マンダレー (地域地図を開く)
ミャンマー王朝史の最後を飾ったかっての王都。現在の人口は50万人を越え,ミャンマー第2の都市である。コンバウン朝のミンドン王が1860年にアマラプラからこの地に都を移した。
しかし,このときすでにイギリスのビルマ侵略は始まっており,1986年,イギリスはビルマを英領インドに併合した。マンダレーはわずか25年で王都としての役割を終えた。町は王宮を中心に広がっており,ミンドン王の統治下で建設されたパゴダや僧院が数多く残っている。
ミャンマー王朝史の最後を飾ったかっての王都。現在の人口は50万人を越え,ミャンマー第2の都市である。コンバウン朝のミンドン王が1860年にアマラプラからこの地に都を移した。
しかし,このときすでにイギリスのビルマ侵略は始まっており,1986年,イギリスはビルマを英領インドに併合した。マンダレーはわずか25年で王都としての役割を終えた。町は王宮を中心に広がっており,ミンドン王の統治下で建設されたパゴダや僧院が数多く残っている。
ピー(17:00)→チャッパタウン(01:00)→マンダレー(05:30)とバスで移動する。親切な宿の主人に見送られ,トラックバスでバス乗り場に向かう。バスは定刻に発車した。舗装されているものの道路状態は良くない。振動と対向車の明かりのため寝るのは難しい。何回かのトイレと食事休憩がある。
2回目のトイレ休憩のときにバスが動き出したのであわてて飛び乗ったとき,ステップで足を滑らせ左足の向こう脛をステップの角に思い切り打ちつけ,ケガをしてしまった。いつまでも若いつもりで動いてはいけないと自分を戒める。
真夜中にバガンに行く旅行者が乗り換えのため下車した。明け方にはパスポートチェックがあった。ビルマ人も身分証をチェックされたようだ。バスはじきにマンダレーのバススタンドに到着する。
ここでもバスを降りるとサイカー(サイドカー付き自転車)やタクシーの客引きが集まってくる。市内まで12kmもあるという。見たところ乗合トラックバスはいないので,言い値の一番安い1$のサイカーで市内に向かう。実はBSの外に出るとトラックバスが運行されていた。
1$のサイカーは約30分でマンダレーの中心部に到着した。朝の空気は涼しく長袖のフリースを着ていても寒いほどだ。ナイロン・ホテルは改装されており新しい。朝食付きの4$は妥当なところであろう。部屋は4.5畳,T/S付き,清潔である。部屋の中に物干しスタンドがついているのはありがたい。
2時間ほど仮眠をとってからマンダレーヒルを目指して歩き出す。街の通りは格子状になっているので歩きやすい。街中ではピックアップ・トラックを改造した乗り合いトラックが庶民の足になっている。しかし,旅行者には運行ルートが分からないのでおいそれとは利用できない。
街中には多くの共同井戸がある。そこは地元の人々の一種の社交場になっている。人々はここで水を浴び,体を洗い,洗濯をする。知り合いとの話に花が咲くこともある。みなさんにお願いして何枚か撮らせてもらう。日差しが強く,光と影のコントラストが強すぎて写真のできは良くない。
小学校がある。休み時間なのか校庭にはたくさんの子どもたちが遊んでいる。学校の敷地内にはなぜか大きな売店があり,アイスが子どもたちの人気になっている。
男女とも制服の色は緑であるが,この季節には制服あるいはブラウスの上からセーター等の防寒着を着ている。いつもなら中に入り写真を撮るところであるが,この学校の門はしっかり施錠されている。
二つ目の小学校が見つかる。こちらは門が開いているので中に入ることができた。女生徒の服装はスカートかロンジーと呼ばれるくるぶしまでの長さの巻きスカートとブラウスの組み合わせである。ボトムの色は男女とも一様に緑である。
子どもたちはみんな写真に対して好意的である。しかし,大勢が固まってしまうのでフレームがうまくいかない。
マンダレー王宮の敷地は一辺2kmの正方形をしている。幅30mほどの外濠と堅固な城壁に囲まれており,ところどころに独特の形状をした見張り台がある。北門から入ろうとすると,入口に「外国人はこの門からは入れない」と書かれている。警備の軍人がバイクをつかまえ,東門まで乗せてもらった。ここにチケット売り場があり,10$の入域料を支払いパスを受け取る。
ミャンマーでは個々の建造物や遺跡の入場料を廃止し,その町のどの施設にも入れる「入域料」に変更した。旅行者にとっては面倒がなくなり,歓迎すべきである。
しかし,マンダレーの10$はいかにも高い。市内では王宮だけが入域料のチェックがある。また郊外のアマラプラ,インワではパスをチェックされた。それらをパスして他のところを無料で見学するというのも一つの考え方である。サガインは別途,入域料3$が必要である。
マンダレーは第2次大戦における激戦地となったため,王宮の建物は完全に消失した。現在は再建され往時の壮大な建築物を見ることができる。しかし,新しすぎて何かしっくりこない。個人的には外から見た濠と城壁の風景の方が趣があると思う。
王宮は環濠に囲まれた閉鎖的な空間である。にもかかわらず城内の一角にはたくさんの民家があった。王宮の建物が消失して空き地となったところに人々が住み着いてしまったのか,木造,草葺屋根の涼しそうな家が並んでいる。
王宮からマンダレー・ヒルまではサイカーを利用した。1.5kmほどで300Ky(35円)はどう評価してよいか分からない。マンダレー・ヒルは丘全体が聖域になっており,入口付近でクツを預け,裸足で登らなければならない。少し登ったところで英語のできる僧侶が「夕陽の時間帯がいいよ」とアドバイスしてくれたので,まず周辺のパゴダを先に見ることにする。
ミャンマーはパゴダの国,国中どこに行っても大小のパゴダがひしめいている。この国ではブッダの遺骨を納るためのパゴダが,仏像と同じように祈りの対象になっている。また,パゴダを寄進することは最高の仏徳とされるため,現在でも多くのパゴダが建立されている。小さなパゴダは単独のものが多いが,大きなものになると,その周囲に多くの小パゴダが配置される構造になる。
サンダムニ・パゴダ(パヤー)は後者に属する。通常大パゴダの底部は円形なので,小パゴダはそれを取り囲むように円周上に置かれる。しかしサンダムニ・パゴダは中央にある巨大な金色のパゴダの周囲に,1000以上の同じ形状の白いパゴダが格子状に等間隔で並んでいる。
白いパゴダの森の中心に巨大な金色パゴダ樹がそびえているようだ。そのようなイメージの写真を撮りたくて,いろいろ場所を探してみたけれど無駄骨であった。近くの丘にパゴダに見えたのでそちらに登るといい写真が撮れたのでは帰国後に悔やんでいる。
クトードー・パゴダも似たような構造をしている。こちらの大パゴダは下半分は白いしっくい,上半分は金泥となっている。周囲の小パゴダは四方に入口があり,パゴダが格子状に配置されているため,先まで見通すことができる。
ここで日本語のできる女性のガイドに出会い,翌日マンダレー周辺の古都を見に行く45$のツアーの約束をさせられてしまった。自分流に歩くことが好きな僕にとってはこのようなプライベート・ツアーを組むことは珍しいことだ。
延々と続く階段を登り切ると大きなテラスに出る。高さ236mのマンダレー・ヒルの上には大きなパゴダがあると思いきや何も無い。この丘全体がパゴダとなっているため,最上部にはもうパゴダは不要なのかもしれない。テラスからはマンダレーの街を一望できる。夕陽の時間帯には大勢の人々がテラスに集まっていた。確かにエーヤワディ川の向こうに夕陽が沈む景色は絶景である。
ナイロンホテルの朝食はトースト4枚,バナナ,コーヒーの簡単なものだ。8時にフロントに降りると今日のツアー・ガイドのオーマさんと運転手が待っている。彼女の説明によると行程はマハムニパゴダ→アマラプラ→インワ→サガイン→アマラプラとのことである。
最初に訪れたマハムニ・パゴダにはミャンマーで最も尊い仏像であるマハムニ仏が安置されている。言い伝えによるとブッダにより7回魂を吹き込まれたので,マハムニ仏はブッダと同等なのだそうだ。
その昔,アラカン王国との戦いに勝利して,時の国王がこの仏像をマンダレーまで運んできたという言い伝えが寺院の壁面に描かれている。仏像は床面から一段高い台の上に置かれており,男性だけが裏手の階段を上り,仏像に触れることができる。
オーマさんが「自分の悪いところと同じところに金箔を貼ると,ケガや病気が良くなる」と教えてくれたので僕もバスのステップですべりケガをした左足に金箔を貼る。オーマさんに「私の分も貼ってきてください」と頼まれたので,彼女の金箔もとなりに貼る。
女性たちは仏像の前でひたすら祈りをささげている。十数年前に訪れたときは写真厳禁のため絵葉書サイズのプリントを買ったものだが,現在では問題なく写真に納めることができる。しかし,金色一色のマハムニ仏は照明が反射するのでどうしても写真の一部にその影響が出てしまう。
マンダレーから南に11km,アマラプラには欧米人の観光客が多い。1000人ともいわれる僧侶の昼食を見るためである。上座部仏教の僧侶は出家という形で俗世間から切り離され,集団生活における厳しい修行により,ブッダの境地に近づこうとしている。
出家した僧侶には俗世間の法律は適用されず,代わりに厳しい戒律が課せられている。この戒律は地域により程度の差はあるものの,ブッダの時代にみられた出家者の集団である僧伽(そうぎゃ,サンスクリット語のサンガ=集団,集会)で実行されていた戒律をもとにしている。
「出家者(僧侶)は食事の支度をしてはならない」,「僧侶は午前中にのみ食事ができる」というのもその戒律に含まれている。このような戒律は出家者がひたすら精進と瞑想により「悟り」や「涅槃」の境地に近づくために必要なものと考えられていた。
アマラプラの寺院には今日最後の食事のため僧侶たちが集まってくる。厨房では直径1mほどもある大きな鍋や中華鍋で食事の支度が進められている。托鉢用の容器を抱えて集まってきた僧はエンジ色の衣を,見習い中の少年僧は白い衣をまとっている。彼らが中庭に入ると観光客とおぼしきヨーロピアンの人たちがごはんを一人一人の容器に入れていく。
仏教とは縁の薄いヨーロピアンの人々にとっては,このような僧侶の托鉢や食事の様子は興味深いものであろう。しかし,彼らがなぜこのような生活をしているかには深く思いを巡らす人は少数であろう。
世界のそれぞれの地域には様々な文化が根付いており,そのような文化を見ることは旅の大きな楽しみである。同時にそのような文化の背景を調べると旅の視点も変わってくる。
正式の僧侶と見習い僧は別々の部屋で食事を取る。この僧侶の食事はすっかり観光化されている。それでも,彼らが一同に会して食事をとるさまは確かに壮観である。
400年にわたりビルマの中心地として繁栄してきたインワは,1838年の大地震により壊滅的な被害を受け,その後,往時の繁栄を取り戻すことはなかった。現在はいくつかの観光スポットを残すだけで,周囲はのどかな農村になっている。
渡し舟で対岸に行き,そこから馬車に乗ってレンガ造りの廃墟寺院,巨大なチーク材を惜しげもなく使った木造寺院,傾いた監視塔を見学する。どこでも入口付近には物売りが店を出しており,子どもの売り子も多い。写真=マネーになるので要注意である。
木造寺院に向かうときひまわり畑の道でお葬式帰りの数台の牛車に出会った。すごい土ぼこりがこちらにやってくるのでカメラを準備する。馬車の上にいるのでフレームの自由度はない。何枚か撮った中の一枚は背景のひまわり,牛車の砂埃がおもしろい写真を演出している。
木造寺院では寺子屋が開かれていた。男の子と女の子,僧服の子が混ざっている。2本の2mほどある長い坐り机に4列になった子どもたちは文字の読み方を僧侶から学んでいる。この寺院にはいくつかの味わい深い仏像がある。うす暗い空間でフラッシュ無しで撮った写真はなかなかの記念の一枚になった。
イラワディ川を渡りサガインに入る。ここだけはマンダレーの入域料が適用されず,別途3$の入域料が必要である。サガインはマンダレーの南西20km,エーヤワディ川の西岸に位置する古都である。
サガイン丘陵の連なりは森に覆われており,その中に大小4000もの白いパゴダがひしめくように建てられている。乾季の今,多くの樹木は葉を落とし,冬枯れの景色となっている。
丘の最も高いところにスーン・ウー・ポニシャンパゴダがあり,そこから遠くにアバ鉄橋が見える。インパール作戦で敗走する多くの日本兵が栄養不良と傷病のため,エーヤワディ川を渡れずこの地で亡くなった。
インパール作戦は1944年3月に開始され,補給を無視した無謀な作戦の代名詞にもなっている。インパール作戦はインドから中国に抜けるいわゆる「援蒋ルート」を遮断するためのものであった。
しかし,,ビルマとインパール(現在のインド・アッサム州)の間には標高2000m級の山々の連なる急峻なアラカン山系のジャングルがあり,そこを重火器を運搬するのは論外で,通常の補給(糧食,弾薬)も極めて困難であった。
結局,日本軍は軽装備の歩兵が戦力の中心にならざるを得なかった。これに対して英国軍は円形陣地の周辺を戦車と火砲で防備し,優勢な火力で日本軍が得意とする夜間白兵戦を完全に撃退した。この陣地の補給は空中投下により支えられた。
この構図はガダルカナルで経験したものと全く同じである。米軍は飛行場の施設を守るため徹底的に防御陣地陣を配置し,火力により夜間突撃してくる日本軍をほとんど全滅させている。夜間突撃が通用しないと日本軍にできることは何もなく,補給を絶たれたジャングルで餓死・傷病死している。
雨季に入ると補給はほとんど途絶え,日本軍は飢えと熱帯性の疾病により戦闘能力を失っていった。英国軍の反撃が始まると日本軍は総退却となった。退却時にも多くの人々が脱落し,退却路に沿って延々と日本兵の死体が散乱し,風雨に洗われた白骨が横たわる状態であった。
日本兵はこの退却路を「白骨街道」と呼んでいる。7月にインパール作戦は中止されたが,投入兵力8万6千人に対して帰還できたのはわずか1万2千人であった。
サガイン丘陵には日本兵鎮魂のためのパゴダも数多く含まれている。ガイドはその中の一つに案内してくれた。ビルマ式の仏塔の下部は方形の基壇になっており,そこには異国の地で亡くなった兵士の名前が刻まれている。
日本式の観世音菩薩像もあり,その台座には「鎮魂」と書かれている。近くには「パゴダ・礼拝堂建立の記」と記された石碑があり,そこにはパゴダが昭和51年に建立されたとある。
最後に,アマラプラのウーンベイン橋に立ち寄る。湖に2列の柱を立て,橋板を渡している。水面の上下に耐えられるようにと,橋は現在の水面から6mほど上にある。
橋ははるか向こうの対岸まで続いているが老朽化のため途中から立ち入り禁止になっている。湖には船尾に2つの飾り板をもつ独特のスタイルの小舟が観光客を待っている。
明日のバガン行きの情報を集める。通常のチケットの値段は4200Ky,ナイロンホテルではそれが6500Kyになる。市内にはチケットオフィスはない。7時半に乗合トラックバスに乗れば予約無しでも9時発には乗ることができるだろう。
午前中はゼージョー市場で過ごす。ここはマンダレーで最大のマーケットだ。大きな建物の中に小さな店がひしめいている。楽しいのはその西側の道路を埋め尽くす露店である。どうしてここにだけこれほど多くの露店が集まるのか分からない。露店をやっているのはほとんどが女性である。
道路のかなりの部分は露店に占拠され,そのすき間に人,荷車,サイカー,トラックが行きかうので,大変な混雑である。そのため写真を撮るために立ち止まるのは困難な状態だ。
女性たちの一部に写真に対する拒否反応はある。子どもたちも恥ずかしがることが多々あったが,デジカメの画像を見せてあげるとすぐに打ち解けることができる。
宿から南東方向に歩くと線路に出る。ただし,線路の西側はずっと塀になっており,王宮の濠から駅までは線路を横断できないようになっている。マンダレー駅は大きくて立派だ。1階がホームで2階が東西の連絡道路になっており,小型タクシーがたくさん客待ちをしている。
ホームには何本かの列車が入っている。覗いてみると普通車は木製のベンチにクッションを敷いたものである。この座席に長時間坐るのは大変だ。1等寝台は2人用のコンパートメントになっている。頭に商品を乗せた売り子が列車の横を通り,窓越しに果物などを売っている。
僕もスイカを50Kyで1切れ買い求めホームのベンチで食べていたら,小さな男の子が欲しそうに後ろからじっと見ている。両親と子ども4人で山のような荷物である。僕が食べ終わっても男の子はじっとスイカ屋を見ている。
彼のためにもう一切れと思いスイカ屋に100Ky(15円)を出すと大きな3切れを手渡された。そのうちの2つを半分にしてもらい,大きな1切れは男の子に,小さな3切れは女の子にあげて,一緒にいただく。母親は微笑みながら子どもたちがスイカを食べる姿を眺めている。
駅からエーヤワディー川まで歩いた。途中で水上公園のような施設があるが水はそれほどきれいではない。女性2人が露店で古着屋を開いている。物干し竿を何本も並べてたくさんのシャツやTシャツが架けられている。
本物の遊園地もある。ちょうど学生の一団が遊びに来ており集合写真に入れられてしまった。ここで夕陽までの時間稼ぎをする。
エーヤワディー川の船着場は港としての設備は何も無い。川岸には何列にもなって船が横付けされている。一番手前の船は渡し板で岸と結ばれている。荷物の運搬はすべて人手で行われている。
周辺はまるでゴミ捨て場状態で,貧しい人々の住む地域になっている。かといって,特に危険ということではなく,のんびりと夕陽を眺める。ここではエーヤワディー川が北から南に流れているので,ちょうど川越しに夕陽を楽しむことができる。