ベトナム北部を分断するように北西から南東方向に紅河が流れトンキン湾に注いでいる。河口の紅河デルタがキン族(ベトナム人口の9割を占める主要民族)のふるさとである。
しかし,デルタから少し内陸に入ると山がちの地形になり,そこは少数民族の土地に変わる。もちろん,現在では内陸部の町にもキン族は大勢暮らしているが,その周辺は少数民族がメジャーになる。
マイチャウはハノイの南西180kmのところにある町で,ラオスとの国境に近い村落である。周辺には多くのターイ族(タイ族)の村が点在している。東南アジアにはターイ族が広く分布しており,その故郷は雲南省南部の西双版納(シーサンパンナ)あたりとされている。
しかし,タイ・カダイ語族言語の広がりからターイ族は北方系の民族であると考えられており,遠い祖先はアルタイ山脈のあたりから他民族の圧迫により紀元前1000年頃には四川省あたりまで南下し,秦の時代にはさらに南に移動し雲南省南部に都市国家を形成している。
中国の記録に残されているのはこの時期からであり,そのためターイ族の故郷は(一般的に)雲南省南部とされるようになった。10世紀になるとターイ族は大移動を開始し,インドシナ半島やビルマの主要民族となっていった。歴史の古い民族のため集団ごとに多くの細分化された呼称がある。
民宿村には茅葺き,高床式の伝統家屋が集まり,周辺には山すそまで一面の水田が広がる。そんな隠れ里のような風景がマイチャウの魅力である。高床式の民家が宿として観光客に開放されており,床下は伝統的な織物などのお土産品が売られている。
マイチャウの風景からどのような地形になっているのだろうとgoogle 地図検索で地形図を確認してみた。この画像をこのサイト内で表示しようとしたところ,普通の地図が表示されてしまう。地図の下に表示されている「大きな地図で見る」をクリックすると地形図となるので興味のある方は確認していただきたい。
簡単に説明すると石灰岩の大地を川が浸食し,わずかな平地を形成した土地である。平地はほとんどが水田となっており,それを石灰岩の岩山が取り囲んでいる地形である。
地域の土壌は酸化鉄の多い赤土であり,「テラロッサ」と呼ばれている。「テラロッサ」とはカルスト地形のある地中海沿岸の地域特有の赤い土のことを意味する。
中国南部からベトナムにかけて広がる広大な石灰岩は5億年前から2.5億年前にかけて海底で形成されたものであり,主成分は炭酸カルシウムである。当然,マイチャウ周辺の岩山もすべて石灰岩であり,削ると白い岩であることが分かる。
そのような石灰岩が風化してどうして赤土になるのかは沖縄旅行以来の疑問点であった。沖縄の多くの島の表層は石灰岩であり,土壌は(沖縄本島南部を除き)赤土が多い。
常識的には石灰岩の風化により赤土は生まれそうにないが,高校の地学の教科書にも確かに石灰岩の風化→赤土の生成という記述がある。およその理論としては石灰岩の主成分は水に溶けて流出し,残りの成分が赤土を形成したということになっている。
鉄分がどのくらい含まれた石灰がどれだけ風化すれば厚い赤土の層が形成されるのか興味はあるが,その先には容易に進めない。
ハノイ(15km)→ハドゥン(100km)→マイチャウ 移動
宿(07:30)→ハノイ南BT(08:20)→ハドゥンBT(09:00)(10:00)→ホアビン(11:50)→クン峠(13:30)→マイチャウ(14:10)とバスを乗り継いで移動する。まずホアン・キエム湖北側のバス停でハノイ南BTに行く市バスについてたずねたが,英語が通じないこともありとても利用できそうもない。バイタクに料金を聞くと2万ドンとのことなのでお願いする。
バイクはけっこうな距離を走り南BTに到着した。近くに鉄道のGiat Bat 駅があるので,南BTはBen Se Giat Bat とも呼ばれる。けっこう大きなBTである。
チケット・オフィスで確認すると「マイチャウの直行便は無い,ハドゥンまで行きそこで乗換えだ」と告げられる。ハドゥン行きのバスを教えてもらいローカルのミニバスで移動する。
ハドゥンBTでは客引きに連れられてマイチャウ行きのバスに到達する。乗車前に料金をたずねると5万ドンだという。バスの中で待っている間に他の乗客に確認すると地元の料金は3万ドンらしい。
ベトナム北部では車内で料金を払うと必ずといっていいくらいひどい金額を請求される。今日もまたハードな交渉が必要のようだ。1時間ほど待ってバスは出発した。
バスは沿線の荷物運搬を兼ねているらしい。街の何ヶ所かで大量の荷物を積み込む。走り出してすぐに車掌が集金に来る。3万ドンを出すと彼は5万ドンだと言い,押し問答になる。結局,間をとって4万ドンで決着する。
ということでハノイ南BTからマイチャウまでのバス料金は合計で43,000ドンということになった。マイチャウの宿で一緒になったスイス人はこの区間に60,000ドンを払ったという。
ベトナム北部のバス事情はかくも悪い。外国人旅行者が(車内支払いで)地元料金で乗れることはほとんど考えられない。それでもプラス1万ドンくらいで利用できるよう情報は集めておいて損は無い。
12時少し前にホアビンを通過する。このあたりから石灰岩の岩山と水田の景色が始まる。バスは標高800m近いクン峠の登りにさしかかる。かなりの急斜面で下には雄大な景色が見えるはずだが,天気が悪くかすんでいる。
峠の下りも7%の急勾配で気のせいか少しきな臭くなる。国道6号線から分かれると道路は狭くかつ悪くなる。小さな町に到着し,そこがマイチャウである。
Lin Soi GH
普通のベトナムの田舎町に見えるマイチャウに着き,ターイ族の民宿はどこにあるのだろうと思案しながら歩き出す。バイタクの運転手が民宿の名刺を出し,5000ドンで連れて行ってくれた。
Lin Soi GH は高床式で民宿の部分だけでも30畳ほどの広さがある。階段の下でクツを脱ぐようになっているので部屋は清潔だ。中は仕切りがなく,蚊帳かカーテンで仕切るようになっている。一種のドミトリーである。
天井には太い梁が何本も渡され,壁は板張りになっている。壁の外は1mくらいのテラスになっている。高床式なのでテラスという表現を用いたが,高床でなかったら縁側である。
壁には何ヶ所か観音開きの戸が付いており,日中は明かり取りのため開け放たれている。床は丸竹の上に竹を編んだマットを敷いている。通気性がよく寒い時期は重い布団で寝ることになる。
T/HSは別棟にある。宿泊代は5万ドン,朝食は5000ドン,夕食は20,000ドンもしくは30,000ドンである。簡単に言うと2食付で5$というところである。民宿の横は家族用の住宅になっており,上がり口は別でも,上では自由に行き来することができる。このような造りの民宿が周辺にはたくさんある。
床下にはターイ族の織物や手工芸品が土産物として並んでいる。この家のおかみさんが使うのか,織りかけの布が機にセットされている。家の通し柱は直径30cmほどあり,コンクリートの台の上に置かれている。つまり,家全体がコンクリートの台の上に固定装置無しで置かれていることになる。確か白川郷の合掌造りも同じ構造だったと記憶している。
宿には中型の番犬が2匹いる。彼らに吠えられないようにするため,宿に着いたらすぐに手を出して臭いを覚えてもらう必要がある。それでも明け方にトイレに出たら階段の下で吠えられた。「こら,ちゃんと宿泊客を識別しろ」と言いたくなる。
集落周辺の風景
時刻は午後3時に近かったが,周辺を歩いてみることにする。民宿の集まっている集落の周囲は水田になっている。すでに田植えは終わっており,農家は一息ついていることだろう。人影はほとんど無い。農村社会においては農作業が一段落した時期に家の修理や祝い事が行われることが多い。
東側,南側は水田の向こうに山が迫っている。水田の中には少ししっかりしたあぜ道があるので,そこを選択して歩き回ることができる。農薬の使用量が少ないせいか,水田の中にはおたまじゃくし,小魚,水生昆虫などが生息している。
この橋は日本のODAによるものらしい
南に向かう道を行くと橋がある。近くにコンクリート製の記念碑があり,日本とベトナムの国旗が描かれている。日本のODAがこんなところでも使用されている。
集落から離れたところにも民家はある
橋の向こうに何軒かの家がある。こちらは同じ高床式でも民宿に比べてずっと簡素だ。家の近くにむしろが敷かれ女性と少女がお土産用の腕輪を編んでいる。
水牛は農作業には欠かせない
南の山すそが近くなると広い面積の枯れた水田があり,水牛が草を食べている。耕作地の全面積が一様に水田になるわけではないようだ。
菜の花の咲いている家を発見
高床式の大きな家があり,その庭に菜の花が咲いている。高さは2mくらいにもなっており,どうやら種を取るためのものらしい。涼しい気候を好む菜の花にとっては,標高の高い地域を除き,ここと雲南を結ぶラインが南限であろう。
保育所と幼稚園
道路わきに幼稚園と保育所がある。保育所の子どもたちが手すりから顔をのぞかせている。近づくと泣き出す子がいるので少し離れたところから写真を撮る。
となりは幼稚園になっており,この年齢になると笑顔でフレームに納まってくれる。建物の中にはこわれかけたプラスチックのおもちゃがあるだけだ。フーセンを2個作り,上に突くことを教えてあげると2つの集団になり歓声をあげて遊んでいる。
足の向くまま水田の中の道を歩く
この先は再び一面の水田になる。石灰岩の小さな岩山が水田の海に浮かんでいる風景はとても絵になる。橋のところまで戻ると,小学校高学年の子どもたちがかくれんぼをしている。写真を撮ってヨーヨーを作ってあげる。この遊び道具は子どもたちの大人気になる。
伝統家屋の屋根を葺く
6時に起床,昨夜は重い布団を2枚かけて寝たので寒くはなかった。部屋は基本的にオープン構造なので夜中の気温は外気温と同じになったはずだ。残りの宿泊客に遠慮しながら一枚だけ戸を開けると外は明るくなっており,村の人々はもう働いている。下に降り,宿のおばさんに朝食をお願いする。パン,オムレツ,バナナの組み合わせである。
近くの家では30人ほどの村人が集まり屋根を葺いている。材料は茅(ちがや)であり,すでに竹の皮で1mほどの幅に編んである。屋根の構造は日本の木造家屋とさほど差はない。
木造家屋の屋根構造は「寄棟造り」「切妻造り」「入母屋造り」に分類される。「寄棟造り」は四方から屋根がせり上がり頂上部で合わさるものである。
「切妻造り」は「合掌造り」のように屋根の最頂部の棟の両側に屋根をもつものであり,屋根の両側(大棟と直角な面)にあたる妻が切り落とされたようになっているのでこの名前となっている。
マイチャウの伝統家屋は「入母屋造り」であり,妻のところに一段低い屋根が付けられているもので,「寄棟造り」の変形型ともいえる。この形態の屋根は東アジアの伝統家屋によく見られる。
屋根から古い茅は撤去されているので屋根構造がよく観察できた。高床式とはなっているものの基本構造は日本の二階家と同じである。もっとも日本では一階の天井に大きな梁を何本も入れて二階の重量を支えるようにしている。
屋根葺きの材料が茅(ちがや)なので垂木(縦木)ともや(横木)の間隔はそれに適したものになっている。茅葺き屋根の寿命は20-30年であり,マイチャウでも最近は耐久性に優れた瓦屋根を採用している家も多い。確か僕の宿泊した民宿も瓦屋根であった。
集落の外れにコンクリートで固めた広い作業場がある。周辺の平地はすべて水田なので,おそらく近くの山に茅場があるのだろう。屋根葺き用の茅はここに集められ,乾燥させられ,必要に応じて編まれるようだ。編み作業の終わったものが山と積まれており,トラクターや大八車で運び出されている。
屋根葺きの人々が屋根に上がる。下の人々は先端をV字に削った長い竹の先に茅を引っ掛けて上の人に渡す。この茅の束を下から順番に竹の皮で取り付けていくと屋根が葺ける。
茅を固定する材料や束の作り方は異なるものの,まるで白川郷の合掌造り家屋の屋根葺きを見ているような光景だ。この地域は水田地帯であり稲わらは豊富に得られるが,稲わらで縄を作る文化があるかどうかは不明だ。縄があるなら,茅の固定には適した材料だと思うのだが。
女性たちはごちそう作りに忙しい
手伝いの人々にふるまうご馳走の準備も近くの水路で進められている。20羽ほどのニワトリとアヒルの首を折り,(蒸気に当てることなく)そのまま羽毛をむしっていく。一軒の屋根葺きには村人総出で協力してくれる。
日本で「結い」と呼ばれる制度がここにもちゃんと機能しているようだ。「結い」のお礼はお金ではなく食事である。皆さんからいただいた労働力のお返しは次の機会に労働力で返すのが「結い」である。
昼に戻ってきたらごちそうになれるかななどと考えながら東の道に向かう。夕方戻ってきたらすでに屋根葺きは終了しており,軒の部分も少し段差はあるものの切り揃えられていた。
近くの村落に向かって歩いていく
屋根葺きはとてもよい写真の題材であるが,さすがにそればかりを見ているわけにはいかないので集落ととなりあった村落まで歩くことにした。
ツバメは東アジアと東南アジアを行き来する渡り鳥である
近くの電線にはツバメが20羽ほど一列に並んでいる。水田の上を飛ぶツバメといい山間地のゆるやかな棚田の風景といい,日本の原風景のように感じるのは僕だけではないだろう。
道路工事も人力が活躍している
村のメインストリートに出る。道路の拡張工事が行われており,現在のアスファルトの上に砕いた石を敷いている。作業の多くを人力に頼っており,これはベトナム戦争時代からの伝統である。
幼稚園で保父を経験する
近くに幼稚園がある。子どもたちは冬服を着て帽子を被っている。年少組みの子どもたちはとてもおとなしく,素直に先生と一緒に写真に納まってくれる。
それに対してとなりの年長組みの子どもたちは良い遊び相手ができたとばかりに,抱きつく,ひざに乗る,背中に乗る,鼻をつまむ,おまけに子ども同士のちょっとしたいさかいで泣き出す。
やれやれ,保父の仕事は楽ではない。先生が不在のため1時間ほど子どもたちの相手をすることになり,ここを出るときは腰にちょっと違和感を感じた。
小学校を発見
通りの右側に小学校がある。門は施錠されていないので中に入る。グランドでは体育の授業が行われている。何組かに分かれて縄跳びとバレーボールを練習している。
バレーボールは基本のアンダーハンド・レシーブがまったくできていない。にわか体育教師になり,男の子を並べて練習させる。女の先生は笑いながら黙認である。残念ながらじきに体育の時間の終了を知らせるベルが鳴ってしまった。
帰りにもう一度ここに立ち寄ってみると午前中の授業はすでに終了しており,校庭では子どもたちだけが遊んでいる。残りの生徒は昼食のため帰宅している。
写真をとって帰ろうとすると,子どもたちが門を閉めて帰してくれない。もう一度写真を撮り,画像を見せてあげるとようやく解放してくれた。
宴会にお呼ばれする
通りに面した高床式の立派な家で人々が集まっている。ちょっと眺めていると上がってこいと呼ばれる。上では男性と女性に分かれて食事をしている。強い酒はなめるだけにしてもらって,食事をいただく。
豚の脂身,肉と野菜のごった煮,サトイモ煮,これらはローカルのイベント料理のようだ。部屋には小さい子どもたちがいたので風船を作ってあげると外の子どもたちもやってきて,都合8個の支出となった。
観光客が増えているのでカラフルな土産物が並ぶ
今朝は暖かく,下でお茶を飲みながら朝食を待つ。今日の朝食はパン,オムレツ,オレンジの組み合わせである。集落の中にある保育園を再訪する。もう慣れたのか子どもたちは歓迎してくれる。
写真を撮ろうとしても泣き出すこともない。親たちが働いている間,小さな子どもたちは幼稚園や保育園にいるので,村ではほとんど子どもの姿を見かけない。
民宿集落の床下や軒先にはお土産品が飾られている。カラフルできれいなスカートが多いけれども,ターイ族の女性はそのような短いスカートは身に着けない。たぶん,モン族の民族衣装もしくはそれからアレンジしたものであろう。
柱と屋根を一体にした木組みを先に組む
昨日,茅を葺いていた家の2軒隣の家の組み立てが始まっていた。30人ほどの男性が集まり,必要に応じて手を貸している。この村の工法は日本とはずいぶん異なる。
2本の通し柱に横木と屋根の垂木を取り付け,家型に組み立てたブロックを4個あらかじめ用意する。それらをコンクリートの土台の上に置き,何枚かの横板(貫)を通す。これで家の基本的な軸組みができる。
レンガ造り
この赤土がテラロッサ(terra rossa)と呼ばれるものであり,イタリア語で赤い土を意味する。もとは地中海沿岸のものを意味していたが,現在では同じ起源の赤色土壌にも使われるようになった。
ここでは赤土を利用し焼成レンガを生産している。陶器と異なりレンガの場合はたいていの土から造ることができる。熱帯地域では「ラテライト」と呼ばれる紅土が多く,いきおいできあがったレンガも赤いものになる。
焼成レンガの製法は難しくは無い。土を固めにこねて型枠で形を作る。半乾燥のものを大きな炭焼き釜のような構造物の中に積み上げ,中で石炭などを燃やし焼成する。一度に大量のレンガを焼くことができるので効率はよい。
お葬式
マイチャウの町には通りの両側にコンクリートの建物が並び,病院や小さな市場もある。枝道の一つに人が集まっている。白い頭巾あるいは手ぬぐいを被っているのでお葬式であることが分かる。
この小さな町で150人ほどの人が集まっている。道路わきでお香典の記帳をしているので僕も平均的な1万ドンを差し出す。おコメ**Kgと書いている人も多い。記帳のあと人々は三々五々向かいの高床式の家の中に弔問に訪れている。僕もクツを脱いで中に入る。
部屋の中央に棺があり,奥に女性,手前に男性,そして横には楽隊がいる。ターイ族のお葬式は(中国の影響からか)にぎやかである。棺の前にはたくさんのお供え物が並べられている。
棒状の線香が備えてあるので焼香させてもらいう。喪主の男性がやってきて握手を求められる。「よく来て下さった」というところであろうか。
写真を撮りなさいと言われたがさすがにお葬式なので2回お断りをする。しかし,3回目も断るとかえって失礼にあたるかもしれないので撮らせてもらった。
道路を挟んだ向かいには男性たちがお茶を飲んでいる。少し離れた場所で女性たちも食事の支度がてらお茶を飲んでいたのでこの光景も写真にする。