マニラ湾を囲むように北側から突き出しているのがバターン半島であり,その先端部にコレヒドール島がある。太平洋戦争が始まってすぐに,日本軍は米国統治下のフィリピン攻略を開始した。
現地の米軍とフィリピン軍はマッカサー司令官の指示によりマニラの無防備都市宣言を出し,この地域に集結した。コレヒドール島の地下には巨大な地下要塞があり,ここが米比軍の司令室となった。
この地域の攻防戦は1941年12月から1942年5月まで続き,コレヒドール要塞の米比軍の降伏をもってフィリピン攻略作戦は完了した。
4月9日にバターン半島の米比軍が降伏し,8万人の捕虜と2.6万人の避難民が日本軍の管理化に置かれた。日本軍は捕虜・避難民の後方移動を急がせ,バターン半島南端のマリベレスからサンデルナンドまでの83kmを徒歩で移動させた。
この過程で多くの人々が死亡することになり,「バターン死の行進」と呼ばれている。この一事は日本軍の捕虜虐待の象徴として米国では大きな非難が巻き起こった。
終戦後に開かれた極東裁判では,当時の日本軍第14軍兵站監河根良賢少将は死刑判決を受けている。このときGHQの最高司令官はバターン半島の攻防戦によりフィリピンを脱出したマッカーサーであった。
バランガはバターン半島の付け根に位置する町で,「死の行進」の中継点ともなったため,周辺の道路にはそれを悼むモニュメントが1km間隔に置かれている。また,町の南西にある「サマット山」の頂上にはバターン半島の攻防戦で亡くなった兵士の慰霊のため,巨大な十字架が建てられている。
マニラ→バランガ 移動
06:15にチェックアウトしてLRTのペドロ・ヒル駅に歩いて行く。マニラは宿がひどかったのとエルミタを歩いているとき,観光客にたかろうとする輩が多くてすっかり滞在しようとする気持ちが萎えてしまった。僕の移動パターンとしては珍しく一泊でマニラから出て行くことにした。
LRTの駅に入るためには荷物検査を受けなければならない。今日もメインザックを開けさせられるのかな,面倒なことだと思っていたらサブザックのチェックだけで済ませてくれた。
LRTでエドゥサ駅まで行く。ここはLRTの東線に接続しており,周辺には長距離バスのターミナルが集まっている。この時間でも乗降客が多く,通路は混雑している。地上に降りるとバスが出てくる路地があったのでそちらに歩いてみる。
広場があり,そこにはバスがたくさん並んでいる。僕が利用するバランガの表示があるジェネシスのバスもあり,バスターミナルではないけれどここから乗車できそうだ。
広場には食堂があるので牛肉の煮込みをいただく。フィリピンでの経験から40ペソと推測したら50ペソであった。やはり先に値段を聞いて,納得してから注文すべきであった。
今日は朝食,昼食とも誘惑に耐えられず食堂で冷たい水を飲んでしまった。それでも腹具合は十分に快調だ。それより食が細いせいか半便秘気味である。
朝食もいただいたのでおもむろにバスの乗務員に交渉するとすぐに乗せてくれた。バスが動き出すとエアコンが強いので長袖を着込む。バスはいくつかの場所で乗客を拾い,しばらくすると8割ほどの座席は埋まった。
乗務員が回ってきて乗客に行き先を確認する。乗務員はそれに合わせてチケットの数字欄をパンチしていく。一回りしてから乗務員がチケットを見ながら集金する。バランガイまでは205ペソ,これはちょっと高い。
サンフェルナンドまでは幹線道路なので快適である。その後は何ヶ所か工事区間があり,そこでバスはタンクローリーと軽い接触事故を起こしたようだ。双方の運転手の言い争いがしばらく続いたあと,バスの運転手はポリスと表示のあるところで止まり,乗客は同じ会社のバスに乗換えとなる。さらにもう一度乗り換えてようやくバランガに到着する。
MM Hotel
ガイドブックにはバランガの宿情報はまったく載っていない。乗客のおじさんに「この町で安い宿を探しています」と伝えると,バイク・トライシクルを呼んでくれた。どこで情報がまちがって伝えられたのか運転手は町で一番のホテル・ローヤルに連れて行ってくれた。
ここはとても宿泊できないのでフロントでもっと安いホテルはありませんかとたずねるとエリソンを紹介してくれた。ここはローヤルほどではないにせよミニマム1000ペソはする。
これは困った,自分で探すしかない。中心部の商店街で地元の人たちに安宿についてたずねてみる。「う〜ん,それならMMホテルだね」という結論が出た。歩いて5分のところをトライシクルで移動することになった。こうして3回のトライシクルの料金は45ペソになった。
さて苦労して到着したMMホテルはちょっと怪しげなものであった。ん,これは連れ込み宿じゃないかな・・・。でも,ここは二人のおばあさんが仕切っているので問題はなさそうだ。
料金は450ペソのところを2日間ということで400ペソにしてもらった。部屋は6畳,1ベッド,トイレ・シャワーは共同,机付き,清潔である。通気性が良いので夜になると涼しく。ファンを止めて寝ていた。
難点は二階のカラオケである。防音装置などは付いていないのでかなりの音量が階段を経由して響いてくる。初日は夜中の2時まで続いたのでさすがに睡眠の妨げになった。
ホテルの近くにはクリーニング店があり,料金は1kgで27ペソである。二回分の着替えがこの料金なのでフィリピンではよくランドリーを利用していた。
街の中心部
街の中心部は南北の幹線道路(ドン・マニュエル・ベンソン通り)と東西の道路(キャピトル・ドライブ通り)が交差するあたりだ。行動を説明しやすくするため,この交差点を「A交差点」としておこう。
A交差点から西に1km強のところに州庁舎があり,両者を結ぶキャピトル・ドライブ通りの両側200mくらいのところに町が広がっている。A交差点から北(サン・フェルナンド方向)に行くと500mほどで橋を渡り,その北側にビクトリー・ライナーとジェネシスのバスターミナルがある。
A交差点から南(マリベレス方向)に行くと500mほどでやはり橋があり,道路はその1kmほど先でサマット山に向う道路が分岐している。A交差点の西側100mくらいのところにB交差点があり,周辺には教会,ショッピングセンター,ファストフードのジョリビー,マクドナルド,ケンタッキー,MAXが集結している。
交差点とジョリビーの間は小さな公園のようになっており,お決まりのリサール像がる。その足下に隠れるように死の行進の道標が置かれている。この町はフィリピンとしてはずいぶんきれいだ。ゴミも少ないし街並みもなんとなく垢抜けている。そして,フィリピンの他の町では必ずといってよいほど見かけるビン入りコーラとジープニーがこの町にはなかった。
ジープニーは周辺の町同士を結ぶものが幹線道路を走っているが,市内を回るものはない。ビン入りコーラもフィリピンではずいぶん利用していたが,なぜかこの町の商店には置かれていない。ちょっと不思議な町だ。
B交差点の教会
教会は角地にあり5層の大きな鐘楼がその角を占めている。教会のファザードはフィリピンでは珍しくレンガがむき出しになっている。レンガの色はくすんだ赤茶色であり,漆くいで白く化粧された鐘楼や柱と調和のとれたものとなっている。
この教会と道路の境界には低い塀になっており,そこには聖人の像が並んでいる。教会の外にこのように聖人像が配置されている構成は珍しい。
礼拝堂は長方形構造で正面はアーチで縁取りされた半球状のドームになっており,それを仕切るように神の家を模した壁がある。壁には三枚の聖母像が描かれており,その前が聖壇になっている。
長方形の礼拝堂の両側はアーケードになっており,その外側には側廊というには広すぎる空間となっている。そのため礼拝堂の構造はアーケードにより三分割されているという印象を受ける。
バターン死の行進
1941年12月8日,真珠湾攻撃と同じ日に日本軍はフィリピン米軍の拠点クラーク空軍基地を空襲した。これによりフィリピンの米軍航空戦力は壊滅し,米比軍は守勢に立たされる。これ以降の戦局を時系列で整理すると次のようになる。
12月08日:日本軍航空部隊がクラーク空軍基地を爆撃
12月24日:日本軍第14軍の主力がリンガエン湾に上陸
12月24日:マッカーサーが大マニラ無防備都市宣言
12月24日:米比軍はバターン半島,コレヒドール要塞に撤退
01月02日:日本軍がマニラ市を無血占領
01月12日:バターン半島第一次攻撃
03月12日:マッカーサーがコレヒドールから脱出
04月03日:バターン半島第二次攻撃
04月09日:バターン半島の米比軍降伏
05月06日:コレヒドール要塞の米比軍降伏
父親の代からフィリピンと深いつながりをもっていた米軍司令官のマッカーサーは「大マニラ無防備都市宣言」を出し,バターン半島とコレヒドール島に戦略的撤退を行った。もちろん戦略が主要な理由であったろうが,美しいマニラの街を戦火から守りたいという気持ちがどこかにあったのかもしれない。その結果,マニラ市が戦場になることは避けられた。しかし,米軍が再上陸したとき,日本軍はマニラ市を放棄しなかった。市街戦によりマニラ市は完全に破壊された。
4月9日にバターン半島の米比軍は降伏する。バターン半島はマラリアやデング熱の汚染地域である。この地域で3ヶ月以上篭城した米比軍は乏しい食料と疾病に悩まされ,降伏時には多くの将兵が衰弱した状態であった。
捕虜の数はおよそ8万人,これに2.6万人の避難民(民間人)が加わっていた。日本軍は捕虜を後方のカバスまで移送しようとした。しかし,鉄道のあるサンフェルナンドまでは輸送手段がなく,大半の人々を80kmほど歩かせることになった。
区間 |
距離 |
移動手段 |
マリベレス→バランガ バランガ→サンフェルナンド サンフェルナンド→カパ ス |
30 km 53 km 48 km |
徒歩行進 徒歩行進 鉄道 |
4月のルソン島は乾季の盛りで,捕虜たちは炎天下の80kmを歩かされることになった。健康な人ならば水と食糧と適度な休息があれば炎天下といえども80kmの徒歩行進で死亡することはまずない。にもかかわらず,10万人のうち1万人程度が死亡したというのは(正確な数は不明),異常なことであると言わざるを得ない。
捕虜たちの多くが病人あるいは半病人であったこと,十分な水と食料が与えられなかったこと,および一部の日本軍兵士による虐待行為がこの死亡者数につながったと考えられるが,日本軍の記録と生き残った捕虜の証言は大きく食い違っている。ともあれ,徒歩行進により捕虜と避難民が1万人程度死亡したという事実は米国民に衝撃を与え,米政府は日本軍の残虐さを戦争遂行のため最大限に利用した。
日本人は東京大空襲や原爆投下により多くの犠牲者を出したことは決して忘れることはないだろう。それが戦争行為の一部なのか,戦争の最中でも起こってはならないことなのかは議論のあるところだ。しかし,米国民が戦争の一こまとして忘れても,被害を受けた国民は忘れることはないのだ。
米国政府の高官が「原爆投下は米国兵士の損害を最小限にとどめて戦争を終結させるためやむを得ないものだった」などと発言すれば,日本人の多くは感情を逆なでされるにちがいない。それが被害を受けた側の国民感情というものなのだ。
日本の侵略により多大の犠牲を出したアジアの近隣諸国についても同じような国民感情をもっていることを忘れてはならない。それは,なにも日本国政府が永久に謝り続る必要があると言っているのではない。あの戦争が侵略戦争であり,その中で日本軍はいくつかの残虐行為を行っている。それを事実として認め,国家としての認識を確定すればよいのだ。あとは近隣諸国の国民感情に配慮すれば自然と未来志向の関係は構築できる。
それを認めることを自虐史観などとして歴史を自国に都合の良いように解釈することは,まさしく原爆投下を是とする発言と同じ性質のものである。事実をありのまま認めること,自国に都合の良いように解釈すること,このどちらが民族の誇りにつながるのか考えたい。
フィリピンでは4月9日を「勇者の日」として祝日に制定している。フィリピンを訪れる日本人観光客が「勇者の日」の意味を知らなくても,観光化したコレヒドール島を訪れる人々が「死の行進」を知らなくても,フィリピンの人々は忘れることはないのだ。英文のwikipedia には「Bataan Death March」のページがあり,そこには2009年5月30日に駐米日本大使がテキサスを訪れ,バターン死の行進からの生存者の集会で戦争捕虜に対する日本軍の扱いについて謝罪したと記されている。
A交差点南側にあるKM43道標
死の行進を悼むモニュメントはバランガの周辺の道路に1kmごとに建てられており,それぞれに例えば43(km)というように出発地からの距離が記されている。
道標は石造り(コンクリート製かもしれない)で高さは1mほどである。漆くいで白く塗られており,上部には崩れ落ちそうな兵士の姿が描かれており,下部には距離が記されている。
捕虜たちが歩かされた道はニ通りあるようだ。一つはドン・マニュエル・ベンソン通り沿いのものである。これはマリベレスからのものと推測され,バランガ中心部の道標は44kmとなっている。もう一つはバランガの南でドン・マニュエル・ベンソン通りと分岐してサマット山に向う道路沿いにある。こちらのものは分岐点の直近のものが26kmとなっている。
A交差点南側の橋からサマット山を望む
A交差点から南に向かって歩くとすぐに橋に出る。その手前に43kmの道標がある。この川は片側がコンクリートで固められ,片側は自然のままになっている。橋の上からはバターン半島の山並みがよく見える。右側の三角形の山の頂上に十字架がかろうじて見える。あれがサマット山であろう。位置的には山並みの最も手前である。
橋の向こうにはマリアン・ホテルがある。ここも500ペソくらいで泊まれそうだ。MMホテルにしてもこのホテルにしても,怪しい気配があるのでガイドブックに掲載するのは無理だろう。
家具工房
橋を越えて歩いていくと家具屋があった。職人たちがドアの戸板や厚手の大きなテーブルを作っている。表面にはレリーフが施されている。板の表面には鉛筆で大まかな下絵が描かれており,彫りの作業はのみと木槌だけで進められている。でも,ドアはともかくとして,テーブルの表面は凹凸が無いほうが実用的だと思うのだが・・・。
不思議なモニュメント
しばらく歩くとロータリが現れる。ここをまっすぐ南に行くとマリベレス,西に向うとサマット山である。このロータリーには不思議なモニュメントがある。巨大な手が長い剣を持っているというものだ。最初見たときはオベリスクか鉛筆と思ったが,その下には手首がついていた。
韓国風の人形
ロータリーの近くの食堂で死の行進の道標についてたずねてみた。するとサマット山の方向にも道標があることが分かった。この家には韓国風の大きな人形が置かれており,それについてたずねると,奥さんが韓国人であるためであった。異国に嫁いできても,生まれ育った国の文化と全く無関係に生きていくことは難しい。
サマット山の方向に歩いていくと26kmの道標が見つかった。バランガから半島の西海岸までの距離は23kmなので,捕虜たちはもう少し遠いところから歩かされたようだ。
収穫の終わった水田の風景
道路の周辺は一面の水田となっている。すでに刈り入れの済んだところもあれば,刈入れを目前に控えているところもある。乾季は収穫の季節のようだ。少し離れたところに集落があるので,畦道を伝ってそちらに向う。
これほど実を付けたジャックフルーツは初めて見た
この集落には面白いことはなかった。子どもたちはカメラを向けると逃げ回ってしまう。一軒の家の前にジャックフルーツの木があった。ジャックフルーツの果実はとても巨大だ。ラグビーボール型をしており大きなものでは60cm,重さは5kgくらいにもなる。
この巨大な果実は枝では支えきれないので,幹や太い枝から直接ぶら下がる。これだけ大きなものなので一本の木には数個しか実を付けない。ところがこの家の木は,根本で三本に分かれた幹のそれぞれに鈴なりになっている。
しかも,一つ一つが大きく成長しており,幹が見えないくらいだ。これほど多くの実をつけたジャックフルーツの木は始めて見た。ジャックフルーツは熟する前に収穫され野菜のように調理されることもあるが,完熟すると甘い香をふりまく果物になる。
市場ではよくこの果物が解体されている。内部はいくつかの部屋に分かれており,それぞれに数個の種子が入っており,その周りにはあっさりした甘い果肉がついている。市場ではこの果肉の単位で売られており,2-3個いただくとちょっとしたおやつになる。
KM25の道標からタマサット山を望
もとの道に戻り先に進むと25kmの道標があった。サマット山が少しは近くなり十字架が少しはっきり見えるようになる。この道路をバイク・トライシクルが走っており,サマット山までいくらと聞いてみた。
運転手は「う〜ん,一人で往復なら200ペソかな」とのたまう。トライシクルの料金は1kmで5-10ペソ程度なので,これはちょっと高い。トライシクルはあきらめて運良くジープニーが通りかかれば乗せてもらうことにしよう。
イネの刈取りと田植えが隣り合わせで行われている
道路の近くでは田植えが行われていた。さきほどの集落では刈り入れ前の風景,ここでは田植えの風景である。年に複数回の収穫がある亜熱帯の国ならではの風物詩である。
周辺の水田は一枚が0.25haほどもある。その広い水田を数人の人が目印もなしに苗を植えている。ここで植えられている苗はずいぶん成長したもので丈は40cmほどもある。その先端を少し切り,30cmほどにして植えている。
24kmの道標の周辺はふたたび緑と半分黄金色の風景となる。ということでわずか2kmを歩いただけで田植えから刈り入れまでの各段階の水田風景を見ることができた。
オオタニシは稲に害を与えるとされている
水田の中で動くものがいる。かなり大き目のタニシである。このタニシは稲を食べるということで害虫(害貝)とされている。稲の茎や畦にはピンクのきれいな粒の塊が付いている。これがタニシの卵塊である。
このタニシは不思議なことに水中には卵を産まない。水の中は敵が多いということなのかな。そういえば米国には大潮の日に砂浜で産卵する魚がいる。大潮の満潮時に砂の中に産み付けられた卵は波に洗われることもなく,次の大潮の日に孵化して海に出て行く。
卵は他の動物のかっこうの食料になるので,こうして彼らの近づけない砂浜で産卵することにより生存率はずっと高くなる。ここのタニシも同じような戦略で卵の安全を確保しようとしている。
みどりのじゅうたんの向こうには十字架を乗せたサマット山がくっきりと見えている。残念ながらジープニーは捕まえられなかったので,この辺りで引き返すことにしよう。
二つのファストフード店
この町の中心部にはフィリピン式の食堂は少ない。そのため初日の夕食,翌日の朝食はマックとジョリビーでいただくことになった。どちらの店も構造やカウンターの接客は日本のものと差は無い。
カウンターでセットメニューを注文をすると店員は「他の注文はございませんか」,「飲み物は何になさいますか」,「カップのサイズは大きいものもございます」とマニュアル通りの質問を繰り返す。
君たちはいつものせりふを言っているけなんだろが,聞いている方はファストフード店独特の言い回しと,怪しげな発音を聞き取るのに神経を使っているのだよと言いたくなる。
マックはスパゲティとコークのセットメニューが50ペソと安い。味もまあまあである。難点はスパゲティが発泡スチロールの容器に入っていることだ。普通の皿にすると皿洗いのための設備と人員が必要になる。
そのため,すべてのメニューで使い捨て容器を使用している。店のカウンターにある写真はちゃんと皿の上に盛り付けられていたのでだまされてしまった。
朝食はジョリビーでいただく。スパゲティとコークのセットメニューは57ペソ,これにハンバーガーを追加したので81ペソになった。こちらは皿に盛られており,マックより環境に配慮されているようだ。
スパゲティのソースはフィリピン人の好みに合わせて甘くなっている。この味付けとごはんメニューがマックを押さえてフィリピンでもっとも出店数の多いファストフードとなっている。
州庁舎への道
B交差点からまっすぐ西に向う道を歩き出す。特に当てはないけれど州庁舎まで歩くつもりだ。中心部から少し行くと大きなマメ科の木が両側に並んでいる。ちょうど黄色い花をいっぱい付けており,足元は黄色のじゅうたんのようになっている。
州庁舎への道から南に200mほどのところに公設市場がある
公設市場
州庁舎への道から南に200mほどのところに公設市場がある。市場の前の広場にはポールが立っており,そこから100本ほどの旗のついたロープが市場に向けて伸びている。これはちょっと壮観だね。
ここはバランガでほとんど唯一の大きな市場である。食料品をはじめ生活用品がメインで,やはり食料品売り場がおもしろい。
肉屋のメインはポークとチキンだ。チキンは丸のまま,ポークは豚のどの部分かが分かるほどの大きなブロックが吊り下げられている。販売単位はやはり大小のブロックであり,日本のように発泡スチロールのトレイなどは使用されていない。
男性が幅60cm,長さ2m,厚さ30cmの巨大なまな板の上で中華料理で使用される長方形の大きな包丁をふるうと手ごろな大きさのブロックが出来上がっていく。これを見ていると「肉屋」という実感が伝わってくる。
魚屋は商品がステンレス張りの台の上に置かれており清潔感がある。イカ,ミルクフィッシュ,よく見かけるが名前の分からないタイのような形状の魚(テラピアかな)・・・,このような売り場が何列も続いている。
州庁舎は近代的な二階建ての建物である
州庁舎の建物は近代的な二階建ての建物である。左右に長く張り出した部分がなければ,普通の邸宅のようにも見える。正面に水の無い噴水池があり,その前に1942年4月9日バターン陥落と記された碑文がある。それはフィリピンにとって名誉なことではない。しかし,それは歴史の1ページに記されるべき事柄である。
イベントに出演する中学生がダンスの練習をしていた
州庁舎の近くにはバスケット・ボール用の体育館があり,中から音楽が聞こえてくるので入ってみる。中では4月上旬に開催されるイベントに出演する中学生がダンスの練習をしていた。
フィリピンの人々はイベントが大好き,ダンスも大好きである。しかし,集団の動きを揃えるのは少し苦手のようだ。演出の女性が何回も注意を与えていた。窓からの明かりだけで動いている被写体の写真を撮るのは大変だ。動きが止まった瞬間をねらって一枚撮らせてもらう。
カメラの調子が・・・
カメラの調子がときどきおかしくなる。空,トタン屋根のように光の強い部分がピンクに染まってしまう。横方向のラインが入ることもある。これは困ったことだ。写真無しでは旅行の思い出を1/10も覚えていられない。こんなときに備えて,同じモデルのカメラを予備機として持ってきている。
もう予備機が必要になったのかなとためし撮りをしていたらじきにこの現象はなくなった。このカメラは旅行の半分あたりの時点で,横方向のラインが頻繁に入るようになり,予備機に切り替えることになった。
故障したカメラは同型機の2代目のものである。2006年に購入した初代のものは1万枚くらいでレンズ駆動システムが故障した。保証期間内だったので帰国後に修理に出した。
この一件に懲りて2007年の旅行からは予備機を持参することにした。しかし,デジタルカメラの世界はモデルチェンジが早く,1年もたつと同型機は手に入らない。そんなとき,ネットのオークションはとても役に立った。ここで中古の同型機を入手し,予備機として旅行に持参している。
2007年は初代と2代目,2009年は2代目と3代目の組み合わせである。2007年の旅行で使用した初代のカメラはやはり1万枚あたりで同様の故障となり廃棄し,旅行の残りの1万枚は2代目で撮影した
その2代目も2009年の旅行の半ばで故障し,後半は3代目に活躍してもらった。2代目の撮影枚数は約2万枚,中古ながらよく働いてくれた。
バスターミナル
A交差点から北に歩いてみる。橋を渡った左側にビクトリーライナーのバスターミナルがある。ここにはビクトリーライナーとバタン・トランジットのバスが並んでいる。ビクトリーライナーは僕の次の訪問地であるオロンガポ行きの路線をもっており,早朝から1時間おきにバスが出ている。
この少し先のガソリンスタンドのあたりにジェネシスのバスターミナルがある。A交差点からは500mも離れていない。ここからトライシクルを3回も乗り継いで宿に到着したとは少し腹が立つ思いだ。
脱穀の風景1
そのまま歩いていくと45kmの道標がある。町の中心部からここまで1kmということになる。道路の周辺は刈り取りが終わった一面の水田になっており,あちらこちらから稲ワラが宙に舞っている。
その一つに近づいてみる。収穫した稲ワラの山の前にエンジンの付いた脱穀機がやかましい音と黒い煙を吐きながら動いている。男性たちが稲ワラの山から一抱えを持ってきて脱穀機の入り口に入れる。エンジン音がひときわうるさくなり,排出口から稲ワラだけが飛び出してくる。
籾は脱穀機の下から出てくるようになっている。日本のコンバインは稲の刈り取りと脱穀を同時に行うすぐれものだが,値段の方は少なくともここで使用されている脱穀機20台分はするだろう。
籾の出口には袋が取り付けられている。脱穀機の横にはもう何袋かが積み上げられている。この袋に入った籾はまだ乾燥が済んでいないので,どこかの路上かコンクリートの広場で天日乾燥させられるのだろう。
この脱穀機には車輪が付いており,トラクターに引かれて次の稲ワラの山まで移動することになる。脱穀作業はその後も延々と続くことになる。同様に袋詰めされた籾もトラクターに引かれた荷車により運ばれていく。
水田わきにあるヤシの木の下では女性たちが落穂を集めている。彼女たちは稲ワラの先を足で踏んで脱穀し,ザルを使用して軽い稲ワラの切れはしと重い籾を分別している。
落穂はたくさんはないがこの広い水田から集めるとけっこうな量になる。この落穂の収穫は彼らの収入になるようだ。彼らは10kgほどのコメを大切に袋に入れて持ち帰る。
僕には彼らが農民なのか農業労働者なのかは分からない。ただ,彼らが落穂から取り出した籾を大切に扱っていることにある種の感動を覚えた。
脱穀の風景2
彼らの求めによりボトルの水を分けてあげてので,いったんガソリンスタンドに引き返して食堂でマウンテン・デューをいただく。ここには飲料水の大きなボトルがあるので僕のボトルに入れさせてもらう。
食堂のおばさんは水の代金は受け取らなかった。帰りにもう一度ここに立ち寄ってマウンテン・デューをいただくと,今度はスパゲティをごちそうになった。このスパゲティは昼食になり,今日は朝昼ともスパゲティになってしまった。
思いがけなく昼食をいただくことになり,再び水田地域を見に行く。こちらでは女性たちが稲を刈り取っている。稲を刈り,小さな山に積み上げ,さらに一ヶ所に集めて大きな山を作っていく。
5歳くらいの女の子が落穂を拾い集めている。周りを見ると落穂がけっこうある。一束分を集めて女の子に手渡す。女の子は一抱えの落穂を母親に届けに行く。なにか,ほのぼのとしたものを感じる。
近くに竹とニッパヤシでできた小屋があり,作業者が休憩をとっていた。さきほどの落穂の女の子が小屋にやってきたので,彼らの水をいつも持ち歩いているコップに入れてもらい,ヨーヨーを作ってあげる。
女の子は外国人の僕を警戒して受け取ろうとしない。側の女性にヨーヨーを渡し間接的にあげると,ようやく受け取ってくれた。刈り取った稲山のところには脱穀機がやってきて,黒い煙とともにワラが空中に放り出される。
ダンスの練習
46kmの道標と思われるものがあった。この貯水塔の脇にある道標には数字が記されていなかったが,順番からすると46kmであろう。この近くに学校があった。入り口には「Seven Goals of a child-friendry society」という看板が掲げられていた。僕なりに翻訳すると次のようになる。
1. 学校と地域で子どもの(社会)参加を促す
2. 子どもたちの健康と福祉を高める
3. 子どもたちの安全を守り保護する場所を確保する
4. 子どもたちが高い学力をもてるようにする
5. 子どもたちを入学させ学業を修了させる
6. 教師のモラルとやる気を引き上げる
7. 教育のため地域の支援を動員する
教育は社会の将来を担う子どもたちには必要不可欠のものである。国民の半数が貧困ラインに属するこの国でも,教育による人々の意識の変化は社会を変えていく原動力になることだろう。個人にとっても教育は職業選択の幅を広げ,貧困から抜け出す有効な武器になる。
校舎の中では子どもたちがダンスの練習をしていた。州庁舎の近くの体育館では中学生が同じようにダンスに取り組んでいたので,同じイベントに参加するのかもしれない。ここの子どもたちが練習しているものは創作ダンスで,何か宗教的な物語を表現しているように感じられた。
水辺の風景
45kmの道標の東側に土手のようなものが見えるのでそちらに向う。途中からは水の張られた水田の畦道を歩くことになる。この畦は水がしみ込んで柔らかくなっており,歩くのにかなり苦労した。
一面0.25-0.5haはある広い水田には20cmくらいに成長した幼い稲が育っている。稲の密度は場所によってばらついているし,規則的に並んでいるわけでもない。おそらく直播の水田であろう。フィリピンでもこのような形態のコメ作りがあるのだ。
ようやく土手にたどりく。土手の向こう側は何かの養殖場もしくは元養殖場であったところのようだ。水深は浅く,一部は中州のようになっている。池の向こう側には監視小屋のような家屋があり,水辺に降りるためのスロープが設けられているが,あたりに人影はない。
水面近くを鳥が飛んでいる。しかし,距離があり過ぎてどのようなものかは確認できない。苦労のかいなく面白いものは見られず,再び苦労してゆるい畦道を通って道路に出る。
子どもの多い広場
A交差点から南に歩く。橋を越えた先に路地があり,その向こうは広場になっていた。広場を囲むように家屋が集まっており,地域コミュニティを形成している。このようなコミュニティは「バランガイ」と呼ばれ,行政の最小単位となっている。
フィリピンにおける地方自治体の単位は州,市町村,バランガイの三層構造となっている。全国にあるバランガイは約42,000であり,50-100世帯ほどが一つの単位となっている。
バランガイは地域レベルの政策を計画し実行する上で基本となる組織であり,市や町はこのバランガイの集合体である。規模からするとバランガイは日本の町内会や自治会に近い組織であるが,フィリピンでは法人格や税の賦課徴収などの行政事務権能,執行機関,議会を有する自治体である。
バランガイにはバランガイ・キャプテンというまとめ役がおり,地域の揉め事の調整や行政の広報の役割を担っている。このようなコミュニティが健全な地域は旅行者にとっても比較的安全である。
とはいうものの,余所者の僕が広場に入ると,人々は「こいつはいったい誰なんだ」という眼差しを向けることになる。広場で遊んでいる小さな子どもたちも同じように警戒している。
最初はカメラを向けると逃げ回っていた子どもたちも画像を見せてあげると警戒心が薄くなり,遊んでいる自然な姿の写真を撮ることができた。そのうちすっかりなつかれてしまい,何枚もの集合写真を撮ることになった。
Piazza Della Virgin Del Pilar 教会
広場の先をずっと歩くと41kmの道標があり,その近くに変わったファザードの教会があった。入り口の看板には「Welcome Piazza Della Virgin Del Pilar」となっていた。
この教会のファザードは二層構造のようになっており,その上に大きな鐘楼が一つ乗せられている。鐘楼の上に十字架があるのでかろうじて教会であることが分かる。それが無ければこの石造りの頑丈な建物はどうみても砦である。
ファザードの特異さに比べて正面斜めからの写真は普通の長方形プランの教会である。内部は長方形の建物構造がそのまま反映されたシンプルな形状である。僕の訪れたときはミサの最中で,聖壇に近づくのははばかられた。