亜細亜の街角
陰気な冬をもつベトナムの首都
Home 亜細亜の街角 | Ha Noi / Vietnam / Feb 2006

ハノイ  (地域地図を開く)

ベトナム社会主義共和国の首都である。18世紀以前のベトナムとは北部ベトナムを意味する。ベトナムは1000年に渡り(漢から唐までの中国王朝支配期,前111年 - 938年)北の大国中国の支配を受けてきた。

938年に呉権が紅河デルタの入り口にあたる白藤江(バックダン・ザン)の戦いで広洲の地方政権である南漢国の軍を破り独立を果たした。1010年に成立した李氏大越国はハノイを都と定め,それ以降ハノイはグエン朝の一時期を除き北部ベトナムの政治・文化の中心地として機能してきた。

ハノイは南のホーチミン市とはあらゆる面で対照的である。それはベトナムにおける北と南の風土の違い,あるいは人々の気質の差異が大きく影響しているようだ。水と陽光に恵まれた常夏のメコンデルタと四季があり陰気な冬をもつ紅河デルタを比較してみると良く分かる。

残念ながら僕が訪れた2月は冬にあたり,短時間ではあるが毎日のように小雨が降り,とても寒い。ちょっと風が吹くと,冬用のフリースを着なければならない。ハノイの物価は高く,外国人に対するふっかけの度合いもひどい。陽光のホーチミンが恋しくなる。


フエ(680km)→ハノイ 移動

フエ(18:30)→ハノイ(08:30)とバスで移動する。ハノイ行きのバスのチケット(8$)は宿で買うことができた。形式的にはオープン・ツーと称しており,路線バスとは異なるらしい。個人的には昼間のバスが望ましいが夜行バスしかないという。

宿で待っていると17:30にバスが到着し,何人かの乗客が荷物を持ってホテルに入ってくる。ツアー会社とホテルはこのような形で系列を作り,乗客をホテルに送り込んでいる。

バスは1時間ほど市内を回り乗客を集め,ほぼ満席状態で出発する。僕の服装は半そでポロシャツと長袖の軽フリースである。外は十分涼しいのに冷房が入る。ほとんどの乗客は頭上の噴出し口を閉める。

バスは暗くなった国道1号線を走る。トイレに行きたくなるし,空腹感もつのってくる。ようやく食堂に停まり,良心的な10,000ドンのフォーをいただき暖まる。身体が冷え切っているときは,食べ物は暖かいだけも御馳走だという感覚がよく分かる。

バスの冷房は切れたが車内温度はどんどん下がる。冬用のフリースを着込んでもまだ寒く,眠るとカゼをひきそうである。ともあれ何回かうとうとしていたら夜が明けた。

Prince 57 Hotel

バスはハノイのツーリスト・オフィスに到着した。その前にスタッフが乗り込んできて,「他の客引きにはついて行かないように」とクギを刺す。ツアー会社は系列のホテルに客を連れていかなければ契約違反になるのだろう。もっともどこのホテルに泊まるかは旅行者の勝手である。

オフィスから無料の送迎タクシーでPrince 57 Hotelに連れてこられた。旅行会社も入っておりそれほど悪くない。部屋の標準料金は6$,予算は5$だよと言うと1階のうるさい部屋に案内された。

同じホテル内のドミは嫌だし,他を当たる元気も無いのでOKを出す。部屋は6畳,1ベッド,T/S付き,清潔である。窓は二方にあるが開けられない構造になっている。

朝食はいつも少し離れてところにある小さな屋台で豚の角煮と玉子焼きをいただいた。最初の日は10,000ドンであったが,次の日からは顔なじみになったのか7000ドンになった。朝はけっこう寒く,熱いご飯と角煮はとてもおいしいのでついつい同じところに通ってしまった。

Prince57周辺の街並み

子どもを抱き上げるホーおじさんの大きな肖像

ホー・チ・ミン(胡志明, 1890年5月19日 - 1969年9月2日)はベトナムの革命家であり政治家である。第二次世界大戦後に独立したベトナムにおいてもっとも重要な役割を果たした人物である。

日本降伏の1945年8月15日に国際的に知られた名前である「グエン・アイ・クオック」の名で全国総蜂起のアピールを発し,ベトミン(ベトナム独立同盟会)の主導による全国的な民衆蜂起すなわちベトナム八月革命を起こした。

革命は成功し,9月2日にホー・チ・ミンはハノイにおいてベトナム独立宣言を発表し,ベトナム民主共和国の国家主席兼首相に就任した。しかし,国際的には新生ベトナムはどの国からも承認されず,旧宗主国のフランスとの間に「第一次インドシナ戦争」が発生した。

ベトミンはゲリラ戦により7年間の戦争を戦い抜き,1954年,ディエンビエンフーの戦いでフランス軍を降伏させた。その結果,ジュネーブ条約が締結された。しかし,平和的なベトナム独立は米国の介入により果たせず,ベトナムは北ベトナムと南ベトナムに分断されることになった。

武力による統一をめざす勢力がベトナム労働党指導部を掌握した結果,北ベトナムの指導の下に南ベトナムにベトコン(南ベトナム解放戦線)が結成され,1960年に「ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)」が始まった。戦争は1975年のサイゴン陥落で終結したが,ホー・チ・ミンは戦争のさなかの1969年に死去した。

ホーは個人崇拝につながる墓所や霊廟の建設を望んでいなかったが,その意向は無視され,政治局の決定により遺骸はレーニンにならって永久保存され,戦争終結後に建設されたホー・チ・ミン廟に安置された。

1989年の東欧革命や1991年のソ連崩壊によりヨーロッパにおける社会主義体制が崩壊したことにより,ベトナム共産党はマルクス・レーニン主義と並ぶ党の指針として「ホー・チ・ミン思想」を掲げるようになり,ホー・チ・ミン個人への依存を強めるようになった。

ホー・チ・ミンの政治手法で特筆されるべきことは『ソ連のスターリンや中国の毛沢東のように革命によって権力を握った共産党指導者が反対派を粛清していった』という事例に組しなかったことである。また,腐敗や汚職に無縁であり,禁欲的で無私な指導者であり,自らが個人崇拝の対象になることを嫌っていたことである。

ホーの慈愛に満ちた飄々たる風貌,腐敗・汚職・粛清に手を染めなかった高潔な人柄のため現在でも『ホーおじさん』として民衆に親しまれている。

しかし,(彼の死後のことではあるが)南北ベトナムの統一後に,旧南ベトナムの支配階級や富裕層,軍人などは厳しい弾圧にさらされ,大量の難民を生み出したのも事実である。

ホアン・キエム湖

ハノイの中心部にある「ホアン・キエム湖」は南北600m,東西200mほどの楕円形をしており,北側と南側に島をもっている。この湖はかって西側約1kmのところを南北に流れるソン・ホン(紅河)とつながった遊水地であったが,埋め立てにより現在のような姿になっている。

北側の島には18世紀に建立されたゴック・サン寺院があり,13世紀に元との戦いで活躍した人などが祀られている。湖の東岸から島までは赤く塗装された木造のフク橋が架かっており,島まで行くことができる。

フク橋の上でノンと呼ばれる菅笠をかぶった地元の少年がポーズをとってくれたので写真にした。しかし,後から考えてみるとベトナムの男性はノンを被ることはないので,もしかしたら少女だったのかもしれない。

ホアン・キエム湖には天上の宝剣にまつわる言い伝えがある。大越国の初代皇帝黎利(レー・ロイ)は手に入れた宝剣により明との戦いに勝利し,その後,天の声を聞いて湖の亀に宝剣を還した。

そのため,この湖はホアン・キエム湖(還剣湖)と呼ばれるようになった。湖岸から見える塔は「亀の塔」と呼ばれている。実際,この湖には巨大な亀が棲息しており,1968年には湖で体重250kgの大亀が発見されている。

湖の周囲はにはたくさんのベンチが設置されており,市民の憩いの場となっている。夜はきれいにライトアップされ,夏場は夕涼みの名所となっているのではと推測する。僕はほとんど夜は出歩かないし,夕方からは冷えてくるので夕涼みの雰囲気ではなかった。

観光用シクロに乗る欧米人の団体

バイクが普及したベトナムでは三輪自転車の「シクロ」は衰退産業となっている。2000年代の初めにはホー・チ・ミン市のシクロといえばぼったくりあるいは恐喝の代名詞のようなものとして旅行者には敬遠されていた乗り物である。

当時の僕もトラブルを避けるためできるだけシクロは利用しないようにしていたという記憶がある。ベトナムに来たのだからということで女性だけで流しのシクロに乗るというのは自らカモにしてくださいと言っているようなものであり,いやな思いをするのが落ちである。

ちゃんとメーターを使ってもらえればタクシーは日本よりずっと安いので,移動だけならそちらの方がずっとましである。もっとも,自分の流儀を押し付けるつもりはさらさらないが,町歩きの一番良い方法は歩きである。

ハノイでは観光用シクロとしてかなりの台数が営業している。僕の頭の中にはベトナムのシクロの悪い記憶だけが詰まっているので,観光用でもさっぱり乗り気は起きない。大きな団体用の観光シクロはおそらくタクシーよりずっと高い料金であろうが,旅に不慣れな人の良い思い出づくりには役に立つサービスである。

道路の一画にはたくさんの観光用シクロが並んでおり,これから出発するのかあるいは別の場所に移動するのか,ずいぶん大勢の人が座席に座っている。

僕の宿泊している界隈は「ホアン・キエム湖」に近いこともあり,宿の前の通りを隊列を組んで通る観光用シクロを見かけた。でも,これでは町を動いているときの自分の写真を撮ることはできない。

ハノイ大劇場(オペラハウス)

1911年に完成したオペラハウスはハノイに残るフランス建築の中で最大かつ最も美しい建築物である。現在はハノイ市民が音楽を楽しむ場所になっている。公演時以外は内部には入れないが,外から見るだけでもその重厚さが伝わってくる。赤い布がかかっているところから判断すると,現在あるいは近々,公演があるのかもしれない。

これは本物のハノイ・ヒルトン・ホテル

ハノイには二つのヒルトン・ホテルがある。一つはこの写真のハノイ・ヒルトンであり,もう一つはベトナム戦争当時の悪名高いホアロー捕虜収容所(現ハノイタワー)のことである。拷問や洗脳が日常的に行われていたとされており,アメリカ兵はこの捕虜収容所のことを皮肉交じりで「ハノイ・ヒルトン」と呼んでいた。僕の記憶の中では捕虜収容所に直結している。

国立ベトナム歴史博物館

国立ベトナム歴史博物館はオペラハウスの裏手にあり,八角形の屋根が特徴である。フランス人建築家の設計により1932年に完成したものであり,ベトナムの伝統的な建築様式と西洋建築様式が融合した最初の歴史的建造物である。

展示品は原始時代,古代,北属期(中国の支配下に置かれた時代),独立王朝時代,フランス統治時代,独立後という時代に区分されている。とはいうものの多数の展示品の前を通り過ぎるだけではほとんど記憶に残らない。

歴史博物館|白藤江の戦い(1228年)

唯一,記憶に残る(写真に残した)ものはこの巨大な絵画である。これは1228年の「白藤江の戦い」を題材にしている。この時期,中国大陸は元朝が支配し,ベトナム北部は陳朝大越国が,南部はチャンパー王国が支配していた。

皇帝フビライは9万の兵と大量の糧食を積んだ船団を派遣したが,糧食の船団が大きな被害を受けたことと,大越国によるゲリラ戦と焦土作戦のため首都である昇竜(現在のハノイ)を陥落させても大越国軍を打ち破ることはできなかった。

食糧不足が現実のものとなり,元軍は水路と陸路の二手に分かれて退却を開始したが,大越国軍は白藤江の川底に多数の杭を打ち,引き潮の時刻にその地点に誘い込み,身動きのとれなくなった船団を壊滅させた。この絵はそのときの様子を描いたもので,北の脅威に英雄的に戦ったベトナムを象徴するものとして神話化されている。

公園の遊具にはこんなものもある

緯度に比してハノイの冬はとても寒い

ハノイの緯度は台湾とフィリピン・ルソン島の中間あたりである。それにもかかわらずハノイの冬はとても寒い。僕はベトナムから雲南に抜けようとしていたので東京の冬でも外歩きに使用できる冬用フリースを持参してきたが,ベトナム=暑いというイメージで冬のハノイにやってきたら寒さに震えることになる。

中国文化の影響が強い

路上の市場は午前中だけ開いている

ベトナム女性は本当によく働く

コールラビ

路上の市場で売られていた。コールラビはアブラナ科の野菜であり,球状に肥大した茎部を食用とする。語源はドイツ語でコールは「キャベツ」,ラビは「カブ」を意味する。和名はカブカンラン,カブラタマナである。

日本のスーパーでは見たことがないし,僕も食べたことはない。風味や食感はブロッコリーの茎やキャベツの芯にやや似るが,果肉部の率が高いため柔らかく甘みがあるという。(wikipedia)

水パイプは中国・雲南の文化である

自称「雲南の七不思議」に挙げられるのが水パイプである。太い竹の節は抜いてある。下の方にタバコを詰める細い棒を取り付け,水を入れる。タバコに火をつけ,口を付けて強く吸うとゴボゴボという音とともに煙を吸い込むことができる。

中国には古くから煙管の文化があったと思う。なんでこのような面倒な器具ができたのか,そちらの方が不思議だ。

地理的に近いこともあり,この水パイプの文化はベトナムにも伝わってきているようだ。あるいは,その昔,また国境などがなかった時代にベトナム北西部地域と雲南は同一の文化圏であったとも考えられる。

ドンスアン市場

ドンスアン市場|建物の中に露店があるような構造だ

ドンスアン市場の北側に鉄道のロンビエン駅がある

中央に線路があり両側はバイク用の道になっている

紅河の風景

紅河(ベトナム名はソン・ホン)は雲南省の大理の少し南側あたりからインドシナ半島北東部を流れ下る,全長1200kmの大河である。上流部では西に50km弱のところに瀾滄江(メコン川上流部)が北から南へ,北側には金沙江(長江上流部)が西から東へ流れている。

インド亜大陸とアジア大陸の衝突によりヒマラヤ山脈が生まれ,その東端にあたるところが巨大な横断山脈である。その山脈を切り裂くようにチベット高原から流れ下る三つの大河である怒江(サルウィン川上流部),瀾滄江(メコン川上流部),金沙江(長江上流部)が西から順に並び,南北方向に深い峡谷を刻んでいる。

さらにその西側には独龍江(エーヤワディ川源流部)が流れ,ミャンマーの中央部に下っていく。紅河は横断山脈の南側から始まり,他の大河と同じように深い谷を刻んで元江,紅河,ソン・ホンと名を変えながら雲南省から国境の町ラオカイを通過するようにベトナムに入り,(メコンほどでなないにせよ)広大な紅河デルタを形成しトンキン湾に注いでいる。

古くから北部の中心地であったハノイ(昇竜)は紅河に育まれた町である。紅河の由来は中流域から酸化鉄を多く含んだ土砂を運んでくることによるが,雲南省で見てもベトナムで見てもそれほど「赤い河」というイメージは湧いてこない。

地図で分かるようにベトナムは山地と海に挟まれた細長い国であり,まとまった平地としてはメコン デルタと紅河デルタしかない。そのため,紅河デルタは二期作を中心としたベトナムの穀倉地帯となっており,メコンデルタと同様に運河による水上交通網も発達している。

紅河はハノイの中心部から1km足らずのところにあり,見に行かない手はない。うまいことにホアン・キエム湖の北側1kmほどのところに鉄道が紅河を横断している。ドンスアン市場の北側に鉄道のロンビエン駅があり,ここから鉄橋に上ることができる。

鉄橋の中央には線路があり,両側にはバイク用の道路,その外側には歩道がある。ここを歩いて紅河を渡ることもできる。川の上に出ると紅河は巨大な中州によって分断されている。

確かに堆積している土砂は赤みが強いものの,天気が悪かったせいもあり水の色は鈍色であり,やはり「赤い河」のイメージはない。

ロンビエン駅の近くで屋台が出ていたので,ごはんとジャガイモのトマトスープをいただく。代金は5000ドンくらいかなと思い5000を出すと3000のおつりがきた。ツーリストエリアから外れると庶民の食べ物はこんなに安くなる。

ハノイ駅|駅前の広場は市バスの始点になっている

ハノイ駅|移動する人たちの多くは冬服を着込んでいる

鉄道線路はこんなところを走っている

ベトナムらしいモニュメント

ホーチミン廟

一柱寺は文字通り一本の柱で支えられている

■調査中

文廟は1070年に創建された孔子廟である

亀の背に乗った碑文が並ぶ
科挙の試験に合格した進士の名前が刻まれている

文廟正殿

正殿前には2匹の龍が飾られた香炉がある

おそらくこれは孔子像なのであろう

文廟の門前市
民衆の像がけっこうおもしろい

別名はハノイ・ヒルトン
ベトナム戦争時の捕虜収容所施設跡

12月19日市場

変わった名前が付いている市場であるが,内部は特に変わったことのない商店と商品が並んでいる。この12月19日とは「第一次インドシナ戦争」の始まりの日である。

ベトナム建国の父である「ホー・チ・ミン」は日本降伏の1945年8月15日に国際的に知られた名前である「グエン・アイ・クオック」の名で全国総蜂起のアピールを発し,ベトミン(ベトナム独立同盟会)の主導にり全国的な民衆蜂起すなわちベトナム八月革命を起こした。

革命は成功し,9月2日にホー・チ・ミンはハノイにおいてベトナム独立宣言を発表し,ベトナム民主共和国の国家主席兼首相に就任した。

しかし,国際的には新生ベトナム民主共和国はどの国からも承認されず,逆にフランスは1946年にベトナム民主共和国を「フランス連合」の一員として認める代わりにハノイを含め全インドシナにフランス軍が駐留することになった。

当然,ベトナム民主共和国とフランス軍との関係はすぐに悪化し,12月19日にハノイのフランス軍はべトミン軍を攻撃し,第一次インドシナ戦争が開始された。

ベトナムのお土産として人気があるようだ

ホア・ルー(陸のハロン湾)ツアーに参加する

ハノイの近郊には2つの見どころがある。「海の桂林と呼ばれるハロン湾」と「陸のハロン湾と呼ばれるホア・ルー」である。どうも呼称がややこしいがどちらも石灰岩の景勝地である。どちらにしようかといろいろ悩んだ末に日帰りのホア・ルーに参加することにした。

ハノイの100Km南にあるホアルーは現在は小さな村であるが,前黎朝(10世紀末-11世紀初頭)の都が置かれていた。いくつかの王廟や城門が戦争の被害に遭うことなく保存されており,ベトナムの重要文化財に指定されている。周辺は水と石灰岩の岩山が作りだす水墨画のような風景が広がっている。

実際のツアーの内容は,ピックアップ(08:00)→石灰岩の岩山風景→土産物屋(09:20)(09:30)→ホアルーの李朝廟(10:30)(11:30)→昼食(12:00)(12:45)→ニンビンのボートツアー(12:45)(14:45)→ハノイ(16:45)となっている。昼食付きで12$は適正価格といえよう。

08:00にピックアップしてもらう,バスは30分ほど街を走りメンバーを集めてから本当の出発である。30分ほど走ると右側に石灰岩特有の形をした岩山が見えてくる。

道路の周囲には家並みもしくは水田になっている。家並みの背後にも広大な水田が広がっている。これだけの面積の水田を維持するだけの水がこの地域にはあるようだ。

大きなニュータウンも造成されている。美しい水田地帯も一部は埋め立てられ,醜悪な姿をさらしている。水田では8分通り田植えは終わっている。

残りの部分では大人数で田植えが行われている。長靴を履いているようには見えない。この気温,この水温で大丈夫なのだろうか。作業はすべて手作業,膨大な時間と労力が必要である。

水と石灰岩の岩山の風景が連続している

ホアルーには前黎朝の都が置かれていた

ハノイから約100q南に位置するホア・ルーには前黎朝(10世紀末-11世紀初頭)の都が置かれていた。現在のホア・ルーは小さな村となっており,周辺は水と石灰岩の岩山の風景が連続している。

往時を偲ぶ建造物として「ディン・ティエン・ホアン祠廟」と「レ・ダイ・ハン祠廟」という2つの王廟がある。また,都城の一部となっていた門も残っている。もっとも,それらは17世紀に再建されたものである。

廟の門をくぐると龍を彫りこんだ大きな石板が置かれている。廟の内部には王と思しき人物の像が祀られている。ただそれだけであり,周囲の水田に写る岩山の景色のほうがずっと素晴らしい。

ホア・ルーの城門の一つ

景勝地タムコックに移動する

地盤がゆるいので竹を打ち込んで強化する

タムコックの船着き場

立派なレストランで昼食をとり,メインのボート・ツアーが始まる。レストランの前は水上公園のようになっており,大変な数の平底の鉄製ボートが並んでいる。1隻あたりこぎ手が2人,乗客が2-3人となっている。

タムコック川のボートクルーズ

ガイドが乗客をボートに振り分ける。後ろのこぎ手は前こぎの2丁櫓を扱い,前のこぎ手は小さな1本のオールを使用して方向を調整する。小さな橋をくぐると水路の両側に切り立った岩山が次々と現われる。

近くで見ると水の浸食で穴だらけになっているのが分かる。大きな木に抱かれるような小さな岩もある。スケールを1/10にするとそのまま箱庭の題材に使えそうである。

水路の深さはせいぜい2m程度で,浅い部分には苗が植えられている。ここにも人々の暮らしがあるようだ。孤立した奇岩もあれば連なった山もある。前方にある巨大な岩山に水路は吸い込まれている。

そこは高さ2mほどの洞窟になっており小舟はそのまま進む。暗闇の向こうに明るい出口が見える。再び開けた水路を進む。何隻もの帰りのボートとすれちがう。また洞窟が口を開けている。今度のものは小さい。

ここを抜けるとボートがたくさん待機している。観光客にお土産を売ろうとしているおばさんたちが待ち構えている。彼女たちのねらい目は,終点まで行って戻ってくるボートである。

3つの洞窟を抜けて終点から引き返した僕の舟にも彼女たちはやってくる。値段が高くてとても買う気にはなれない。舟のおばさんも積んでいた長持ちからお土産品を取り出す。やれやれである。

帰路も車中から石灰岩の岩山と水田の風景を楽しむ


フエ   亜細亜の街角   マイチャウ