ミンダナオ島は面積9.1万km2,フィリピンで二番目に大きな島である。北海道の1.3倍ほどの広さの島には1400万人の人が暮らしている。島は中央西側の部分でくびれたようになっており,そこから半島のような地形がサンボアンガまで300kmほど続いている。サンボアンガ市の面積は1460km2,この中には周囲に点在する28あまりの小島も含まれている。
人口は77万人,その多くはイスラム教徒である。フィリピンのイスラム化は15世紀にはじまり,16世紀初頭にはルソン島にもイスラム王国ができている。しかし,16世紀の中ごろからはスペインの侵略が激しくなり,1565年にはミゲル・ロペス・デ・レガスピがセブ島を征服したのを皮切りに支配地を広げていき,1571年にはマニラ市を含む主要島の大部分を征服した。
しかし,西南ミンダナオ島,スールー諸島,南パラワン島ではイスラム勢力の抵抗により最後まで征服できなかった。スペインの支配地域ではキリスト教化が進行した。一方,スペインの非支配地域はイスラム教が残ることになった。
1990年代になるとイスラム原理主義勢力もこの地域に勢力を伸ばした。アブ・サヤフはフィリピン政府軍および一般市民に対して爆弾テロ,暗殺,身代金目的の外国人誘拐を繰り返している。
サンボアンガ市でも2007年10月に中心部で2件の爆弾テロが発生し多数の死傷者が出ている。フィリピン政府も外交官も含む外国人に対し,サンボアンガから離れるよう勧告したことがある。
しかし,その後,アメリカ軍事顧問団と国軍による掃討作戦が奏功し,テロは発生していない。フィリピン観光省もサンボアンガ市とともに安全をアピールしている。
2010年に選出されたベニグノ・アキノ大統領はミンダナオ島のイスラム勢力との和解を進め,2014年にはその最大組織であるモロ・イスラム解放戦線(MILF)と包括和平合意書に調印した。40年以上にわたり武力衝突を繰り返し12万人以上が犠牲となったミンダナオの紛争における大きな転機となりそうである。
MILFは武装解除を進め,政府は2016年までにイスラム系住民らによる新自治政府樹立を目指している。フィリピンでは大統領の再選は禁止されているので,アキノ大統領の任期中に自治政府樹立を急ぎたいMILFの思惑が交渉を早めている。
その一方で和平合意に反対するイスラム勢力も存在しており,MILFから分かれたバンサモロ・イスラム自由戦士(BIFF)などの武装勢力は政府軍との戦闘を継続しており,和平実現への道筋には不透明な要素が残されている。日本外務省の「海外安全ホームページ」ではミンダナオ島の西半分は渡航延期勧告が出された状態が継続している。
安宿探しは大変だった
サンダカンからのフェリーが港に到着し,下船できたのは16:30を回っていた。これでは銀行には間に合わない。幸い近くに私設両替所があり,無事に両替ができた。
レートは1$=48.4Peso と悪くない。これに対して円は100円=48.5Peso とであり,当時の1$=96円のレートからすると4%ほどひどく悪い。フィリピンやインドネシアの地方都市では円の両替レートは悪いので,観光客のたくさん集まるところで両替するのが正解である。
サンボアンガの宿探しはずいぶん苦労した。ガイドブックに記載されている宿は高いか(750P)見つからないかのどちらかであった。チョウキングというフィリピン資本のファストフードの二階にあるDavid Inn(300P)は満室であった。
街の中心部は細かい区画に分割されており非常に覚えずらい。なんだか同じ区画をぐるぐる回っているような気がする。ガイドブックに掲載されている宿を探すことはあきらめて,地元の人たちに「安宿はありませんか」とたずねると,「GVS Travellers Inn」を紹介してくれた。
この宿は「Ateneo de Zamboanga大学」の北東側にあり,距離は1kmほどだ。入り口から階段を上る。二階の受付の前には武装した警備員がおり,初見の客はしっかりチェックする。僕の部屋(350P)は8畳,ダブル・ベッド,T/S付きで清潔である。
ようやく部屋が確保できたのは17:30を過ぎていた。窓が無いので部屋にいる間は廊下につながる換気扇を回し続け,部屋の中でも扇風機を回していた。これは少々うるさい。
夕食の食堂探しも少し苦労した。まだ街の地理に慣れていないので,迷わないように宿の前の通りを西にまっすぐ歩いて行くことにする。食堂のようなものはあるのだが,テイクアウト形式のものばかりである。ようやく入り口で串焼きを焼いている目当ての食堂が見つかった。
ごはんと豚肉の串焼き4本で32Pと安くてとてもおいしい。イスラム教徒が多数を占めるインドネシアやマレーシアではまったく口にできなかった豚肉である。それに独特の少し甘いタレを使いすばらしい一品に仕上げてある。フィリッピン滞在中にこれほどおいしい串焼きには出会えなかった。
朝の時間帯は横断するのが大変であった
街の朝は早い。朝食のため07時に宿から出ると交差点はずいぶん混雑していた。自動車,ジープニー,バイクサイカー,バイクなどが四方から信号機のない交差点に進入してくる。
車両同志は一定のルール(車列が途切れたら交差する方向の車両が動き出す)で動いているようだが,右左折の車両もあり,交差点付近で横断するのはとても難しい。
前後左右に気を配り,車両のすきまをねらって横断することになる。この習慣はインドネシアでも同様で,帰国してからもしばらくは青信号でも左右を確認するクセが抜けなかった。
「Ateneo de Zamboanga」の塀に壁画が描かれている
宿の近くには「Ateneo de Zamboanga大学」があり周囲は塀で囲まれている。その塀に宗教をモチーフにした壁画が描かれている。フィリピンでは大学に限らずよく学校の塀に壁画が描かれている。ここのものはさすがは大学と思わせる見事さであった。
ここで学ぶ学生の大半はキリスト教徒のせいか多くの絵は聖書を題材にしているが,キリスト教とイスラム教の共存を描いたと思われるものもあり,この街の置かれている状況が理解できる。
大学の正門の近くには2008年の看護士資格試験の合格者91名の写真が掲載されていた。フィリピンでは男性の看護士も多く,掲載写真の3割くらいは男性である。また,スカーフを着用している女性も含まれており,この学校には二つの宗教の学生が学んでいることが分かる。
この大学の名前にもあるように,この街ではスペイン語の表示をよく見かける。フィリピンの公用語はピリピノ語(タガログ語)と英語である。しかし,それぞれの地域には独自の言語が使用されており,その数は55にもなるという。
サンボアンガではスペイン語を基礎とするチャバカーノ語が使用されているため,このような看板が目に付くということになる。この街でもっとも歴史がありそうな大学の名前は「Universidad de Zamboanga(サンボアンガ大学)」と表示されていた。
La Purisima 通りにあるサンボアンガ・シティ聖堂
街の中心部には広場があり,北半分はリサール公園になっている。広場を挟むようにサンボアンガ大学が市庁舎と対角方向で向かい合っており,僕にとってはとても良いランドマークとなった。
なんといっても街の中心部は複雑なので,宿に戻る道はサンボアンガ大学の東側の「La Purisima」通りを北に向かい,サンボアンガ・シティ聖堂の次の交差点を右に曲がると覚えた。
サンボアンガ・シティ聖堂|正面祭壇も少し変っている
別な時に訪れると教会の1階ではミサが行われていた。この教会では早朝05時から19時まで75分ごとにミサが執り行われている。英語のミサが多いが,中には Charocono,Bisaya といったローカル言語も使用される。この時間は英語のミサなのに抑揚が特殊なのでほとんど聞き取れない。
ミサの途中で礼拝堂から出て二階を見学する。ここは何かイベントのための会場のようだ。正面に聖母マリアの像はあるものの,そこには説教台のようなものはない。
壁面にはぐるりと聖書を題材にしたステンドグラスが取り付けられている。その下にはキリスト教の教えを象徴するシンボルが描かれているが,スペイン語のために内容は理解できない。
サンボアンガ・シティ聖堂|聖書の物語を題材にしている
Mayor Climaco 通りにある教会
また,大学の西側を通り北に向かい空港に通じる道は,写真の教会の手前の交差点で右に曲がると宿にたどりつける。この二つ教会もよいランドマークとなった。
サンボアンガの食事
サンボアンガ・シティ聖堂の通りには小さな食堂があり,朝食は魚のスープとごはんとなった。魚のスープは僕にとって東南アジアの定番料理である。今日のスープの材料はカツオであった。
血合いの濃いカツオをこのように調理する感覚は日本では考えられないが,少し酸味のあるスープとよく調和しているの。これで値段は30P(約60円),昨日の夕食の豚の串焼きといい,食べる場所を選ぶとフィリピンでは安くておいしい食事にありつける。
フィリピンに限らず,食堂では注文のときに値段を確認しておく必要がある。他の食堂と同じだろうと値段を聞かないで注文すると,ときには市価の1.5-2倍の料金を請求されることがある。商品を買う場合は値段が高ければ止めることができるが,食べ終わった後では取り返しがつかない。
フィリピンではよくファストフードも利用した。もっとも店舗数が多いのは民族資本の「Jollibee(ジョリビー)」である。この店はちょっとした町ならどこにでもあり,マレーシアのサバ州にも出店していた。この他にも米国系のマックやケンタッキー,民族系のチョウキングが目に付く。
サンボアンガでも広場の近くにジョリビーがあり,日記を書くのに重宝していた。メニューはハンバーガーやフライドチキンとともにごはんを添えたフィリピン風料理もある。味付けも甘めで地元の人たちにはとても人気がある。
僕がよく利用したメニューはスパゲティと飲み物のセットである。値段も57Pとこの種の店としてはとても安い。もっともメニューによってはすぐ100Pを越える。街の食堂の2倍くらいの値段設定にもかかわらず,冷房が効いて,清潔な店内のためいつも客足は絶えない。
市庁舎の西側は生鮮食品などの市場となっている
広場の南側は市場エリアとなっており,その中でも屋根付きの魚市場は熱帯の珍しい魚が見られるのでお気に入りの場所だ。市場の外では卸のため運搬箱に入った魚が並べられている。
1mもある巨大なハタの仲間(ヤイトハタかな)は箱に入らないのでその上に置かれている。1m弱のキハダマグロ三本は値が張るらしく台車の上に置かれている。小さな魚は路上に敷いたブルーシートの上で取引されている。
ここは15年くらい前に訪問したことがある。内部の活気はその当時と同じであるが,建物はほとんど補修されておらずかなり傷んでいる。
建物といっても柱と屋根があり,高さ1mほどの低い壁が周囲を囲っているだけだ。大量の氷や水を使用するため,コンクリートの床には排水用の溝が設けてある。
高さ1mほどのコンクリート製の売り場は白いタイル張りになっており清潔感がある。市場の中での商売は男性の仕事のようだ。魚の写真を撮っていると「オレの魚を撮ってくれ」,「魚と一緒にオレを撮ってくれ」という声があちこちからかかる。魚市場の男たちは底抜けに陽気である。
大きなマグロの半身が置かれており刺身になりそうだ
大きなマグロの半身が置かれており,この新鮮さならば十分に刺身にできる。値段は200P/kg程度なので日本より一桁は安い。ここで暮らせば(安全性は別にして),刺身は食べ放題である。
もっともフィリピンでは一部の調理法を除き魚を生で食べる習慣はなく,この新鮮なマグロは加熱料理されることだろう。なんと勿体ないことだとつぶやきながら写真を撮る。
大きな魚は豪快にぶつ切りにされている
日本では敬遠されるエイもここでは普通の魚と同様に大きな切り身で売られている。この他にも大きな魚はぶつ切りの状態で並んでいる。
エイ(リーフスティングレイ?)やウツボも食用にされる
サンゴ礁を彩る魚が並べられている
写真写りの良いのは熱帯産の色鮮やかな魚たちである。青い水玉模様のエイ,ウツボはそのままの姿で置かれている。比較的小さな魚は何種類かまとめて並べられており,その一画は色とりどりのあでやかさだ。
魚市場にはレジ袋をもった子どもたちがたくさんいる。彼らは客の後をついて回り,客が魚を買うとレジ袋を提供してなにがしかの小銭を受け取る仕組みになっている。
素揚げで調理されるので切り込みが入れられている
いくつかの魚はたくさんの切れ目が入れられている。これは調理のとき,火の通りを良くするための下ごしらえである。フィリピンの魚の調理方法は焼く,油で揚げる,水煮の三種類しかない。日本のように魚に合わせた調理法があるわけではない。
アサヒガニに似ているが足の位置が違っている
珍しい甲羅の形をしたカニが積まれている。甲羅の大きさに比して足が扁平で短く,しかも足の付け根は体の横ではなく裏側にある。これでは食べるところがないのではと危ぶまれるが,立派な商品として扱われている。
海ブドウ|正式和名はクビレヅタである
魚市場の外では木箱の上に海産物を並べた露店が数多く出ていた。男性に混じって,たくさんのおばさんたちも商売をしている。彼女たちの商品で目立つものはこの地域特産のツブツブがたくさん付いた海藻である。
正式和名はクビレヅタ(イワズタ科・イワヅタ属)であるが,形状から海ブドウ,グリーン・キャビアなどとも呼ばれている。日本でも南西諸島には自生しており食用にされている。
浅い砂地の海に自生しており,細い茎に球状の葉(?)かたくさん付いており,その形状から海ブドウと呼ばれている。日本はサラダのようにしょう油,酢,マヨネーズなどで生食する。
フィリピン南部では大量に養殖されているというが,この海草を使用した料理には出会えなかったのでどのように調理されるかは良く分からない。最近は日本にも輸出されているという。
魚市場の横には生鮮食品市場がある
近くの通りには台車に積んだマンゴー売りが道路の半分くらいを占拠している。夕方に通りかかると路上はこのような小露店と買い物客で溢れていた。
そろそろマンゴーの最盛期である
中くらいのマンゴーは15ペソ(30円),大きいものでも20ペソである。マンゴーの主流はまだ青いものである。僕は黄色く熟したものをよく買っていた。今日も中くらいのものを2個買っておく。熱帯産の果物は旅行中の楽しみの一つである。
コメの価格
周辺には商店街もある。フィリピン人の主食のコメは1kgで30-38ペソである。日本のコメの値段400円/kgに比べるとずいぶん安いけれど,相対的に収入の少ないフィリピンの家庭にとっては非常に重い負担となる。
フィリピンのコメ消費量は約1200万トン,このうち200万トンを輸入に頼っている。フィリピンの人口は約8300万人,赤ちゃんからお年寄りまで平均して一年間に145kgのコメを食べることになる。
日本の場合,人口は1.2億人,コメ消費量は750万トンなので一人当たり消費量は60kgになる。フィリピンの人々は特別に大食いというわけでない。人口の過半数を占める貧困世帯はコメ以外には食糧が買えないという事情がある。
大人の場合,カロリーの大半を穀物から摂取しようとすると年におよそ200kgが必要となる。フィリピンの人々の現状はかろうじてカロリーを満たしているということになる。
さて,フィリピンは子だくさんの家庭が多く,しかも大家族制がまだ残されている。祖父母,父母,子ども4人の8人家族くらいは珍しくもない。8人家族の月間コメ消費量は約100kgである。仮に30ペソ/kgで計算するとコメ代は3000ペソにもなる。
2006年にフィリピン国家統計調整委員会(NSCB)が発表した最低限必要な年間生活費は全国平均で1人当たり13,113ペソ(月額約1090ペソ)である。この数値はインフレのため毎年5%程度上昇している。
また,健康を保つ為に最低限必要な年間食費は全国平均8,734ペソ(1月当たり約720ペソ)となっている。この統計では最低限の生活におけるエンゲル係数は66%にもなる。まさしく食べるだけで手いっぱいの生活である。
フィリピンでは1/4の世帯がこの最低限のレベルも満たしておらず,世界銀行で用いられている絶対的貧困レベル=1人当たり年間所得370ドル(18,000ペソ)以下を適用すると(フィリピン・ペソが2000年代初頭に半値近く下がったことを考慮しても)半数近くが含まれると思われる。
コメの値段が10%ほど上がっても家計は大きな影響を受けることになる。ちなみに,コメ価格が高騰した2008年でもフィリピンでは28-30ペソ/kgであった。
青いパパイヤはサラダの材料になる
魚市場の裏手には食料品や古着などを扱う露店が密集している。この辺りは路上に堂々とバナナや野菜が山積みされている。まあ,皮をむいて食べるものなのでいいといえばいいけれど,日本人の感覚とは相容れない。
ちょっと高い朝食
フィリピンでは食事をしたりモノを買う前にできるだけ値段を確認するようにしている。特に食事は食べた後に不当な料金を請求されてもどうにも対応できないので,料金確認は習慣となっていた。
ところが今朝はそれを怠ってしまった。街の中心部に常設の屋台が集まったような食堂がある。ここでごはんと魚のスープを注文した。
このメニューは30ペソと相場が決まっていたので値段を確認しなかったら40ペソを要求された。「おばさん,これは30ペソでしょう」と抗議しても後の祭りである。たった10ペソのことではあるが,朝から気分を害されることになった。
1.5リットル・ボトルの飲料水の値段も店により10-15ペソくらいの開きがある。わずかな差でも,高いものを買わされると気分が悪いので,やはり値段の確認は必要だ。
ガイドブックにはサリサリ・ストア(個人経営の小さな店)ではあまり「いくらですかと」聞かないほうがいいかもしれないなどと記載されているが,僕の経験ではやはり先に確認してから買物をする習慣をつけるべきだ。
食事代のついでに翌日の朝食の報告をしておこう。この日は土曜日のため屋台系の食堂はやっておらず,ファミレス風のところでいただく。豚の串焼き2本が32ペソ,ごはんが10ペソ,ここまでは良かったけれどスプライトが21ペソもして合計で63ペソの出費となった。
亜熱帯のフィリピンでも大根がとれるとは・・・
大根はけっこう立派なものが並んでいる。アブラナ科の植物は寒冷な気候を好むので亜熱帯のフィリピンでは栽培に苦労したことであろう。
洗濯板とたらいを使って洗濯をする
10才くらいの少女は水場で洗濯をしている。もちろん手洗いである。ジーンズのような大物はブラシでこするのがこの国の流儀である。カメラを向けると下を向き黙々と手を動かしている。
洗濯少女とお友だち
近くに子どもたちの溜まり場があり,洗濯の子を含めて集合写真を撮ることができた。近くのおばさんたちからも「私たちも撮ってよ」と声がかかる。
古着屋も何件か店を出していた
古着屋は路上に店を出しており,その回りに客が品定めのため集まるので通行の妨げになっている。商品を運ぶ大八車は通ることができず,なんとかしてくれと言い争いになる。
この界隈の露店の人々は底抜けに明るく,写真を撮ってくれという要求が続く。サンボアンガでもっともフィリピン人気質に溢れる場所であった。
砂浜は閑散としていた
海岸通りを西に歩くと港湾施設の出入り口があり,その西側には300mほどの砂浜が続いている。15年前,この海岸は海水浴を楽しむ人々でにぎわっていたものだが,水質が悪化したせいか,砂浜は閑散としていた。一つのグループがバーベキューの準備をしていたのでおじゃまする。
子どもたちは波打ち際あるいは浅いところで水とたわむれている。背中のザックにマンゴーが入っているので,ナイフを借りて子どもたちと一緒にいただく。
大人は準備の合間に大きなプラスチックの容器からヤシ酒をグラスに注ぎ飲んでいる。アルコール度数1%未満のヤシ酒は庶民の清涼飲料といったところで,ときには子どもたちも飲んでいる。僕はアルコールをまったく受け付けないので,勧められても辞退するしかない。
子どもたちが集まってきたのでヨーヨーを作ってあげる。しかし,宿から出るときザックの中身をチェックしなかったので,ヨーヨーの材料は5組しかなかった。ということで小さな子どもはフーセンでがまんしてもらう。
額縁に入った海の風景
グループの人たちに見送られながら,さらに西を目指す。海沿いの道を進むと沖合いにアウトリガーをもつ大きなバンカー・ボートがたくさん停泊している。これらの船は漁船で,早朝に水揚げを終えて休んでいるようだ。
とても絵なる光景なのだが,道路と海の間は700mほど大学の敷地になっており,中に入ることはできない。サンボアンガはカレッジ(日本の高校に相当する)やユニバーシティ(大学)が多く,この道の両側は学園地区になっている。
大学の敷地の東の外れは建物が取り壊されており海岸までアクセスすることができる。ここからバンカーボートの写真を撮る。海に面した壁の一部が残っており,窓から見える景色は額縁に入った絵のようだ。
子どもたちが飛び込み遊びをしている
この岸壁の海は深いため子どもたちが飛び込み遊びをしている。さすがに海辺の子どもたちである。5歳くらいの小さな子でも十分に泳ぎは達者だ。子どもたちは助走をして岸壁から2mほど下の海に飛び込み,石段を上って戻ってくる。カメラを構えていると,三人が一斉に飛び込んでくれた。
漁港の沖合いにはバンカーボートが並ぶ
僕の目的地はその先にある漁港である。ここはイスラム地区になっており,人々は漁労で生計を立てている。海に向って右側にはLNGの施設があり,港の半分が占拠されている。施設の性質上,LNG区域は立ち入り禁止となっており,船着場も分離されている。
LNG側の桟橋は鉄筋コンクリート製の立派なものであるが,こちらは木製である。板張りの桟橋を歩き先端部から沖合いのバンカー・ボートがよく見える。
船を左右の揺れから安定させるため,船本体の両側にアウトリガーと呼ばれる補助装置を取り付けてある。ここのアウトリガーの腕はとても長いので,それを支えるためかマストの上部からロープが伸びている。それは遠くから見ると最近の吊り橋のようだ。
多数の船が停泊しているのでいろいろな角度から写真をとりたくても思うにまかせない。これはちょっと残念であり,海沿いの地所を占拠している大学が恨めしい。一隻のバンカーボートが桟橋に接岸した。
外側に張り出しているアウトリガーがジャマしているので,船の舳先を桟橋に近づけるようにするしかない。船との連絡はたいていの場合,渡し板となる。幅が30cmほどしかなく,しかも人が歩くと上下にしなるので,僕にとってはちょっとした冒険となる。
漁港の一画には竹を組み合わせた台の上で鰯を干す作業が行われていた。家にさえぎられて陸側からは直接アクセスできないので,海の上に竹を組み合わせ20cmほどの狭い板を渡した通路を通ることになる。これもちょっとスリリングな平均台である。
モスクは鉄製の柵で囲われていた
この一画の住民はほとんどイスラム教徒である。小さな広場には彼らのためのモスクがある。ムスリムが多いとされているサンボアンガでも彼らは少数派になっているようだ。
この漁港の西側にはイスラム教徒とキリスト教徒が混在する住宅地が広がっているが,こちらは危険区域となっている。そうとは知らない僕はジープニーに乗り,その辺りで下車してのんびり歩いてしまった。
近くにあるモスクは鉄製の柵で囲われており,中に入るには警察官に身分証の提示が必要であった。モスクの中では普通の礼拝が行われており,どうしてこのモスクの出入りをチェックする必要があるのか疑問だ。2007年に発生した市内のテロ事件が影響していることはまちがいないだろう。
サリサリストアはフィリピンのコンビニのようなものである
港湾施設を探検する
市庁舎の通りを少し東に行き,南に折れるとフェリーターミナルに出る。その途中で雨が降り出したので近くの食堂に入る。この食堂はでき合いの料理が金属容器に入れられており,「これを下さい」と指で示すとごはんと一緒によそってくれる。
旅行中はどうしても野菜が不足するので,このように選択肢がある場合はできるだけ野菜料理を注文するようにしている。今日はカボチャの煮物である。フィリピンの味付けはインドネシアに比べてずっと日本に近い。このカボチャの煮物も日本での家庭料理といっても違和感はない。
サンボアンガの港湾施設は関係者以外は立ち入り禁止になっており,歩行者用通路の先にあるゲートには警備員が詰めている。
ゲートの少し手前にフェリーターミナルがあり,そこでサンダカンやホロ島に向うフェリーのチケットが入手できる。チケットを買った乗客はターミナルの建物を通って埠頭に向うようになっている。
サンダカンの宿のおばさんの話ではホロ島を経由して小さなフェリーがサンダカンとも結ばれているという。しかし,外国人旅行者がそのルートを使うことは誘拐して下さいと言っているようなものだ。
警備員に「港の写真を撮りたいんです」と申し入れるとあっさり通してくれた。ここのセキュリティはそれほど厳しくはないようだ。ゲートの近くの岸壁には二層の木造貨客船が横付けされており,麻袋に入った干したコプラが陸揚げされている。おそらくココナツ・オイルをとるためのものであろう。
この干したコプラは独特の臭いがあるのでそれと分かる。近くの倉庫からは大型トラックには袋に入っていないコプラが山積みされていた。ここの臭いはさすがに強烈であった。
埠頭岸壁のところにバジャウの小舟がいた
大きな船が停泊している岸壁にいるとエンジンの付いていない小さなカヌーが寄ってきた。乗っているのはバジャウの子どもたちであった。フェリーでサンボアンガに到着したとき,たくさんのカヌーが集まり,乗客の投げるコインを水中でキャッチする芸を見せてくれた。
彼らは僕にコインを要求する。う〜ん,困ったな。僕は子どもにはお金をあげない主義なのだ。カヌーの少年は飛び込む準備をしている。しかたが無いな,小額のコインを投げることになった。水中ではコインはそんなに早く沈むわけではない。そのため投下点に泳いで行っても間に合うのだ。
Valderroza 通りには立派な並木が続いている
警備員にお礼を言って港を後にする。市庁舎の前の通りに戻り東に歩く。この通りも Valderroza とスペイン風の呼び名である。港の東側には樹齢100年を越える街路樹が大きく枝を広げている。これもスペイン統治時代の遺産なのであろう。
海側にはリゾートホテルがあり,人工的な突堤には白い傘のような建造物が並んでいるが客はほとんど見当たらない。カフェのメニューを見せてもらうとさすがにリゾートという値段が並んでおり,早々に退去した。
17世紀,スペイン時代のピラール砦
リゾートホテルの東側には1635年に造られた「ピラール砦」がある。ガイドブックには「外敵から町を守るために」と記載されているが,言葉が足りないように感じる。外敵とは明らかにミンダナオ島および周辺の島に残っているイスラム勢力のことであり,この砦はスペインの支配を守るためのものであろう。
石造りの壁の内部は博物館になっており入場は無料だ。ただし,外国人はパスポートを入り口で預けなければならない。海洋生物の標本などが展示されており,それなりに楽しめた。
ピラール砦で出会った女子中学生
地元の女子中学生が見学に来ていたので記念写真を撮らせてもらった。白いブラウス,スカートとおそろいの赤いチェックのネクタイ姿である。首からは身分証書の入ったケースが下がっている。
キリスト教徒の聖地
この砦の東側に接するように公園のような施設がある。周囲の石塀の上には聖人の像が並んでいる。ここは教会というわけではないけれど十字架のキリスト像が正面(西側)にあり,キリスト教徒の聖地となっている。この区画の中には灯明台があり,人々は火のついたローソクを横にして置いている。
フィリピンの庶民の乗り物に「サイカー」がある
フィリピンの庶民の乗り物に「サイカー」がある。小型の自転車の横にサイドカーを取り付けたものなのでこの呼び名となっている。近距離を移動するには便利な乗り物である。さすがに交通量の多い地域ではバイクのサイカーにとって代わられている。
サイカーが集められ警察の車両に乗せられていた
ピラール砦の近くの路上で何台ものサイカーが集められ,警察の車両に乗せられていた。どうやらこれらは無許可のサイカーのようだ。運転手の多くは10代の少年たちであり,うらめしそうに鎖でつながれた自分の車両を眺めていた。
セブ行きのチケット
島国のフィリピンをぐるっと一回りするルート作りはけっこう難しい。船と飛行機を組み合わせ,かつ移動料金を安く上げるという条件を付加するとさらに難しくなる。到着時のビザは21日間なので延長する町についても考慮しなければならない。
あれこれ考え,サンボアンガ→セブ島・ボホール島→ネグロス島→パナイ島→マニラ→ルソン島北部→ルソン島南部→サマール島→レイテ島→ミンダナオ島のルートを採用した。サンボアンガ→セブ,イロイロ→マニラは飛ぶことにする。フィリピンの主要国内線は30$-60$程度なので長距離フェリーを利用する価値はそれほどない。
ということで今日はセブ行きのチケットを買いに行くことにする。昨日,料金を確認したフィリピン航空のチケット売り場に行くと,「翌日のチケットはここでは発券できません,空港のオフィスに行ってください」と断られた。やれやれ,また面倒なことになった。
チケット売り場の前でバイク・サイカーの運転手に空港までの料金をたずねると30ペソだという。距離は4kmほどなので20ペソがいいところだ。西側の南北道路を北に向かって歩くと空軍の基地に出る。この基地の西側が空港になっており,ジープニーで5ペソであった。
空港の建物は逆V字形状の屋根が連続する近代的なものだ。この建物の右側にフィリピン航空のチケット売り場がある。事務所の中は冷房が効いていて快適である。入り口に立っている守衛から順番待ちの番号札を受け取る。20分ほどで僕の番号が呼ばれた。
16:45発エアー・フィリピンの便は1500ペソと格安である。昨日確認したフィリピン航空の料金は2590ペソだったので1000ペソほども安い。エアー・フィリピンはフィリピン航空の子会社で共同運航便となっている。両替レートはセブ島の方がよさそうなので航空券はクレジットカードで支払う。
空港施設の近くには小さな数軒の食堂が並んでおり,移動日の昼食はここでとれそうだ。二人の女の子がマンゴスチンを売っていた。マンゴスチンには柿のようなへたが付いており,それをひもでくくり20個ほどのまとまりにしている。
僕はバラになっているものを4個いただく。この果物は厚い皮をもっている。両手を組んで左右から力を加えると皮に亀裂が入るので,二つに割ることができる。今日のマンゴスチンはとてもできは良い。
果肉を口に入れるとさわやかな熱帯果物の女王にふさわしい甘さが口中に広がる。果肉はみかんのように6-7個のブロックに分かれており,一番大きなものには種が入っていることが多い。このマンゴスチンはホロ島から来ているという。
湿地の集落
宿の近くの交差点を北に歩く。道の両側にはところどころに新しい商店や会社の建物がある。新興商業地区といったところであるが,そのような建物の背後には広い水田や草地,アヒルの養殖池などが広がっている。
スーパーマーケットに立ち寄ってみるとチーズが見つかった。旅先の栄養補給にチーズを常用しているのでためしに一つ買ってみた。残念ながらこのチーズは塩味が強くて僕には不向きであった。おまけにブロックになっていないので,開封後は3日間くらいで食べ終える必要がある。旅先の携行食としては不合格である。
スーパーの先の空き地に土砂が積まれ,ちょっとした丘になっているところがあった。子どもたちはそこで凧あげに興じている。もちろん市販のカイトではなく自作のものだ。はるかな高さまで上がるものもあれば,どうやってもぜんぜん上がらないものもある。道路に沿った電線には彼らの失敗の履歴がたくさんぶら下がっている。
この丘の背後に小さな集落がある。集落の周辺は低湿地となっており,一部は池のようになっている。見方によってはのどかな田園風景である。
集落の中心に井戸があり,覗いてみると水位はほとんど地面のレベルである。そのため井戸のふちは地面より50cmほど高くなっている。これだけ地下水位が高いと水の安全性に疑問が湧く。
子どもたちの写真を撮ろうとすると,近くのおばさんが子どもたちを階段のところに並べてくれた。集合写真のお礼にヨーヨーを作ってあげたかったがさすがに人数が多すぎる。
軍鶏を使った闘鶏はフィリピンの大きな娯楽となっている
サンボアンガ・シティ聖堂での結婚式
移動日の朝,巨大十字架のあるサンボアンガ・シティ聖堂の二階では結婚式が行われていた。国民の多数がカソリックのお国柄なので,結婚式もカソリックの作法で行われている。
二階の入り口には儀杖兵のように赤モールの制服に身を包んだ兵士たちが入り口から正面の祭壇までの通路の両側に立っている。今日の主役は軍関係者のようだ。
数組の白い士官服の男性とピンクのドレスの女性が赤いじゅうたんが敷かれた花道を通り,前方の席に男女に別れて坐る。最後に新郎新婦が入場し,祭壇の上に着席する。
司祭が二人の結婚を祝福する儀式が続く。最後に聖体拝領の儀式があり,花嫁のベールが持ち上げられる。参列者も司祭から小さなパンを受け取り,胸の前で十字を切る。この儀式は通常のミサのものと同じだ。その後で指輪の交換が行われ,結婚式の儀式は滞りなく終了した。
書類(おそらく結婚誓約書のようなものだろう)が回され,司祭,新郎新婦,新郎新婦の両親,立会人がそれぞれの場所にサインをしてセレモニーは終了する。
後は撮影会となる。会場にはプロのカメラマンがおり,先ほどからの儀式の最中に写真を撮っている。新郎新婦はもちろんのこと盛装の出席者を一人ずつ撮っている。
彼らはセレモニーが終了する前にプリントを準備して,出席者に一枚25ペソくらいの値段で売っている。僕も彼らと一緒にピンクのドレスの子どもたちや女性の写真を撮らせてもらった。ついでに,赤モールの制服に身を包んだ兵士たちを撮ろうとしたら,半円形に整列してくれた。