マハカム川上流域の比較的大きな町である。サマリンダからここまではパブリック・ボート(カパル・パブリック)が就航している。2泊3日,40時間近くかかる船旅である。全長50mほどの大きな木造船で二階の船室の居心地はなかなか良く,快適な船旅であった。
マハカム川はここから先も続いているが,急流地帯もあるので大きな船では航行できない。エンジン付きのロング・ボートあるいはモーターボートを使うとロング・アパリまで行くことができるそうだ。でも料金はサマリンダ→ロングバグン(25万ルピア)よりもかなり高くつくようだ。
ロング・バグンはダヤク人の村落であったはずだが,ジャワ島やスラウェジ島からの新移民が入ってきており,ロングハウス,焼畑といったダヤク人の伝統的な生活はここでも見られなくなっている。
村落には二つのロング・ハウスが保存されているが,一つはもう人が居住しておらず伝統家屋の展示場のような扱いになっている。人々はロング・ハウスを捨てて,戸建ての高床式住居に居住するようになった。まだ車は走っていないものの,バイクは少しは見かけた。バイクならば道路が通じていなくても,船で運搬することができる。サマリンダからの船にも何台か積み込まれていた。
各駅停車ならぬ各集落停船を繰り返したためロング・バグン到着は深夜の02時になった。そのまま下船する人もいるが,宿のあての無い僕は朝が来るまで二階の船室で寝ることにした。これはとてもありがたいサービスだ。
06時に行動を開始する。あらかじめ船員に宿を聞いておいた。船着場のすぐ上だという。なるほど,確かに斜面を10mほど上ったところに家がある。この斜面にはちゃんとした階段が取り付けられていたが,下のほうは怪しくなっており,不安定な渡し板を伝って上ることになった。
建物は二階建てになっており,外から二階に上がる階段がある。とりあえずチェックインをしなければならないので一階の裏口から入る。一階は家族の居住部分となっておりずいぶん立派であった。
台所にいた下働きの女性が家人を呼んでくれた。おばさんが出たので泊まりたいと話すと,娘さんであろうか,若い女性に案内させてくれた。内側の階段を上り二階の客室に案内された。階段の踊り場から上は一応土足禁止になっており,僕もクツを手に持って二階に上がる。
大きな部屋の両側に仕切りを作り全10室の客室としている。部屋自体はとても大きく,中央部は広い空間が残されている。それに対して客室は3畳ほどの広さで,まだ商品梱包用のビニールに包まれたままのベッド・マットレスが床に置かれている。
まあ,ベッド用のマットレスなので寝心地は悪くないし,何も無いのでそれなりに清潔である。部屋にはカギも付いており一応のセキュリティもある。
共同のトイレとマンディーは二階に2つ用意されている。水はドラムカンに貯めてあり,これを汲んで水浴びをすることもできる。この水はポンプにより川から汲み上げているようだ。ここには電気が来ているので(どこから来ているのかな)カメラ用電池の充電も問題ない。
川側は屋根付きのベランダになっておりテーブルが4つも置かれている。これは日記作業にとても役に立った。部屋代は5万ルピア,金額に見合う設備ではないが,他に選択肢はないようなのでここに宿泊することにする。
日記作業
船の中では机が無かったので日記作業は2日間お休みしていた。水浴びをしてさっぱりしたところでベランダの机で写真のような風景を見下ろしながら日記を書き出す。記録として重要な停泊地の情報はボイス・メモから集めてくる。
夜には灯りの下で日記作業を続行した。川から近いせいもあり,灯りには大変な数の羽虫がやってくる。羽虫は僕の周辺を飛び回り,これはなかなかジャマをしてくれる。朝になるとおびただしい虫の死骸が床に散らばることになり,宿の女性がほうきで掃き出していた。
学校を訪問する
村落は川に並行して舗装された唯一の通りがあり,その両側に民家や商店が並んでいる。僕の泊まった宿もこの通りに面したところは商店になっていた。少し北に向かって歩いたところで船着場の前で船の中で知り合いになった英語の少しできる男性から声をかけられた。彼はこの村落で生まれ育ったが,現在はサマリンダで働いていると言う。彼の案内で村落を一周することになった。
さして広くない村落なので,20分ほどで一周してしまう。おかげで小学校を二つ,ロングハウスを一つ見つけることができた。彼の家の前でお別れして,最初の学校を訪問する。
教室の入り口から内部を撮る
立派な木造,トタン屋根,平屋の校舎がいくつかある。暑い地域なので教室は風通しが重視され,入り口側の壁は上部にすきまをもたせ,戸は開けっ放しである。反対側は鉄格子の入った窓になっており,明るい教室となっている。
インドネシア語の数字の読み方が書かれていた
教室の前を歩いていると先生が招き入れてくれた。低学年のクラスで黒板にはインドネシア語の数字の読み方が書かれていた。もしかしてインドネシア語の授業なのかな。
この村落にはダヤクの人々と新移民の人々が混在している。おそらくダヤクの人々の家庭ではそれぞれの民族集団の言葉を使用しているにちがいない。そうすると子どもたちは一からインドネシア語を学ばなければならない。これはかなりのハンディであろう。
再び記念写真を撮って学校を後にする
カメラを向けると最初はけっこう緊張している。どうやら終業時間のようで,彼らは教科書が入ったザックを背負っている。表の廊下に出ると子どもたちが出てきたので壁側に並んでもらって記念写真を撮る。
子どもたちと一緒に教室に入りオリヅルを教えてあげる。概して言うとインドネシア人は手先が器用だ。一部は僕の手を借りたものの立派に仕上げることができた。こうしていると男の子がたくさん集まってくるので校庭に出て,再び記念写真を撮って学校を後にする。
川で洗濯をする
陽射しが強く肌に痛いほどだ。ちょっと歩いただけで汗をかく。宿に戻り水浴びをする。ドラムカンから手柄杓で水を汲み体にかける。一時的だけれど体温がさがり気持ちがいい。この水は川から汲み上げてきたものなので,直接川に水浴びに行っても同じなのだが,地元の人のようにサロンを持っていないのでそうはいかない。やはり,こんなときに備えて短パンを持参するべきであった。
汗を洗い流した勢いで宿のバケツを借り,川まで下りて洗濯することにした。川には地元の人たちが使う筏がありそこで洗濯をすることができる。洗濯をしながら水浴びをする快感は残念ながら味わうことはできない。
昼食は高かった
ロング・バグンにはあまりちゃんとした食堂は無い。朝の散策時に見つけた食堂でナシ・チャンプルをいただく。この食堂の値段はなぜかパブリック・ボートと同じ値段であった。すなわち,通常市価の1.5-2倍である。ナシ・チャンプルはごはんのうえにフライドチキンを1個とヤキソバを乗せたもので15,000ルピアである。ナシ・ゴレンですら13,000ルピアもする。
船の上ではがまんせざるを得ないが陸では納得のできない値段だ。夕食は屋台でフィッシュボール入りのラーメン(ミー・スープ)にする。こちらは5000ルピアと通常価格である。とにかく,この食堂には再び来ることはないだろう。
丘に登る
村落の背後にはちょっとした丘がある。見晴らしが良さそうだったので登ってみる。斜面に樹木は無く赤土がむき出しになった荒地になっている。そこの半分をオジギソウ(マメ目・ネムノキ科・オジギソウ属)が覆っていた。この植物は触れると葉が閉じるという珍しい性質をもっている。
葉は左右対称の羽状の小さな小葉から構成されている。葉に軽く触れると,先端部から順に閉じていき,最後に葉全体がやや下向きに垂れ下がる。この一連の運動は数秒で完了する。歩いていて茎全体を揺らしたような場合は,その茎に付いている多くの葉が一斉に閉じてしまう。また,僕は見たことはないが,他のネムノキ類と同じように葉は夜間になると閉じる(就眠運動)。
原産地はブラジル,小さな球状の花を咲かせるので,人の手で世界に広められたようだ。寒さに弱いので日本では自生できないが,東南アジアではかなり広範囲に見ることができる。ここでは密生しており,茎にはトゲがあるのでサンダル履きではここを歩きたいとは思わない。
丘の上からは村落を一望できる。まあ,一望と言うほど戸数は多くない。見える範囲では200-300戸といったところだ。ほとんどが木造,板壁,トタン屋根の家屋である。村落は川沿いのわずかな平地あり,周辺は高さ100mほどのゆるやかな丘陵地帯となっている。そろそろボルネオ島の背骨のように連なる中央山脈が近いことをうかがわせている。
川の対岸は同じくらいの高さをもつ斜面になっている。そこの森林はほとんどが二次林,三次林であろう。右側には焼畑から回復しつつある一画があり,焼畑の一区画の規模をある程度推測することができる。
天然ゴム農園
丘の先には上流側に続くジャリ道があるので歩いてみる。道路は緑の植生を削り取るようにして先に伸びている。周辺の緑は半分が劣化した森林である。進行方向左にはかなり広いゴム農園が現れた。広いといっても1万ha,10万haというボルネオ島の大規模プラテーションに比べると小農園である。
天然ゴムのとれる「パラゴムノキ(トウダイグサ科)」の原産地はアマゾン川流域である。この木の樹皮に傷を付けると白い乳液(ラテックス)がしみ出てくる。この樹液を集めて酢酸を加えて凝固させると天然ゴム(生ゴム)となる。
天然ゴムはイソプレン分子が直列につながったひも状の巨大な高分子であり,これがからみあった構造をもっている。加硫法により,ひもの交差している部分が硫黄により結合され,弾力性,温度安定性,耐久性が大幅に改善された。
また,カーボンブラックの添加により強度も飛躍的に向上した。この二つの発明によりゴムは自動車のタイヤに使用されることになり,その需要は飛躍的に高まった。
当時,唯一の天然ゴムの産地であったブラジル政府はパラゴムノキの苗木や種子を国外に持ち出すことを固く禁止したが,英国が持ち出しに成功し,本国のキュー王立植物園で育成し,マレー半島の植民地に広大なプランテーションを造り出した。
プランテーション経営により天然ゴムから独占的な利益を得ていた英国に対抗して,ドイツや米国では合成ゴムの開発が進められ,1954年に天然ゴムと同一分子構造の合成ゴムが発明され,英国独占の時代は終わりを告げた。
現在の世界のゴム消費量のうち天然ゴムは1/3,合成ゴムが2/3程度である。合成ゴムの発明にもかかわらず,天然ゴムは廃れることもなく,2004年の天然ゴムの主要生産国はタイ(33%),インドネシア(24%),マレーシア(14%)となっている。
天然ゴムの樹液(乳液)採取は早朝がもっとも効率が良い。切り込み作業はきまって明け方に行われるのでなかなか見る機会はない。パラゴムノキは植樹後5年目くらいから樹液の採取が可能となり,よく管理された状態だと20年ほどは採取が可能だという。
通常,樹液を採取するためには縦方向に切れ目を入れ,そこに両側からV字形に樹皮を傷つけていく方法が一般的であるが,ここのものはV字が段違いになっていたり,片側だけものものもあった。これも一つの方法なのかもしれない。
バナナの花
道の川側にはたくさんのバナナ(バショウ科・バショウ属)の木を見かけた。誰かが手入れをしているようには見えない。半野生化しており,周囲の植物と競合しながら成長している。最大の敵はつる性の植物である。成長が早く5mほどの高さの樹木でもこの植物に簡単に覆われてしまう。
植物の世界の競合は主として光をめぐる争いである。このようなつる植物に覆われてしまうと,覆われてしまった方は光が得られず成長できない。このつる植物はからみつく対象物の無い裸地では地面を這ってあたりを埋めてしまう。
このバナナはなんとか葉を出しているが,中にはすっかりつる植物に覆われてしまったものもある。果実は4段に分かれて結実しているが,それほど大きくはならないだろう。
バショウ属はちょっと変わっている。植物の大分類では草本(草の仲間)なのである。地上に高さ数mの茎を直立させるが,これは偽茎であり,葉鞘が幾重にも重なりあっているものであり,本物の茎は地下で横に這っている。偽茎から伸びた葉柄の先には長楕円形の巨大な葉を広げる。
一本の偽茎から一つの花序を付け,10本から20本程度の果指からなる何段かの果房(果段)をもつ。大きな花弁に見えるのは苞葉で一つ一つの果指の部分が本当のバナナの花である。開花は一本の偽茎につき一回のみで,結実後に枯れてしまう。
このような果房をもつものを「ミバショウ」という。バナナの正式名称もミバショウである。これに対して果房をもたないものは「ハバショウ」という。先端の赤い部分は花のつぼみの集合体であり,熱帯アジアではこれを切り取って芯の部分を食用にする。
マハカム川の風景
樹木が途切れたところからはマハカム川を眺めることができた。川の周辺は人の手の入った二次林あるいは三次林であるが,豊かな森になっている。この環境ならば周辺では焼畑移動耕作が見られるかもしれない。
しかし,それにはガイドを雇い,タバコなどのお土産を持参しなければならない。適当に行って集落の暮らしを見せてもらえることはない。道はずっと先まで続いているが,特におもしろそうなものはないので村落に引き返すことにする。
ダヤクの人々の家
丘の下にはいくつかに仕切られた細長い長屋風の家屋がある。この建物を横にずっと伸ばし,手前のベランダ部分を広げるとロングハウスになる。子どもたちの写真を撮ることはほとんど問題はなかった。
大きな魚を吊るし持ってポーズをとってくれた
女の子は大きな魚を吊るし持ってポーズをとってくれた。 写真のお礼にヨーヨーを作ってあげると,近所の子どもたちがたくさん集まってきた。「君たちの分はないよ」とは言えないので,総計で10個ぐらいは作ってあげた。
ロング・バグンには気のきいたおもちゃ屋があるわけではない。子どもたちは道具に頼らずそれなりの遊びを見出しているはずだ。この日本円にすると1個10円のヨーヨーで子どもたちがこんなに喜んでくれるのを見ると,むやみにあげて良いものかと疑問をもってしまう。
バドミントン用体育館
インドネシアの国民的スポーツといえばバドミントンであり,中国,韓国と並ぶ世界の強国でもある。オリンピックでは1992年のバルセロナ大会から正式種目となり,そのとき金2,銀2,銅1を獲得した。北京(2008年)では金,銀,銅各1個を獲得している。バドミントンの競技数は5なのでこれは大変な偉業である。
多くの村落にはバドミントン専用の体育館があり,若者が汗を流す姿が見られる。ロング・バグンにも木造の体育館があった。採光は壁の上部にある窓から,風があるとゲームに差し支えるので下の窓は片側だけ開けてある。ただでさえも暑い赤道直下のインドネシアである。この環境でバドミントンをするのは大変だ。我々が彼らと同じように動いたら熱中症になることは請け合いである。
夕方になると女性たちが集まってくる
夕方になると宿から少し離れた筏の上に洗濯や水浴びのため子どもを連れた女性たちが集まってくる。川岸の階段を下りて水辺に向う。筏の上に移動するためには太い丸太の浮橋を渡らなければならない。長い間水に浸かっていた丸太は滑りやすくクツをはいている僕にとってはちょっとした冒険である。幸い丸太はロープで固定してあるのでそれほど沈むことはなかった。
こんな時はビーチサンダルを履いていると,ズボンの裾をまくって簡単に渡ることができるのであるが,そのスタイルでは長時間は歩けない。午前中に試してみたらやはり足の指の間の皮膚がむけてしまった。
浅いところでは子どもたちが水遊びに興じている
女性たちはサロンを身にまとい,小さな子どもの手をとって水に浸けている女性もいる。これをやられると子どもは恐怖のため泣き出すことが多いのだが,ここではもう慣れているのか,おとなしく水に浸かっている。
筏の近くの浅いところでは子どもたちが水遊びに興じている。まだ小学校に入る前の子どももこの集団に加わっている。これならば,すぐに泳げるようになるだろう。実際,マハカム川の旅で出会った子どもたちは,小学校に入る頃には立派に泳いでいた。
筏の上に取り残されていた女の子を撮ると・・・
筏と筏の間が深さ1mくらいのプールのようになっており,その年代の子どもたちが飛び込みを繰り返していた。カメラを向けるとみんな筏の上に上がってきて集合写真となる。
筏の上に取り残されていた女の子を撮ると,近くの水の中の女の子が上がってきて再び集合写真になった。ここの子どもたちは本当に写真好きで楽しい。
卓球の国際親善試合
メインストリートに面した家の横に卓球台があり,男性がゲームを楽しんでいた。横で見ていると仲間に入れてくれた。久しぶりの卓球である。
日本ではもう30年くらいやったことはないのに,旅行に出かけるとこのような形でゲームを楽しむことがよくある。ゲームの成績は?,さすがにむかし取った杵柄である。現役世代と堂々と戦うことができたと報告しておく。
旅行用カメラについて
夕食を摂ってから夕方の散歩をしていた。もちろん手にはカメラを持っている。旅行中,外に出るときは必ずといってといほどカメラは右手に持つことになる。このため,長期旅行には大きくて重い一眼レフのカメラは持っていくのは困難である。そのため僕はコンパクト,かつそれなりの写真の撮れるカメラを愛用している。
ほとんどの写真は自分の旅行の思い出あるいは記録として撮っているので,便利さが優先される。もちろん素晴らしい風景やかわいい女の子(文字通り子どもです)を撮る時には一眼レフの表現力や望遠レンズは魅力的なので今後はどうしようかと思案している。
女性は後ろの壁際に並んでいる
今日も散歩の時にモスク(イスラム教の礼拝堂)を見つけた。日没後の礼拝の時間である。このモスクは木造である。イスラムの礼拝はいつもメッカの方向に向かって行う。そのためモスクの一面はメッカの方向に向けて造られており,そこには「ミフラーブ」という壁のくぼみが設けられている。
ムスリムの人々はミフラーブの前に横一列に並び,最初の列がいっぱいになると次の列に連なるようにする。ここのモスクでは男性が前に並び,女性は後ろの壁際に並んでいる。通常,イスラムにおいては男性と女性が一緒に礼拝することはないが,ここにいる女性は子どもたちだったので許されるようだ。
森から雲が生まれる
赤道直下(北緯2度)のロング・バグンの夜は熱帯夜になるのであろうか…。答えはノーである。ロング・バグンのように森林の豊かな地域は熱帯といえども夜になるとぐっと涼しくなり,長袖をしっかり着込んでおかなければ体を冷やすことになる。暑くて寝られないというのは森林の少ない都市部の話である。
06時に起床する。朝のトイレと水浴びを済ませ,テラスのテーブルで日記を書く。昨夜は眠気に負けて21時には寝てしまい,日記の一部が残ってしまった。ここからは対岸の森から雲が生まれる様子がよく分かる。光が当たると森は光合成を開始する。植物の葉の裏側には開閉可能な気孔がありそこから二酸化炭素を取り込むみ,酸素を吐き出す。
しかし,二酸化炭素は気体のままでは取り込めない。普通の植物は気孔周辺に水を染み出させてそれに溶けた二酸化炭素を取り込む仕組みをもっている。葉の裏側に気孔をもつのは,このときに水分が蒸発することをできるだけ少なくするためである。
とはいうものの,どうしても気孔から水分は蒸発(蒸散作用)してしまう。中には積極的に蒸発させて葉の温度を下げることもあるが,一般的に水分の蒸発は植物にとってありがたいことではない。
熱帯雨林においては水はふんだんにあるので,気孔からの蒸発は植物の負担にはならない。そのため,朝になると森林は水分を盛大に蒸発させる。この水蒸気はまだ夜の温度から暖まっていない空気に冷やされ雲を生み出す。森林の植物による蒸散と林床からの蒸発は地域の雨量の相当部分を占めるという研究報告もある。現在,盛大に生み出されている雲ももう少し気温が上がると消えてしまう。
ロングボート
ボルネオ島の先住民であるダヤクの人々が使用するボートは細身のロングボートである。マハカムの本流のように大きな川では安定性は悪いものの,小さな支流に入るためには細身のボートが役に立つ。ロングバグンに定住しているダヤクの人々の伝統的な焼き畑はアクセスが容易な川沿いにある。そのためボートに乗って農作業に出かける風景が見られる。また,ここに定住している知り合いを訪ねてくることもある。
今朝,川岸の船着場に立ち寄ったとき,ダヤクの人々のエンジン付きロングボートを見かけた。ボートには農作業等で使用する竹もしくはラタン(籐)で編んだカゴと同じような素材で作ったマットもあった。カゴの一つは自然色と茶色に染めた素材を使用して,やはりダヤクの伝統的な紋様を描き出している。
植物の葉で編み,飾りを施した花笠が飾ってあった
ロング・ハウスの近くで盛大に火を起こしている家があった。何かお祝い事かイベントがあるようだ。この家はダヤク人が住んでいる。ロングバグンでも一部の人々は伝統的な習俗を守って暮らしている。
ダヤク独特のビーズ刺繍のある乳児用しょいこ
中に入れてもらうと壁には植物の葉で編み,飾りを施した花笠が飾ってあった。小さな乳児のしょいこにはダヤク独特のビーズ刺繍があった。このような道具は現在でも実用品として使用されているが,この家ではどうなっているのか不明だ。
竹筒ごはんの調理|仕込み
台所では女性たちが水に漬けたコメを片側の端を除き節を抜いた竹筒に入れている。彼女たちは竹筒ごはんを準備しているのだ。
竹筒ごはんの調理|加熱
竹筒ごはんは家の中では作れない。外で火を起こして,その上に横棒を一本渡す。そこにコメの入った竹筒を斜めに立てかけ,下で火を燃やす。竹筒の上部はバナナの葉でふたをしておく。
竹筒は火にあぶられて黒くはなるが燃えない。中ではコメが蒸し煮状態となり1時間もかからずでできあがる。最初にこの家を訪れたのは08:30,09:50に再訪したとき,火は熾き火になっており,竹筒ごはんはほぼ出来上がっていた。
ちゃんとしたかまどもある
台所にもかまどはあり,五徳の上に鍋を置いて調理している。燃料は薪だ。台所には調理を待つバナナの葉にくるんだものが積まれている。
おばあさんは手足に入れ墨をしていた
女性たちがおこげの部分で食事をしていた。こげていないごはんはバナナの葉でくるんでおり,おこげが当座の食事に供されている。勧められて僕も少しおよばれする。魚のスープと陸稲のおこげはなかなか味わい深いものであった。
お礼にこの家の3人の子どもたちにヨーヨーを作ってあげる。男の子は目いっぱいに回すので,とがったものにぶつけるとパンと割れるよと大人に注意したが効き目はなかったようだ。16時に再々訪したとき目の前で破裂させてしまった。
横ではおばあさんが小さな木片のようなものを使って稲穂から籾を落としていた。これはいくらなんでも効率が悪過ぎる。もしかしたら,特別なものなのかもしれない。
このおばあさんは手足に入れ墨をしていた。ダヤクの人々を紹介する観光情報ではよくフンドシ姿で手に槍や山刀を持った男性や華やかな伝統衣装をまとった女性たちが紹介されている。
また,男女どちらも手足に入れ墨を入れ,女性は重いリングのイヤリングをしているため耳たぶが長く伸びている。このような姿は一世代か二世代前のことであり,現在のダヤクの人々の服装は沿岸部の人々のそれとほとんど変わらない。伝統衣装は儀式など特別の行事のときにだけ着用される。
この家で入れ墨をしているのはこのおばあさんだけである。若い世代では入れ墨も,大きなイヤリングをしている人はいない。高校生くらいの男の子は携帯電話を操作している。もう一世代でこのような風習は完全に過去のものになるだろう。
長屋形式の家が多いのは
この地域には長屋形式の横に長い家が多い。これは伝統的なロングハウスの文化を引き継いでいるものである。ダヤクの人々の伝統的な集合住宅であるロングハウス(ラミン)はロングバグンでもわずかしか残っていない。その代わりに定住村民は新しい長屋形式の家屋に居住している。
ボルネオ島では「首狩り」に代表されるように,古くから集団同士の抗争が日常的に行われてきた。このような状況では村全体がまとまって一つの住居に居住していると防衛の面では有利だったのであろう。
また,住居を建造する土地や費用も節約することができる。周辺には大きな木はたくさんあったろうが,チェーンソーの無い時代に大木を伐り出し柱や板材を作るのは大変な手間がかかったことだろう。
このため村の住民を全部収容できる長屋が伝統家屋となった。人口が希薄なボルネオ島内陸部では,それぞれの村は川沿いに孤立しており,構成人員もさほど多くなかったことが,このような家屋を可能にしたのであろう。
ロングハウスは高床式,切妻屋根の大きくて,長い家を想像すればよい。平屋の小学校を想像するのがもっとも簡単かもしれない。もっとも,家族数が増えるとロングハウスは横方向に増設され,長さは50m,ときには100mにもなる。
学校が教室に分かれているように,ロングハウスも家族の単位で仕切られている。教室どうしは廊下で結ばれているように,ロングハウスは前面に共通スペースをもち,その奥に家族用の部屋が並ぶ構造になっている。通常,二つのスペース配分は半々である。
ガラス窓は無く,家族用の部屋には明り取りのため開き戸タイプの窓があった。共通スペースには入り口,大きな開き戸があり明るい空間となっている。人々はこの共通スペースでマットやカゴを編むので明るさは必要なのだ。
ロングハウスの床下(高さは1-2mほどある)では家禽や家畜が飼育されている。家族用の部屋の天井部は屋根裏部屋になっており,農作業や生活に必要な道具類が収納されている。共通スペースには天井がなく,屋根の構造がむき出しになっている。
これは,僕が13年前にホームステイしたロングハウスの構造である。地域により,あるいは集団により多少の差はあるかもしれない。そういえば,このロングハウスには水浴び場もトイレもなかった。水浴びは目の前の川でできるが,トイレは少し離れた草むらということになる。
わずかに残されたロングハウス
カリマンタンでは州政府の指導もあり,ロングハウスから戸建の家屋に急速に変わってしまった。ロング・バグンにはもう数えるほどしか残されていない。そのうち一棟はまだ人が住んでいる。ここはさきほど立ち寄ったお祝い事の家から1分とかからないところにある。
高床式になっているため,入り口にははしご状の階段がある。幅は60cmほどもあり,これは相当大きな木を加工したもので階段にするにはもったいない。階段は2つあり,床から一段低くなった板に立てかけてある。
この上がり板を支えるため両側に高さ2.5mほどの二本の飾り柱が使用されている。もう一つのロングハウスの入り口もこのような構造になっている。階段の一番上には3歳くらいの男の子が坐っている。まず,一枚撮らせてもらう。適度の距離を取ることにより男の子は特に怖がる様子を見せない。
小さな子どもの写真を摂る時は距離と撮影時間は重要な要素となる。近づきすぎたり,時間をかけ過ぎると子どもの恐怖心を増大させることになり,よく泣き出すことがある。これは親と一緒の場合にもあてはまる。
適度の距離を保ち,できるだけ早く撮影を終えるのがコツである。そのため,僕はいつもファインダーを使用している。液晶画面を使用するとフレームを作るのに時間がかかってしまうからだ。ズームを含めてフレームを作るのには一眼レフがもっとも適している。
このロングハウスを建造した時は木材がたくさんあったようで,太い柱や梁,大きな板材がふんだんに使用されている。さて,このロングハウスは人が住んでいるのでかってに上がるわけにはいかない。
入り口から「ハロー」と声を掛けてみても誰も出てこない。共通スペースでは4-5歳くらいの女の子が二人いるだけだ。しかたがないのでそのまま上がらせてもらった。もちろんクツは上がり板のところで脱いでおく。
これはとても奥行きの広いロングハウスである。通常は前後の壁面の間に梁を渡して屋根を支える構造であるが,ここの共通スペースはさらに二列の柱で空間を支えている。
なんといっても大人がいない家にずっと上がりこむわけにはいかない。子どもたちの写真を撮って早々に退散する。女の子はプラスチックの袋に入ったお菓子を手に持っていた。ここでも自然に還らないゴミを排出する文化が始まっている。
ゴザを敷いて籾を乾燥させる
川に並行している中央通りを通って宿に戻る。といってもここではまともな通りはこの一本しかない。通りの周辺の民家は高床式のものが多い。この土地は川から10mくらい上にあるので出水の心配はないだろうが,雨が多いので床からの湿気を避ける必要があるのだろう。
ロングハウスから戸建に変わっても,家の構造は同じようなものだ。ロングハウスを切り分けたような造りになっており,通りに面した側にはオープンのベランダが付いている。東南アジアの国々ではよく道路に直接,もしくはゴザを敷いて籾を乾燥させている。この通りにもその光景が見られる。その昔の日本では「はざ木」で稲束ごと乾燥させていた。
はざ木とは丸太を組み合わせて作った物干し竿のようなものである。はざ木(横木)が何段か渡され,そこに稲束を架けるので「はさがけ,はざかけ」と呼ばれている。現在でも(少数ながら)自然乾燥米は乾燥時に実が追熟し味が良いというので,はざ木で乾燥している農家もある。さすがに丸太は使用せず,鉄パイプを組み合わせて造っている。
このような自然乾燥が可能なのは日本では秋晴れと呼ばれるように晴天が多いためである。雨の多い東南アジアでこんなことをしていたらとても十分な乾燥はできないだろう。
農民は天候を読み,この2,3日は雨が降らないだろうというようなタイミングで籾を干す。干した後は籾摺りをしてようやく食糧としてのコメになる。幸いなことに籾摺りの様子はこのあと見ることになった。
なかなかいい表情だね
民家の軒先で5歳くらいの女の子を見かけた。なかなか色白で目鼻立ちのはっきりした子である。写真を見せて日本人と言ってもみんな信用するだろう。その横に2歳くらいの女の子がおりもう一枚撮る。この子も美人の要素を備えており,なかなかいい表情だね。
3人とも似ているので3姉妹のようだ
さらにもう一人,10歳くらいのお姉さんが出てきた。3人とも似ているので3姉妹のようだ。3姉妹の写真を撮ろうとしたら,お母さんが出てきて,末っ子の食事の時間になってしまった。この様子も写真にする。ごはんを食べながらもこの子はちゃんとカメラ目線になっている。
パンノキ
何本もの「パンノキ(クワ科・パンノキ属)」があった。これも果実を食用にできる有用植物である。原産地はポリネシアあたりである。属の学名の中にパン,果実という言葉が使用されており英語名称も「Breadfruits Tree」という。
原産地とされるポリネシアはミクロネシア,メラネシアなどとともに太平洋に散らばる多くの島を含む地域の名称である。その中でもポリネシアはおおむねハワイ諸島,イースター島,ニュージーランドを結ぶ三角形の広大な地域を占めている。
この広い海域の島々に居住する人々を総称してポリネシア人という。人種的にはモンゴロイドに属するが,例外的に大きな体格をしている。広大な海域に点在するポリネシア人の体格が類似しているのは彼らが優れた航海術をもった海洋民族であるためである。
彼らは東アジアを起点に(言語学的な研究では台湾が起点であることを強く示唆している)東南アジアの島嶼部,マレー半島,太平洋の島々に,また方向を西に転じてマダガスカルにも進出していった。
その結果,西はマダガスカルから東はイースター島,南はニュジーランド,北はハワイ諸島におよぶ広大な地域が「オーストロネシア語圏」に含まれることになった。オーストロネシア語は1000あまりに区分され,その言語を使用している民族集団を「オーストロネシア語族」という。
人々が移動した時期は大きく二つに分けられる。古いものはBC5000-BC3000年にかけて,新しいものはBC1000年-BC600年頃とされている。特に第二波の移動ではわずか400年ほどで太平洋の島々に拡散していった。
彼らは新天地を求め,彼らの主食であるサツマイモやパンノキなどの苗木を携えて船出している。彼らが地球規模での移動が可能だったのは彼らのもっていた高度な航海術によるものである。また,アウトリガーをもつカヌーや双胴船のカヌーなど安定性に優れた船も大きく寄与している。
彼らがどのような航海術をもっていたかについてはその多くがすでに失われている。それでも,一部地域では口承されてきた航海術が解読され,実際に当時の航海術とカヌーにより(海図やコンパスなどを使用しないで),1000km,2000kmの航海が可能であることが実地証明されている。
ここにあるパンノキも彼らの移動とともに広い地域に伝播されたものだ。大きくて7-9裂の掌状の葉がよく目立つので一度見ると忘れることは無い。むかし,フィリピンでこの木を見かけてずいぶん大きな実がたくさん付いているなと感心したことがある。そのときはパンノキだとは思わなかった。
というのは果実の表面は固い小さな突起があり,とても食用になるとは思えなかったからだ。熟すと直径10-30cmほどにもなり,表皮の感じから小型のジャックフルーツに似ている。調べてみるとジャックフルーツもパンノキ属に含まれていた。同属なら果実の感じが似ているのもうなずける。ジャックフルーツの成木の葉は光沢のある長楕円形であるが,幼木ではパンノキと同じように大きな切れ込みがあるという。
インドネシアの市場ではパンノキの果実も売られている。英語のできる人に「どうやって食べるんですか」と聞くと,「スープに入れるんだよ」という答えであった。僕はこの果実を食べたという記憶はないが,どこかのスープに入ったものをそれとは分からないまま食べているのかもしれない。
第三の学校
三つ目の学校を見つけた。子どもたちの顔立ちは沿岸部の人々に類似している。いわゆる新移民なのかもしれない。インドネシアではスハルト政権の1970-80年代に人口が稠密なジャワ島やバリ島からスマトラ島,カリマンタン島,スラウェシ島に住民を移住させる政策をとっていた。
カリマンタン島においても100万人単位の人々が新たに移住してきため島の民族的な人口比は大きく変化することになった。ロング・バグンにも多くの新移民が入ってきたことは想像に難くない。
インドネシアの国語にあたるインドネシア語を第一言語としている人は総人口2.2億人のうち3000万人程度に過ぎない。第二言語としている人は1.4億人程度とみられているのでどこへ行ってもだいたい通じるようになっている。
しかし,インドネシア語を話さない人も数千万人おり,そのようなところに新移民がやってくると,教育における言語問題が発生する。このような小さな集落に複数の小学校があるのはそのような事情に起因していると推測する。この学校ではインドネシア語が使用されているのだろう。
行儀のよい集合写真
ここの子どもたちも行儀がよい。集合写真を撮るために「横に並んで」と合図するとちゃんと並んでくれた。カメラを構えると,一段高くなった廊下にも子どもたちが並び,上下2段の集合写真になった。教室の中でも机に坐ってかしこまっている子どもたちを撮ることができた。
ロングボート
宿に戻り水浴びをする。少し茶色の水でも本当に気持ちがいい。マハカム川で水浴びができたらもっとも爽快な気分になることができるだろう。今回の旅行はサロンも持ってこなかったのが悔やまれる。
商店のある船着場に行くと,さきほど村落を案内してくれた英語のできる男性がおり,パトゥマジャンに行くとこを勧められた。ここにもロングハウスがあるらしい。川を渡った対岸にあり,それほど距離はないという。対岸を歩いてみるのもいいなと考え,さっそく船着場に下りていく。
対岸に渡る
筏のところにはダヤクのロングボートが泊まっていた。ダヤクの人々が使用するのはほとんがこのタイプの幅の狭いボートである。長さは5mほど,船尾にエンジンに固定されたシャフトの先にスクリューがついている。
長い操作棒があり,エンジンを含めて回転させることにより進行方向を制御することができる。船の後ろはある程度平底になっているものの,幅が狭いので左右の安定性は良くない。この船で不用意に立ち上がったりすると,おとっとっ・・・ということになる。
女性が二人,子どもが二人,犬が4匹,ニワトリが1羽乗り込むとエンジンがかかり,船は上流に向っていく。その先には浅瀬で洗濯をしている母娘がいる。
筏の上で待っていると水上タクシーがやってくる。さきほど出て行ったものと同じ型のロングボートである。パトゥマジャン,いくらと聞くと2万ルピアと言うので船に(慎重に)乗り込む。10分ほどで対岸にある船着場に到着した。
この料金は陸のタクシーとほぼ同じ値段である。もっとも,2万ルピアは少し高かったようで帰りは1万ピアであった。さて到着したところは筏の浮き家が一軒あるだけで他には何もないところであった。
川沿いの道を歩いていくと三角屋根の上部を木片で飾った家があった。細長い六角形の板材を張り合わせたうろこ状の装飾はちょっと珍しい。南米のチリにあるチロエ島にはいくつかのパターンはあるものの,このようなうろこ状の美しい壁面をもつ建物が観光資源になっている。偶然なのかこの建物の装飾は有名なチロエのものと類似している。
手押しの移動販売車
この道には目指すロング・ハウスは見当たらなかった。代わりに日用雑貨や衣類を引き棒のないリヤカーに積んだ移動販売のグループに出会った。
リヤカーの前側には自転車の車輪が取り付けられ,最後部には支えの足がある。移動するときは最後部を少し持ち上げて押していくようだ。このような車が三台並んでおり,商品はあまり重複していない。暑い中でリヤカーを押して歩くのは大変なことで,売り子は木陰で休息をとっている。
笑顔がいいね
この辺りの家は小さなベランダをもつものが多い。ベランダは低い板で囲われており,小さな戸を開けて外に出るようになっている。ベランダからかわいい女の子がこちらを見ている。柵の高さが50cm,女の子の身長は80cmくらいであろう。カメラを向けても逃げ出さないのですてきな一枚が撮れた。
集合写真を撮りヨーヨーをプレゼントする
家の中から二人の女の子が出てきた。こちらは7-8歳だ。三人で集合写真を撮る。これもすてきな笑顔の一枚になった。お母さんに声をかけてベランダに上がらせてもらいヨーヨーを作っているとお姉さんが現れた。こちらは12歳くらいであり,もうヨーヨーは卒業する年だ。ということで3個を作ってプレゼントする。ヨーヨーの遊び方も教えてあげたが,これは簡単にはいかない。少し練習が必要だ。
手回しミシン
7-8人の女性たちが集まっている家があった。どうも商店のようだが商品の陳列ケースは片付けて,そのスペースで淡い紫色の布を裁断し,ミシンをかけていた。きっと華やかな衣装ができあがるにちがいない。
ミシンを持っている人,ミシンを扱える人はこの村落では数えるほどしかいないので,こうして集まっているようだ。使用しているのは手回しミシンだ。僕もこの手回しミシンを使用しているところを初めて見た。
ミシンは不思議な道具である。針が上下しているだけなのに縫うことができるのか仕組みが分からない。ともあれ,ミシンを使用することにより,手縫いの何十倍もの速さで縫うことができる。ミシンが発明されたのは16世紀のことであるが,実用品として使用されるようになったのは19世紀の中ごろである。1840年にフランスでは失業を恐れた仕立て屋集団によりミシンが破壊されたというエピソードも残されている。
便利な道具の出現がそれまで手仕事で暮らしていた人々の仕事を奪ってしまうという事例の一つである。江戸時代の日本でも「後家殺し,後家倒し」と別称された道具がある。制式名称は「千歯こき」,木の台の上に鉄製の櫛状の歯が突き出しており,そこに乾燥させた稲や麦の束を叩きつけ引いて脱穀する道具である。それまでは,竹を裂いて作った扱棒(こきぼう)のような道具で扱き取っていた。
そのような仕事は主して農村の未亡人の仕事であり,便利な道具の発明は彼女たちの労働機会を奪うことになった。そのため,前述のありがたくない異名が付けられた。
日本の古いミシンはおおむね足踏み式であった。足でタイミングを取りながら踏板を前後に繰り返して踏むことにより安定した回転を作り出すことができる。難点は足踏みの部分があるため大きいことである。
それに対して手回し式は右手で直接回すため,ミシン本体の大きさで済むし,回転速度も自由に変えられる。こちらの難点は右手がいつもハンドルを回していなければならないので,左手だけで布を操作しなければならない。
現在の日本では電動ミシンが家庭用ミシンの主流になっており(といっても,家庭で縫い物をする人はそれほど多くはない),ひいおばあさん,おばあさん世代の足踏みミシン式は使用されなくなった。
そのようなミシンを途上国の電気が自由に使えない地域で使用してもらおうと,各国のNGOが収集し,無償で送る活動をしている。ここにある,手回しミシンもそのような経歴をもっているのかもしれない。
教会
川に平行する道から戻り,こんどは直角方向の道を歩き出す。じきに右側に「Batu Hajang 30m」と記された門があった。門の上には十字架が掲げられており,ここはキリスト教の村落のようだ。
門の柱にはダヤクの紋様と複数の人が彫り込まれている。唐草様の紋様はダヤクの人々の装飾の基本モチーフであるがその意味するところはネットで検索しても見つからなかった。その上に彫られている人の上に人が乗るように連なっているものはおそらく祖先を表すものだろう。連綿と続く祖先からからのつながりがこのような造形を生み出したのであろう。
イリアンジャヤに住むアスマットの人々,彼らはパプア系であるが,まったく同じような構成の彫刻柱の文化もっている。「ムビス」と呼ばれる彫刻柱は祖先と子孫を繋ぐ生命の樹であると考えられている。
この村落の人々はキリスト教に改宗しているにもかかわらず,古くからの精霊信仰,祖先信仰はこのようなところに現れてくる。カソリックはこのようなものにもある程度,寛容であると聞いている。
門をくぐってそちらの方向に歩いていくと立派な木造の教会があった。平屋の建物の上に鐘楼があり,その上に十字架が配されている。この十字架はよく見ると人間が両手を広げているように見える。扉は施錠されているので中には入れない。その扉にもダヤクの伝統的な紋様が彫られている。
イベントの準備
教会のとなりに目指すロングハウスがあった。入り口のところにはやはり柱があり,一番下には恐ろしい表情の顔が彫られていた。人か魔物か分からないが,このような恐ろしいものはロングハウスに魔物が入り込まないための一種の魔除けの意味があるのだろう。
入り口の近くにはもう一本,すばらしく高い柱が立っている。高さは15-20mくらいはあるだろう。先端には刀を持ち,サイチョウの羽飾りを頭に付けた男性が立っている。その下にはトカゲが描かれている。この意味も分からないがダヤクの社会ではよく祖先の像とトカゲが一緒に彫られていることが多い。
このロングハウスは長さは30mほどであるが,幅は15mほどもある。もう人は住んでいない。何かイベントがあるのか共通スペースでは男性たちが木製の大きなサイチョウを制作していた。
サイチョウはアフリカとアジアの熱帯部に生息する大型のユニークな鳥である。大きな種は全長が100cmほどもあり,大きなクチバシの上に犀の角のような大きな突起物がある。このため犀鳥と名付けられている。下に少し湾曲したクチバシは主食の果物を挟むのに適している。
羽が硬いため羽ばたきながら飛ぶときは機械のような羽音をたてる。蒸気機関車のような音と表現されることもある。サイチョウはダヤクの人々にとっては特別の鳥らしい。伝統衣装を飾るものとして黒と白からなるサイチョウの尾羽が使用される。
伝統的な紋様
サイチョウの声(甲高い笑い声のようなものらしい)を神のメッセージとする民族集団もいる。また,天界の神とする集団もある。このようにサイチョウはダヤクの人々にとっては聖なる動物に近いものであり,ボルネオ島の博物館には多くのサイチョウの造形が展示されている。
壁面にはまるで壁画のように大きなダヤクの伝統的な紋様が描かれている。この文様もなんらかの意味があるはずだが,少なくともネット上では意味は調べられなかった。
豚を解体する
共通スペースの奥側にある家族用の部屋では(すでにそこには住民はいない)女性たちがイベントの食事の支度をしている。ヤシの葉でごはんをくるんでいるが,この後は鍋で茹でられる。
部屋の隅にはかまどがある。といってももう道具類は何もなくなっており,二本の渡した木の上に鍋を乗せている。灰がたまっているとはいえ周りはすべて木で造られているので,よくこれで火事を起こさないものだと感心する。
外では男性が豚をそのまま火にかけている。これは調理をしているのではなく毛を焼いているものだ。豚の毛をきれいに取り除くのは大変である。このようにして焼いておくと,後は布なのでこするだけで毛を取り除くことができる。
ダヤクの人々にとっては豚はめったに食べられないごちそうである。毛を焼いた豚は内臓を含め余すところ無く食材になる。
本当は森でとれるヒゲイノシシが彼らの主要な蛋白源なのだが,そのような大型動物はこの周辺にはもういなくなっている。その代用品として豚が犠牲になる。イスラム教に改宗した集団を除くと,ダヤクの人々は普通に豚肉を食べる。
さきほどの台所の外に張り出したテラスでは豚の解体が始まった。解体は男性の仕事であり,山刀を使って肉を切り出していく。毛は付いていないので皮ごと肉になる。内臓はおそらく煮込みに使われることだろう。この解体作業を子どもたちがじっと見ている。
この子どもたちは意外と写真が撮りづらかった。広い共通スペースで写真を撮ろうとすると,いつものように男の子がジャマをしてフレームが決まらないのだ。それでもロングハウスを離れるときは子どもたちは盛大に見送ってくれた。幸いなことにこの一枚はフレームがうまくまとまってくれた。
水辺の風景
パトゥマジャンの船着場(筏の上に小屋があるだけ)で帰りの水上タクシーを待つことにする。ものの5分くらいで船は現れ,ロング・バグンに運んでくれた。帰りの運賃は1万ルピアと来る時の半分である。
筏の家では小学生の女の子が洗濯をしている。岸辺から写真を撮る。少し距離があったのでほぼ自然な感じで撮ることができた。しかし,帰国後にこの画像をチェックするとカメラの動作不良のため細い横線がたくさん入っていた。これは悲しい。
カメラを向けても動じない
宿までの道で商店の店先で坐っている少女がいる。カメラを向けても動じないのでいい写真が撮れた。宿に戻り水浴びをして,部屋で横になったら,そのまま昼寝モードになってしまった。今日は天気がよく,少し歩いただけで疲れが出てきたようだ。
色が白いね
1時間半ほど昼寝をしてから下流側の船着場に向う。通りに面した小さな商店に同い年くらいの子どもが二人いる。年齢は1歳の誕生日をもうじき迎えるといったところだろう。もちろん母親が世話をしている。さすがに子どもはあまり日に当たらないので色は白い。
お友だち
川岸の階段を下り,渡し板を通り筏にたどりつく。女の子が二人で遊んでおり,笑顔のすてきな写真になった。お礼に川の水を汲んでヨーヨーを作ってあげる。
今日は写真を撮るのに苦労しなかった
実は船着場の階段の上には船待ちの小屋があり,その前にも10人くらいの子どもたちが遊んでいた。この子たちの7人を写真に収めたが,この人数では全員にヨーヨーを作ってあげるわけにはいかない。
あげる集団とあげない集団を作るわけにはいかないので,このようなときは全員にあげないことにしている。それにしてもこの辺りの子どもたちは写真慣れしている。彼らにせがまれて何枚かの集合写真を撮ることになった。
今日は村落を歩いていて子どもたちの写真を撮るのにまったく苦労しなかった。インドネシアの他の町でもこのくらいの撮りやすいとありがたい。インドネシアでは的中率は7割くらいで,けっこう顔を背けたり,逃げ出したりする子どもも多い。
米搗き(こめつき)
ダヤクの人の住居が集まっている一画でも特に撮影に問題は無かった。仕事から帰ってきた女性たちの自然体の写真も撮ることができたし,米搗きの仕事も見ることができた。ここでいう米搗きとは籾から籾殻を取り除くことと精米を兼ねた作業である。
専門用語では籾殻を取り除くことを脱皮(だっぷ)というらしい。60年の人生で初めて聞く言葉である。日本では誰に聞いても,この作業は「籾摺り」と答えるにちがいない。
籾から籾殻を除去する作業は大変である。日本でも機械化される前までは臼と杵を使用し,「米搗き」という作業により籾殻を除去して玄米にしていた。時代が下がると土臼(とうす)を使うようになった。カムイ伝の中でもそのような場面が描かれているので,江戸時代には使用されていたようだ。
動作を表す言葉としては臼と杵の場合は「つく」,土臼の場合は「ひく」となる。それでは「摺る」はどこから出てきたのであろうか。一つの考え方は上下の臼をすり合わせることから派生したのかもしれない。
一方,昭和の始めの頃,最初にできた機械は2つの回転するゴム製ロールの間を籾が通り抜ける際,ロールの回転する速度差によって籾殻を摺り落とすゴムロール式であった。個人的には,ここから「籾摺り」という言葉が生まれたと推測する。
また,「玄米」から糠を取り除き「精白米」にする作業は精米機を使用するので単に精米作業という。しかし,機械化される以前は臼と杵を使っていたこともあり,「米を搗く」という言葉も残されている。稲穂の状態から白米ができるまでの様子をまとめると次のようになる。
コメの状態 |
作業名 |
作業内容 |
稲穂 ↓ 籾米 ↓ 玄米 ↓ 精白米 |
脱穀
籾摺り
精白
|
稲穂から籾米を削り取る
籾殻を除去する
糠を除去する
|
籾米→玄米→精白米と姿を変えるたびになにがしかの部分を除去されるので容積も重さも減っていく。籾米を玄米にする過程では25-30%重量が減り,玄米から精白米にする過程では重量は約10%減る。世界のコメの生産量や消費量は重さで表現されるが,それがどのようなコメの状態かにより数値のもつ意味が異なってくる。
ここのダヤクの人々は米搗き作業により籾殻を除去し,同時に低レベルの精米作業も兼ねている。作業は木製の舟形の臼に籾を入れ,一人あるいは複数の人が杵でつく。杵はかなり重い木材でできているので,持ち上げた後は力を加えず自由落下に近い状態で振り下ろす。
もちろん目標を外すとコメが飛び散ったり,臼を打つことになるのでいつも臼の中心を狙わなければならない。また,あまり強く振り下ろすとコメが砕けてしまうので注意が必要である。
一通りつき終わったものはザルにあけられ,風を利用して籾殻やわずかな糠を飛ばす。昔の日本でも同じような作業をしており,そのための前部が開いたザルは「箕(み)」という特別の名前で呼ばれていた。
箕を空中で上下に振ることにより,軽い籾殻やゴミは風に飛ばされる仕組みである。こうして収穫後も多くの手間ひまをかけることにより,ようやくコメは食糧になる。それは少し前の日本でも同じであった。