亜細亜の街角
シクロ・ツアーで田舎の雰囲気を楽しむ
Home 亜細亜の街角 | Mytho / Vietnam / Feb 2006

ミトー  (地域地図を開く)

ミトー市はカントー市とホーチミン市のほど中間に位置し,ティエンザン(前江)の分流の一つに面したメコンデルタ入口の町である。ホーチミン市から60kmと近いこともあり,日帰りのツアーがたくさん出ている。

町の南側をメコン川が流れ,南北に走る運河により街は東側の旧市街,西側の新市街に分断されている。新市街の西側から対岸のベンチェ省に渡るフェリー(小船)が運航されている。

対岸の島(三角州の一部)であるベンチェ省はベトナム戦争当時解放戦線の拠点となっていたことから大量の枯葉剤(高濃度の除草剤)を航空機から散布された。

カントー(90km)→ミトー 移動

カントー(08:10)→ミトー(11:00)とバスで移動する。宿からBTまでのバイクタクシーは来たときと同じ10,000ドンである。チケット売り場には各地への料金が表示してある。

バスにより料金が異なるのか,ミトーまでは27,000-30,000ドンと幅がある。車内で料金を支払うこともできるが,車掌は外国人からボルのが何より楽しみがという輩が多いので,事前にBTでチケットを買っておくほうが賢明である。

僕が到着した時間帯にはミトー行きのバスは無いといわれホーチミン行きのバスに乗り,途中下車することにした。そのような場合,ホーチミンまでの通しのチケット(41,000ドン)を買わなければならない。

ミニバスは10分ほど走るとハウザン(後江)のフェリー乗り場に到着する。乗客はバスから降り,自分で料金を支払って乗船する。

ハウザンの川幅は1500mほど,ただただ広大な水の広がりである。チベットに発し,雲南,インドシナを縦断してきたメコンの終着点はもう近い。

この川に架かる橋はないのでフェリー乗り場にはたくさんのフェリーや貨客船が停泊している。フェリーの甲板はバイクでごった返している。ベトナム南部におけるバイクの普及率はたいへんなものだ。

もう一つのメコンの分流ティエンザンにはビンロンの近くで近代的なミートゥン橋が架かっている。橋の手前から片側2車線,高速道路仕様の有料道路になっている。歩道も付いているので歩いてティエンザンの風景を眺めることもできる。

この美しい橋はオーストラリアの援助により2000年4月に完成した。橋の全長は1500m,取り付け道路を含めると3000mになる。

ティエンザンに橋ができたため,フェリーの待ち合わせ時間がなくなり,3時間弱でミトーに到着した。とはいってもミトーの町は幹線道路から3kmほど南にあるのでバイタクで行く必要がある。

周辺に待機している運転手はこの機会を逃すまいとふっかけてくる。彼らの言い値は5$,おいおいそれではタクシーより高いんじゃないか。ノーと言って歩き出すと3$,2$とすぐに下がっていく。結局20,000ドン(1.3$)で手を打った。

Huong Duong Hotel

ミトーの宿は2軒目に訪ねたフォン・ドゥオンにする。100,000ドンと言われたが80,000ドンにしてくれと言うとあっさりその値段になる。

部屋は5階(実質6階),エレベーターが動いていないので荷物を持って上がるのは大変だ。部屋は奥に長い12畳,2ベッド,T/S付き,清潔である。ただし,隣との仕切り壁が天井の張りの分だけ隙間があり,となりの声や明かりが漏れてくるのはいただけない。

テラスからの風景

宿のテラスから町並みが俯瞰できる。東側に運河があり,南側でメコン川の分流の一つと合流している。運河の東側にも町は広がっている。

地元の人の話では東側が旧市街,西側が新市街とのことである。運河とメコンの合流部の南に中島があり,その向こうに本流が流れている。運河の東側は家屋が密集しており,水辺には水上集落がせり出している

旧市街はフランス風の街並みが残る

結婚式

ピンク系のプルメリア

■調査中

運河通りの南側には公園がある

運河沿いの通りは新市街のメインストリートになっており,南側はメコン川と合流しており,その西側は公園になっている。ほとんど旅行者がいないのに何故か土産物売りのおばさんが多い。

しかし,夕方になると涼をもとめる地元の人が集まりけっこうにぎやかになる。天秤棒を肩にかついだおばさんが食べ物を売りに来る。トウフに甘いタレをかけたものはとてもおいしい。

運河沿いの通りを北に行くと旧市街に通じる橋がある。この橋の周辺は交通量が多く信号が無いので横断にちょっと勇気が必要だ。橋の上から北と南を比較して見ると,南の西側は公園とコンクリートの建物が並び,北は両側とも小さな家屋が密集している。

アオザイ姿の女学生はこのようにして自転車に乗る

旧市街の路上で野菜を商う

石段に集まる子どもたち

ヤシの木の仲間であるが種は分からない

中心部がほんのり黄色に色づいたプルメリア

内容不明の石碑

ナンヨウマツ

ヘリコニアかストレリチアの仲間かな

キリスト教の教会もある

運河の橋の近くには果物の大きな市場がある

旧市街と新市街を結ぶ橋の北側は市場になっており,主として果物を扱っている。ここは小売ではなく卸がメインになっており,竹で編んだ大きなかごにオレンジが溢れている。ブンタン,バナナ,パイナップルも豊富だ。近くにはおばさんたちが野菜,果物,肉などの露店を開いている。

ブンタン

バナナの山

立派なパイナップルの山

ジャンボタニシも食用にされる

露店で商売しているのはほとんど女性である

今日は対岸のベンチェに行こうとしていたら…

宿の部屋は風が通るので寝るときはファンを止めても十分に涼しい。明け方には毛布が必要なほどだ。04:30頃から運河を通る船のエンジン音がうるさい。

今日は対岸のベンチェに行こうと川沿いの道を西に向かう。昨日も同じ道を歩いてみたが,時間が異なると街の風景も変わってくる。

旅の出会いはまさしく偶然であり,その一つ一つの積み重ねが自分の旅の彩りとなるのだ。今日の偶然はボート乗り場から1kmほど手前で路地に入ったところから始まった。

この路地で古ぼけたシクロ(三輪自転車)を引くニップさんから声をかけられた。街と農村を巡るツアーが彼の売りである。料金は1時間2$だ。

ニップさんは66才,流暢な英語を話す。おそらくベトナム戦争時は南ベトナム政府側にいたと思われる。そのような人々は統一後まともな職につけず,シクロの運転手になった人がたくさんいる。英語の堪能なインテリシクロにはこのような背景がある。

カオダイ教の寺院

彼のシクロは旧市街に入り,しばらく西に進んでから北に向かった。おもしろい外観の建物がある。カオダイ教の寺院だという。カオダイ教はベトナムの新興宗教で,五教(儒教,道教,仏教,キリスト教,イスラム教)の教えを土台としたことから「カオダイ(高台)」の名がついたという。

タイニンに総本山があり,信者数は100万-300万といわれる。この寺院の礼拝堂の床はひな壇のように高くなってゆき,最上部に立派なイスが置かれている。壁には多くの窓があり,礼拝堂としては明るく,不思議な空間である。

僕のあげたヨーヨーを大事に持っている少女

ニッパヤシ(Water Palm)

ニッパヤシの葉で屋根を葺く

果樹園のある家にお邪魔する

豚を飼っている家ではバイオガスの発生装置を見せてもらった。地下にタンクを設置しそこに豚のふん尿を流し込むとメタンガスが発生する。この家一軒分の煮炊き用ガスをこの装置でまかなうことができるという。この家の庭にはブンタンやバナナの木があり,おみやげまでいただいてしまった。

巨大なブンタン,枝は重さに悲鳴を上げている

巨大なブンタンの実をどのようようにして支えるのかは僕の中では謎だった。この家の木を見せてもらってようやく謎が解けた。結論から言うと人工の支え無しではあの巨大な実は枝だけでは支えきれないということだ。一番大きなものは実生の大きさに比べて枝はいかにも細い。

これはメコンの流れの一つである

とてもいい笑顔の子どもたち

ライスペーパーを作る

ここから少し行くと水路のある感じの良い田舎の雰囲気になる。シクロを降り近くの家内工業の家を見せてもらう。ライスパーパーは水を吸わせたコメを水と一緒に石臼でひいてゲル状にする。それを釜の上に張った木綿布の上にうすく広げ蒸し上げる。 くっつかないように塩ビのパイプで巻き取り,竹を組み合わせたすのこの上で乾燥させる。少し厚手のライスペーパーはシュレッダー状の機械にかけられメンになる。

感じの良い田舎道

広い水田とヤシの林

ジャワフトモモ

ヤシの実の収穫風景

ヤシの実採取の2人連れも見かけた。ヤシの木の上まで届く長い竿の先に鎌をつけた道具でヤシの実を落としていく。下からは実の熟し具合が分からないので,まず一個落としチェックしてOKならば他のものも落とす。

あの高さから重い実が落ちてくるのだから頭にでも当たったら致命傷になる。僕は十分離れたところで見学していたが,4個の実が連続して落ちてくる時は相当の迫力である。もっとも,危険を避けるため彼らも木の真下には立たず,少し離れたところから鎌を使っている。

中国系寺院

帰りに中国系寺院に立ち寄る。本堂はヨーロッパ的な建造物でたくさんの旗が立っている。テト(ベトナム正月)の最後ということで参拝者は多い。蓮池がありピンクの大輪の花を見ようと人々でにぎわっている。

建物の中には仏像,道教の神像をはじめいろいろな像が置かれており宗派が分からない。後ろの建物では食事がふるまわれている。ごはん,コメのメンにタレをかけたもの,野菜スープなど,一種の精進料理である。僕とニップさんがこの食事をいただいたのは言うまでも無い。

旧市街の子どもたち

旧市街の子どもたち

新市街の街並み

新市街の子どもたち

新市街の子どもたち

家族でフォーをいただく

旧市街の寺院で見かけた壁画

旧市街のカオダイ教寺院の手前の門

門の近くで果物を売る

旧市街の幼稚園にて

ベンチェのある対岸の島に渡る

西側の船着場からフェリーに乗りベンチェのある対岸の島に渡る。着いたのは緑の多い地域で,ベンチェに行くにもバイクタクシーすらいない。どうも上陸したところが悪かったようだ。

ミトーの対岸にあるベンチェ省はベトナム戦争当時解放戦線の拠点となっていたことから大量の枯葉剤(高濃度の除草剤)を航空機から散布された。通称エージェント・オレンジと呼ばれていた作戦である。

散布の目的は第一に解放戦線の隠れ家であるジャングルを絶滅させること,第二は解放区で作られる農産物を汚染し食料としては使えなくすることである。

現在から考えるとまったく理不尽で厳しく糾弾されるべき環境破壊・汚染であるが,共産主義との戦いは当時の米国にとっては自由主義陣営を守るべき「聖戦」であった。

南ベトナム全体で枯葉剤が散布された面積は170万ha,これは四国全体の面積にほぼ匹敵し,森林の20%,マングローブ林の36%が破壊された。途方も無い規模の環境破壊が行われていたことになる。枯葉剤は繰り返し散布され,森林のあらゆる植物を死滅させた。

枯葉剤やナパーム弾で徹底的に痛めつけられた自然は容易には回復できない。ベトナム中部の山岳地帯では森林が消滅し雑草しか生えない地域が数多くある。

ベンチェ省のマングローブ林は汽水域という条件に恵まれたため,植林および自然の回復力により往時の姿を取り戻しつつある。

枯葉剤の被害は植物だけにはとどまらない。初期に使用された除草剤には生産過程で生じたダイオキシン類が不純物として含まれていたからである。

人類が作り出した最強の毒物の一つが空中散布されたため,散布地区の住民のみならずベトナムで枯葉剤を浴びた米軍兵士の子どもに通常の10倍以上の先天的異常児が発生した。ダイオキシンが親世代の遺伝子を傷つけたためである。

ダイオキシンは簡単には分解せず,長く環境中に留まる。2003年に中部ベトナムで住民が食べている食品を調査したところ,いくつかの食品,特に放し飼いのアヒル,ニワトリ,川魚などは許容濃度をはるかに越える高濃度のダイオキシン類で汚染されていた。

いまなおダイオキシンは環境中に広く残留し,生体濃縮(食物連鎖を通じてより高位の動物により高濃度の化学物質が蓄積される)を通じて住民に被害を及ぼしている。

水路の両側に密生するニッパヤシ

ロンガン栽培農家

この中州のような島をいろいろ見たかったが,交通機関が全く無いのでは身動きはとれない。しかたがないので,歩ける範囲を回ってみることにした。細い道の両側はほとんど果樹園になっている。ロンガン,オレンジが多く,バナナ,ココヤシ,ローズアップルは適当に混ざっている。

ロンガンを袋に詰めて出荷している家におじゃまする。ご主人から小粒のものをいただく。中国茶やお菓子も出てくる。お礼に10才くらいの女の子にヨーヨーを作ってあげる。おみやげにロンガンを一枝(ロンガンは枝ごと収穫する)いただいたが,アリだらけで振り落とすのに苦労する。

水路を埋め尽くすホテイアオイ

マメ科の植物

ニッパヤシ

観光客のボートツアー

橋の上から水路を眺めていると観光客を乗せたボートがたくさん通る。水路の両側はウオター・パームが生い茂り,ちょっとしたジャングル・クルーズである。10年前にサイゴンからミトーを回るツアー参加したとき,やはりこのような小舟で水路を巡ったことを思い出した。

帰りは船着場で小船を待つが一向にやってこない。欧米人の団体や日本人の団体がガイドに連れられてやってくる。どうもいくら待っても小船は来そうもないので,次にやってきたボートで対岸に戻る。おばさんに1$札を見せてこれでいいかと聞くとOKが出た。

中国将棋を楽しむ

ニッパヤシの葉で屋根葺きの材料を作る

軽量化するため中空にした煉瓦

新市街の子どもたち

新市街の子どもたち


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