亜細亜の街角
現世の都,魂の都
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フエ  (地域地図を開く)

ベトナムの歴史の大部分において北部ベトナムと南部ベトナムは異なる民族,異なる王朝に支配されてきた。18世紀以前,ベトナムとは北部ベトナムを意味していた。

1000年におよぶ北属期(漢から唐までの中国王朝支配期,前111年 - 938年) においても,その後のキン族王朝期においてもその支配地域は北部ベトナムに限定されている。

ベトナム南部は長い間チャンパ王国に支配されており,一時期を除きベトナム全土を最初に統一したのは18世紀のグエン(阮)王朝である。この王朝はベトナム最後の王朝でもある。

1802年にグエン・フォック・アインが全土を統一し,自らをザーロン帝と名乗りグエン朝を興した。それまでベトナムの政治の中心地はハノイであったが,彼はベトナム中南部を支配していた阮氏の出身であることからフエを都に定めた。

1804年には中国の清から越南国王に封ぜられ,越南国(ベトナム国)を正式の国号とした。阮朝は清に朝貢を行って形式上従属したが,国内や周辺の諸民族・諸国に対しては皇帝を称し,ベトナムに小中華帝国を築き上げた。1945年にバオダイ帝が退位するまで12代の皇帝が君臨した。

しかし,グエン朝の栄華は長く続かず,各地で発生した反乱により急速に求心力を失っていく。さらに,19世紀後半にはフランスの支配下に入り,グエン朝はフランスの傀儡政権となってしまう。

フエはソン・フォン(香河)が南シナ海に注ぐ河口近くに位置する。ソン・フォンはフォン・ザン(香江)ともいい,ベトナム随一の清流として知られている。街はフォン川の両側に開け,北側に王宮と旧市街が,南側にはかってフランス人の居住区であった新市街がある。

ホイアン(140km)→フエ 移動

ホイアン(08:30)→マーブル・マウンテン(09:00)(09:20)→フエ(12:15)とバスで移動する。朝食を終えて宿に戻ると次の女性旅行者が部屋をチェックしている。

僕の部屋はじきに空くので見せてあげる。開放窓とテラスは当然気に入られる。しばらく英語で話していたが,お互いに日本人であることが分かり苦笑する。

フエ行きのバスはいくつかのホテルで客を集め出発する。30分ほどで観光名所のマーブル・マウンテンに到着し,20分の自由時間になる。大理石とは石灰岩がマグマの熱を受けて変成作用により再結晶したものであり,ここも中国南部から続く大石灰岩地帯の一部であることが分かる。

平地から高さ50mほど,名前の通りテーブル状の山がそびえている。この山全体が大理石でできているということはないだろうが,良質の大理石が産出されるので,周辺には多数の石細工屋が並んでいる。

前方にゆるやかな起伏の山が見えてくる。たぶんこれが地理的に南北ベトナムを分ける山であろう。右側に鉄道が走っており,ときどき列車が見える。関越の半分くらいもありそうな長いトンネルを抜け,昼過ぎにフエに到着した。


Hong Thien 2 GH

バスから降りるとホテルの客引きが集まってくる。新築,5$と言われ客引きについて歩いて5分ほどのHong Thien 2 GHに行く。この辺りには新しいホテルが多い。部屋には不満は無いが6$と言われ,他を当たろうと階段を降りかけると5$になった。

部屋は8畳,1ベッド,T/HS付き,TV付き,とても清潔である。新築に近い新しい部屋で,窓も2方向にある。おまけに2回も夕食を食べさせてもらい,5$では気の毒なくらいの部屋である(値切っておいて何を言うか)。

水路の風景

とりあえずフォン川を見ようと宿を出る。生来の方向音痴と地図の見間違えのため支流の水路にかかる小さな橋を渡ってしまった。

橋の向こうでは小舟が岸につけられ,女性と子どもがカワニナかタニシをザルに入れ泥を洗い落としている。この食材を茹でたものをどこかの町で分けてもらったことがある。味は大したことはないがちょっとしたおやつになる。

フォンザンの風景

フォンザンには2つの大きな橋があり,新市街と旧市街を結んでいる。新市街の川沿いの道,La Loi 通りがメインストリートになっており,西に行くとフエ駅に出る。

ラロイ通りとフォンザンの間は公園になっておいる。ここにはボートトリップ用の船着場があり,舳先に龍の飾りを付けた船がずらりと並んでいる。

東側のチャンティエン橋は鉄橋で,歩道も付いているので橋の上からフォンザンの景色を楽しむことができる。下流(東側)の新市街側には水上施設とツアー用ボートが並び,その右側はけっこう広い公園になっている。

上流側には近代的なプー・ズアン橋があり,双胴の龍船がすべるようにこちらに進んでくる。天気が悪いため少しと遠くの町並みはかすみがかかったようになり,風景の冴えはイマイチである。

フエ王宮

橋を渡り左に行くと王宮が見える。道路と川の間は公園になっており,一部は現在も工事中である。フエの王宮は600m四方の濠に囲まれており,その内側は高さ10mほどの城壁に守られている。城壁の一部は見張り台のように前に出ており,その上には巨大な一星旗が風にたなびいている。

正門のある南側にはいくつかの入口がある。道路も通じており自転車やバイクが走っている。ベトナム版紫禁城は約300m四方,建立時には多くの建造物があったはずだがベトナム戦争でその2/3は破壊されてしまった。それでも1993年に世界遺産に登録され,周辺はずいぶん整備されたようだ。

往時の栄華をわずかに伝えているのが紫禁城の正門にあたる午門である。7mの城壁の上に2層の回廊を巡らせたもので,五鳳楼とも呼ばれている。明らかに中国風の建築物であり,屋根の上にはこれも中国から伝わった多くの龍が配されている。

内部に入るためには5$弱の入場料が必要である。しかし,北京の紫禁城ではすぐに飽きてしまった僕は,ゲートから内部の太和殿を覗いて中には入らなかった。

フエ王宮前の広場

フエ王宮前の広場は子どもたちの運動場になっている。

クォック・ホック高等学校

クォック・ホックの正門はソン・フォンに面している。この門は寺院の門のような形状であり,しかも赤く塗られているので表から見ただけでは学校とは判断できない。

クォック・ホックは国立の高等学校であり,阮朝時代の1895年に皇室や官僚など特権層の子息の教育機関として創立された。ベトナムでは名門学校とされており,現在は男女共学になっている。

北ベトナムを率いてベトナム戦争を戦い抜き,ベトナムの国父とされている「ホー・チ・ミン」は一時期,この学校に在籍していた。第一次インドシナ戦争の結果,ベトナムが南北に分断されたとき,南ベトナムの初代大統領となった「ゴ・ディン・ジエム」も奇しくもこの学校の出身である。

日中は門が開いた状態になっているので中に入ってみる。校舎は赤茶色のレンガ風であり,正面にある若かりし頃の「ホー・チ・ミン」の像が生徒たちを見守っているようだ。

フエ鉄道駅

フエ市内を南西から北東に流れるソン・フォンに沿ったラ・ロイ通りの南西側の起点となっているのがフエ鉄道駅である。フランス植民地時代に南北線の駅として建設されており,フランス建築の影響を受けた駅舎はホー・チ・ミン市の鉄道駅舎に比べるとずいぶん洗練されたものとなっている。鉄道はフエ駅の西側でソン・フォンを渡り北上していく。

フエ市内の風景

榕樹の並木道

立派なホテルもある

「SAGON MORIN」ホテルは1901年にフランス人ビジネスマンにより設立された。その後,2回ほど所有者が変わり1907年から「SAGON MORIN」として営業している。僕は高級ホテルには泊まることはないのでその種の事情にはうといが,おそらくフエの最高級ホテルなのであろう。旅行情報サイトでウィークデイの料金をチェックしてみたら最安値は7000円ほどであった。歴史のあるホテルとしてはずいぶん安いと驚いた。

なんとなく宗教的建造物に見える

ドンバ市場

チャンティエン橋を渡り右に折れるとドンバ市場がある。屋根付きの常設市場には日用雑貨を扱う店が入り,その周辺には生鮮食料を扱う露店がある。

普段ならば僕のお気に入りの場所であるが,雨のためぬかるんでひどい状態だ。一番外側のおばさんたちの写真を撮り,旧市街を散策する。旧い家並みが残り,落ち着いた感じの商店街もある。

運河に並ぶ家船

旧市街の西側にフォン川につながる運河があり,大変な数の家船が係留されている。半ば固定式住居のようになっている。ここの人々は通りの所々にある給水場から飲料水を手に入れ,生活用水は運河の水を使用している。電気もあり,引き込み用の電線が船までつながっている。

ここの人々はとても気さくで船の中も見せてくれる。3-4畳ほどの部屋に生活道具が詰め込まれている。台所は屋根の無い部分にシートをかけている。

小さな子どもたちが顔を出している船におじゃまして写真を撮る。運河の水はちょっと使用できないので貴重な飲料水をもらってヨーヨーを作ってあげる。

岸辺の道路の歩道部分にも屋台が出ており,子どもたちが遊んでいる。一人を撮るとみんなが「撮って,撮って」の状態になり,何枚かを撮らされる。

2月のベトナム中部はけっこう寒い

2月のフエの平均最高気温は24℃,平均最低気温は18℃である。天気が悪いと15℃を下回るので子どもたちは長袖2枚という冬着となっている。僕も涼しくなると半袖のポロシャツの上に長袖のトレーナーを着ていた。

それでも,ハノイの寒さはひどく,その上に冬用のフリースを着ることになった。ホー・チ・ミン市ではずっと半袖であったので,冬場にベトナムを南から北に旅すると夏(南部)→秋(中部)→初冬(北部)と季節が移っていく。ベトナム=暑いという思いこみは冬場の北部では通用しない。

最初の集合写真

続いて集合写真

家船街の子どもたち

再び集合写真となる

笑顔が素敵な一枚となる

これが最後の集合写真

フエ市内の子どもたち

セイヨウフウチョウソウ(クレオメ)

一般名称はクレオメ(Cleome spinosa,フウチョウソウ科・フウチョウソウ属)となっている。和名のフウチョウソウ(風蝶草)は花の形が風に吹かれて蝶が飛ぶようなところから命名された。

原産地は南アメリカであり,初夏から秋にかけ,茎頂に紅紫色・白色・淡紅色などの四弁花を次々と咲かせる。適応温度範囲が広いのか日本では北海道から沖縄にかけて栽培あるいは野生化したものが見られる。ベトナム中部では冬の花となっているようだ。

DMZツアー

ベトナム戦争当時の非武装地帯(DMZ)周辺を回るツアーに参加した。料金は9$と格安である。宿の前で待っていると06:15に大型バスがやってきた。同じように何ヶ所かで乗客を拾う。その中にはラオスに向かう旅行者も含まれていた。

ガイドはみごとな英語を話す。天気は悪く今にも降り出しそうだ。幸いケサン基地で小雨になっただけで天気は持ちこたえてくれた。朝食はツアー料金に含まれている。ただし,フォーかパンしか選択の余地はない。

海岸沿いに南北に走る1号線を離れ,北緯17度線に沿ってラオスに通じる9号線を西に進み,「ケサン77日間の戦い」としてベトナム戦史上に残る戦闘あったケサン基地跡に向かう。

ケサン基地はラオスの国境から東に10km,DMZから南に25kmのところにあった。広さは東西1.8km,南北0.8kmで1200mの滑走路が1本ある。この基地は北からの補給ルート,通称ホー・チ・ミン・ルートのすぐ東にあたり,北ベトナムにとってはまさに目の上のコブであった。

1968年1月中旬,北ベトナムは正規軍2個師団(約20,000名),他に1個師団をDMZ内に予備として残しケサン攻撃を開始した。ケサン基地の兵力はアメリカ海兵隊約5,800名と南ベトナム軍約400名である。

同じ時期,北ベトナムは最大の「テト攻勢」を仕掛けている。もしテト攻勢が成功し,かつ米軍の前線基地ケサンが陥落すれば,共産側にとって大きな軍事的・政治的な勝利になる。

北ベトナムの攻撃は(ディエン・ビエン・フーの場合と同様に)砲撃と塹壕戦で開始された。北側は遠距離からは射程31qの130o砲を,近距離からは82mm迫撃砲,75mm無反動砲を使用している。

砲撃は期間中1日当り150回,最大時は1,307回におよんでいる。一方,米軍は1日平均2,045回の砲撃を実施した。米国の新聞はこの戦いを連日大きく取り上げ,「ケサンは第2のディエン・ビエン・フーとなるのか」の見出しが躍った。

兵力に余裕のない米軍は地上部隊のかわりに大規模な航空部隊を投入し爆撃を開始した。延出撃数にして約25,000機の戦闘爆撃機,2,700機のB-52爆撃機が投入され,11.4万トンの爆弾を40km2足らずの狭い地域に投下した。

これは第2次大戦中に日本本土に投下された全爆弾量の7割に相当する。これにより北正規軍も攻撃力を大幅に喪失し,ケサン攻略をあきらめざるをえなかった。米軍にとっても基地を維持する代償があまりにも大きく,7月に入ると基地を徹底的に破壊し,撤収する。

現在の基地跡は博物館と兵器の残骸が展示されているだけで,当時の熾烈な戦闘を思い起こさせるものは何も残っていない。川沿いの風景が楽しめる9号線で海岸近くに戻る。

周囲はコーヒー農園になっている

あまり知られていないがベトナムはコーヒーの大生産地である。2012年の世界生産量のうちブラジルが38%,ベトナムが15%,インドネシアが7%,コロンビアが5%,エチオピアが4%を占めている。

コーヒーは熱帯・亜熱帯で生産され,昼夜の寒暖の差が大きいこと,霧により乾燥が抑えられることなどが栽培適地の条件となる。ベトナムの山岳地帯はこの条件に適しているため大生産地となった。

ベトナムにコーヒーが持ち込まれたのは19世紀のフランス植民地の時代である。栽培種その多くは「ロブスタ種」となっており,最近では「アラビカ種」も増えている。「アラビカ種」は病弱で神経質なのに対し,「ロブスタ種」は病害虫に強いため栽培は容易である。当然,価格は「アラビカ種」の方が高い。

橋を渡り海沿いの最前線の村に向かう

周囲は山がちな地形となっている

石灰岩地帯特有の風景も広がる

中国南部からベトナムにかけての地域は4億年前から2.5億年前に形成された石灰岩が広範囲に分布している。浅い海で堆積した石灰岩は地殻変動により地上に現れ,風化や浸食により多様な石灰岩地帯特有の景観が造られ,桂林,石林,ハロン湾などの観光地となっている。ベトナム北部はそのような石灰岩地帯であり,ここにも石灰岩地帯特有の景観が見られる。

国境の村

南北の国境となっていた川には今は使用されていない簡易鉄橋の橋が架かっており,南側には統一の記念碑であろうか,モニュメントが立っている。政治体制はどうあれ,平和というものは素晴らしいものだ。

橋の北側に北ベトナム最南端の村がある。米軍の爆撃で村を破壊されても村人はそこを離れず,地下15mのところにトンネルを掘り,そこから広さ2畳ほどの家族用の横穴を作り,2-3人単位で生活していた。

生活水はトンネル内の井戸から,灯りはランプの生活だったという。途中から灯りが無くなったトンネルを抜けるとそこには南シナ海が広がっていた。

皇帝霊廟ツアーに出発する

フエおよび近郊には「フエの王宮」「DMZツアー」「皇帝霊廟ツアー」という三つの見どころがある。「フエの王宮」は北京の紫禁城の小型版であり,かつその多くはベトナム戦争時に破壊されているので,特に中に入ることはなかった。「DMZツアー」は天候には恵まれなかったが,ベトナム戦争の歴史のほんの一部を垣間見ることができた。残る一つは「皇帝霊廟ツアー」である。

グエン朝の歴代皇帝はフエの近郊に自分の廟を建設した。ベトナムには「死はあの世にある本当の人生への旅立ち」という死生観がある。このため皇帝は自分の死後の住まいとして自分の理想とする形の廟を造営した。彼らにとっては「王宮は現世の都,廟は魂の都」ということになる。

フエからはフォン川を上り皇帝廟やティエンムー寺を見学するボート・ツアーが出ている。料金は2$と格安であるが,皇帝廟の入場料はそれぞれ55,000ドンもする。各帝廟が入場料に見合ったものかどうかは個人差があるだろうが,僕としては高すぎると感じた。

08:10にバイクが迎えに来て船着場に到着する。参加メンバーが12名と少ないので大きな双胴船ではなく小さな船に変更になった。母親と15才くらいの息子が操船する。今日も天候は悪く,1日中小雨が降ったり止んだりである。船には屋根も壁も付いているので中にいる分には問題は無い。

ティエン・ムー寺院

川の風景を楽しみ,気に入った題材があると舳先に出て写真を撮る。八角形の塔が川のすぐ近くに立っており,とても絵になる。グエン王朝の前からあるティエン・ムー仏教寺院でフエの人々の信仰を集めている。

地元の人も大勢来ており,この前で記念写真を撮る家族も多い。塔の背後に仮の本堂があり三体の仏像が置かれている。地元の人々は白,あるいは薄い灰色の民族服に着替えて(上から着て),ここで祈りを捧げる。本物の本堂は工事中でシートに囲われている。

川砂を採取する

トゥドゥク帝廟

晴れていたら山紫水明の景色が楽しめそうな風景と船の上での川砂の採取などを見てからトゥドゥク帝廟の近くに接岸する。岸の道路にはバイクタクシーの運転手が待機している。廟までは約1km,言い値は往復で20,000のところを韓国人とイスラエル人が強硬に交渉して10,000ドンにさせる。

廟は濠のような池に囲まれており,そこに東屋が張り出している。トゥドゥク帝は生前からよくここを訪れ,この東屋から蓮池を眺めたという。彼の棺は正殿の横に置かれており,その前には位牌と供物台がある。周囲には彼が生前思い描いた理想郷の絵が飾られている。

正殿とは別に,広場の両側に文官,武官の像が並べられ,その奥に雰囲気のよいモニュメントがある。死後の世界でも皇帝は臣下にかしずかれ,政務を執ろうとしているのかもしれない。

船内で昼食が出る

川岸から歩いて廟に向かう途中の村の子どもたち

ミンマン帝廟

次のミンマン帝廟は川岸から歩いて行ける距離にある。このときは雨が少し強くなり十分には見られなかった。正殿から奥に蓮池,東屋,飾り門が一直線に並び,その奥に直径100mほどのマウンドが墳墓となっている。

どちらの廟も一定の規則で造営されているらしく,一つ見れば十分である。最後のカイディン帝廟は川からずいぶん遠く,かつロンプラにはコンクリート造りと書かれていたため,誰も行かなかった。個人的にはフラン人が設計し,陶器とガラスの破片をつなぎ合わせた部屋一面の装飾は見たかった。


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