亜細亜の街角
この町は舗装道路でサマリンダと結ばれている
Home 亜細亜の街角 | Terin / Indonesia / Feb 2009

トゥリン  (地域地図を開く)

ボルネオ島の背骨ともいうべき中央山脈はマレーシアとインドネシアの国境にもなっていると同時に,ボルネオ島を東西に分ける分水嶺となっている。マハカム川はこの中央山脈に源を発し,サマリンダの少し先で広大な三角州を形成してマカッサル海峡に注いでいる。

北半球に源をもつマハカム川はロング・イランのあたりで赤道を横切る。トゥリン(Terin)はロング・イランから定期船で1-3時間ほど下ったところにある,上流域の大きな町である。アルファベット表記と実際の現地の発音には差がある。ネットやガイドブックではテリンと表記されることもある。

注)マハカム川流域の地図と村落名については 「マハカム川をパブリック・ボートで遡る」のページ参照していただきたい。

2009年の訪問時にトゥリンは舗装道路によりサマリンダとつながっていた。サマリンダからはバスが出ており,その気になればその日のうちにトゥリンまで移動することができる。パブリック・ボート(定期船)だとほぼ24時間かかるので,バスを利用する人が増えている。

そのため定期船の乗客が減少して便数は減っているという。旅行者にとっては船旅の方が明らかに情緒があり,川岸の風景をゆっくり眺めることができるのでお勧めである。トゥリンは上流部の村落とそれほど大差はないが,道路が通じているので車社会になっている。船着場の近くでは車の展示販売も行われていた。

ロング・バグン→トゥリン 移動

昨夜は18:30から雨になり,19:40からは雷雨になった。さすがに熱帯の雷雨はものすごい迫力であり,しかも夜だったので空はひっきりなしに明るく輝いていた。風が水滴ごと吹き込んでくるのでベランダの日記作業はしばらく中止せざるを得なかった。

雷雨のあともずっと雨が降り続き,明け方まで続いた。二階の屋根から流れ落ちる水が一階の庇にあたる音が大きく響いて,実際以上に雨を意識させることになった。幸い雨は明け方に止んでくれたので早朝の移動には支障はなかった。

パブリック・ボート(定期船)が出るのは07時である。06時に下に降りたが,川に通じる階段と渡し板周辺が明るくなるまで待つことになった。06:40に筏の家に移動する。ほどなくして,なじみの船員を乗せた定期船がやってきた。

定期船はロング・バグンで2日滞在してサマリンダに向うので,たまたま僕の日程と一致したということである。船の喫水はずいぶん浅くなっており,船べりまでは1mほどもあり,乗り降りは大変だ。

サブザックを渡し,船員に手を引っぱってもらい乗り込む。船員たちは僕の名前を覚えており,口々に僕の名前を呼ぶので何回か振り向くことになった。メインザックを二階の荷物室に納め,とりあえず食事にする。

食堂のチーフの女性も僕を覚えており,ごはんと具の入ったスープ(13,000ルピア)は期待通りの味であった。久しぶりのコーヒーも5000ルピアと高いけれどうれしい。定期船は定刻の07時に出発した。ロング・バグンに来たときは真夜中の到着だったので下流側の景色は見ていない。さっそく,船の屋根に上って川岸の景色を見ることにしよう。

景色の説明をする前に定期船の通過時間をまとめておくと次のようになる。
07:00 ロング・バグン
07:30 ちゃんとした船着場をもった村落
09:40 ママハット
11:10 ラハム
13:40 ロング・ラタビラン
14:20 ロング・イラン
14:40 ロング・フブン(商業伐採の台船が多い)
14:50 ママハット・ドボゥー(発音がよく分からない)
16:45 カンポン・ロンダニ(比較的大きな村落)
17:00 ロンゲダム(発音がよく分からない)
17:30 トゥリン

僕の乗った定期船がロング・バグン周辺で2日間を過ごしたように,対岸にはほぼ同じような型の定期船が停泊している。おそらく明日に出港するものであろう。自分の宿泊した宿の写真を撮っていなかったことに気がつき,船が動き出したところで一枚撮る。

昨夜からの雨の影響か周辺の森からは盛大に水蒸気が立ち上り雲を作っている。天候は曇りのためこの時間でも写真の写りは良くない。この森はおそらく二次林であろう。当然,焼畑から回復しつつある区画も何ヶ所か見ることができた。

標高差が少なく流れがゆっくりしていることに加え,水深があるので川の表面は非常に穏やかでちょっと見ではどちらに流れているのか分からないほどだ。

程度の良さそうな森

08:40,ときどき原生林を思わせる程度の良い森が現れる。幹はとても細いがすらりと伸びてきれいな樹冠をもった木が見える。斜面の最上部の森は雲でかすんでおり,いかにも熱帯雨林という風情を漂わせている。

そんな風景に混じって丸太を組んだ大きな筏が浮かんでいる。明らかに木材として出荷されるものであろう。こんなところまで商業伐採の手が伸びているのだ。他の村落から離れたところに4軒の家からなる小さな村落があった。家の周囲だけは地面が見えるが,その周りは深い森となっている。機械を使わないで農業をするのではこの程度の開発が手一杯なのだろう。

木材集積地

08:50,しかしすぐに風景は一変した。森の植生はすべて剥ぎ取られ,むき出しの赤土が広がっている。商業伐採のための木材集積地のようだ。木材運搬用のトラックが見えたので,ここから内陸に向って伐採用道路が伸びており,伐採された木材はここに集められるのであろう。

この商業伐採の圧力がマレーシアとの国境まで達するのにそれほど時間は要しないだろう。すでにマレーシア領サラワクの原生林はほぼ壊滅しており,次の10年くらいで日本の約2倍の面積をもつボルネオ島から一部の国立公園・保護林を除き,原生林は姿を消すことだろう。

陸稲の焼畑

09:10,カリマンタンは雨季ではあるが最大水位からはかなり下がっているようだ。ところどころに砂州が現れている。流れの幅が狭まり少し波立っている。船は慎重にコースを選択しながら進んでいく。

周辺の森はほとんどが二次林になっている。かなり規模の大きい,といっても1haほどの陸稲の焼畑が見える。このような焼畑は2-3年使用されると放棄される。周辺の森が傷口をふさぐように森に戻していき,次の焼畑が行われる15-20年後には再び豊かな森になる。

焼畑の火入れを待っている一画もある。川岸から続く森が伐採され,枯れた樹木が散らばっている。通常は乾季の終わりに火入れが行われ,その灰は焼畑の土壌を中和し肥料にもなる。

09:30,この辺りにはたくさんの小さな村落がある。船は要求があればどんな小さな船着場にも立ち寄る。進行方向左側の場合はそのまま船の左側を接岸させる。右側の場合は180度回頭してやはり左側で接岸する。川幅は150mほどあるので全長50mあるこの船も十分ターンすることができる。

乗客や荷物は小舟で届けられることもよくある。そのようなとき船は速度を落とし,小舟は上手に接舷する。どちらも川を生活の舞台としてきたものどうしなので,そのあたりはあうんの呼吸である。

ママハット

09:40,出発してから2時間半でママハットに到着する。行きは真夜中だったこともあるがママハット→ロング・バグンは6時間を要した。船着場にはチェスと呼ばれる幅が狭く細長いロング・ボートに乗せられて体長1mもある大きな魚が運ばれてきていた。頭は少し平たいのでナマズに似た魚である。

魚の計量

筏の家で計量が行われている。船員は1kgが1万ルピアと教えてくれた。一匹10kgはありそうなので10万ルピアである。月収が50-100US$程度のこの国では一匹10$のこの魚はとても良い収入になる。

伝統的な踊りのポーズ

10:50,屋根の上で川岸の景色を眺めていると,ダヤクの青年がやってきた。二人とも立派な山刀を持っている。握りのところには立派な龍が彫り込まれている。おそらく彼らの生活必需品であり宝物なのだろう。なんとなく「バラン」という言葉が浮かんできて聞いてみると,「うん,バラン・○○だよ」と教えてくれた。彼らは僕がカメラを持っているのを見て,自分たちの写真を撮ってくれと身振りで要求してきた。

僕がOKとカメラを向けると,彼らはカバンの中から胸から背中を覆う袖の無いマントのようなイベント用の衣装を取り出し身に着けた。さらに山刀を取り出し,伝統的な踊りのポーズを見せてくれた。なるほど,かれらはこのポーズを決めてみたかったのか。ともあれ予期しない一枚が僕の記念となった。

ラハム

上りと下りの差なのか11時過ぎにはラハムに到着した。さきほどのダヤクの青年はここで下船した。ここも二つの川の合流点であるが,村落の規模はずいぶん小さかった。船員の話ではここにもロスメンがあるとのことだったが,船から見ている限りではそのような規模の村落には見えない。

11:30,小さな村落にモスクがあった。イスラムがここまでやってきているのか,もともとムスリムだった人が入植したのか興味のあるところだ。続いて木材の集積地があった。トラック,むきだしの赤土・・・,木材の集積地はいつも同じような風景となる。ここから時間にして10分ほどの間,川岸の森はすっかり影をひそめていた。

見栄えのする魚

船の中の食事は高く付くので,昼食はロング・バグンで買っておいたフレンチ・トーストを乾燥させたようなパンで済ませる。これに加えてときどきビスケットをかじっていると少なくとも空腹ということはない。

13:50,一階の船首で魚の入った発泡スチロールの箱に氷を追加していた。箱の中には100cmほどもある大きな魚が入っていた。背中から腹にかけては金色になっており見栄えのする魚である。ママハットで計量されていたものは背中が黒っぽいものだったので種類は違うようだ。大河マハカムには複数種類のすごい魚が生息しているのだ。

ロング・イラン

14:20,ロング・イランに到着すると一階甲板席の床板が外され中から荷物が取り出された。う〜ん,こんなところにも船倉があったんだ。

ロング・フブンからカンポン・ロンダニ

14:40,ロング・フブン(Long Hubung)の近くで木材運搬用の空の台船がタグボートに引かれて上流側に向っていた。その先には木材を積み込み中の台船があった。

陸上の木材集積場に集められた木材を重機を使って台船に移している。いずれも直径50-100cm,長さ20mほどの立派なものだ。この周辺は現在もっとも商業伐採の盛んな地域のようだ。

川を遡行するときと川を下るときでは船が作り出す波の形はずいぶん異なっている。確かに遡行時は水をかき分ける必要があるのに対して,下る時は流れに乗ればよいのだから波の形が異なるのは当然だ。

それにしてもこのあたりの川面は鏡のようであり,ほとんど流れを感じさせない。両岸はどこまで行っても幹の細い樹木が多い二次林,三次林が続いている。中にはほとんど森といってよいところもある。ダヤクの人々の永年の生産活動がこのような風景を作り出したのだ。

一階甲板で観察すると,この辺りには乳児を布できつく巻いて寝かしつける習慣がある。このような育児方法はメジャーではないにせよ世界の各地で行われている。布の上からさらに紐で巻くという過激な地域もある。この方法は乳児を寝かしつけるには有効な方法と欧米の育児書にも紹介されているようだ。

反面,乳児の下肢を伸ばしたまま布にくるむと,乳児は股関節や膝関節を自由に曲げることができないため,その力が股関節を脱臼させるように働くという報告もある。乳児に限らず大人でも同じ姿勢で長時間いることは,それだけで体の負担になるものである。世界の各地で行われている乳児の布巻き育児をどう評価したらいいののか・・・。

15:30,サイチョウが頭の上を飛んで対岸に向っていった。あわててカメラを準備したが間に合わず,写真にはならなかった。船のエンジン音が大きいため独特の羽音も聞くことはできなかった。これは残念。

15:35,船員が料金の徴収にやってきた。この船は先に行き先と料金を記入したチケットを渡し,後から料金を集める仕組みになっている。このおじさんは何を思ったのか12万ルピアと記載された僕のチケットに対して23万ルピアを要求した。「ほれ,ここに12万ルピアと書かれているでしょう」と説明して事なきを得た。

16:45,カンポン・ロンダニに到着する。珍しい瓦屋根の船着場には人がたくさん集まっている。乗船するのは数人であるが家族が見送りに来ているようだ。近くでは子どもたちが大きな網を持って魚をすくっている。

12時間でトゥリンに到着する

17:30にトゥリンに到着する。川岸から船着場に向う立派な木造の橋がある。水面からは5mほどの高さであるが,その橋げたのすぐ下まで流木やどこかの船着場の部材が引っかかっている。増水時の水位は今より4mほど上まで来るようだ。

遡行時には中流域でおよそ1mの増水と見たが,少し甘かったのかもしれない。もっとも中流域では周辺の湖や湿地が遊水地の役割を果たすので水位の上昇はこことは単純に比較できない。

船着場から階段を上って橋を渡り川岸に出る。宿情報はまったく無いので地元の人に「ロスメン,ペンギナパン」とたずねると「Sahhara」を教えてくれた。ロスメンもペンギナパンもインドネシア語の安宿を意味する。

船着場からは川に並行する東西方向の道路とT字に直行する南に向かう道路があり,「Sahhara」は南に300mほど行った右側にあった。道路は舗装されており,宿の両側の家には車が停めてある。ロング・バグンでは車は走っていなかったので車社会に戻ってきたんだなあとしみじみ思う。

宿は立派な木造二階建てであり,屋根は瓦になっている。ここから上流側はトタン屋根が主流でおそらく瓦屋根はほんの少数派であろう。宿の主人は敬虔なイスラム教徒らしくムスリム帽を被っている。

Penginapan Sahhara

客室は一階の両側にあり,僕の部屋は6畳,ダブルベッド,トイレ・マンディーは共同である。少しかび臭いが清潔である。マンディーは大きな水槽に水が貯められており,色が付いていないので川の水ではないようだ。冷たくてとても気持ちがよい。

回りには家の人たちが使用するシャンプーや歯磨き粉が置かれており,沿岸部と変わらない暮らしである。この家の64歳になる宿の主人の父親はすでに引退しており衛星放送のテレビをいつも見ていた。彼は若い頃日本に留学しており,まだちゃんとした日本語を話す。

一つの敷地に二つの学校がある

この宿も夜になると気温が下がるので,寝るときは半袖でも,夜中に長袖にしないとカゼを引きそうである。ボルネオ島の夜は日本の熱帯夜よりずっと涼しいのだ。

07時に外に出ると学校に行く子どもたちが歩いているので後をついていく。大きな運動場(草の繁った空き地)の二辺に校舎があり,子どもたちの着ているジャージーの色が異なっている。どうやらここには二つの学校があるようだ。道路側の学校のジャージーは上下とも青で背中には「001」と記されている。もう一つは緑とオレンジのジャージーで背番号は「002」である。

道路側の校舎には掲示板があり,インドネシア語の新聞記事があった。僕の乏しいインドネシア語の語彙でも「トランス・カリマンタン道路」の記事であることが分かる。この町の学校に貼ってあるところをみると,トゥリンからマハカム川の奥地に向う道路もしくは南に向う道路なのだろう。

001の子どもたちが校庭に集まってきた。校舎の前の一画はコンクリートで舗装されており,そこでラジオ体操が始まる。まあ,体操というよりはエアロビスクに近い動きだ。何人かの年長の女子生徒はスカーフを被っており,どうやらこちらはムスリムの子どもたちの学校のようだ。

となると,もう一つの002は非ムスリムの学校である公算が高い。インドネシア国民の80%はムスリムであるが,ボルネオ島の内陸部に居住するダヤクの人々はキリスト教徒が多い。宗教の違いは先住民と新移民の違いでもある。使用する第一言語も異なっている可能性が高い。一つ間違うと深刻な民族対立の要素を含んでいる。学校を分離するのはそのような複雑な事情によるものと推測する。

最初は子どもたちに警戒される

どちらの子どもたちも最初は警戒していて簡単には写真を撮らせてくれない。しかし,体操の時に集合写真を撮るとずいぶん対応が変化してきた。002では教室の前の廊下に並んでいる子どもたちが「私たちも撮って」と催促されるようになる。

どちらの生徒も校庭の草取りを開始した。といっても校舎の周辺だけのことである。001校舎の周辺はほとんど草が無くなっている。それに対して002の方は草が密生している。

この草は東南アジアでは芝生の代わりによく公園に敷かれているものに似ている。草丈をコントロールしておくだけで良さそうであるが,子どもたちは根こそぎ削ろうとしている。

道具はどちらも園芸用の小さな三角ホーのようなものを使用している。002の草にはこの道具では力不足である。クワのようなもので削るほうがずっと効率的だ。ダヤクの人々の焼き畑農業には草取りという作業はない。そのため,子どもたちも草取り技術については日本の子どもと大差ない。

二つの小学校で何枚も集合写真を撮ったので町内の大半の小学生に顔を知られるようになり,子どもたちの家を訪問することもできるようになった。

モスクがある

朝食は宿の斜め向かいの屋台でいただく。チキンだけでは寂しいのでゆで卵を追加し1万ルピアであった。宿の近くにも食堂があり,ここではサテ(ヤキトリ)をやっているので,夕食はここでいただいた。サテ10本とコメの粉をふかしたういろうのような食感のごはんで12,000ルピアと適正価格であった。

まず,船着場を見学に行く。途中にはモスクがある。新移民の人々の大半はムスリムなのでマハカム川流域の村落にはかなりの確率でモスクを見ることができる。もちろん,もともとここに居住していたダヤクの人々のための教会も多い。

川岸の風景

川岸の近くに小さな野菜屋があった。商品は一部の葉物野菜を除くと沿岸部のものと変わらない。新移民の人々は故郷の食生活を携えてやって来ている。食生活とは人間の文化の中でもっとも保守的なものであり,住む土地が変わってもそう簡単には変えられない。

川岸は水面より5mほど高くなっており,橋を渡り,階段を下りると筏の上の船着場である。橋の両側には筏の浮き家が並んでいる。川岸からそのような浮き家にアクセスするため,一本の丸太を加工した階段が斜面に何本も並んでいる。橋から見て下流側の川岸ではコンクリートで固めた目的不明の造成地ができつつある。

魚を売る

船着場でワラに通された20cmくらいの川魚を見かけた。ナマズには見えないが長いヒゲをもった魚は日本では見かけないものだ。ヒゲをもたないものはウグイやオイカワに似ている。

川岸ではおばさんが大きなカゴいっぱいの川魚を売っていた。船着場で見たものとほぼ同じである。今朝捕れたものらしく新鮮だ。値段は水切りボウル一杯で1万ルピア(100円)である。

新鮮さと安さが受けて売れ行きは上々だ。大漁のせいか,顔なじみのせいか行商のおばさんは量とか値段についてはほとんど文句は言わない。客は水切りボウルに手でプラスアルファを加えて持っていく。

カニの食事跡

水辺の泥がほじくり返されたようになっている。ところどころに泥をまるめた小さな粒が集まっている。本体は見当たらなかったが川ガニのしわざであろう。カニは自分の体よりかなり大きな穴を掘る。

周囲が安全な時に這い出してきて,泥に含まれているプランクトンをこし取って食べる。はさみで泥を口に運び,不要な泥は丸めて吐き出す。そのためカニの巣穴の周囲には丸い泥の粒が貯まることになる。

バングラデシュのクアカタの海岸では大量のカニが生息しており,砂粒を丸めて巣穴の周囲に芸術的な模様を描いていた。土地により条件が異なるのか,ここほど素晴らしいカニの作品は見たことがない。

生活必需品

雑貨屋を覗いてみた。投網と籐で編んだザルや背負カゴが天井から吊るしてあった。どちらも川岸の暮らしの必需品である。投網は町で作られた工業製品であり,籐細工はダヤクの人々が作る手仕事製品である。この二つが同じところで売られているのを見ると,この地域の置かれている状況の一端が理解できるような気がする。

子どもの誕生祝

川から一本南に入った道を歩いていると子どもの誕生祝の会場があった。家の前に地面より一段高くなった台が造られ,じゅうたんが敷かれている。テーブルにはお菓子が並んでいる。このようなおめでたい席に参加しようとして断られたことはない。

赤ちゃんは奥の部屋でハンモックに寝かされており,女性たちがそれぞれ誕生祝のご馳走を運んでくる。すぐに部屋がいっぱいになり僕も追い出されることになった。それでも失礼して何点かのご馳走を撮らせてもらう。

日本ならさしずめお赤飯というところであるが,ここでは白,ピンク,黒,黄色のごはんがある。白と黒のごはんはコメそのもの色である。お祝い事と色のついたごはんの取り合わせを考えると,日本との文化的つながりが伺われる。

家の人に勧められてごはんをいただくことになった。ごはんの皿におかずを乗せたものが出された。まだ朝食が済んでから2時間ほどしか経っていないのでこれはちょっときつかった。また,ここで出された牛肉はかなりタフであごが疲れた。

パイナップルや野菜を刻んだサラダはとてもおいしい。パイナップルの甘味と酸味が野菜に対してドレッシングのような効果をもっている。しかし,このサラダには青唐辛子が入っている。

これを食べるとしばらくは口の中が燃えるようになり,食事どころではなくなる。幸い青唐辛子は丸のまま入っているので取り除くのは容易であった。この家はムスリムなので,男性は外の台の上で,女性は部屋の中というように分かれて食事をしている。

この通りでは002の小学校で会った子どもに出会い,彼女の家におじゃますることになった。2mほどの高床,二間に仕切られたシンプルな家である。近所の子どもたちもやってきたのでヨーヨーを3人分作ってあげる。すると近所のおばさんが「私にも一つ」と要求があり,追加で作ることになった。

集団礼拝

宿で水浴びをして大休止をしているとアザーンが聞こえてくる。そうだ,今日は金曜日じゃないかと思い出してあわててモスクに向かう。12時の時点ではそれほど人は集まっていなかったが,12:30にはずいぶん大勢の男性が集まってきた。成人男性に混じって少数の子どもたちも参加している。

それにしてもこの人数である。この町でも先住民であるダヤクの人々はもう少数派になってしまっているのかもしれない。人口が急増している東カリマンタン州の人口は300万人に近い。その中でダヤクの人々は10%に満たない。

趣のある家

午前中に訪問した南側の小学校の向かいには木造の趣のある家がある。道路に対して周辺の土地が低いため高床にして道路と同じ高さにしている。白く塗られた柱の紋様から判断すると明らかにダヤク人の家である。

正面から見ると,切妻型の屋根が三段になっており,先端部には金属か板を加工した精緻な飾りが付いている。この様式の家はボルネオ島に入って初めて見た。

切妻屋根を複数段重ね,先端部に龍を飾る様式はタイやラオスの寺院建築で採用されている。う〜ん,似ているといえば似ているな。まあ,偶然ということもあるのでなんとも言えないが。

屋根は板葺きである。新しい家はほとんどトタンか瓦屋根になっている中でこの家は板葺きを踏襲していた。ボルネオ島の内陸部はヤシ類が多くないこともあり,ロングハウスではよく板材が使用されている。

トゥリンでも伝統的な家屋が保存されており(翌日発見した),その屋根も見事な板葺きになっていた。日本でも板葺きの屋根は現在も残されている。 「雪国木羽板(こばいた)物語」には現在ではもう大変珍しくなった板葺き屋根に使用される木羽板の製造工程が記されている。

ボルネオ島では板葺きの材料としては「ボルネオ鉄木(ウリン)」がよく使用されている。鉄木(てつぼく)は鉄のように固く,重い樹木であり,熱帯地域に数種類が自生している。比重は水よりも大きい。

丈夫な素材のため日本でも箸によく利用されている。我が家にも鉄木のものがあったので水の入ったボウルに入れたら確かに沈んだ。う〜ん,本当に重いんだ。

固くて重いことから耐久性に優れており,屋根材としてはこれ以上のものはない。しかし,現在では簡単には手に入らなくなっているはずだ。ダヤクの人々が板葺き屋根の材料である木羽板を作る工程は日本のそれとまったく同じである。

輪切りにした丸太を複数のブロックに縦割りして,それから木羽板に割っていく。日本では釘を使って横桟に打ち付けていくが,ボルネオでは木羽板に小さな穴を開け,一枚づつ籐で横桟に結び付けていく。このようにして葺いた屋根は20-30年の寿命があるという。

発表資料作り?

同じ並びの家の玄関では001小学校の子どもたちが模造紙とダンボールを使って何やら発表資料のようなものを作っている。玄関といっても作業場なのでちゃんと屋根に覆われている。

彼女たちの作業を眺めていると,紙に報告内容を書き込み,それを切り取る。その形に合わせてダンボールを切り,それに内容の紙を貼り付ける。さらにそのダンボールを模造紙に貼るという複雑な作業である。内容を直接,模造紙に貼っても同じようなものだと思うのだが・・・。

大きな魚

いくつかの教会を見ながら南に向かう。地図の無いところでは足の向くまま歩くしかない。といっても南に向かう道路はこれしかない。13時頃からちょっとした雨になる。近くの商店で雨宿りすることになり,いきがかり上,5000ルピアの缶入りスプライトを飲むことになった。

30分ほどで雨は上がった。ムスリムの子どもたちが歩いていくので後をついていく。道路わきの家の上がり口に大きな魚がたくさん並べてある。体長は60cmを越えている。

大半の魚にはヒゲがあるのでなまずの仲間であろう。もう一種類は全体的に白っぽくて体に比して尾びれが小さい。マハカム川はまだまだ豊かな川なのだ。

三つ目の学校

さきほどの子どもたちは近くの小学校に入っていった。ここの校舎も1mほどの高床式だ。ここには未就学児童の特別教室があり,女子はスカーフを着用しているし,男子はムスリム帽を被っている。このような経験を通して子どもたちはムスリムとしての習慣を身に付けていくのだろう。

サゴヤシ  (地域地図を開く)

左側に折れる道があったのでそちらに向う。大きさの異なるサゴヤシの木が数本生えている。大きなものは葉柄の角度から「サゴヤシ」であろうと判断した。

サゴヤシ(ヤシ科・サゴヤシ属)はインドネシアやマレーシアでは単に「サグ」と呼ばれている。サゴヤシはホンサゴやトゲサゴなど複数の種があり,さらにクロツグ属やテングヤシ属など,幹からでんぷんがとれるものを総称してサゴヤシということも多い。

サゴヤシは生涯に一度しか開花しない。果実を付ける代わりに,光合成で作り出したでんぷんを幹のズイの部分に貯蔵する性質をもっている。10年くらいで十分な量のでんぷんが蓄積されるようになり,必要に応じて切り倒される。

現在ではサゴでんぷんを食糧にしている人はそう多くないが,ニューギニア島では30万人くらいの人々が主食としている。ボルネオ島でもマレーシア・サラワク州には沿岸部あるいは内陸部でサゴでんぷんと狩猟採集で生活している少数民族が存在する。

切り倒されたサゴヤシの樹皮を半周分だけはがし,ずいの部分を細かく砕く。これを水にさらすとでんぷん質が溶け出す。それを大きな容器に貯めてでんぷんを沈殿させる。1本のサゴヤシからはおよそ100kgのでんぷんがとれるという。

このサゴデンプンを作る工程はぜひ見たいものだと思っていたが,インドネシアではまったく見ることができなかった。日本のサイトで写真をチェックしてもほとんど見つからなかったので,wikipedia から「パプアニューギニア」における幹を砕いている写真を引用した。彼女の使用している道具は石斧にも見えるが,まさかそんなことはないだろうと思う。

サゴでんぷんは年間を通して収穫することができるので,ニューギニア島では農耕を行わず,サゴでんぷんを主食とする民族集団もいる。彼らは固めたサゴでんぷんをそのまま直火であぶりそのまま食べる。

サラワクの少数民族は乾燥させて保存のきく粉末状にしたサゴでんぷんにお湯を注いでかきまぜて食べる。インドネシアのマルク諸島にはケーキ状に焼いて食べる人々もいる。

また,サゴヤシを切り倒し,樹皮に傷を付けておくとヤシオサゾウムシが産卵し,3-4週間後にはたくさんの幼虫を採取することができる。ニューギニア島ではこの幼虫(ウラサグ)をサゴヤシの葉でくるみ,石焼にして貴重なたんぱく源として食料にしている。

魚とり

枝道はすぐに途切れ,地元の人の踏んだ道を歩くことになる。10人ほどの男の子のグループに出会った。年長者の二人は立派な山刀を持っている。この山刀は万能である。藪を切り開いたり,動物を解体したりおよそ生活の中で刃物が必要になる場面ではほとんど使用される。

ダヤクの男性はこの刀をとても大事にする。この二人の年齢は15歳くらいであり,一人前の男性とみなされ山刀を持つことを許されたのであろう。近くの池では女性や子どもたちが泥水の中で魚とりをしている。しかし,ここでは小さな魚がわずかに採れるだけであり,一家の晩ごはんのおかずにも足りない。

大きな花のハイビスカス

大きな花のハイビスカス(アオイ科・フヨウ属)を見つけた。日本ではハイビスカスといえばブッソウゲ(Hibiscus rosa-sinensis )を指すことが多い。しかし,本来のハイビスカス(Hibiscus)はフヨウ属の学名である。そのためフヨウ属に含まれるフヨウ,ムクゲ,モミジアオイ,ケナフ,ハマボウなど多くの種の学名には,例えばムクゲ(Hibiscus syriacus)のように,「Hibiscus」が先頭にくる。

まあ,厳密に話すとこのようになるが,ややこやしいのでここでは日本語のハイビスカスをそのまま使用することにする。ハイビスカスは雑種を作りやすい性質をもっているため,非常に種類が多く,園芸品種と合わせて8000種ほどが知られている。原産地は不明である。

園芸品種としては主要4系統のうち3種がハワイ系となっており,それ以外のものは「オールドタイプ系」とされている。比較的シンプルな花が多く,僕はこの系統種が好みだ。

トゥリンで見つけたものはオールドタイプのアマン(Hibiscus aman)に近いものだと思うが,とても名前を特定することはできない。オールドタイプは比較的耐寒性があるので,この花は熱帯地域以外でも見かけることがある。

日本の園芸品種に比べると樹高はずっと高く3m近いものもある。日本では鉢植えに適するように矮化処理が施してあるので,高さ30cmくらいのものでもちゃんと花が咲く。しかし,本来はよく成長するものであり,自然界ではたくさん枝を繁らせ花が途切れることはない。

小さな支流でも水上生活

マハカム川の本流から支流に入ったところにも筏の浮き家があった。家本体とトイレが乗っている。こうしてみると浮き家は単に水に浮くというだけではなく移動可能なという側面ももっているような気がする。もちろん,そんなときは動力船が必要になるわけであるが,ダヤクの人々が使用しているロングボートがあればこの規模の浮き家は動かせそうだ。

高床式住居の階段会議

高床式の家の多くは階段を使って上がるようになっている。多くの家では上がり框(かまち)のところに作業用の板敷きスペースをもっている。屋根がこの部分を覆っているので雨は当たらず,家人がくつろぐ場所でもある。

このスペースが広くない家では階段に坐っておしゃべりをするのがこの地域の習慣のようだ。子どもを交えておしゃべりに花を咲かせている家があったので一枚撮らせていただく。こういう近所づきあいってなんかとてもいいね。

ちょっと不安そう

近くの家の前では妹の世話をしている女の子がいる。カメラを向けると妹を抱き上げてポーズをとってくれた。少女の笑顔と妹のちょっと不安そうな顔が交錯する一枚となった。

停電

夜になると激しい雷雨が始まった。この宿は商店にもなっており,そこの机を借りて日記を書いていた。すごい雨なので宿の入り口にある長イスに坐って外をしばらく眺めていた。

外は暗いので視覚的には雨の強さは分からない。しかし,屋根の雨どいから落ちてくる水流の激しさが雨の強さを物語っている。ときどき空が明るくなる。距離があるので雷鳴はかすかに聞こえるだけだ。

突然,明かりが消えて真っ暗になる。これには驚いた。家の人がローソクを持ってきてくれたので,それを使って部屋に戻りライトを取り出す。当然,日記は途中で終了である。

することがないので,再び長イスに坐りおじいさんと四方山話をして時間を過ごす。この停電は朝になっても回復しなかった。僕の部屋の窓側にはとなりの家が迫っているため06時になってもとても暗い。ライトを手に持って水浴びに行く。

後日談になるがこのとき使用していた中国製のLED型のライトはじきに動作しなくなった。見てくれは良いけれど信頼性はまだまだの水準である。ライトもLEDの時代になったので国産メーカーの小型設置灯を買い求めた。単3乾電池3本で連続50時間点灯というすぐれものである。

これも原産国表示は中国となっているが,前のものよりはずっと信頼性は高いだろう。停電時に必要なのはある方向を照らす機能ではなく,設置した周囲を少し明るくする機能の方が優先される。

たくさんの荷物を並べたおばさんたち

橋のある船着場からエンジン付きの小舟が出ており,5000ルピアで対岸に行ってくれる。今朝の船着場にはたくさんの荷物を並べたおばさんたちが何かを待っている。荷物は食料や雑貨なので,これから売りに行くのか,買出しに来たのかどちらかであろう。

対岸に渡る

それを見極める前に渡し舟が来てしまった。大河マハカムもこのあたりでは川幅は200-300mほどしかない。小舟はあっという間に対岸に到着した。この船着場は川岸からずいぶん離れており,延々と木道が続いている。

のどかな風景

こちら側はそれほど開けておらず,家屋は樹木に囲まれている。川で水浴びをしてきたのか,柄杓をもちサロンを巻いた少女が家の方に戻っていく。ずいぶんのどかな風景である。対岸にはトゥリンの町が広がっている。水辺に並ぶ浮き家は一段低い列をつくり,その背後に陸上の家屋が並んでいる。モスクの銀色のドームがとても目立っている。

ローズ・アップル

朝一番の発見はローズ・アップル(フトモモ科・フトモモ属)の花を見つけたことだ。今まで果物がなっているところは何回も見たが,花をしっかりと見たのはこれが初めてだ。花の周辺にはすでに赤く色付いた果実やまだ花の咲いていないつぼみがたくさんあるのに,咲いているものはごく少なかった。花が終わった状態のものも多いので,花の寿命はとても短いのかもしれない。

フトモモ科は100-150属,3000種以上の種を含む大きなグループである。ユーカリ,グワバ,チョウジ(クローブ),ギンバイカなどもフトモモ科に属する。フトモモ科の植物には美しい花をもつものが多い。花弁が美しいものもあるが,退化して無くなってしまったものもある。その代わりに長い雄しべが多数ありとてもよく目立つ。

ローズ・アップルの花も白い雄しべがとてもよく発達している。しかし,花の咲いている枝は高いところにあり,下から見上げる写真は逆光になってしまう。いい写真にはなりようもないが,それでもなんとか花が分かる程度に仕上がった。

花が終わると雌しべを残して雄しべはすべて落ちてしまう。しばらくすると子房がふくらんできてローズ・アップルと呼ばれる果物になる。変種がいくつもあり,熟すと赤やピンクになるものもあれば,青いままのものもある。

英語名のローズ・アップルは果物のもつよい香による。しかし,僕がベトナムで食べたものは香もなく,味も渋みがあり,果物とはとても思われなかった。それ以来,この果物は口にしていない。よほどひどいものに当たったのかな。

グヤバノ

「グヤバノ」のなっている木を見つけた。木になっているところを見たのはこれが初めてだ。グアバノはフィリピンで覚えた果物名であり,この名前でネットを検索してもフィリピン関連の情報しか見つけることができなかった。学名も分からないので困り果てた。

たまたま英名の”Sour Sop”という名前が見つかり,それで検索にて”Annona”という属の学名が分かった。この学名で検索してようやく和名が「トゲバンレイシ(バンレイシ科・バンレイシ属)」であることが判明した。

う〜ん,バンレイシというのはどこかで聞いたことがあると思い調べてみると,釈迦頭(しゃかとう,写真左下)の別名だという。確かに釈迦頭はバンレイシ科に属する果物であるが,科名を独り占めできるほどメジャーではない。やはり,僕の頭の中では釈迦頭のままが良さそうだ。

トゲバンレイシ(Annona muricata)の原産地は西インド諸島から南アメリカ北部とされている。ここで見つけた木は高さが7-8m,立派な実が一つだけついていた。表面にとげとげがあるのはこの果物の特徴である。

卵形で大きさはちょっとしたメロンほどもある。商品として市場にあるものの中には5kgほどのものもある。この大きさのため一人では食べきれないのでなかなか手が出ない。フィリピンでは1リットルパックのジュースになっており,クセの無い甘さと適度な酸味ありとても好ましい。本体は確かにどこかで食べたことがあると思うのだが味は思い出せない(当然,ジュースと同じであろう)。

森のかけら

この他にも見たことのない樹木をいくつか見かけたが,それが何であるか皆目見当がつかない。家屋が途切れると道の周囲は森のかけらが広がるようになる。特に道路側は日当たりが良いせいか植物が密集しており,とても中に入れそうもない。このような森に分け入る時はしっかりとした長袖の服装が必要だ。また,ぬかるみも多いので足回りにも工夫が必要である。

昨日の雨でまだ下ばえのシダも濡れており,道から外れるわけにはいかない。現在の服装では大きな水たまりの点在する道を歩きながら森の雰囲気を味わうしかない。

15年前にサラワクの熱帯雨林を歩いた時は,倒木やぬかるみでかなり歩くのに難儀はしたが,植物が密生して行く手を遮るということはなかった。意外にも空間的にはけっこう空いているという印象であった。それに対してこの地域の森のかけらはずいぶん空間的なすき間がない。

まだ骨組みしかできていない建築中の家があった。誰もいないので足場を伝って上に上ってみる。何枚かの板材が渡してあり,その上でしばらく周辺の森を観察していた。

歩いているとそれほど聞こえなかった小鳥の声がはっきり聞こえてくる。目を閉じていると今まで気が付かなかった小さな音も聞こえてくる。なかなか上品なウッド・ノート(森のささやき)である。

再び歩き出すと,周辺には樹冠をもった比較的背の高い木がまばらに生えている。このような木は製材のため率先して伐られるため,後には高さ15-20m程度の低い森のかけらが残ることになる。

一時は定住耕作地にされた草地がある。現在は放棄された土地のようだが,わずかな樹木があるだけでほとんど草地になっている。いったん,定住耕作地にしてしまうと,放棄後も森が回復する速度は遅いようだ。

森を切り拓いたときに森の外れに植えられたと思われるサゴヤシはもう高さ15mほどに成長し,特徴のある葉柄を急角度で伸ばしている。このサゴヤシからでんぷんを採ろうとする人はもうこの先出てこないであろう。

ビー玉で遊ぶ

村落に戻ると子どもたちがビー玉で遊んでいた。今日は土曜日なので学校はお休みである。僕の子どもの頃は,ビー玉はメンコ(パッチ)は必須アイテムであった。

しかも,取ったり取られたりするので遊びというよりは真剣勝負であった。現在なら友だちの持ち物を取り上げるような遊びはとても許されないであろうが,昭和30年頃は堂々と勝負が行われていた。なつかしい思い出である。

このような子どもたちの遊びは地域によって遊び方やルールは異なっていたはずだ。子どもたちは集団の中でルールを作り,遊びに興じていたわけだ。ビー玉を例にとると,僕の育った北海道では地面に丸か四角の図形を描いて,4-5m離れたところに開始線を引く。

最低限必要なビー玉は一人当たり2個,1個は図形の中に置き,もう1個でゲームを進める。人数分のビー玉を図形の中に置いたら(置き玉),そこから開始線に向って各自がビー玉(持ち玉)を投げるかころがすかする。開始線に一番近い順にゲームが始まる。

一番手が図形の中の置き玉をねらって自分の持ち玉を投げるかころがす。首尾よく図形の中から置き玉をはじき出すことができるとそれは自分のものになり,持ち玉が止まった位置から続けて置き玉をねらうことができる。

不幸にも自分の持ち玉が図形の中に入ると,それは置き玉となり,もうその回はゲームに参加できない。最初の人が置き玉を出せなかった場合は次の人がゲームを始める。

二番手は置き玉をねらってもいいし,一番手の持ち玉をねらってもよい。首尾よく一番手の持ち玉に当てることができれば,その玉は自分のものとなり,一番手はもうその回はゲームに参加できない。

こうやって参加者が順に持ち玉を繰り出し,置き球がなくなるか,持ち玉が最後の一人になるとその回は終了する。最後の一人の場合,残った置き玉はその人のものになる。これがゲームの概要であるが,遊びの内容を言葉で説明するのは大変だね。

もちろん,上記の説明は数ある遊び方の一つである。小指を地面に付け,親指ではじいて相手のビー玉をねらうものもある。また,目の高さから落として相手のビー玉に当てるという遊び方もあった。まあ,所変われば,遊び方も変わると考えた方がよい。

この村落では人差し指か中指ではじく方法でビー玉を操作していた。しかし,みんなビー玉をはじくだけで,肝心の遊び方はしばらく見ていても分からなかった。

イベントの舞台を設営する

道路の交差点にイベントの舞台が設営されていた。30人ほどの男性が高さをそろえた杭を立て,横木を取り付け,さらにその上に縦方向の角材を渡し,その上に板を置いていく。この男性たちは大工というわけではない。みんな普通の農民なのだが,この程度の大工仕事はすべて自分でできるようだ。もしかしたら,専門の大工はおらず,村落の家屋も村人が共同して建てたのかもしれない。

農村社会では職業の分化はそれほどはっきりはしていない。そのため,男性も女性も生活に必要なことは一通りできることが要求される。舞台につながる家では盛大に食事の支度が行われている。このように村落の人々の力を借りてなにかするときは食事をふるまう習慣があるはずだ。あと2時間後に戻るとごはんをいただけそうだ。

伝統的な家屋

この村落にも伝統家屋が残されている。その手前に「ようこそいらっしゃいました」とインドネシア語で記載された門がある。門を支える右の柱には人間の親子が,左側には人か魔物か動物か判定不明の像が彫り込んである。

門を入って左側には短いながらもロングハウス風の建物があり,ここには人が居住している。正面には伝統的な(と思われる)建物がある。この建物は見事な板葺き屋根である。建物は切妻形をしているが,長手方向を正面に見て左右に傾斜屋根をもっている。

ロングハウスも切妻形であるが両端は垂直に切られている。この建物はわざわざ傾斜屋根を付けて,さらに最上部を伸ばしてそこに飾りを付けている。かなり手の込んだ造りだ。おそらくコミュニティの集会室のような特別の建物なのだろう。

長手方向を正面に見て,入り口は右側面にある。高床式なので丸太を削った階段が三列につながっている。それぞれの階段の各段とその間には見たことの無い紋様が彫られている。また,両側の階段の最上部にはトカゲが彫られており,これは上り下りのジャマになっている。

正面にはこれも意味が分からない三種類の板絵が描かれており,ずいぶん変わったものであった。確かにダヤクといっても多くの民族集団があり,それぞれが独自の表現方法を持っていたとしても驚くには当たらない。残念ながらこの伝統家屋は施錠されており,中に入ることはできなかった。

川岸の風景

川岸の斜面の傾斜は対岸のトゥリンに比べてずいぶん緩やかだ。川が蛇行するところではこのような地形が多い。そのため,川岸から水辺までの距離が長く,そのぶん足場となる丸太も2本,3本とつないでいかなければならない。

横から見ると川辺の家々から何本もの丸太の列が川岸に向って伸びていくという面白い景色になっている。これを川岸から眺めると,丸太の階段の向こうに筏の浮き家があり,その先に川とトゥリンの家並みがあるという構図の写真になるのだが,実際には対岸の景色が欠けてしまった。

やはり,中心となる浮き家ばかりに気をとられてフレームが甘くなる。浮き家の周囲には「チェス」と呼ばれるエンジン付きのボートが数隻つながれている。この幅の狭いボートは彼らの足である。

現在はエンジンを取り付けているが,それ以前の時代は小さなオールを使って人力で漕いでいたはずだ。方向を変えるためには左右に漕ぎ分ける必要も出てくる。これを一人で操作するため必然的にボートの幅は坐った人間の幅に近いものになる。

この水系で使用されているチェスの幅が狭いのはそんな理由によるものだろう。小舟にエンジンが取り付けられた現在でもその幅は変わっていない。日本や中国のように,川舟に魯を固定して漕ぐという文化はこの地域では育たなかったようだ。

板材を引き上げる

少し川岸の傾斜がきつくなったところでは丸太の階段の取り付け作業が行われている。階段は新しいものではないので,斜面の崩落により滑り落ちてしまったのかもしれない。

これを斜面に引き上げるのは大変な作業だ。とても一家族の人力だけでは足りない。近所の男性が手伝って作業が行われている。人手が必要になったら近所の人々が力を合わせる文化はこの地域ではまだ健在である。10人ほどの男性に引かれ,丸太の階段は斜面に引き上げられた。

崩落する斜面

川は上流から土砂を運び,下流側に砂州や三角州を形成する。当然,上流側では川により土砂が運び出される。船着場から少し上流側では土手にひび割れが入っており,川岸の斜面が少しずつ削られている様子がうかがわれる。

もっともこの川岸は細かい一様な土砂でできており,上流から運ばれてきたものだろう。川が運んできた土砂を,川が運び去って行くという図式である。

もう一年もしたらこのあたりの川岸は数m後退していることだろう。川岸の状態が変わっても筏の浮き家なら柔軟に対応することができる。そこが浮き家のいいところだろう。

昼食をお呼ばれする

村落を見学して11:30頃にイベントの家に戻ると昼食が始まっていた。広さ12畳ほどの部屋に30人ほどの男性が4列に坐り食事をしている。このような場合,料理はたくさん用意されているので僕が飛び入りしたぐらいでは全く問題はない。

料理は魚と野菜のスープである

家の人より先に客に勧められて僕も食事を始める。料理は魚と野菜のスープであり,魚好きの僕にはごちそうである。みんな皿にごはんを取り,スープと一緒に手づかみで食べている。僕もこの食べ方で問題はないが,家の人がスプーンをもってきてくれたので使わせてもらう。

ごはんのお礼に家の中にいる子どもたちにヨーヨーを作ってあげる。すると近所のお母さんたちが自分の子どもを連れてくるので10個くらい作ることになった。

小さなお店番

ベンチの上で二人の少女が店番をしていた。プラスチックの容器やカゴの中には日本のカキアゲのようなものやコメの粉を蒸して餅のようにした食べ物が入っている。売れ行きはかんばしくなく,二人とも暇そうだ。

陽射しが強いので一人は日傘をさしていたが,カメラを向けると傘を横に置いて営業用の笑顔を見せてくれた。インドネシアでは子どもが家の商売を手伝うことは当たり前である。どこに行ってもこのようにして働く子どもたちを見かける。

子どもたちが水遊びに興じていた

トゥリンに戻るため船着場に行くと,子どもたちが水遊びに興じていた。気温が上がると水遊びは彼らにとって最大の楽しみであろう。渡し舟がやって来て,舟の上からカメラを構えると,彼らは水しぶきを上げながら見送ってくれた。


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