が飾られている。天井から垂れ下がる鎖によって吊るされた二列の明かりが唯一の照明となっており,夕方の時間帯はおごそかな空間となることだろうと想像する。

フィリピンの労働環境

マラテ地区とイントラムロスの間は東西800m,南北400mほどのリサール公園となっている。マリア・オロサ通りが中心部を通ってイントラムロスに続いており,その両側に池が配置されている。

マラテから公園に入ったところで大勢の人々が集まっていた。近くには会社名の記された数十もの屋台のような移動式事務所がある。これはどうやら求職活動のようだ。若年人口の多いフィリピンでは年代別人口はきれいなピラミッド型になっており,毎年大量に生み出される新卒者の就職ハードルは高い。

フィリピンの失業率について日本外務省のデータではこの10年7-10%で推移してきている。しかし,この数値はフィリピン政府の公式発表に基づくものであり,民間のソーシャル・ウエザー・ステイションズ(SWS)の独自調査ではこの数年は30%程度の数値をなっている。

どちらがフィリピンの状況に近いかは明らかである。SWSの数値も2004年頃までは政府発表の数値をそれほど差はなかったが,アロヨ政権の2004年から急激に増加している。

フィリピン・ペソの対ドル・レートは1980年の8ペソ(1US$=8ペソ)から一貫して下がり続け,2004年には58ペソとなっている。その後,ペソの下落傾向には歯止めがかかり,2009年現在では49ペソ前後で落ち着いている。このペソの上昇と失業率の増大は無関係ではない。ペソ高により外国企業はよりよい条件を求めて工場を中国やベトナムにシフトしていくことになる。

2009年の日本のキーワードの一つは「デフレ」である。海外からの安い製品が日本の物価を押し下げており,それに合わせて国内の製造業やサービス業も低価格戦略をとらざるを得ない状況である。

少子化により子どもの数がどんどん少なくなっている日本でも新卒者の就職は非常に厳しい状況である。人口増加率の高いフィリピンでは就業機会がさらに厳しいことは想像に難くない。多少の経済発展も食糧増産も人口増加により帳消しにされることになる。この国では人口の1割が海外で働き,送金額はGDPの1割を占めている。

2008年におけるフィリピンの貿易統計では輸出が490億ドル,輸入が567億ドルとなっている。この赤字分を海外送金で埋め合わせている。海外での雇用環境が厳しくなると職を失って帰国する人が増えており,出稼ぎ大国は厳しい状況にさらされている。

リサール公園

この公園にはフィリピン独立の英雄リサールを記念する「リサール・モニュメント」がある。公園の西側にある記念碑は衛兵により24時間体制で守られている。そういえば20年前にここを訪れた時も衛兵がいたような気がする。ここはリサールがスペインにより処刑された場所である。

ホセ・リサール(1861年6月19日 - 1896年12月30日)はフィリピン独立運動の闘士とされているが過激派ではなく穏健な思想の持ち主であった。彼はスペイン統治下で圧制に苦しむフィリピン人の現状をその著書で記している。彼の願いは独立ではなくフィリピン人の生活向上であり,法的な基本権利の取得であった。

しかし,スペイン人統治者はこのような穏健な思想も自分たちの植民地支配を脅かすものであると危険視した。独立闘争が始まるとリサールは逮捕・投獄され暴動の扇動容疑で銃殺刑が宣告された。

彼は処刑されたが,その気高い思想は人々に受け継がれ,フィリピン独立の英雄として今も愛され続けられている。彼の記念碑はマニラだけではなく,多くの町に建てられている。

中国の春秋時代の思想家である老子は「大道廃れて仁義あり,智慧出でて大偽あり,六親和せずして孝慈あり,国家昏乱して忠臣あり」と説いた。

真の道が廃れてしまって道というものを意識し始めるからこそ仁義というものが登場し,真の智慧ならずして智慧を智慧としてしまうからこそ人為的になって無為では無くなり,各々が自然ならずして和せぬ故に孝や慈というものが説かれ,国が乱れて治まらぬからこそ忠臣というものがもてはやされるのである。・・・「古典と楽しむ名言集」より引用。

老子の思想は万物の根本である道によって表され,人為を廃し自然であることが道に通ずるとされる。つまり,上記の引用文にある仁義,智慧,孝慈,忠臣などというものは道に外れているために必要となったものであり,そのようなものを必要としない自然体の統治あるいは生き方を理想としていた。

英雄リサールを生み出した背景にはスペインの過酷な植民地支配があった。そのような状況を打破するためには英雄の力が必要だったのだ。老子的にいうならば,英雄などが生まれてこない世の中が一番良いのである。

こんなところにラプラプ像がある

リサール広場には新顔の英雄像もあった。それはセブ島のとなりのマクタン島で見たラプ・ラプの像であった。セブ島に上陸したマゼランは武力と布教により土地の領主を屈服させキリスト教に改宗させていった。

しかし,マクタン島の領主ラプ・ラプはこれに従わず戦いとなった。マクタン島の戦闘でマゼランは負傷し,それがもとで死去している。ラプ・ラプは民族の誇りを守った国民的英雄とされている。

ラプ・ラプ像の本家はマクタン島にあり,この公園にあるものは2005年に韓国から寄贈されたものである。韓国がどうしてこの像を寄贈したかについては調べ切れなかった。

民主主義と教育

リサール公園から先は道路が車専用になっており,歩くのは大変だった。スペイン時代の城塞であるイントラムロスを囲むように緑地があり,東側半分はゴルフコースになっている。ここでプレーできる人々はフィリピンの富裕層の人だけである。フィリピンでは人口の約5%に過ぎない富裕層が国の富の70-80%を支配している。

この富裕層は国の政府,地方政府を完全に牛耳っており,支配者と非支配者の関係は中世の領主と領民の関係に近い。米国統治を経験したフィリピンでは日本のような農地解放は実現できず,植民地時代からの古い体質をそのまま引きずって現代に至っている。

フィリピンはアジアで最も古い共和国の一つであり,まがりなりにも民主的な選挙が行われている。にもかかわらず,巨大な貧富の格差は是正されるどころか,経済発展とともにますます拡大していく傾向が見られる。また,この国の政府の清廉度は世界的にみても決して高いものではない。

民主主義国家でなぜこのような現状が放置されるのかは大きな疑問であるが,問題は多くの国民の民度がそのレベルに達していないことであろう。民度を向上させるためには教育の果たす役割は極めて大きい。民主主義は(偏向のない)教育により担保されるのである。

フィリピンには多くの大学もあり,教育の門戸は開かれている。しかし,貧困層にとっては子弟の教育は高根の花であり,小学校も満足に通えない子どもも多い。1986年のマルコス退陣,2001年のエストラーダ退陣を生み出した「ピープルズ・パワー」の源泉は中産階級によるものであり,半数を占める貧困層の民度高揚によるものではない。

インストラムロス内の石畳の通り

イントラムロスの城壁をくぐるとコロニアル風の建物がいくつも連なっている。しかし,太平洋戦争末期の市街戦によりほとんどの建物はガレキと化した。現在ある建物は,終戦後しばらくたってから新たに建てられたものだ。

マニラでもっとも著名なマニラ大聖堂もそのとき完全に破壊されてしまった。唯一,サン・オウガスチン教会だけは戦火を生き延びることができた。もちろん損傷は受けたであろうが,なんとか往時の姿をとどめることができた。

サン・オウガスチン教会

この教会は1675年に創建され,その後7回の地震や戦争の爆撃に耐えることができた。サン・オウガスチンという名前の教会はフィリピン各地に建造された。僕が訪れたセブ市にあるものは初代総督のレガスピが16世紀に建てたものでフィリピン最古の教会としてして知られている。

この教会にはサント・ニーニョ像(幼いキリストの像)があり,16世紀にセブが戦火に包まれた時も,日本軍の爆撃にも無傷で残ったことから奇跡の守護神として地域の人々の信仰の対象となっている。そのため,現在ではサント・ニーニョ教会と呼ばれるようになっている。

サン・オウガスチン教会はイントラムロスのメインストリートであるジェネラル・ルナ通りのすぐ横にある。フィリピン・バロック様式の教会として世界遺産に登録されている建物の外観はかなり違和感がある。

建物が薄い赤茶色と白で塗装されているのだ。この右側に隣接している博物館の建物は往時の石造りの質感を十分に伝えている。この二つの建物の視覚的落差はとても大きい。

外観は軽い印象を受けたが,内部は荘厳な空間となっており,内外の印象の格差も大きかった。3つのアーチが作り出す聖壇周辺の空間から推定すると,十字架プランに近い構造をしているようだ。正面の聖壇が少し奥まっており,入り口からそこまでの両側にはいくつもの小さな空間がある。

聖堂の両袖に設けられた小さな空間は聖堂本体を補強している。地震のないヨーロッパでは耐震構造についてあまり配慮されることはなかったが,すでにスペインが植民地としていたメキシコでは聖堂にも地震への対策が必要であった。

その結果生まれた耐震補強技術が「控え壁」である。聖堂本体の外側に建物と直角に厚い補強用の壁を設けるものである。この設計思想をもっとも顕著に見ることが出来るのはルソン島北部のパオアイ にあるサン・オウガスチン(アウグスチン)教会である。

この教会は分厚い補強壁に守られ,二度の大地震も耐えて現在に至っている。マニラのサン・オウガスチン教会も小さな空間の周囲の柱と壁が「控え壁」の役割を果たし,太平洋戦争の戦火にも耐えることができた。実際,砲弾がこの教会を直撃したにもかかわらず,聖堂は崩れることはなかった。

戦火や地震に耐えた奇しくも同じ名前の二つの教会は「フィリピンのバロック様式教会群」として世界遺産に登録されており,「地震のバロック」とも呼ばれている。

窓が少ないので重厚な石材の質感とあいまって歴史のある教会の趣が伝わってくる。これなら世界遺産に登録される価値はある。聖壇の左にある小部屋にはスペインの初代総督レガスピの石棺が置かれている。

カレッサでインストラムロスを回る

ジェネラル・ルナ通りの両側には二階部分がせり出した建物や同じように突き出したテラスをもつ建物が続いている。これもコロニアル風の建物なのだろう。太平洋戦争で完全に破壊されたイントラムロス内部は往時の姿をある程度復元しようとしたのかもしれない。

ルナ通りには観光客を運ぶカレッサと呼ばれる馬車が軽快に走り抜けていく。このカレッサはずいぶん評判が悪い。多くの客は乗る前に料金の交渉をするのだが,いざ支払いになるとその通りになることは少ない。

1時間100ペソでいいよと言われて二人で乗った乗客が,支払い時には一人分が100ペソなので二人なら200ペソだと請求されたという笑い話もある。僕の前を通り過ぎていくカレッサに乗った欧米人のカップルはいくら請求されることになるのかな。

マニラ大聖堂

マニラ大聖堂の歴史は1571年に遡り,スペイン統治の初期においてカソリックの布教に大きな役割を果たしてきた。カソリックにおいては大聖堂と聖堂(教会)が厳然と区分されている。

大聖堂とは司教座聖堂あるいは主教座聖堂にのみ使用される。カソリックは司教(主教)制度をもっており,司教(主教)のカテドラ(座)が置かれている聖堂は歴史や大小にかかわりなくカテドラルということになる。

カソリックにおいては司教は使徒たちの後継者であり,叙階の秘跡によってその地位を受け,教区の教会を束ねる職務にあたる。カソリックにおいては司教,司祭,助祭と続く位階制度があり,一般的に司祭に対しては神父という敬称が用いられている。

また,司教,大司教,総大司教など位階に相当するような呼称もあるが,これらは教区の規模に応じて定められた教会行政上の職掌を表すものである。

一般的にカテドラルは立派な建物であることが多いので日本語では大聖堂となったようだ。一方,主教座のみをもつ東方正教会では,主教座の有無にかかわらず大きなあるいは由緒ある聖堂を大聖堂と呼んでいる。

フィリピンにもマニラ大聖堂,セブ大聖堂などいくつかの大聖堂があり,フィリピンにあるすべてのカソリック教会を管轄している。1571年に創建されたマニラ大聖堂は台風,地震,戦火によりいくたびも破壊され,現在のものは1958年に再建されたものである。

建物は十字架プランであり,十字架の交差部にはドームが置かれている。聖堂本体は側廊(控え壁)に相当する部分が大きく,側廊を含む一階部分の上に二階が乗っているように見える。

この二階部分がかなり高いため,正面からは背後のドームを見ることはできない。全体像を見るためにはルナ通りの反対側からがいい。とはいうものの,この大聖堂のファザードはなかなか見ごたえがある。

石造りの建物は戦後に再建されたとは思えないくらいに適度に歴史を感じさせるものになっており,3つの門や二階部分の両側に配置された漆くいの聖人像は石の色感とよく調和している。側廊の中ほどにある1本の鐘楼もそれほど建物全体のバランスを乱していない。

ミサの時間ではないため内部の照明はステンドグラスからの自然光だけであり,写真にとってはかなり暗い空間となっている。聖壇の背後は半ドーム状の後陣となっており,壁面のステンドグラスからの光が美しい。しかし,なんといっても僕のカメラにとっては暗すぎていい写真にはならない。

礼拝堂の側面にはいくつかの部屋があり,大聖堂の資料が展示してあった。その中に再建された大聖堂の平面図があり,このおかげで建物の構造がよく理解できた。

太平洋戦争末期の爆撃や砲撃により炎上するマニラの写真もあった。この戦火の中で10万人もの市民が命を落としたのだ。

マニラ市街戦の記念碑

大聖堂を背後から撮ろうとして裏に回ると,「Memorare - Manila 1945」と記された記念碑があった。 1995年2月18日に建立された記念碑の石碑部分には「戦火で亡くなった10万人の人々−その多くは集合墓地に埋葬されたり,墓にすら入れなかった−一人一人の墓碑にしたい。我々は(犠牲者のことを)忘れてはいないし,決して忘れるべきではない」と記されていた。

マニラ湾の夕日

夕日の時間帯が迫ってきたのでリサール公園の西側にあるショッピング・モールのテラスからマニラ湾を眺め。正面にちょうど夕日が見られるこのテラスには大勢のマニラっ子が見物に来ている。彼らは夕日のあと,ここで食事でもしながら楽しい時間を過ごすのかもしれない。僕は少しずつ水平線に近づいていく夕日をのんびり眺めていた。

マニラとどこかの島を結ぶスーパーフェリーがゆっくりと僕の視界を横切って港に向っていく。日本の夏と異なり日が傾くと昼間の暑さはうそのようにおさまり,ゆったりした気分でこの時間帯を過ごすことができる。夕日のあとはいやなことが多かったマビニ通りを避けて,ロハス大通りを通って宿に戻る。


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