亜細亜の街角
マハカム川をパブリック・ボートで遡る
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マハカム川  (地域地図を開く)

マハカム川はカリマンタン中央山脈(イラン山脈)に源をもつ。正式な総延長のデータはネットでも探しきれなかった。英語版の wikipedia がもっとも詳しく記載しており,それによると「long apari」から河口までは980kmとなっている。

項目 データ

全長
流域面積
流量
水源

 980 km+α
 77,000 km2
 2500 m3/sec (average)
 Muller mountain ranges


ヨーロッパの列強が進出してくる以前のボルネオ島(カリマンタンはインドネシア語の呼称)はうっそうとした熱帯雨林に覆われていた。人々は沿岸部の平地か川沿いに点在する集落に居住していた。

このためボルネオ島の先住民は「沿岸地域に住む人々」と「内陸部に住む人々」という二つのグループに大別されている。内陸部に居住する先住民は総称してダヤクと呼ばれている。ダヤクは一つの民族を表すものではなくボルネオ島に住む数十もの多様な民族集団の総称である。

彼らに共通するものは陸稲を作る焼畑農民であること,川沿いのロングハウスに住んでいること,アダットと呼ばれる慣習法を遵守していることである。ダヤクの人々の多くは自分たちを「オラン・ウル(内陸部の人々)」と呼んでおり,この言葉はダヤクとほぼ同じ意味で使用されることが多い。また,この対語として沿岸地域に居住する人々を「オラン・アスリ(沿岸の人々)」とも呼ぶ。

ボルネオ島の人口の8%を占める中国系住民は植民地時代に,主として西カリマンタンの金鉱山およびプランテーション開発の労働力として移住してきた新移民である。

沿岸部と内陸部を結ぶ交通路は川だけであり,そのため割拠する王の支配地域は河川の流域を単位としていた。ボルネオ島西側にある「ブルネイ」という国は二つの地域に分かれている。これはその間にあるリンバン川が白人王の支配するサラワク王国に割譲されたためである。

多くの支流を集めるマハカム川も川沿いに村落が点在している。内陸部では川が交通路となっているため,川の合流点は交通の要衝となり比較的大きな村落が発展した。そのような村落の地名には「ロング・○○」あるいは「ムアラ・○○」というものが多い。これらは川の合流点を意味する言葉である。

「ロング(実際の発音はロンとなる)」はダヤクの人々の言葉,「ムアラ」はクタイ語の表現である。マレー語やインドネシア語では「クアラ」なので「ムアラ」はその派生語のようだ。

僕はマハカム川の船旅の間,そのような村落に到着あるいは通り過ぎる度に船員に名前を聞いていた。その地名と通過時間をまとめると下記のようになる。もっとも通過時間は季節により,あるいは船の事情により大幅に異なることがある。また,彼らの発音をそのままカタカナにしたので,正式な地名とは異なっているかもしれない。

07:00 サマリンダ
09:00 テンガロン
15:20 コタバグン
15:40 アンクッ
16:40 ムアラ・ウィルス
18:00 ムアラ・ムンタイ
01:00 ムラッ
06:00 トゥリン
07:30 ロング・イラン
10:10 スンガイ・スマトゥリアン
12:30 カンポン・ルータン
13:25 カンポン・ガタビラン
15:20 ロング・ブグン
17:15 ロング・フブン
18:00 ロング・ラハム
19:00 ケンポルサハン
20:30 ママハット
02:30 ロング・バグン

料金は行きのサマリンダ→ロング・バグン(二階客室)が25万ルピア,帰りはロンブ・バグン→トゥリン(二階客室)は12万ルピア,トゥリン→ムアラ・ムンタイ(一階甲板)は10万ルピアであった。ジャカルタ→バンジャルマシンの航空券が40万ルピア程度なので,この船旅は決して安いとはいえない。

パブリック・ボート

船の全長は50mほどあり,総二階構造となっている。一階の乗客はオープン・デッキにそのまま雑魚寝するスタイルである。夜間は舷側に巻かれている帆布が下ろされ,夜風をさえぎるようになっている。

二階は左右二列に仕切られており,それぞれ40人ほどが収容できる。ここは高さ1mほどの台の上に敷き布団が並べられている。台の床板は取り外せるようになっており,その下は荷物を入れる空間になっている。もちろん,隣との間はちゃんと仕切られている。

自分の荷物室空間はほぼ布団の幅になっており,各自が下の荷物室を使用することができる。つまり,自分の荷物室の上に布団を敷いて寝ることになので,これならば就寝時も貴重品は安全である。

二階の船首部分には引き戸があり,そこを開けて船首に出ることができる。ここは3畳くらいの広さのオープン・デッキになっており,川風にあたりながら進行方向の風景を楽しむことができる。

二階の船尾部分は娯楽室になっており,エンジン音に対抗できるくらいの音量でDVDの映画をかけたり,カラオケをしている。また,トランプなどをして暇つぶしをする人も多い。ここから階段を上がると屋根に出られる。屋根はほとんど平になっており,いちおう保護用の手すりとロープが張られている。川の風景を楽しむのであればここからが一番だ。

屋根の一部には荷物が置かれ,そこは三角テントが張られ,雨が当たらないようになっている。太陽が当たらないところを選んで,荷物の上に坐り存分に川岸の風景を楽しんだ。

一階の前半分は乗客用の甲板になっており,船首部分は操舵室になっている。といっても,別に仕切りがあるわけではなく,単に操舵輪の周辺に船員が詰めているだけだ。操舵室と乗客用甲板の間にはこれでもかというくらいの荷物やバイクが詰め込まれている。

乗客用甲板の後ろは機関室になっている。二基の新しいディーゼルエンジンが動いており,この船はニ軸のプロペラで動くようだ。この横を通ると騒音とともにディーゼルの臭いがプンと鼻につく。

機関室の後ろは食堂とトイレ兼シャワー室がある。食堂の物価は市価の1.5-2倍と高いが,ともあれまともな食事をとることができる。調理で使用する水は(おそらく)サマリンダから積み込んだきれいな水だと思いたい。

トイレは半畳ほどの広さしかなくとてもきゅうくつだ。用が済むと蛇口から水を汲みお尻を洗うことになる。便器のすぐ下は川になっており,文字通り水洗トイレということになる。マンディーも可能だがこの狭さではとても利用する気にはなれない。

ここで使用される水はもちろん,食器を洗う水もすべて川の水を使用している。僕も洗面は蛇口の水を使用したが,歯磨きだけは自分の飲用水を使った。このくらいの設備があれば2泊3日の船旅は快適なものだ。

朝食はサマリンダで売りにきたごはんのパックをいただく。ごはんとおかずをバナナの葉でくるんだもので値段は7000ルピアである。これなら食べ終わった後,川に捨ててても問題にならないのでエコ・パックと呼ぶことにしよう。

出発してからしばらくして船員がチケットを渡しにくる。乗客一人ひとりに行き先を聞き,チケットに出発地,行き先,金額を記入する。料金はその時点では集めず,僕が支払ったのは夜中のことであった。

チケットを確認すると料金は25万ルピア(2500円),表紙には「KM. Prima Satu」と記されており,これが運営会社の名前のようだ。また,「Normal Kabin」という表示もあり,この二階の客室の正式名称はノーマル・キャビンというらしい。

出航(07:00)

06:30を回ってもまだ朝日は上っていない。東の方向がわずかに茜色に染まっている。サマリンダにおける川幅は700mくらいと推定した。といっても比較する対象がないので,川幅を目で測るのは難しい。小舟が一艘浮かんでおり,単純な景色にアクセントを添えている。

船は横一列になって何隻も連なっている

この船着場には同型の船が何隻も係留されている。桟橋のスペースは限られているので船は横一列になって何隻も連なっている。やはり,ここでは川は交通の大動脈である。木製の桟橋は乗客と物売りで混雑している。船内の物価は高いので,多くの乗客はここで食料を仕入れるようだ。一階の舳先では魚を入れた発泡スチロールの箱に氷を詰めている。

魚を入れた発泡スチロールの箱に氷を詰めて

インドネシアではよくビニール袋に入った氷を見かけた。袋に水を入れ,そのまま凍らせて作るようだ。彼らの作業を見ていると袋ごと箱に入れる場合とカナヅチで氷を砕いてから,袋の中身を箱に詰める場合がある。箱と魚の大きさにより方法を変えているようだ。

彼らは使い終わったビニール袋をポイッと川に捨てている。インドネシアに限らず東南アジアでは普通に見られる光景であるが,いつものように非常に気分を害される。彼らは川や海に捨てられたビニール袋が環境にどのような悪影響を与えるか知らないのだ。今を生きることで手一杯の人々を先進国の我々が安易に非難することはできない。彼ら自身が自覚しない限り,人々は環境を破壊し,汚染しながら経済を拡大させていく。

すぐにこの船とほぼ同型の船を追い越していく

07時に船は動き出した。すぐにこの船とほぼ同型の船を追い越していく。船着場が混雑しており,自分の船の全景写真を撮ることができなかったので,ちょうどよい代わりとなった。しばらくの間は川の両岸は民家が密集している。それを過ぎると小さな水上集落が並ぶようになる。これがマハカム川の原風景である。

マハマム川に架かる橋(07:15)

前方に橋が見えてきた。バスから降りてバイクタクシーで船着場に向ったときに渡った橋とはちょっと違うようだ。しかし,この大河に何本も橋が架かっているわけはないのでやはりこの橋なのだろう。この橋は川に橋脚を立て,その上に橋げたを渡すスタイルである。しかし,川の中央部は船を通すためか,スパンが広くなっており,吊り橋構造になっている。

現代の吊り橋というと主塔の間にメインケーブルを通し,そこからたくさんのハンガー・ロープ垂直にたらし橋げたを支えるスタイルが一般的である。この方法で建造された吊り橋は中央支間長を非常に長くすることができ,世界最長の明石海峡大橋では1991mにもなる。ここのものはセンタースパンが200mほどなので,メインケーブルの代わりに半円状の鉄骨を使用していた。船はこの橋をくぐり上流を目指す。

石炭運搬船(07:50)

川岸には石炭運搬船が停泊しており,ベルトコンベアーで石炭が積み込まれている。運搬船は自力航行できないので,外側にはタグボートが接舷しており,これから動かそうとしている。川岸の水上集落はこのあたりで途切れ途切れになってきた。

川岸に巨大な石炭運搬船が集結していた。先ほどのものの何倍もの石炭を一度に運ぶことのできる大きな台船である。周囲は高さ3mほどの柵で囲われており,そこに円錐形の石炭の山がいくつも乗っている。

石炭は石油と並ぶボルネオ島の重要なエネルギー資源である。島の南部と東部では大規模な露天掘りが行われている。かっての日本のように石炭層まで坑道を掘り,そこから採掘する方法ではコストがかさみ,現在の石炭価格ではとてもペイしない。

世界の大規模な石炭鉱山の多くは露天掘りである。これは地表近くに大規模な石炭層が存在している場合に採用される方法である。そのためにはまず地表の植生と表土をすべて除去して石炭層を露出させる必要がある。これはそのまま熱帯雨林の大規模な破壊につながる。

石炭層が露出すると重機で削り取りながら下方向に掘り下げていく。結果として階段状の巨大な穴が形成される。ボルネオ島のもう一つの重要な鉱物資源である金においてもこのような方法が採用されており,広大な地域が再生不能な荒地に変わっていく。

金の場合は世界の年間生産量が2500トンと少ないことから,環境破壊の影響量も小さいと考える方も多いと思われるが,そのために掘り出される鉱石は7.5億トンにも達する。この鉱石の量は世界で毎年生産される10億トンの粗鋼のために掘り出される25億トンの鉱石に次いで大きい。

さらに金鉱山は鉱石の処理のため大量の水銀やシアン化合物を環境中に放出する。インドネシアでは鉱滓はなんら環境に配慮されることなくほとんど川に垂れ流されている。資源の島ボルネオははその資源を収奪する人間活動のためひどく傷ついている。

近代的な吊り橋は今はもうない(08:37)

第二の橋,こちらは近代的なロングスパンの吊り橋である。新聞記事では「インドネシア最長の全長710mメートルのつり橋鉄橋・クタイ・カルタヌガラ橋(第2マハカム橋)」となっていた。

この橋は2011年11月に補助ケーブルが切れて橋桁が崩落するという信じられない事故が発生した。橋を走行中のバスや車が川に転落し23人が死傷,24人が行方不明となっているという。この橋は建造から10年も経っておらず原因は解明されていない。

途上国では橋が落ちる事故はそれほど珍しいことではないがこのような近代的な吊り橋が落ちるというのはさすがに異常事態である。

羽をもったゾウの巨大なオブジェがあった(08:40)

08時を過ぎたところにロングハウス風の建物があったと思ったらただの木造の二階家であった。さすがにここらあたりではロングハウスは出てこない。08:30頃に中島が現れ,進行方向先端部には白い円柱に支えられた台の上に置かれた羽をもったゾウの巨大なオブジェがある。この唐突に出てきたものはいったい何であろうか。

テンガロン(09:00)

09時にテンガロンに到着する。ガイドブックによると,サマリンダから40kmほどのところにあり,クルタネガラ王国が18世紀にここに遷都したとある。この40kmはマハカム川を利用した時の距離であろう。それを約2時間で移動したのであるからこの船の巡航速度は20km/hということになる。

テンガロンは流域では大きな町であり,それなりの船着場も整備されている。ここで乗客が乗り込んできて,一階のデッキはだいぶ埋まるようになった。なんといっても船上の時間は無限にあると言ってよい。本を読んで過ごすこともできるが,それはいかにももったいない。

家族連れが多く,人々が船の両側に集まっている

少し混んできた一階デッキに遊びに行くことにしよう。ここは板の上に薄いビニールの敷物が敷いてあり,いちおう土足禁止となっている。端のところでクツを脱いでお邪魔することにする。家族連れが多く,人々は船の両側に集まっている。

エキスパンダー型の即席ゆりかご

子どもたちの写真を撮ろうとするが,小さすぎて思うようにはいかない。甲板の天井からはエキスパンダーのようなものがぶら下がっている。

手で持つところに金属棒を三角形に加工した金具が付いており,そこに大きな布の両端を結わえてある。布に乳児を乗せて少し引っぱって離すと,しばらくの間上下に震動し,即席のゆりかごとなる。

二基の新しいディーゼルエンジンが動いている

走行中に機関室を覗いてみると,12気筒のエンジンが二基あり,ニ軸のプロペラが力強く船を前に進めている。この大きさの船がこの速度でかき分ける水の量は相当なものだ。

船がこの速度でかき分ける水の量は相当なものだ

巨きなフェリーでは喫水から甲板までの高さがあるので水の動きはそれほどの迫力で伝わってこないが,操舵室の前から覗き込むと激しい水流に驚くことになる。

押し分けられた水は波となって両側に広がっていく。本当は斜め前に向う進行波となるのであるが,船が前に進んでいるので僕からは後方に進む波に見える。

この波は小舟にとってはかなりの脅威となる。そのため周辺に小舟がいるときは比較的低速で航行することになる。小舟の方も心得たもので,岸の近くを航行して波に的確に対応するようにしている。

川岸の熱帯雨林

初日の川岸には熱帯雨林は見かけなかった。川の近くの土地は(交通の便が良いので)ほどんどが開発されてしまっている。川から離れると少しは森と呼べるものが残っているかもしれないが,船から見ることはできない。

ボルネオ島は面積約73万km2の巨大な島であり,近代文明がこの島に押し寄せてくるまではほぼ全島が熱帯雨林(学術用語では熱帯多雨林)で覆われていた。熱帯雨林は赤道周辺の平均気温25℃,年間雨量2000mm以上で一年を通してだいたい平均的に雨が降る地域に形成される森林を意味し,世界では中南米,赤道アフリカ,東南アジアに存在する。

熱帯雨林は陸地面積の6%程度を占めるに過ぎないが,全生物種の少なくとも2/3がそこに生息ししている。この生物多様性とそれらが互いに密接な関係をもつ複雑な生態系を形成していることが熱帯雨林の特徴である。

近代文明が世界を席巻する以前,熱帯雨林は陸地面積の14%ほどを占めていたが,乱開発により急速に劣化・破壊されてきた。その主原因は商業伐採,鉱業開発,農地・プランテーション・牧草地への転換である。

インドネシアにある二つの大きな島であるボルネオとスマトラは20世紀の後半からもっとも森林破壊の激しい地域であり,国立公園指定地域を含め合法あるいは非合法の商業伐採の対象になっている。

熱帯雨林は貴重な生物種の保存箱であり,それが失われる損失は計り知れない。とくにボルネオの熱帯雨林は1億年を越える歴史をもっており,生物多様性は世界でも群を抜いている。

この貴重な熱帯雨林の島には豊富な天然資源が存在したことが悲劇の始まりであった。木材,金,石油,天然ガス,石炭・・・,この島を植民地にした英国とオランダに代わって天然資源を収奪してきたのは,インドネシアとマレーシアの政財界のエリートたちである。

彼らは天然資源を利権化し,巨額の報酬をふところに入れた。彼らは利益のためには自然破壊も国土の荒廃もまったく意に介さなかった。政治的指導者がそのような状況なので熱帯雨林に甚大な被害を与えている商業伐採もまったく野放し,無法状態で操業されてきた。

すでにマレーシア・サラワクやインドネシア・カリマンタンの低地林は壊滅状態にある。おそらく,マハマム川をロング・バグン(標高60mほど)まで遡っても人の手の入っていない原生林を見ることはできないであろう。

現在もっとも森林破壊の元凶となっているものはオイルパーム(アブラヤシ)農園である。インドネシアはマレーシアと並ぶ世界最大のパームオイル生産国となりつつある。

問題はアブラヤシ農園を開発する地域に比類なき貴重な生態系を有する熱帯雨林が含まれるということなのだ。そこには植生や泥炭の形でぼう大な量の炭素も蓄えられている。この貴重な熱帯雨林を根こそぎ破壊し,二酸化炭素を放出することは地球の一員として許されないことだ。

厳密な数値は不明であるが森林破壊による二酸化炭素の放出量を含めるとインドネシアは米国,中国についで世界第3位の排出国となっていると推定される。

14:20 樹冠をもつ木

インドネシア政府は総計1800万haもの土地をアブラヤシ農園として開発許可を出しているというが,果たして守るべき森林をどこまで厳密に確定しているかは不明である。国立公園や保護地域を確定し,違法伐採などを厳密に取り締まる中央政府,地方政府の統治姿勢が求められている。

川岸に一本だけきれいな樹冠をもつ木があった。熱帯雨林ではこのようにすらりと伸びて,最上部に樹冠を形成するものが多い。それは森における植物同士の競合の結果である。

熱帯雨林では新しい木が生長することは容易ではない。頭上はるか高いところには他の植物の葉が大部分の光をさえぎっているからである。幼木は光を求めてひたすら高くなろうとする。幹がどんなに細くてもまず光のある空間を確保するのが最優先課題である。

運良くそのような空間を見つけることができた幼木はそこでようやく枝を広げ樹冠を形成する。樹冠で十分な光を受けると幼木は幹を太くしていくことができる。このような成長戦略は温帯や亜寒帯の樹木とはかなり異なっている。

熱帯雨林の森を上から見るとほとんどすきま無く樹冠が覆っている。単独で最上部の空間に達することのできない植物は別の戦略で種の保存を図ろうとする。

ある種のイチジクの仲間は種子を鳥などにより運んでもらう。大きな樹木の枝の根本にでも鳥のフンが落ちると,種子はそこで発芽し,はるか下の地面まで気根を伸ばす。もちろんこの成長は周囲の樹木よりずっと早い。

気根が地面に達するとそこから水や栄養分を吸い上げるとともに,幹を上に伸ばし樹冠を侵略していく。この木は上には幹や枝を,下にはたくさんの気根を伸ばし,親木(着生された木,英語ではホスト・ツリー)に巻きつくように成長していく。

地上の気根は成長するとほとんど幹と変わりない姿になり,親木を網の目状に取り囲んでいく。一方では幹を伸ばし,樹冠の光を親木から奪っていく。

この競合において親木が勝つことはほとんどなく,結果として光を奪われた親木は死んでしまう。そのような状況は親木を締め付けて殺してしまうように見えるので「絞め殺しの木」などというありがたくない名前を付けられている。

「絞め殺しの木」は極端な場合であるが,大きな木にからみ付いて素早く樹冠に達しようとする戦略をもつツル性の植物は多い。これらのグループは親木から栄養をもらうわけではないので寄生植物にはあたらない。しいていうならば「チャッカリ植物」ということになる。

もう一つは「着生植物」のグループである。このグループも同じように大きな木の上にある枝などで発芽する。多くの葉が茎の先端から放射状に伸びるので,全体としてはお猪口のような姿になる。

この形状は落ち葉などを集めて腐葉土にするのに適している。腐葉土を集め,茎の側面からたくさん出ている根で保持することにより根塊を形成する。着生植物は木の上で独立栄養により成長することができる。

熱帯雨林ではこのような植物間の競合は激しく,互いに競い合いながら森を形成する。この川岸に一本だけ残った高い樹木は競合するものがいないので我が世の春を謳歌しているのであろうか,それともただ一本だけ取り残された哀しみを嘆いているのであろうか。

三つ目の橋(14:30)

巨大な石炭運搬用の台船がタグボートに引かれていく。台船に比べてタグボートはいかにも小さい。それでもちゃんと台船を引いてゆっくり移動することができるのだ。

14:30,前方に三つ目の橋が見えてきた。この橋も両岸部は橋脚が支え,中央部は鉄製の上向きアーチに支えられる吊り橋構造になっている。橋げたは水面からの高さを確保するためゆるやかに中央部の高い弧を描いている。

この橋はまだ未完成のようにも見える

この橋は川を渡る部分は完成しているが,向って右側の取り付け道路はできていないように見える。。周辺は湿地帯となっており高架道路がなければ橋にアクセスできない。おそらく,船からでは見えないだけなのだろうが,これなにという場面であった。

出発してから7時間ほどが経過しており,川幅はこころなしか狭くなっているような気がする。ここまで来る間にもいくつかの村落を通過した。船員に名前を聞かなかったので残念ながら,どこだか分からない。

村落の名前が分かったところで何もいいことは起きないが,旅においては記録を取ることが思い出の固定化につながる。そう思い直してそれ以降はできるだけ名前を聞くようにした。

画像にときどき横線が入るようになった(14:50)

デジタルカメラには寿命がある。僕の旅行のように自分のメモリーの代替品としてたくさんの写真をとっている,2回の旅行でだいたい寿命となる。不具合のパターンはこの写真のようにノイズのように横線が入ることが多い。

そのため,今回の旅行でも同一機種を2台持ち歩いている。デジタルカメラの商品寿命はとても短かく,同一機種は買い求められないのでで2年後にはネットオークションで買い求めることになる。カメラを1台しか持ち歩かなかった旅行で2回故障したことがある。自分にとってはカメラなしの旅行はずいぶん手持ち無沙汰であり,かつ印象の薄いものになる。

洪水の風景(15:00)

コタバグンが近づくと川の周囲に低湿地帯が現れた。ずいぶん先までマハカム川につながった水面が広がっている。コタバグンから先には15km四方くらいの大きな湖が複数連なっており,この辺りはその前哨地帯のようだ。

この地域はマハカム川の遊水地のようになっており,川の水位により水面の広がりが変化していく。反対側の川岸は少し高くなっているのか,川にへばりつくように村落が形成されている。といっても少し水位が高くなると飲み込まれるような危うい所である。

現在のマハカム川の水位は高い状態のようだ

水没地帯の川岸には川に平行して木道があった。通常の水面より高いところまで杭を立て,その上に板を渡したものである。いってみれば高床式のトレイルである。それもほとんど水面スレスレのところになっている。現在のマハカム川の水位は高い状態のようだ。

トレイルの向こうには放置された家が朽ち果てようとしている。この地域で農業を営もうとしたのか,漁業で暮らそうとしたのか,それとも・・・,主のいなくなった家のはるか向こうまで湿地帯は続いている。

マハカム川の船旅  (地域地図を開く)

07:00 サマリンダ
09:00 テンガロン
15:20 コタバグン
15:40 アンクッ
16:40 ムアラ・ウィルス
18:00 ムアラ・ムンタイ
01:00 ムラッ
06:00 トゥリン
07:30 ロング・イラン
10:10 スンガイ・スマトゥリアン
12:30 カンポン・ルータン
13:25 カンポン・ガタビラン
15:20 ロング・ブグン
17:15 ロング・フブン
18:00 ロング・ラハム
19:00 ケンポルサハン
19:30 カンポン・ルグンダマイ
20:30 ママハット
02:30 ロング・バグン

15:20|コタバグン

少し大きな町が見えてきたと思ったらコタバグンであった。サマリンダからここまでは約120km,それを8時間かけて遡行してきたことになる。この時点の平均時速は15kmである。

ここはクタイ人の多い地域である。クタイ人は東カリマンタン州人口の約10%を占める先住民族である。石油,石炭,木材資源が豊かな東カリマンタン州の人口の半分はジャワ人,ブギス人などインドネシア成立後に移住してきた人々によって占められている。

現在のテンガロンのあたりでサンスクリット語で記された古い石碑が発見された。4世紀後半から5世紀頃と推定される石碑には「この地をムラワルマンが支配しており,王国はヒンドゥー教に改宗し黄金,牛を寄進した」と記されていた。

これはジャワ島の王国と並んでインドネシアでは最古の王国の記録である。ずっと後の時代に同じ地域に再度クタイ王国が登場する。こちらは16世紀になってイスラム教に改宗し,王族がブギス人に代わってからも20世紀半ばまで存続した。

コタバグンの船着場は可動式のものであった。川の場合は季節により水位が変動するので上下に動く浮き桟橋になっていることが多い。船はこの船着場に接岸し,人と荷物を出し入れする。川の反対側は湿地帯になっており,水位が上がると大きな遊水地になるようだ。川幅はおよそ500m,茶色の水がゆったりと流れている。

15分ほどで人と荷物の移動が収まると船はすぐに動き出す。船着場側の川岸は水上家屋で埋め尽くされ,その前にはいくつもの小さな水上トイレである。小屋の中にはトイレ用の穴がある。人々はまず水を汲んでおき,用を足した後はその水でお尻を洗う。完全なる水洗トイレである。

16:10|水位が上がると大きな遊水地になるようだ

マハカム川の中流域は土地が平坦のため川の水位が上がると水は周辺に溢れて広大な水系を形成する。このような地理的事情によりこの辺りには大小の湖沼が点在している。雨季に溢れる水は人間の活動を拒んできたが,周辺を見る限りでは力関係は逆転しているようだ。

16:15|熱帯雨林のパネルのようなものだ

動き出して10分くらいで集落は途切れ,川岸にわずかに樹木が残る風景に変わる。川岸から背後に向って樹木が高くなっていく。高いものは30-40mくらいであろう。往時はこのような光景をマハカム川流域の全域で見られたはずだが,そのような低地林は川に近いところから破壊されて農地等に転用されていった。ここから見えるものは川岸に立てかけた大きなパネルのようなものだ。

16:30|川岸の樹木が途切れるとこんな光景になる

樹木に遮られて先は見えないけれど,おそらくこの樹木は林と呼べるほどの厚みはもっていないだろう。川岸の樹木が途切れるところがあった。やはりはるかかなたまで森は消滅していた。

16:15|石炭の台船がタグボートに引かれる

16:40|携帯電話用のアンテナ

小さな村落があり,そこには三本の鉄塔が立っており,少なくとも一本は携帯電話用のアンテナのようだ。このような内陸の地域では電話網を敷設するより携帯電話にした方がはるかに少ない投資で済むことだろう。内陸部の人々は固定電話を飛び越えて一気に携帯電話の時代に入っている。

17:15|果実をたくさんつけた木があった

17:40|少し高い農地は水没していなかった

この頃からカメラに異変が起きていた。夕暮れの風景を撮るとときどき画像に横線が入るようになった。明るい被写体の場合はこの現象はあまり起きないので,しばらくはだましだましで使うことにする。その代わり画像はしっかり確認しなければならない。

このような場合に備えて同型の予備機を持ってきているので,いざとなれば切り替えることができる。このカメラはおよそ1月後に横線の入る確率がずいぶん高くなり,予備機に交換することになった。

17:55|こうなると農地か湿地かが分からなくなる

17:55|視界が開けると森の残骸が見える

17:55|そろそろムアラ・ムンタイが近い

コタ・バグンを過ぎるといわゆる湖沼地帯となり,ムアラ・ムンタイはその中心に位置する町である。ここからマハカム川を離れて支流を行くとジャントゥル,タンジュン・イシュイに行くことができる。

ムアラとは川の合流点を意味し,ムアラ・ムンタイはやはり川の合流部に位置していた。この地理的条件のためこの町は船の中継点として大きくなった。川幅がだいぶ狭くなってきたので水上家屋ならぬフローティング・ハウス(筏の上に置かれた浮き家)を間近に見ることができた。

18:00|ムアラ・ムンタイ,そろそろ夕暮れとなる

ムアラムンタイの少し先で日没となる。夕日の写真を撮ろうと屋根の上で待っていたが,太陽は雲の中にストンと落ち込んでしまい,夕焼けにはならなかった。

食堂に下りて夕食を摂ることにしよう。一階の船尾にある食堂の料金はナシ・チャンプル(ごはんの上におかずを乗せたもの)が15,000ルピア,ミー・スープ(肉団子入りのラーメン)が13,000ルピア,コーヒーは5000ルピアといずれも市価の1.5-2倍である。

夕食のナシ・チャンプルは内容はチキン,ゆで卵,豆腐と野菜を香辛料で炒めたものであり,味はとても良かった。ここで食事を摂る人は限られている。一階甲板の乗客はほとんど持参の食事および立ち寄った船着場で売りに来たもので済ませていた。

二階の部屋の寝心地は悪くなかった。エンジン音と振動はあるものの,眠りを妨げるものではない。日が落ちると温度も下がり,長袖のトレーナーを着込んで気持ちよく寝ることができた。荷物は貴重品を含めて布団の下の荷物室に入れておくので,少なくとも寝ている間は盗難の心配はない。

船は暗くなってもそのまま動き続けている。川の周辺には灯りはほとんどない。暗闇の中を二階の前方に取り付けられた二基のライト,屋根の側面に取り付けられたライトを頼りに船は進んでいく。繰舵手は複数おり,4-5時間で交代している。

01時にムラッに到着した。大きな町だ。深夜にもかかわらず船着場には物売りの人々が集まっている。乗客や荷物の出入りが多く,停船時間はけっこう長かった。少なくともここまでは道路ができており,サマリンダからバスで移動することができる。町の中にも車が走っている。

08:40|要求があるとこんな所にも立ち寄る

トゥリン(テリン)に到着する。まだまだ暗くて写真にならない。木製の桟橋に向って船は近づき接岸する。まず舳先の部分を付けて,船員がロープで固定し,舵を切った状態でエンジンをふかすと船の側面が桟橋に横付けされる。桟橋と船の舷側には衝撃吸収用のタイヤが吊るされている。

ここではたくさんの荷物が積み込まれた。トゥリンまでは道路ができており,ここから上流側への荷物輸送は船に頼るということになっているようだ。この船は乗客の要求があればどこにでも立ち寄るようになっている。船は小さな集落に停まっている。丸太を組み合わせた筏が船着場になっている。舷べりまでは1mほどあるので,乗客は舷側に取り付けられた衝撃吸収用のタイヤを足がかりに乗船する。

08:45|丸太を組み合わせた筏が船着場である

そのすぐ横では女性たちが洗濯をしている。陸から筏までは板が渡してあるが半分水没している。地元の人たちはビーチサンダルか裸足なのでそこを歩くのはまったく問題がない。しかし,僕のようにクツをはいた旅行者にとってはなかなかの難路である。マハカム川の流域に滞在しているとき,このような川べりの筏にアクセスしようとしたが,足場が悪くて断念したことも何回かあった。

女性たちが洗濯している筏には小さな小屋がある。ここはトイレ兼着替えの場所になっている。午後になると人々は川で水浴びをして,そこで着替えて,ついでに洗濯もする。この集落の土地は水面から2-3m高いところにある。今までの風景は川岸が水没するものであったので,ちょっと目新しい。

08:45|200mぐらいで次の船着場に立ち寄る

08:51|川岸の斜面は森林に覆われている

このあたりでは陸が水面よりだいぶ高くなってきた。川岸は斜面となっており,現在の水面から1mくらい上のところに水に浸かった痕跡がある。ここの最大水位はそのあたりなのかもしれない。川岸の斜面は森林に覆われている。もっともその背後の状況がどのようになっているかはここからでは分からない。もしかしたら,劣化しているものの森林が残されているのかもしれない。

小型船が丸太を集めている

しかし,現実はそう甘くなかった。少なくともこのあたりでもほとんど森林は残されていない。残されたわずかな森林からの木材を小型船が集めていた。カリマンタンの森林が無くなるというのは決して大げさな表現ではない。

10:10|スンガイ・スマトゥリアン

10時にスンガイ・スマトゥリアンに立ち寄る。戸数は100戸ほどの小さな集落である。船は自分よりずっと小さな水上家屋の船着場に上手に接岸する。ここの川岸も筏に乗せた浮き家が多い。

10:20|焼畑あるいは焼畑から回復途中の土地

この辺りの川岸には焼畑あるいは焼畑から回復途中の土地が散見された。焼畑は内陸先住民族のダヤクの人々が採用してきた伝統的な熱帯農業の一方法である。一般的に熱帯地域においては土壌は栄養分に乏しい。これは落ち葉などの植物の生産物はすみやかに分解され他の植物に吸収されてしまうからである。日本の広葉樹林のように腐葉土が厚く蓄積されることはない。

一見豊かに見える熱帯雨林も,栄養分はほとんど植生に蓄積されており,土壌の表面15cmほどのところだけに栄養分があるに過ぎない。ダヤクの人々が農業を行うのは丘陵地帯なので薄い土壌の地域である。彼らは特定の区画の森林を伐採し,乾季に火入れを行う。樹木や植物を燃やした灰はアルカリ性であり,肥料にもなる。

彼らは陸稲を栽培するが土地を耕すことはしない。焼いた後の土地に棒で穴をあけ,種子を入れていく。この方法は熱帯の強い雨で土壌が流出することを低減している。農民は1シーズンまたは数シーズンある区画を使用すると別の区画に移動していく。このため英語では「Shifting Cultivation」という。一時的に使用された区画は数年で森林に戻り15-20年後に再び利用される時には豊かな二次林となる。

このようなサイクルでダヤクの人々は持続的な熱帯農業を営んできたが,それはボルネオ島が人口希薄地域であったことにより実現できた。ダヤクの人々はアダットという慣習法により土地利用の持続性を担保してきたのだ。

目の前にあるものは川岸の斜面に切り拓かれた1haに満たない狭い焼畑農地である。機械を使用せず人力だけで森を伐採するのは大変な重労働であり,その限りでは過剰な開発とは無縁なものであった。

11:20|内陸の道路

川岸の斜面が削られ,むきだしの赤土となっているところがあった。内陸の道路を造っている現場らしい。川岸から背後に向って削られた土地が広がっている。

未開の土地に道路を造るときは重機や物資の輸送面から,すでに出来上がった道路を起点にして,そこから内陸に伸ばす方法が一般的である。

カリマンタンもそのような方法が取られているとすれば,すでにトゥリン(06時に通過)からここまで道路開発は進んでいるのかもしれない。ロング・ラハム(18時に通過)の1時間ほど手前にも建設現場があり,想像以上に道路建設は内陸部に延びている。

12:00|はじめて木材運搬船を見かけた

道路ができると周辺の開発は急ピッチで進行することなる。この道路が中央部山岳地域に到達した時は,商業伐採で劣化した程度にとどまっている土地にもアブラヤシ農園開発が始まることだろう。

カリマンタンではすでにマレーシアとの国境地帯に180万haのアブラヤシ農園を開発する計画が進められている。貴重な丘陵部の熱帯雨林はどうなるのか,ダヤクの人々の土地権はどうなるのか・・・,大量の二酸化炭素を放出する焼き払い型の開発の波はもうすぐそこまで来ている。

12:05 積み出しを待つ丸太の集積所

はじめて木材運搬船を見かけた。このあたりで木材生産が行われているのは驚きであった。商業伐採は熱帯雨林破壊の先兵であり,このあたりの低地林はとうの昔に価値のあるものは伐採されてしまったはずだ。現在残っているとすればそれは村落の共有林であろう。

このあたりはダヤク人の土地であり,コミュニティの同意無しには森林伐採はできないはずだ。それとも彼らの土地権を無視して伐採したものであろうか。

重機が積出の準備をする

わずかな焼畑で陸稲を栽培していたダヤク人の社会にも貨幣経済は容赦なく入り込んでくる。高額な町の商品を買うためには,手っ取り早く共有地の大きな木を売ってしまおうと考えることがあっても不思議はない。

木材運搬船はタグボートで筏のようにまとめられた200本ほどの丸太を引いていく。川岸には積み出しを待つ丸太の集積所が何ヶ所かある。とはいうものの,サマリンダでは木材運搬船は見なかったし,ここまで来る間も木材工場は見かけなかった。この丸太の行き先が気になる。

13:30|カンポン・ガタビラン

このような小さな集落にも乗客が利用すると停泊する。このあたりの川幅は150-200mくらいだ。風景は変わりばえしない。茶色の水の流れ,川岸の二次林,川岸の浮き家,水上集落・・・,さすがに退屈してくるね。斜面の上にあるのではっきりとは分からないが,この集落で陸上に家が多い。

船はここでも20分ほど停泊してから出発した。このような各駅停車ではいつになったらロング・バグンに到着するのか見当がつかない。

15:30|大きな木にステップ状に刻みを入れる

川岸の斜面のところになつかしい木製の階段があった。階段といっても板材を組み合わせたものではない。大きな木にステップ状に刻みを入れて歩けるようにしたものである。15年前にボルネオ島のサラワクを訪れた時に,ダヤクのロング・ハウスにホーム・ステイをしたことがある。ロング・ハウスは高床式になっており,このような丸太のステップを上ることになる。

丸太は急角度で取り付けられているためステップはとても不安定でクツのまま上るのはかなり難しかった。まあ,いざとなれば高さは2mほどなので飛び降りれば済むことである。ロングハウスの住人は裸足なので軽々とここを上り下りしていた。この川岸のものはより丸太が長くなっているが,角度が緩やかなので問題はないだろう。

18:00|ロング・ラハムには看板があった

ロング・ラハムはやはり二つの川の合流点に位置している。この村落には「Kampung Laham」と記された看板があったのですぐに分かった。筏の上の浮き家や陸上の木造家屋から少し離れたところに立派なキリスト教の教会がある。

ダヤクの人々にはキリスト教徒が多い。かってはアニミズムやシャーマニズムであったダヤク人の社会もキリスト教やイスラム教に接することにより,相当割合が改宗した。

18:00|立派なキリスト教の教会がある

ボルネオの内陸部に居住する先住民族はダヤクと総称されるが,実際には多様な民族集団から形成され,社会制度も平等社会から貴族制度や奴隷制度をもつものまでずいぶん異なっていた。ボルネオ島を東西に二分割した英国とオランダの宣教師は奥地の村落まで足を伸ばし,キリスト教を広めた。このため内陸部のダヤクの社会ではキリスト教に改宗する集団が多数を占めるようになった。

もっとも,イスラム勢力と接することの多かった集団はイスラム教に改宗しており,現在のダヤク社会は伝統宗教,キリスト教,イスラム教が混ざり合っている。また,一神教に改宗しながらも伝統的なアダットに入り込んでいるアミニズムを完全に捨て去ったわけでもない。


サマリンダ   亜細亜の街角   ロングバグン