亜細亜の街角
日本人観光客が多いのはセブ島の隣のマクタン島
Home 亜細亜の街角 | Cebu City / Philippiens / Mar 2009

セブ・シティ  (地域地図を開く)

日本人にとっては「セブ」はもっともポピュラーなリゾート地の一つであろう。しかし,日本からの直行便が到着するのは「マクタン島のセブ国際空港」なので話しはややこやしい。「セブ」とはセブ島および周辺の小さな島々からなる「セブ州」をさす言葉のようだ。

セブ島は面積4422km2,約250万人の人々が居住している。それに対してマクタン島は面積100km2程度の小さな島であり,町と呼べるものは北西部のラプラプ・シティだけである。その小さな島の東海岸は高級あるいは中級のホテルが林立するリゾート・エリアになっている。

セブ島とマクタン島の間は約2km,二本の橋で結ばれている。セブ国際空港からセブシティまで約15km,空港タクシーを利用すると295ペソもする。

セブ・シティは人口80万人,セブ州の州都でありビサヤ諸島の中心地でもある。街の中心部にはフェンテ・オスメニアというロータリーがあり,ここから南側は昔ながらの街並みが残るダウンタウンになっている。北側はアップタウンで高級住宅地や商業施設がある。

セブシティの経済的発展とともに都市圏は巨大化していき,隣接するマンダウエ市,ラプ=ラプ市,タリサイ市などを合わせて総人口240万人,メトロ・マニラに次ぐフィリピン第2位の大都市圏「メトロ・セブ」を形成している。

セブはフィリピン随一のリゾート地であり,フィリピンを訪れる外国人観光客はほとんどここを訪れることだろう。2007年の統計では外国人観光客は初めて300万人を越えたそうだ。

これは前年度に比べて8.7%増加している。日本人がトップかと思いきや韓国が一位であった。日本人は減少傾向にあるという。この記事を表にしてみると次のようになる。

国名 観光客数(万人) 2006年比増減

韓国
米国
日本
中国
オーストラリア
台湾

65.3
57.9
39.5
15.7
11.2
11.2

+14.2 %
+2.0 %
-6.4 %
+18.0 %
+11.0 %
-2.4 %

サンボアンガ→セブ・シティ 移動

サンボアンガからセブまでは飛行機で移動した。フライトは16:45であるが宿のチェックアウトは12時なのでずいぶん早い出発となる。宿の前で待機していたトライシクル(サイドカー付きバイク)の運転手と交渉して25ペソで空港に行ってもらう。

空港には12時過ぎに到着し,敷地内にある屋台的食堂で昼食をとる。魚の開きとごはんで37ペソは妥当なところだ。ついでに隣で売っているマンゴスチンをいただく。今日はお母さんと姉妹が商売していた。

空港の内部にはイスがあるのでそこで待つことができる。チェックイン・カウンターは4つあり,行き先と便名が表示されている。僕の搭乗便の表示はない。15:30にPAL(フィリピン航空)のカウンターが開いたので確認すると,待っていなさいとと言うだけである。

15:45にダバオと表示されていたカウンターに人が集まる。おかしいなあと思いながら待ち続ける。16時に空港職員から「どこに行くのか」と聞かれ,「セブ」と答えると,「あれがセブ行きのカウンターだよ」と教えられた。

ダバオ行きの表示板はいつの間にかセブ行きに変えられていた。チケットが安い(1500ペソ)分だけサービス品質も低い。搭乗券を受け取り,空港使用料40ペソを支払い,手荷物検査ではなぜかパスポートの提示を求められた。

ここの職員はメインザックが機内持ち込み手荷物の重量制限をオーバーしていると難癖をつけられた。僕はいつもメインザックを機内持込にしているが,このような指摘を受けたのは初めてである。

彼は暗に見逃し料を要求しているようにも見えた。僕が「いつも機内持込にしており問題はなかったよ」と言うとそのまま通してくれた。搭乗待合室ではずいぶん待たされ,18時出発となった。その間,なんの説明も無く乗客が職員に食ってかかる場面もあった。

搭乗機は PAL Express と表示されたプロペラ機であった。僕の席はちょうどプロペラの横だったのでプロペラ越しに夕日を眺めることができた。この飛行機の巡航高度はジェットよりかなり低い。上空の黒雲と下層の雲の間が夕焼けに染まるという珍しい光景も見ることができた。

セブ国際空港到着は19時,宿はセブ・シティを予定していたので,この時間ではタクシーを利用せざるを得ない。空港のプリペイド・タクシーは295ペソとずんぶん高くなっている。建物の外の階段を上り出発ロビーの方でタクシーを探すと200ペソで行くという運転手がいた。この運転手は話し好きで,セブシティまでの30分ほどを話しに付き合わされた。

タクシーはダウンタウンのホテル・メルセデスまで行ってくれた。タクシーが止まるとホテルの従業員がドアを開けてくれる。ごめんね,僕はこのホテルの左側の路地を入ったところにある「マクシェリー・ペンション」に宿泊予定なんだ。


マクシェリー・ペンション・ハウス

マクシェリー・ペンション・ハウスは4階建ての大きなビル全体が宿泊施設となっており,客室数はホテル並みの多さだ。390ペソの部屋は8畳,ダブルベッド,ファン,トイレシャワー付きでとても清潔である。机と物置台があるものありがたい。

部屋の机で日記を書いていて,ベッドで一休みと横になったらそのまま寝込んでしまった。06時に起床し日記の残りを仕上げ,シャワールームに備え付けのバケツで洗濯をする。洗濯物を干す場所はないので,窓を開けて格子にかけておく。南東に面しているので夕方に戻ったときはよく乾いていた。フィリピンの3月はいちおう乾期にあたり,セブでは雨の心配はない。

この宿は暑いことを除くととても居心地がよい。残念なのは水がぬるいことである。ビルの貯水槽でいったん水を貯めているようだ。僕の泊まる安宿はそのような設備はないので,水は気温に比べて十分低く,シャワーやマンディー(水浴び)で体温を下げ,爽快感を得ることができる。

宿のある界隈はカラオケ屋,ビキニバーといった風俗店が多い。路地を抜けて表通りの食堂に夕食を食べに行こうとすると,そのあたりにたむろしている客引きから声がかかる。マクシェリー・ペンションやホテル・メルセデスの外国人旅行者がお目当てのようだ。

ホテル・メルセデスの斜め向かいの食堂はでき合いの料理を金属容器に入れて並べてあるので注文は簡単だ。夕方から出歩くのはおっくうなので夕食はいつもここでいただいていた。料理一品とごはんの組み合わせは50ペソである。中華料理の影響か味付けは日本人にも違和感はない。

サント・ニーニョ教会

宿はダウンタウンの中心部にあるのでサント・ニーニョ教会から徒歩で10分弱のところにある。散歩がてら三回ほど訪れた。この教会は「サン・オウガスチン」らしいが,現在ではサント・ニーニョが正式名称になっている。

入り口には警備員が詰めており,一通りのボディチェックとザックなどを持っている場合は中身のチェックを行っている。このため,教会の敷地を通り,反対側に抜ける時はいつもチェックを受けた。さすがに面倒だね。

「ニーニョ」はスペイン語で男の子を意味する。数年に一度,ペルー沖太平洋の赤道付近の海水温が高くなることがる。この現象はクリスマスの時期に起きることが多いので「エル・ニーニョ現象」と呼ばれている。この場合の男の子とはイエス・キリストのことである。

2009年は夏場にエル・ニーニョが発生し,これとジェット気流の影響が重なり沖縄や関東を除き8月まで日本中が梅雨の明けない異常事態となった。エル・ニーニョが発生すると,相対的に西太平洋赤道付近の海水温が低下し,この海域での海水蒸発量が減少する。そのため,赤道付近で温められた大気が上昇し中緯度地帯で下降する大きな循環が弱まる。

この循環が夏場の太平洋高気圧を強くする働きをもっている。2009年の夏は太平洋高気圧がなかなか日本列島を覆うほど強くはならず,夏らしい日が少なくなっている。

地球規模での異常気象をもたらすエル・ニーニョは東南アジアの熱帯雨林を代表する「フタバガキ科」の樹木の開花と関連付けられている。フタバガキ科の樹木の開花は不定期であり,生物学者を悩ませていたが,エルニーニョ現象と開花時期が一致することが確認された。

一年というサイクルを抜け出し,地球規模の気象に開花サイクルを合わせているのだ。生物の繁殖行動はほとんどの場合,子孫の生存率を高めるタイミングで行われる。エルニーニョが発生すると東南アジアの降雨量は減少する。そのことがある種の植物の繁殖には都合が良いのであろうか。

スペインの影響でフィリピンでは「サント・ニーニョ(幼きイエス)信仰」が盛んである。特にビサヤ諸島ではそれが顕著である。この教会のサント・ニーニョ像はマゼランがセブの領主と住民たちがキリスト教に改宗したことを記念して贈ったとされている。

サント・ニーニョ教会はフィリピンでも最古の教会の一つで,現存するものは1790年に再建されたものである。風化した石の地肌が歴史を感じさせる。切妻屋根の建物が口の字形に配されており,内部は中庭になっている。道路に面した北側の辺が礼拝堂になっており,その横に鐘楼が置かれている。

教会の敷地内には黄色のスカートを身に付けた女性たちがローソクを売っている。教会の建物の外に屋根付きの灯明台があり,人々はここで高さ5cmほどのずんぐりとしたローソクを灯して祈ることになる。灯明台には多くの祈りの残骸が残されている。

礼拝堂正面に聖壇があり,背後の壁面には3人,7人,7人と三段になった聖人像が配されている。各段の中央は上からサント・ニーニョ,サント・ニーニョ,十字架のイエス・キリストとなっている。僕の訪れた時間帯はこの三体の像だけがライトアップされ金色に輝いていた。

日曜日の今日は大勢の人々がミサのために訪れており,椅子席はもちろんのこと,両脇,背後と入り口近くまで敬虔な信者で溢れている。

正面祭壇の左側にはサント・ニーニョ像がある

聖壇の左側の部屋には石造りの小神殿に納められた「サント・ニーニョ像」が置かれている。恐らくこのサント・ニーニョ像がセブの守護聖人なのであろう。

礼拝堂からは小神殿の窓越しにこの像を見ることができる。礼拝堂の人々は像の見えるところでひざまずき祈りを捧げている。そこは床面より一段高くなっており,ちょうどミサのときに使用する膝乗せ台と同じようになっている。

小神殿に触れようとする人々は礼拝堂の左側の通路に長い列を作っている。人々は小神殿に触れたり,額を押し当てて祈っている。警備員にタオルを渡し,神殿のガラスを拭いてもらい,そのタオルを大事そうにカバンにしまう女性も多い。この町ではサント・ニーニョこそが信仰の対象なのだ。

聖堂内部の壁画,キリスト教に改宗する先住民の王

教会の内部廊下にはこの教会にまつわるいくつかの絵画が展示されている。剣をもったスペイン軍の隊長と十字架を掲げた神父の前に先住民の長がひざまづいている絵は,フィリピンがたどってきた被征服の歴史を物語っている。

聖堂の壁面を飾る聖人像

聖堂の正面の空間の周囲には聖人像が配されている

ローソク立てはもうスペースが無くなっている

サント・ニーニョ教会博物館

サント・ニーニョ教会の東側にはサント・ニーニョ教会博物館がある。入り口にはサント・ニーニョを形どったメダルのようなプレートが飾られている。この博物館は有料で,10か20ペソを徴収されたと記憶している。内部には高さ50cmほどのサント・ニーニョに関する多くの文物が展示されている。

やはり目立つのは歴代のサント・ニーニョ像とそれに使用された衣服である。また,それらの像に寄贈された品物なども展示されている。内部は写真撮影禁止なので,そのときはしっかり見たつもりでも,後で思い出すことができるものはそう多くない。

マゼラン・クロス

サント・ニーニョ教会の敷地を隔てる南門の外に八角形の東屋のような建物がある。この中に世界一周航海中のマゼランが1521年にこの地に据えたとされる大きな木製の十字架が納められている。キリスト教がフィリピンに広まると,この十字架を煎じて飲むと病気が治るという妙な信仰が生まれた。

十字架を少しずつ削り取って持ち帰る人が後を絶たなかったので,現在では丈夫な木で作ったカバーが被せられている。実際のマゼラン・クロスを見ると,とてもカバーが被せられているとは思えない。最初から外側の木で作った十字架のように見える。

天井には壁画(天井画)が描かれており,その内容はこの十字架が造られ,この地に立てられた経緯のようだ。建物はさほど大きいものではないので,十字架と天井画を一緒に撮るのは難しい。

夜間は明かりが灯るのであろう

3000人ほどの人々が夕方のミサに参加していた

この教会の礼拝堂の収容人員はせいぜい500人程度であり,それでは礼拝に集まる人々はまったく収容できない。そのため,教会の建物と向かい合うように付属の建物があり,その間はタイル張りの広い空間となっている。

午前中に訪れたときこの広場は閉鎖されていたが,17時に再び来てみると,ざっと3000人ほどの人々が夕方のミサに参加していた。この広場の両側には二階席があるので,僕はそこから見学させてもらった。

ミサが終わると10人ほどの神父やマザーが一段高いところに並び,人々に聖体拝領を行っていた。なにしろ大変な人数なので,この儀式だけでも15分ほどを要した。

二階席にも大勢の人々が集まっている

若い世代もちゃんと教会に足を運んでいる

セブ大聖堂

サント・ニーニョ教会から北東に2ブロックのところにセブ大聖堂がある。大聖堂というくらいなのでセブでもっとも由緒正しい教会かと思ったらそうではなかった。石造りの堂々とした礼拝堂と鐘楼は歴史の重みを感じさせるが,内部はシンプルで明るい空間となっていた。

この礼拝堂のミサも椅子席がいっぱいになるほどの人々が出席している。しかし,ここの聖壇にはカソリックの十字架が置かれているだけだ。セブの人たちにとってはこのシンプルな空間では物足りないのか,多くの人々はサント・ニーニョ詣でとなるようだ。信仰の対象を形あるものに求めるのは,何もキリスト教だけのことではない。

サン・ペドロ要塞

サン・ペドロ要塞に隣接している独立広場の周辺では大規模な再開発工事が行われており,道路の一部が使用できないため人も車も難儀していた。工事関係者の指示により二回ほどルートを変更し,ようやく要塞の前に到着する。

マゼランから44年後の1565年にフィリピンを征服するミゲル・ロペス・デ・レガスピが聖アウグスチノ修道会およびフランシスコ会の修道士と共にセブに上陸した。レガスピは攻撃・占領した町を足がかりに周辺の地域を征服し植民地化していった。

その6年後にはマニラが植民地化され,植民地の統治機能はマニラに移っている。スペイン人はメキシコとの交易やスペインの統治を受け入れないイスラム勢力との戦争に備えてセブに港湾施設を兼ねたサン・ペドロ要塞を建設した。

フィリピン各地に造られたこのような城塞は植民地支配の拠点となっている。現在は博物館となっているサン・ペドロ要塞の入り口近くに古い写真や絵が展示されている。それによると初期の要塞は丸太を組み合わせたアラモの砦風のものになっていた。現在のような重厚な石造りのものになったのは1738年のことである。

スペインがフィリピンを植民地化した背景には中国交易のための拠点が必要であったという事情がある。当時の明王朝は海禁令により半鎖国の状態であったので,マニラを中継貿易の拠点として中国交易を拡大していった。

明の万暦帝(在位1572-1620)の時代に宰相の張居正が租税を銀納制に一元化(一条鞭法)したので,銀の需要が高まった。新大陸をすでに植民地化したスペインはそこで産出された大量の銀を中国交易の支払いに充てていた。

新大陸最大の「ポトシ銀山(セロ・リコ銀山)」から産出された銀の総量は45,000トンにもなり,当時のスペイン王室の財政の半分を支えていたとされている。この大量の銀は過酷な奴隷あるいは半奴隷労働により生み出されたものである。

しかし,大量の銀の流入はヨーロッパにおける銀の価値(金に対する銀の交換率)を12から15に暴落させている。このためスペインは銀を必要としていた明との貿易に充てようとしたわけである。

要塞は博物館になっており,見学料は21ペソである。僕は城壁の写真だけで十分なので,周囲を半周して埠頭1にあるオーシャン・ジェットのチケット売り場に向うことにする。正面左側の芝生では子どもたちが鉛筆を使用して写生をしていた。となりのイスに坐っている女性が彼らを指導している。僕が覗き込むと描いている絵を見せてくれた。

フィリピンの子どもたちは本当に人なつっこい。人口の半数近くが貧困ライン近くの生活をしながらも,国民性はおおらかで陽気だ。英語が準公用語になっているという理由もあるだろうが,アジアのいろいろな国を歩いた経験ではフィリピンの人々が外国人に対してもっともオープンであった。

もちろん,どこの国にも悪い人はおり,日本人観光客がトラブルに巻き込まれる事例(睡眠薬強盗,単純強盗,両替詐欺,いかさま賭博,スリ,ひったくり・・・)も多い。現地の人々と交流するのは旅行の楽しさを膨らませてくれるが,一定の常識や節度をもって行動することが重要だ。

サンペドロ要塞は正面よりも海側からの方が絵になる。古い城壁とヤシの木の取り合わせが,南国の風情を演出してくれる。この要塞は港湾施設を兼ねていたので往時はこの近くまで海が迫っていたのであろう。

こんな近代的な教会もある

シャトル・ボートでマクタン島に渡る

セブの東海岸には1.5kmほどの間に5つの埠頭が並んでいる。南の埠頭1からはボホール島のタグビラランとの間を結ぶ高速船オーシャン・ジェットが発着している。そこから500mほど北にある埠頭3からはマクタン島のラプラプ・シティ行きのシャトル・ボートが出ている。

次の訪問地はタグビラランなのでオーシャン・ジェットのチケット売り場で出港時間を確認する。06時から18時までの間に5便があり,片道370ペソ,往復は520ペソと表示されている。これは往復を利用するに限る。

ケソン通りを北に向かい埠頭3まで歩く。マクタン島に向うシャトル・ボートはすぐに見つかった。定員は100名くらいだ。料金は港湾施設使用料を含めて13ペソである。

対岸のマクタン島は平坦であり,水平線からわずかに高くなっているだけだ。狭いウボン水道をまたいで二つの島を結ぶ第一マンダウエ・マクタン大橋がかすんで見える。船の航行が多いので中央部はかなり高い構造になっている。大都市を抱えているにもかかわらず海は青く輝いている。

乗船してから10分ほどで船は動き出し,ウボン水道を抜けて15分ほどで第一橋から2kmほど離れたラプラプ・シティに到着した。対岸のセブ・シティのにぎわいに比べ,ここは緑の中に大きな建物が二つ見えるだけの,のどかなところである。

第一マンダウエ・マクタン大橋がかすんで見える

漁師のバンカー・ボートは小さい

海峡からゼブ島を望む

この大きさの船なら近くの島まで行くことができる

野菜の煮物,材料不明のマリネとごはんで50ペソ

船着き場の近くには食堂があり昼食にする。僕は料理の写真が少ない。食べ始めてしばらくしてから,写真に残しておけば良かったとよく後悔する。今日は珍しく箸(スプーン)をつける前に写真を撮った。野菜の煮物,材料不明のマリネとごはんで50ペソはここでは妥当なところだ。

青空に薄い灰色の建物とキリスト像がよく映える

船着場から上っていくと正面に教会があり,そこから青と白の旗が取り付けられた何本ものロープが伸びてきており,まるで教会に向う花道のようになっている。花道の向こうには灯明をかかげるイエス・キリストの像があり,なかなか凝った構成となっている。空は抜けるように青く,薄い灰色の建物とキリスト像がよく映えている。

坂の上の教会ではミサが行われていた。装飾ガラスの入った窓が多く,ずいぶん明るい感じの礼拝堂である。聖壇も十字架のイエスだけのシンプルなものだ。

日曜日だけあって二列に並ぶベンチ型のイスはほぼ満席状態である。聖書や讃美歌集を持参している人はいない。そのため賛美歌のプログラムが始まると正面の壁に取り付けられた装置に歌詞が表示される。

体育館のような建物に家族連れの人々が集まっている

教会の近くをのんびり歩いてみる。大きな体育館のような建物があり,家族連れの人々が集まっている。この壁の無い大きな建物はバスケットボールのコートであった。

フィリピンでもっとも人気の高いスポーツはバスケットボルであり,小さな村にも屋根付きのコートがある。そこでは子どもたちや青年がゲームに興じている光景をよく目にした。

今日はイベントのためコンクリートのコートにはイスとテーブルが並べられ,大勢の人々が音楽と食事を楽しんでいた。舞台の上には”SDLC Coronational Family Day 2009”の看板がある。しかし,何のためのイベントなのかはそれだけでは分からない。

大勢の人々が音楽と食事を楽しんでいた

体育館の外にも若者が集まっている

携帯世代だね

なかなか豪快な料理だったようだ

マクタン島の西海岸の風景

第一マクタン大橋まではまだだいぶ距離がある

海辺の集落にて

海辺に出てみると小さな集落があった。家の軒先には大量の貝殻が干してある。フィリピンの代表的な土産物として貝殻を使用した装飾品があげられる。この貝殻はそのためのものであろう。

ここにあるのはすべて巻貝で,その種類の多さはちょっと驚かされる。洗浄と乾燥が済んだ貝殻は種類ごとに分類され,出荷される。

第一大橋は1973年日本の経済・技術協力により建設された

ラプラプ・シティから第一マンダウエ・マクタン大橋までの道のりは意外と遠かった。僕は海岸沿いの道を歩いて行ったが,その道は途中で途切れており,結局大きな通りを歩かなければならなかった。

第一大橋は橋脚と鉄骨を組み合わせ,全体としてゆるいアーチを描いている。途中までは橋脚だけで支えており,中央部は橋脚の間隔が長くなるため鉄骨と組み合わせている。一方,第二大橋の中央部は吊り橋構造になっており,見た目もスマートである。

第一大橋は1973年日本の経済・技術協力により建設されたもので,2車線の道路が走っている。橋の開通によりマクタン空港とセブ・シティは陸路で結ばれるようになり,マクタン輸出加工区も整備された。第一大橋はマクタン島に電力や水を供給しており,まさに生命線であった。

メトロセブ地域はフィリピン第二の経済圏に成長しており,それに伴い第一大橋の交通量は急増した。1990年にはタンカーが橋脚に衝突する事故が発生し,交通の途絶,マクタン島のライフラインが止まるという大きな混乱を引き起こした。

フィリピン公共事業省は日本の円借款を利用して第二大橋を発注し,住友建設と鹿島建設がJVが受注した。足かけ4年の大工事は1999年6月に完成した。

全長1010m,4車線の大橋の完成により地域の交通事情は大幅に改善されている。蛇足になるが中央部の吊り橋の最大支間長は410mとのことである。

第一大橋の鉄骨構造の始まるところには”Well Come to Mandaue City”と表示されている。なるほど,対岸にある町の名前はセブ・シティではなくマンダウエであり,それが橋の名前となっているのだ。

この橋は片側一車線の道路とその両側に歩道が付いているので歩いて対岸の島に行くこともできる。橋の中央付近は海面からかなり高いところにあり,ウボン水道を一望できる。大きな貨客船がちょうど橋の下を通り抜けるところだったので橋の高さを実感できる写真が撮れた。

第二大橋との間は狭い水道となっており,マクタン島の近くは浅瀬のため灰色に見える。その間の青い水面をさきほどの貨客船がゆっくりと移動している様子は海というより川の風景に近い。

セブ島やマクタン島にはギター工房がいくつかある

マゼラン記念碑とラプラプ像

マクタン島は12kmX8kmほどの南西・北東方向に長い長方形をしており,北東の端に尻尾のような半島が付いている。この半島の付け根に大きな公園があり,その中にマゼラン記念碑とラプラプ像が同居している。

島の中央部に空港があり,それを避けるため北側の道路は海岸線を縫うように大回りになっている。そのためマゼラン記念碑のある公園まではジープニーを利用しなければならない。マクタン島のジープニー料金は5kmまでは7ペソ,10kmまでは10ペソの定額料金である。

ジープニーを乗り継いでマゼラン記念碑のある公園に行く。ここは手入れの行き届いた公園になっており,少し距離をおいてマゼラン記念碑とラプラプ像がある。

1521年にセブに上陸したマゼラン一行は武力とキリスト教により周辺の勢力を服従・改宗させていった。しかし,ラプラプはマゼランの侵略に武力で抵抗した。戦いの舞台となったのはマクタン島である。

ラプラプとの戦いで傷を負ったマゼランは世界一周の半ばで死去する。ラプラプは他国の侵略を阻止しようとした英雄として歴史に名を残すことになった。また,マクタン島の町,ハタの仲間の高級魚にも彼の名前が使用されている。

大きな刀と盾をもった彼の像は英雄にふさわしいものである。一方,マゼランの記念碑は石造りの三層の建造物であり,下段の碑文を読まなければどのようなものなのか分からない。

シャーマンの道具のようにも見えるが・・・

マングローブの森

公園の敷地は海岸近くまである。干潮のため浅い潮溜まりの向こうにマングローブの森が広がっている。マングローブは大好きなので水のあるところを避けながら森に向う。

マングローブは汽水域(海水と淡水のまざったところ)で育つ樹木の総称である。汽水域という特殊な環境に適応するため塩分を排出する仕組みをもち,呼吸根という特殊な根を地上に伸ばしている。そのため,ある種のマングローブの周辺は無数のタケノコような根が地上に顔をのぞかせている。

森に向う途中,いくつもの幼木というか発芽した種子を見かけた。このように幼木が集中することはまずないので,地元の人々が種子を集めて植林をしているようだ。海岸近くに並ぶ森も植林によるものなのかもしれない。

マングローブは海岸線を波の浸食から守り,複雑にからまる水中の根は小魚たちの格好の隠れ場所にもなり,水中に落ちた葉は甲殻類や動物プランクトンの餌にもなる。豊かなマングローブの森は豊かな漁場を育てている。

日本でも陸上の森林と漁場の関係が注目されている。広葉樹の豊かな森が作り出す栄養が沿岸の漁業資源を支えているのだ。そのため,山が痩せると沿岸漁業も衰退する。

貝殻などを材料にした土産物が並ぶ

水上集落もある

レストランでイベントが行われていた

このマングロ−ブの森を見下ろすように高床式のレストランがあった。そこでは集落の人々が集まっている。中に入ると紙製の帽子を被った子どもたちが盛大にごはんを食べていた。

僕にもスパゲティとちまきのようなごはんが出された。お断りするのわけにはいかないのでいただく。昼食からまだ時間がそれほど経っていないので少し苦しかった。子どもたちの集合写真を撮り画像を見せてあげると歓声が湧く。

子どもたちの集合写真を撮り画像を見せてあげると歓声が湧く

これで一通りのメンバーを撮り終える

ケソン通りの一本北側の通りにて

そろそろ日も傾いてきたのでセブ・シティに戻ることにする。ジープニーでラプラプ・シティに戻るのは簡単であった。シャトル・ボートに乗り埠頭1まで戻り,ケソン通りの一本陸側の道を歩いて帰る。

周辺には小さな住宅が密集しており,路地には子どもたちの姿が多い。こんなところで写真を撮ろうとすると大変なことになる。子どもたちが集まりすぎて収集がつかなくなる。近くの大人が子どもたちを並べてくれたので集合写真をとることができた。こんな集合写真は3ヶ所で経験した。

それにしても子どもの数が多い。フィリピンの2004年の合計特殊出生率(一人の女性が一生の間に生む子どもの数)は3.1である。日本の場合は1.3であり,そろそろ人口減少社会にさしかかっている。

フィリピンの場合,1992年の出生率は4.2であり,一世代後の子どもの数は2倍になる計算であった。2004年になってかなり減少しているとはいえ,人口が安定するにはほど遠い数値である。フィリピンの人口構成は0-9歳のところが少し増加は鈍っているきれいなピラミッド型になっている。

世界銀行はフィリピンの人口が2007年の8,790万人から2015年には1億100万人に達するとの見通しを示した。現在でもフィリピンはコメ消費量の20%を輸入に頼っており,貧困ラインの人口比率は50%を超えている。

農業に適した平地が少なく,大きな川もないフィリッピンでは農業生産力の拡大は難しく,この国の将来の課題はさらに重くなる。残念ながら(カソリック人口の多いお国柄のためか)フィリピン政府は人口増加の抑制に有効な対策をほとんどとっていない。

オスメニア通りの西側にある南バスターミナル

セブ・シティ以降の移動計画はセブ→タグビララン(ボホール島)→セブ→サンカルロス(ネグロス島)である。タグビラランから戻り,そのままサンカルロスに移動するため,バスの時間を確認することにする。

ネグロス行きのバスは南バスターミナルから出ている。宿から1kmほどの距離である。南BTの建物はコの字形をしており,内側がバス乗り場になっている。開口部は道路に面している。建物はそれぞれバス会社の事務所や待合室になる予定であるが,現在はまだ内装が仕上がっていない。

この建物は(アホなことに)一方通行になっている。というのはコの字の片側が入り口,反対側が出口となっている。出口側から入ろうとすると警備員に制止される。

ネグロス行きのバスは出口の近くから出ており,建物を一回りして行かなければならない。そこにはサンカルロス行きとバコロド行きの表示があり,バコロド行きは日に4便あることが分かった。これならば,タグビラランからセブを経由して一気にサンカルロスまで行くことができる。

T/Cを換金するためオスメニア通りを北に向かう

今日の二番目の仕事はT/Cの換金である。ガイドブックをチェックすると北側のアップタウンにシティ・バンクがある。東南アジアではドル建てのT/Cでも期待通りのレートで換金するのは難しい。

外国人が多く訪れる都市でもなければ現金より2-5%はレートが悪くなることは覚悟しなければならない。これほど利便性が悪くなるとクレジットカードによるキャッシュ・アドバンスの方がずっと利用価値が高い。

今回の旅行ではそれぞれの国の両替事情に合わせ,インドネシアは日本円,マレーシアとブルネイはクレジットカードの現金引き出し,フィリピンはドルキャッシュとT/Cというように使い分けた。

しかし,今後はクレジットカードの使用がメインとなるだろう。シティバンクのクレジットカードの場合,毎月15日に負債が確定し,翌月の7日に決済される。最短で22日,最長で52日分の利息が加算されることになり,それは1.5%-3.6%に相当する。

引き出し通貨と決済通貨の間の換算レートは銀行間取引レートが使用されるので,両替時の売買手数料に相当する部分(通常1-2%)は必要ない。日本でドルキャッシュを購入する時の手数料は1-2%,ドルから現地通貨に両替する時の手数料を考えると,クレジット・カードの利用価値は高い。

南BTからフエンテ・オスメニア→イグレシア・ニ・クリスト教会→アラヤセンターと歩いてみる。確かに北に行くにしたがって山の手の雰囲気になる。

セブ・シティの南北を結ぶオスメニア大通りは片側4車線で歩道も整備されている。”Cebu Normal College”の建物は重厚で思わず写真を撮ってしまう。雰囲気は米国のリンカーン記念館に類似している。門の横でイスに坐っている人物も記念館のリンカーン像にそっくりだ。

フエンテ・オスメニアは大きなロータリーとなっており,近くの歩道橋の上から写真を撮ろうとしたが,全体はとても入りきらない。イグレシア教会は近代的な建物であり旅人としては見る価値はないが,よいランドマークになった。アラヤ・センターは巨大なショッピングセンターであり,その一画はきれいなビルが立ち並ぶ別世界であった。

目的のシティ・バンクはガラスを多用した高層ビルの1階にあった。シティ・バンク発行のT/Cはここでフィリピンペソと米ドルに換金することができた。特にドルキャッシュを入手できたので今後は両替で苦労しないで済みそうだ。

通りの向こうの大学生たちに呼び止められる

ネット屋はゲーム屋であり役に立たない

セブ・シティではオスメニア大通りを中心にネット屋がずいぶんある。しかし,それらは子ども相手のゲームセンターであり,日本語環境は整備されていないため,まったく役に立たない。

子どもたちの遊んでいるものは敵を撃ち殺すシューティング・ゲームである。スクリーンの中に次々と現れる敵に向って発砲するゲームはどうみても子どもたちの成長にプラスになるとは考えられない。

ゲームと現実の違いをしっかり認識できない子どもたちは,殺人を日常的な行為と考えるようになるかもしれない。日本では18歳未満使用禁止になるでろうゲームが人格形成期の子どもたちに与える影響が懸念される。

ゴールデンシャワーが花盛りであった

衣類を買う

宿でペソを整理する。残金は25,000ペソあるので1ヶ月くらいはこれで足りる計算だ。日本からもってきた古いTシャツとソックスが早くも擦り切れてしまったので買物に出かける。

宿の近くでセールの表示があったので中に入る。まあまあのもが見つかり購入する。ポロシャツが540ペソ,ソックスが40ペソである。この値段は一般の特売品に比べるとかなり割高であるが,通気性のよいポロシャツは暑い地域を旅行するのにはもっとも役に立つ

カルボン・マーケット|野菜を商う

サント・ニーニョ教会の南側に市庁舎があり,そこから海岸沿いの通りに出て西に行くと通りの両側に主に食料品を扱う商店が並んでおり,その前にも小さな露店が出ている。ここがカルボン・マーケットである。

大きな商店にしてみれば軒先で商売をされるのは迷惑なことであろうが,そこはおおらかなお国柄のようだ。この商店と露店という二重構造のマーケットは通りの終端まで続いており,そこで道は直角に曲がり北に向かう。

このマーケットはお世辞にも衛生的とは言いがたい。ある一画では野菜をナイフだけでスライスしていた。食堂で出てくる野菜の煮物の材料はこうして作られるのかと感心した。人件費が極端に安いので,機械を使用するより安上がりなのだ。

白い物体をピラミッド状に積み上げているいる露店がある。聞いてみると塩だという。ちょっと舐めさせてもらうといい味の塩である。おそらく海水から作った天然塩であろう。セブ島周辺の海ならまだまだ天然塩を作る環境が残されている。

天然塩にはいわゆる塩分(NaCl)以外にもマグネシウムやカリウム塩が含まれており,複雑な味を形成している。ひるがえって日本では衛生的な観点から,化学合成された NaCl が100%の塩が使用されており,天然塩はごく一部である。

市場の人々は陽気で写真の要求も多い。野菜の店を開いているおばあさんの写真を撮る。ちょうど背後のパン屋にスプライトがあったので二本買って,一本をおばあさんにお届けする。

おばあさんはびっくりした顔になり,それから笑顔で受け取ってくれた。まだ西日の強い時間帯であり,日除けはあるものの店番は大変であろう。一回りして戻ってきたとき,ビンはおばあさんの横に置いてあったのでさきほどのパン屋に返す。

カルボン・マーケット|南側は危険地帯である

カルボン・マーケットはガイドブックにも見どころとして掲載されている。しかし,その南側は一種の無法地帯であり,犯罪者が逃げ込む場所だという。僕はそのことを知らず,ちょっと怪しげはところだなと思いつつ足を踏み入れ,路上で行われている闘鶏の訓練を見学し写真を撮っていた。するとここに住んでいるという日本人男性が現れ,ここは危険だからと注意された。

ビサヤ諸島で随一の都市であるセブ・シティには近隣の島からの人口流入が著しく,都市部の貧困層を形成している。生活のためやむを得ず犯罪に手を染める人もいれば,極めて劣悪な条件で働かされる子どもたちもいる。

カルボン・マーケットはガイドブックにも掲載されているところであるが,このような危険地域が隣接していることもしっかり掲載すべきであろう。少なくともセブに慣れていない旅行者は暗くなったらこのあたりは歩くべきではない。

50円の幸せ

市場からの帰りに市中の露店でマンゴー(55ペソ/kg)を2個買い夕食後にいただく。マンゴーはフィリピンの代表的な果物で青くてまだ酸っぱいものは野菜感覚で,黄色く熟したものは果物として扱われる。僕の買った果物のマンゴーは2個で50円,ささやかな幸せである。


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