宿から街の北側にあるハロ教会に行こうとしていた。モロ教会の近くからジープニーに乗り,途中の陸橋のところで下車する。ここから北に向かうジープニーに乗ったつもりが途中で左に曲がり空港の西側に出てしまった。空模様が怪しいので空港施設のあるところで下車する。
しかし,施設の一部は取り壊されておりなんだか様子がおかしい。警備員にそのことをたずねると,空港は15kmほど離れたところに移転したとのことであった。イロイロからマニラに飛ぶ予定だったのでどうやって空港に行くかという新たな問題が発生した。
空模様を気にしながら周辺を歩いてみる。インドキワタ(Ceiba pentandra)の木がある。ほとんど葉の無い枝に実がぶら下がっているのでよく目立つ。この木の実は熟してもはじけるものが少なく,茶色の実がそのままになっている。これはちょっと寂しい。
有刺鉄線で囲われた草地には牛が草を食べており,その回りには白さぎが群れている。近くの家の庭から近づくと警戒心の強い鳥は飛び立ってしまう。外に出てきたおばさんに話しかけられ,しばらく四方山話をしておいとまする。
大きな葉をたくさん繁らせた木があったので真下から写真を撮ってみる。当たり前のことだが植物の葉は光合成をするためには太陽光が必要である。一本の木でも上の枝もあれば下の枝もある。上の枝の葉だけで光を独占してしまうと下の枝は成長できない。
そこの加減を上手に調整しながら葉を繁らすことになる。そのような樹木を下から見上げるとほとんど空は見えない。かといって上下の葉が重なり合うことも少ない。
魚の養殖場
空模様が怪しいので宿に戻ることにする。帰り道はガイドブックの地図から外れているが南に向かう道路があるのでそのまま歩くことにする。道路の右側に広大な水域があり,養殖場もしくはその跡地となっている。
浅い水面には白さぎが群れており,近づくことができればよい絵になるが,距離があり過ぎる。さらに南に下ると現在も運用されている養殖場になる。
養殖場に通じる道があったので入ってみる。子どもたちが寄ってくるのを尻目に養殖場の写真を撮っていると,水面スレスレのところまで下りてくる鳥がいる。
あのように魚を捕まえる鳥はアジサシ(カモメ科・アジサシ属,Sterna hirundo)である。アジサシはカモメに近い鳥で,カモメを少しスマートにしたような体型をしている。
世界で40種以上が知られており,分布域も北極海から南極圏にいたるまでの海洋,海岸,湖沼に広がっている。中でも熱帯の海域に生息する種が多い。
非常に飛翔能力に優れており,毎日の採餌のため100kmほど飛ぶことも珍しくない。中でもキョクアジサシは北極圏と南極圏を毎年往復する35,000kmの渡りを行うことで知られている。この移動距離は鳥類の中でもずば抜けて大きい。この小さい体で途方も無い距離を移動するとは驚きである。
アジサシの仲間の食料は小魚,イカ,甲殻類,昆虫などであり,水中の魚を捕食するときには二種類の方法があるようだ。一つは上空から水中に飛び込み捕捉するグループで,ホバリングをしながら機会をうかがう。
もう一つは水面にクチバシをつけながら飛び魚を挟みとるグループである。どちらのグループも捕らえた小魚をクチバシで挟んで飛び上がるので,その姿からアジサシ(鯵刺)と呼ばれるようだ。
海鳥の仲間は外敵から卵やヒナを守るため集団で営巣する性質がある。この営巣地はコロニーと呼ばれている。colony は植民,植民地,居留地など人の移動や居住に関する言葉であるが,動物の集団的な営巣地や繁殖地にも使用されるようだ。
アジサシの仲間も条件がよい場所では大きな集団営巣地を形成する。インド洋に浮かぶサンゴ礁の島からなるセイシャル諸島には100万羽を超えるコロニーがあり,政府により厳重に保護されている。
とにかく動きが早いので近くのものを撮るのはとても難しい。子どもたちに「あっち,ほらあそこ」と助けられなんとかカメラに捕らえることができた。頭部の上半分が黒く,羽が灰色,クチバシが黒いのでアジサシ(Sterna hirundo)であろう。アジサシの中でももっともポピュラーな種である。
人数が多すぎるので対象年齢は10歳未満に限定した
アジサシの写真のお礼に集まっていた子どもたちにヨーヨーを作ってあげる。さすがに全員では数が多すぎるので対象年齢は10歳未満に限定し,ちょっと大きい子どもたちには遠慮してもらった。
しかし,この集落にはまだまだたくさんの子どもがおり,その辺りを歩いているとさかんに声がかかりヨーヨーの製造個数は増えていく。
アイスクリームは大好き
子どもたちとお別れして再び南に向かって歩き出す。南のモロ地区と北側の地区を隔てるイロイロ川には橋がかかっている。この水路にも何らかの漁業関係の竹囲いが見える。
橋の向こう側には広場があり,子どもたちが自転車で遊んでいる。中には商売用のトライシクルを乗りこなしている子どももいる。アイスクリームをもった少女がいい被写体になってくれた。
この国では男性の競技人口がもっとも多いスポーツである
広場の奥にはバスケットボールのコートがあり,若い男性がコンクリートの床の上を走り回っている。彼らの足回りはビーチサンダルにもかかわらずすばやい動作でボールを追う。
ここから宿までは歩いて10分ほどである。途中には食堂,スーパーマーケットがあり,夕食はそこの食堂でいただく。ごはん,豚肉と野菜のピリ辛スープは27ペソで満足すべき味であった。
教会が主催するイベント
宿のフロントで新空港への行き方をたずねてみた。旧空港の東側にあるSMシティからシャトルバスが出ているとのことである。SMシティなら宿からジープニーで行くことができるので移動は簡単である。まあ,念のためにハロ教会の帰りに立ち寄って様子を確認してこよう。
ジープニーで街の中心部に向う。途中で陸橋になっており,ここで乗り換えて北に行くとSMシティである。今日の第一目標は昨日見ることができなかった公設市場を見学することにしよう。
市場の少し西側に教会があり,となりの建物の周辺に大勢の子どもたちが集まっている。何かイベントがあるようだ。子どもたちに「中学生なの」とたずねると,この3月に卒業する6年生だという。
回りを見渡してみるといくらなんでも小学生とは思われない年齢の子どもがおり,イベントは中学生全体を対象とするもののようだ。この国でも中学生のケータイ所持率は高い。建物の入り口には受付があり,ここで登録すると氏名の記された名札が手渡される。大人数のため受付にはかなり時間がかかりそうなので,何組かのグループの写真を撮り,市場に向う。
再び子どもたちのイベントを見学する
教会の建物に戻ると子どもたちはすでに建物の中で司祭の話を聞いている。この話がいかにも長い。ケータイを使用している子どもはスタッフから電源をオフにされていた。確かにこの話しの長さでは子どもたちは退屈するであろう。
この建物は体育館のような造りで,床の両側には階段状の観覧席がある。子どもたちは床に並べられたイスに坐っているので観覧席にはだれもおらず,ここから写真を撮ることができた。それにしてもこの話の長さはいつまで続くのであろう。彼の話は僕が会場を後にするまで続いていた。
公設市場
さすがに午前中の早い時間帯なので市場には商品が溢れている。まず魚市場を回ってみる。意外と熱帯産のカラフルな魚は少ない。ミルクフィッシュ,ムラサキガイ,シイラなどが目に付く。
ミルクフィッシュ(Chanos chanos,サバヒー科・サバヒー属,和名はサバヒー)は台湾,東南アジアでもっとも庶民的な魚である。外観的にはニシンに類似している。フィリピンではbangus(バングス,バゴス)と呼ばれ国魚の扱いである。
身がミルクのように白い色をしていることから英語ではミルクフィッシュ(Milkfish)と呼ばれている。インド洋から西太平洋の熱帯および亜熱帯水域に広く生息しており,成魚では体長が1mを超える。ただし,市場に出回っているのはほとんどが養殖されたもので,体長は30-40cmである。
ミルクフィッシュは海水魚であるが塩分濃度の低い汽水域でも生息できる。このため,沿岸養殖が可能となっている。主として藻類をえさにしており口が小さく歯はない(wikipedia)。また,産卵期の後は海岸に稚魚の群が大挙して集まるので,その稚魚を捕獲して養殖することが容易である。
ニシンと同様に小骨が多いという欠点はあるものの,台湾ではサバヒー粥(虱目魚粥)やサバヒーの肉団子入りスープ(虱目魚丸),フィリピンではサバヒーの腹に香草を詰めて焼く香草焼き,シニガン・スープ(野菜を煮込んだ酸味のある料理)などが代表的な料理となっている。
魚を新鮮なものに見せるためしょっちゅう水をかけるので地面(床ではない)はぬかるんでおり,歩くのに難儀する。日本の煮干のような干物もある。他にも魚の開きもあり日本と共通の食材も多い。
肉屋は豪快だ。日本のように小さなパックに入っているのではなく,そのものずばりの肉のかたまりが店先に吊るされており,どの部分の肉かが判別できる。
マメ科の木の豆をさやから取り出している
野菜のところではおばあさんが木になる豆を莢から取り出している。これは手間ひまのかかる作業だ。
内部は黄色くなっているので果物として売られている
フィリピンでは表皮は青く内部は黄色のマンゴーがよく売られている。表皮が黄色のマンゴーはねっとりとした甘さが売りであり,この青いマンゴーは適度な甘さと酸味がバランスしている。
世界のコメ貿易とコメの値段
旅行に行く前にコメの国際価格が高騰し,輸入国フィリピンではコメの値段が上がり,安い政府米が手に入らなくなったというニュースがあった。そのため市場ではついついコメの値段に目が行ってしまう。フィリピンには国際稲研究所(IRI)という施設がある。これはアジア各国の共産化を防止するという米国の対アジア戦略に基づいて1962年に設立されたもので,資金はロックフェラー財団とフォード財団から出ている。
アジア各国が食糧自給を達成し,貧困から脱却すれば共産主義が浸透することはなくなるだろうという目論見である。そのためアジアの主要食糧であるコメの品種改良に取り組んだ。その結果,「奇跡のコメ」と呼ばれる従来品種の2倍の収量が見込まれる新品種が生まれた。この品種は国際稲研究所(IRI)の名前から「IRI米」と呼ばれている。この奇跡のコメは1970年代から1980年代にアジア各国で広く採用され,多くの国ではコメの自給を達成することができた。これは「緑の革命」と呼ばれている。
2005年の統計ではフィリピンは国内コメ消費量(精米ベース)1200万トンのうち17%に相当する200万トンを輸入する,世界最大のコメ輸入国である。人口8000万人のフィリピンのコメ消費量は人口1.2億人の日本の消費量750万トンを大きく上回っている。
一人当りの消費量は日本の2倍強になる。これはフィリピンにおいてはコメを中心とした食事であることがうかがわれる。副食に大きな費用をかける経済的余裕がないのだ。コメの価格が上がることは貧しい人々にとってはまさに死活問題なのだ。
世界のコメの生産量は約4億3,000万トン(2008年,精米ベース)である。ほとんどが国内消費に回され,輸出に振り向けられるものは3080万トン(2008年USDA),生産量の7%程度に過ぎない。
この数値は大豆の約30%,小麦の約20%,とうもろこしの約13%と比較しても相当低い。つまり国際的に取引されるコメは消費量に比して非常に少ないので,輸出国の作柄に大きく影響されることになる。
2008年のデータでは世界のコメの主要輸出国はタイ(32%),ベトナム(15%),インド(15%),米国(11%),パキスタン(10%)であり(オーストラリアは干ばつのため不作であった),米国を除きすべてコメの大消費国である。
コメのトンあたりの国際価格は1990年から2007年までは200-300ドル程度であったものが2008年はピークで1000ドルに跳ね上がり,2009年も600ドル程度で推移している。
コメの国際価格が上がると精米業者は在庫を国内ではなく輸出に振り向けようとするため,国内価格が上昇する。これを抑えるため政府は輸出を制限したり禁止することになる。
そのようなニュースが流れると国際価格の上昇に拍車がかかることになる。2008年のコメの暴騰はそのような仕組みで引き起こされた。8000万人の人口を抱えるフィリピンが毎年200万トンものコメを輸入しているのは食糧安全保障のうえでは大変危険なことなのだ。
緑の革命の導入により,フィリピンもある時期はコメの自給を達成したが,二つの問題により,輸入国に戻っている。一つはフィリピンの高い人口増加である。1970年から2000年にかけての30年で人口は倍増している。これでは少々,コメの生産が伸びても人口増加率に追いつくことはできない。
山がちな地形のフィリピンでは稲作に適した土地はすでに開発されてしまっており,新たな耕作地は期待できない。それどころか工業用地や住宅への転用により農地は減少する傾向にある。毎年やってくる台風などの自然災害がそれに追い討ちをかける。
もう一つの問題は「緑の革命」の限界である。IRI米が奇跡の収量を達成するためには豊富な水と化学肥料,農薬の投入が必須条件となる。このため土壌の肥沃さが急速に失われることになる。
コメの生産される水田は一つの生態系を形作っており,それが土壌の肥沃さを維持してきた。ところが化学肥料と農薬の多用はこの生態系を破壊することにつながる。
土壌の肥沃さは地力という言葉に集約される。地力が低下すると反収は落ちる。それを補うために化学肥料の投入量が増える。化学肥料で育てられた稲は柔らかいため病害虫に弱く,大量の農薬使用が欠かせなくなる。
この悪循環は高コストのコメ作りにつながり,昆虫,水棲生物,微生物などから形成されていた豊かな水田の生態系は失われる。「緑の革命」は持続可能な農業とは言い難いのだ。
問題は緑の革命が爆発的な人口増加をもたらしてしまったことである。人類の歴史の大部分を通して,地域の人口は食糧により規制されてきた。食糧の増産はそのくびきを外すことになった。
アジアやアフリカの人口は20世紀の後半に爆発的に増加し,世界の人口は21世紀の半ばに90億人あたりで安定化すると予測されている。このぼう大な人口を養うためにはたとえ持続可能ではないにせよ,現在の農業技術を継続せざるを得ない状況になっている。
西暦年 |
フィリピン(万人) |
日本(万人) |
1960 1970 1980 1990 2000 2050(予測) |
2,900 3,900 5,100 6,400 8,000 13,000 |
9,500 10,500 11,500 12,000 12,500 9,000 |
フィリピンでは日本と同様に二種類のコメが流通している。政府が一度買い上げてから安い価格で市場に出す「政府流通米(NFA米)」である。もう一つは政府を経由しないで直接市場に出される「自主流通米(コマーシャル・ライス)」である。
両者の違いは価格である。2008年前半の時点では政府米は1kgあたり20ペソ(約40円),自主流通米は40ペソ程度である。自主流通米は国内のコメ不足を反映して年初から30%ほど値上がりしている。
政府米は政府の補助金のついた低所得層のためのものであり,事前に登録した上で特定の販売所で長い列に並ばなければならない。
ところが,自主流通米の値上がりにより,これまで自主流通米を買っていた世帯も政府米を買うようになってきた。そのため,政府米を売る店にはコメを買い求める人々の行列ができるようになった。この様子は日本でも報道されている。
イロイロの市場におけるコメの値段は1kgあたり29ペソから37ペソであった。これは自主流通米であろう。日本のコメ(400円/kg)よりもはるかに低価格ではあるが,貧困世帯(1人・1日あたり1$以下)ではコメ代は家計の大きな割合を占めている。
イロイロ博物館
公設市場の西側の道をまっすぐ北に向かうと州庁舎そしてイロイロ博物館に出る。ここは見学してみたかったのだが入り口は閉まっており,オープンしているようには見えなかった。
出発前にネットでイロイロ博物館について調べてみると太平洋戦争前の日本人学校の写真や戦争時の日本軍の遺留品が展示されているという。この町にも日本人にまつわる歴史があったのだ。
戦前のフィリピンと日本人の関わりとしてケノン道路の建設があげられる。マニラとバギオを結ぶ道路建設において山間部の建設は難渋を極めた。米国人は日本人の勤勉さに着目し,移民労働者を大量に雇用した。
日本人労働者は劣悪な労働条件と過酷な自然環境にもめげず,多くの犠牲者を出しながらも1903年に完成させた。この建設に従事した日本人の一部はフィリピン人と結婚するなどして現地に残った。
在比日本人はミンダナオ島,ネグロス島,セブ島,パナイ島など事業を行うようになった。フィリピンにおける日本人の地位は次第に向上していった。イロイロには移民のための小学校もあった。そのような関係は太平洋戦争により一変した。
パナイ島に米軍が上陸すると日本人移民は日本軍と行動をともにした。しかし,女性や子どもは過酷な逃避行に耐えられずイロイロから北西に30kmほどのところにあるアマシンという町で集団自決をした。犠牲者は40名以上であり,その場所には慰霊碑が立っているという。
橋の北側からの風景は大したものではない
イロイロ博物館のあたりで入り江はほぼ直角に曲がっている。北に向かう道はこの入り江にかかる橋を渡り,ハロ教会に続いている。橋からの風景,橋の北側から南側の水路を眺める風景のどちらも大したものではない。
ハロ教会
ということでジープニーに乗ってハロ教会に行くことにする。車は幹線道路をまっすぐには行かず,下町の複雑な道を通ってハロ教会の前に到着した。
教会のファザードには二つの立派な鐘楼がある。教会は幹線道路から少し奥まっており,その間は庭園となっている。道路を挟んだ反対側には古いレンガ造りの大きな塔が立っている。
実はこれがハロ教会本来の鐘楼なのである。教会と鐘楼が別々に建てられているスタイルはフィリピンでも珍しいという。もっともこちらの鐘楼は柵で囲われており,訪れる人もいない。
教会の前の庭園には右側に聖母マリア,左側にイエス・キリストの像があり道路からの眺めは一幅の絵のようだ。ハロ教会は1948年の地震で倒壊し,その後再建されたものだ。おそらく石材は古いものを再利用したのであろう。歴史の重みを感じさせる重厚な建造物である。
地震で倒壊する以前の構造に関する資料はどこにも展示されていなかったが,全体のバランスからすると二つの鐘楼や背後のドームを戴いた建物は再建時に追加されたものなのかもしれない。鐘楼は建物本体に対して少し大き過ぎるし,本体とT字形で交差する建物は新しい印象を受けた。
教会は正面の長方形の建物と背後の建物がT字形に直行する構造となっており,交点の上にドームが乗せられている。この構造は一種の十字架プランであるが,礼拝堂内部は十字架プランの基本構造にはなっていなかった。
ドーム直下の空間が聖壇になっており,その背後には空間を完全に仕切るものではないが壁になっている。壁の中心部は窪みが設けられており,幼きイエス(サント・ニーニョ)を抱いたイエス・キリストの像がある。
窪みの上部にある照明に照らし出されており,正面の入り口から入ると,この像が浮かび上がってくるような感じを受ける。視覚的効果を十分に考えた空間となっている。
礼拝堂の両側はアーケードとなっており,その外側に狭い側廊が設けられている。聖壇の壁の後ろにも空間があり,そこには複数の神の家を模した構造物があり,イエス・キリストや聖母マリア像が置かれている。
聖壇の壁のキリスト像といい,その背後の複数の像といい宗教芸術のすばらしい造形を楽しむことができる。フィリピンで出会った教会の中でも思い出深いものの一つである。
ハロ市場での事件
ハロ教会のあるハロ地区には露店が集まった市場がある。
ここには野菜,果物などの食料品と日用品が商われている。また,となりの屋根つきの建物では古着が売られている。
いつものように露店を回り,その辺りで遊んでいる子どもの写真を撮る。なかなか表情が豊かで楽しい子どもたちであった。ここにはパイナップルの切り身がある。四半分に割り箸を刺したものが5ペソか10ペソであり,とてもよいおやつになる。
失礼ながら日本で食べるパイナップルとは比べ物にならない。畑で完熟するとすばらしい味になるので東南アジアに行ったときは是非,賞味していただきたい。
パイナップルは水分も豊富なのだが甘味が強いため,のどの渇きにはそれほど効果は無い。ザックの水を取り出して口の中の甘味を洗い流すことにする。
イロイロは熱帯産の果物が豊富で昨日はマンゴー(60ペソ/kg)2個とアボガド(25ペソ/kg)2個を買い,今日の朝までにはすべて食べてしまった。今日もこの市場でマンゴーを2個買うことになった。
果物を自分の部屋で食べるため,僕はプラスチックの皿と安い果物ナイフを持ち歩いている。このナイフは機内持込み荷物にはできないので,飛行機に乗るたびに宿に置いてくることになる。
今回の旅行は飛行機移動が多くて何回もナイフを買うことになった。そのくらいの面倒くささもマンゴーの魅力の前にはどうってことはない。
余談になるが東南アジアではパイナップルの固い表皮をごく薄く削り取っている。表皮は凹凸があるので凹部の丸い模様の部分が残る。それをおばさんたちは丁寧に溝状に削っていく。その結果,表面にはらせん状の溝ができる。これがパイナップルを細大もらさずに食べる最適の方法である。
古着屋の一画を回ってみる。このあたりはなんとなく雰囲気が怪しかった。二人の若い男性につきまとわれ,気が付いたら背中のザックのファスナーが開けられていた。驚いて内容物をチェックすると内部のファスナー付きポケットに入っていたボイス・レコーダーが消えていた。
う〜ん,こんなことになるまで気が付かなかったとはうかつであった。しかも,これだけ人の目のあるところでやられるとは,ここは泥棒集落なのかとひどいことを考えたりもした。
とりあえず周囲の人の写真をとり,「警察を呼んでくれ」と大きな声で周りの人に伝えると,英語のできるおばさんがやってきた。さきほどからのいきさつを説明すると,別の男性が僕のボイス・レコーダーを持ってきてくれた。
持ち去ったもののたいして役に立たないものだと分かったのかもしれない。ともあれ,ボイスレコーダーは僕の手に戻ってきた。英語おばさんは「あんた,この人にお礼をすべきなのよ」ときた。
なるほど,盗まれたのは僕の注意不足によるところもあった。50にするか100にするか迷った結果,100ペソを渡すとくだんの男性は笑顔で受け取った。今回の旅行では二回目の盗難事件であった。もう,こんな経験はたくさんだね。
バトントワラーの少女たち
宿の近くは下町の雰囲気が漂っている。壁の無い体育館のような建物の中からマーチ音楽が聞こえてくる。子どもたちがバトントワラーの練習をしている。周りには母親たちがいるのでご一緒させてもらう。
動きのある団体を写真に撮るのは難しい。フレームに迷いながらウロウロしていると練習は終わってしまい,練習風景は撮れなかった。練習を終えたバトンガールを何枚か撮らせてもらう。彼女たちは迎えのジープニーに乗って移動していった。
通りから路地に入ると小さな家が密集している
南の方向に歩いていくともう一つの入り江にかかる橋に出る。イロイロ市の南部は入り江により三分割されているようだ。橋から見ると水路の周辺は漁業関係者の集落となっており,バンカーボートが停泊している。水は橋の上から見る限りではきれいなものだ。
通りから路地に入ると小さな家が密集している。旅行者に友好的なところもあれば,よそ者は入ってきてはいけないという素振りをみせるところもある。
ある路地では大きな容器にいっぱいのカキがあった。レモンをかけていただくときっとおいしいだろうが,さすがにこの国では生ものに手を出すことはできない。
世界でカキを好んで食べるのはヨーロッパ,北米,日本であり,カキは比較的寒いところのものかと思っていたら,フィリピンでもたくさんとれるらしい。種類はイワガキであり,どちらかというと夏が旬である。
日本のマガキは夏場は産卵の時期で精巣や卵巣が大きくなり身は細る。やはり「R」の付いた月が食べごろということになる。コミックスの「美味しんぼ」は雪解け水により海の栄養が豊かになる春先のカキがもっともおいしいとされている。
フィリピン滞在者のブログでは「フィリピンではカキは潮が引いた浜辺で簡単に取れるので値段はキロ50ペソ程度の安さだという。ただし,生食は絶対にダメ,採取後時間が経ったものも避けるべきだ」と記されていた。
市の中心部のある東に向って水上集落が続いている
幹線道路からちょっと大きな道が南に向かっており,その終点は海であった。ギマラス島がすぐ近くに平坦な姿を見せている。天気は良いけれど海の色はいま一つさえない。
こちら側の海岸にはイロイロ市の中心部のある東に向って水上集落が続いている。ちょっと泥でにごった海岸近くでは子どもたちが水遊びをしている。ようやくイロイロ市の海岸風景に出会うことができた。
この海岸に通じる道の両側にはこぎれいな家が並んでおり,子どもたちの着ている服も実用本位のものではなくデザインに重点がおかれた華美なものだ。三人の少女はカメラの前でちゃんとポーズを決めてくれた。
道端にテレビカメラが置かれていた
宿に戻る途中で道端にテレビカメラが置かれていた。撮影用機材を積んだ車にはテレビ局のロゴが見える。撮影のスタッフはまだ集まっておらず,代わりに子どもたちが「何が始まるのかな」と集まってきている。
モロ教会での結婚式
モロ教会では結婚式が行われていた。カソリックのお国柄なので結婚式は教会で挙げるのが通例となっている。ちょうど式が終わり参列者が帰るところであった。新郎新婦はその後もカメラマンの指示にしたがって,教会の周りで記念写真を撮っていた。
モロ教会横の公園の風景
日が傾いてくると教会の前の広場には大勢の人々が涼を求めて集まってくる。バスケットボール・コートでは今日も若者たちが試合に汗を流している。ダンスの練習を繰り返しているグループもいる。制服姿の中学生はベンチにかたまりおしゃべりに熱中している。
けだるい暑さがやわらいできており,人々はそれぞれ地域的なつながりの中でいまという時間を生きている。母親と一緒に夕涼みをしている8-9歳の少女にカメラを向けると,妹を抱き上げて一緒の写真を要求する。画像を見せてあげるとにっこりと笑顔になる。
この国にはスローライフなどという言葉は必要ない。時間に追われて生きる必要はどこにもないのだ。人口の半数が貧困状態にあるこの国であるが,フィリピン人の気質なのか人々の表情は決して暗くはない。
この広場には旅行記に紹介するようなおもしろい話題はない。しかし,このような平和な時間を地元の人たちと共有するのは,旅の時間の過ごし方としては悪いものではない。
イロイロ川の橋の上から見る夕暮れ
夕日の時間帯は北側の入り江にかかる橋の上で過ごす。茜色に染まった低い雲を背景に漁のための囲いが連なる暗い水面が広がっており,明るい時間とは異なった色彩の風景に仕上がっている。
夕食は昨日と同じ食堂でいただく。メニューはごはん,魚のピリ辛スープであった。小さな食堂なのでその日のスープメニューは決まっており,それ以外は作りおきの料理となる。味付けは昨日の豚肉と同じである。ただし,魚は高級品なのか値段は40ペソ(昨日は27ペソ)と高くなっていた。