Home 亜細亜の街角 | Luan Namtha / Laos / Mar 2003

ルアンナムタ

フェイサイのバスターミナル

09時に宿の前にトラックがやってきた。このトラックでフェイサイのバスターミナルに移動するらしい。イタリア人の男性がトラックの運転手と値段交渉をしている。連れのオランダ人女性がルアンナムタまでは65,000K(キープ)であると教えてくれた。僕は宿のおばさんにバスターミナルまでの交通費込みで500B(バーツ)をすでに支払っていた。

この辺りでのレートは1B=250Kなので,おばさんは260Bのチケットを400Bで旅行者に売りさばいていることになる。自分でバスターミナルに行って正規の料金を支払う方がかなり安上がりである。

料金表があった

フェイサイのバスターミナルは2001年とは場所が変わっており,少し遠くになっている。ピックアップ・トラックが何台も停まっており,乗客数に合わせて複数の車がルアンナムタに行くらしい。

トラックの荷台には金属製の屋根が付いており,左右にベンチ型の座席がある。タイで「ソンテオ」と呼ばれる乗合自動車と同じものである。チケット窓口には料金表がちゃんとあった。確かにルアンナムタまでは65,000Kである。他の地名の料金はそれより安いので途中の村であろう。僕の車の荷台には男性3名,女性5名,それに荷物で埋まっている。

事故現場

ソンテオの出発時刻はよく分からない。乗客が乗り込んでから1時間以上経過した11:30にようやく動き出した。乗客のうち欧米人は共通語の英語で話をしている。国籍はイタリア,オランダ,フィンランド,カナダと多彩である。

フェイサイから2時間ほどは未舗装ながらよく整備されており,この分だと前回よりは楽かなと思っていたら,やはり悪路になった。昼食休憩はなく,僕は同乗者のラオス人の家族からバナナと交換する形でカーニャオとおかずをわけてもらうことになった。山道に入ると交通事故の現場で渋滞していた。この程度の交通量で事故とは驚きである。

小さな集落

ところどころに小さな集落がある。この道は彼らの生活道路でもある。乾季なので道路は乾ききっており,車が通るたびに土ぼこりがひどい。当然,我々の車も盛大に土ぼこりを上げてそのような集落を通過することになる。なんとも住人にとっては気の毒な環境だ。

道路ができることにより町の商品が流れ込んで来るようになり,今までの自給自足に近い生活が大きく変化することになる。ソンテオが休憩した集落には町の商品を扱う商店があった。

道路を補修する

日本と同じように山道は斜面に削って等高線に沿って造られている。一方,山に降った雨は斜面を小さな川となって流れ下る。この小さな流れはどこかで道路を横切ることになる。日本ではコンクリートの橋となるところだが,ここでは溝を掘り,そこに板を渡しているだけだ。

交通量がちょっと増えると,この簡易橋はすぐに傷んでしまう。そうなると,運転手が自分で橋の修理をすることになる。近くに村があれば村人も手伝ってくれるだろうが,いないときは自分たちでなんとかしなければならない。

地元の移動手段

地元の人々の移動手段は特殊四輪車両である。まあ,簡単に説明すると手で扱う二輪の耕運機に荷車を取り付けたものである。駆動系は耕運機本体であり,それが荷車を引くようになっている。

この車は中国の雲南やラオスではよく見かけた。おそらく,中国人の知恵であろう。このあたりは中国国境まで50kmも離れていない。中国製のものは荷車の部分も金属製であったが,ここのものは木製であった。この車にすれちがい,あわてて写真を撮ることになった。

川を渡る

山間部に入るとアップダウンが激しくなり,急ブレーキも頻繁になる。何回も川を渡ることになリ,大きな川の場合は斜面を上がるとき,乗客は降りて負荷を軽くしなければならなかった。なんといっても川の中ではほとんど止まるような速度になリ,勢いのない状態で対岸の斜面を上るのは大変だ。

ヨーロピアンはそのようなアクシデントが大好きである。乗客を乗せたまま川を上ることができたような場合は「イェーイ」と歓声が湧く。今回は座席がそれほど窮屈ではなかったので,余力を残してルアンナムタに到着することができた。

ルアンナムタのバスターミナル

ルアンナムタにはずいぶん広い敷地のバスターミナルがある。ここにはニ種類の乗り物がある。一つは中型バスもしくはマイクロバスで大きな町同士をつないでいる。旅行者が立ち寄るようなところはだいたいこの乗り物となる。二つ目はピックアップ・トラックを改造したソンテオでフェイサイのような悪路や小さな村を結んでいる。

バスターミナルの南側には生鮮食品の市場がある。ここは僕のお気に入りの場所だ。バスターミナルの東側には幹線道路が走っており,その東側にはナムター川が緩やかに蛇行しながら流れている。この幹線道路沿いに何軒かのゲストハウスがあり,小さな町にもかかわらずもう一つの市場もある。

特殊四輪車

バスターミナル前の市場には朝の早い時間に近郊の小数民族の人たちが集まる。彼らは山で採れる品物をこの市場で売り,なにがしかの現金収入を手にする。もっとも,市場の建物の中で商売をするにはある種の権利が必要なようだ。そのため彼らは市場の外に商品を並べることになる。

市場で特殊四輪車を見つけた。フェイサイから来る時,すれちがったものと基本的には同じものであるが,荷車は金属製である。う〜ん,これは中国製かな。この車にカメラを向けると子どもたちがカメラ目線になってくれた。

少数民族の人々

市場の前にある広場では少数民族の人々が店を開いている。この店は午前中の早い時間帯だけに開かれる。持ち込んだ品物が売れると彼らは店じまいして,自分たちの買い物をして村に戻る。

彼らの村はかなり遠く,トラック・バスも途中の村までしか行かないようだ。そのため,10時前には町から出発することになる。彼らと一緒に行動すると村まで行くことが出来るが,帰りの保証は何も無い。

親子連れ

かわいい子どもを抱いた女性がいる。幅の広い布の両端を縛り,それで子どもを体の前で抱きかかえている。子どもがまっすぐにこちらを見ているので,おばさんにお願いして一枚撮らせてもらった。

姉妹で店番をする

市場の裏手にも地面に商品を並べる人々がいる。姉妹と思われる二人が小さな青いナスを売っていた。このくらいの商品では全部売れても5000K(50円)程度のものだろう。それでも二人の家庭にとっては貴重な収入になる。

アカ族の人たちと行動を共にする(09:20)

今回は2年前に撮った少数民族の人たちの写真を何枚か持参してきた。市場からソンテオに乗ろうとしていたアカ族のグループに写真を見せると二枚は同じ村の人らしいので,届けてもらうことにした。

ついでに彼女たちがどうやって村に帰るのかを知りたくて同じソンテオに乗り込んだ。ソンテオは町から6kmほど離れた空港のあたりで西に向かい,数km走って小さな村に到着した。彼女たちはスイカの入ったカゴを背負って歩き出した。周辺の民家は田舎の風情で,とてもいい感じだ。

田舎の風景を歩く(09:45)

このあたりはまだ平地のラオ族の土地のようだ。アカ族のような少数民族は民族集団の力関係により条件の悪い山間地に居住しなければならない。一方,ラオスの主要民族であるラオ族は平地で水田農業を営んでおり,暮らし向きは(相対的に)ずっと上である。農作業用の小屋は茅葺きであるが,居住する高床式の家はトタン屋根になっている。

彼女たちは用水路の脇の道をどんどん歩いて行く。山道になっても彼女たちの歩みはほぼ一定している。5-6歳の子どもも親たちと同じペースで歩いて行く。

丸木橋は手すりが付いていた(10:15)

幅4mほどの川を渡ることになった。橋の代わりに丸太を一本渡してある。そのままではとても歩ける代物ではないが,腰の高さのあたりに太い竹がもう一本渡されている。この竹に片手を触れ,バランスを取りながら歩くようになっている。

橋を渡ったところで一行は水浴びを始めた。男の子は裸になって泳ぎ,30代,40代の既婚のおばさんは上半身裸で水浴びをする。さすがに若い女性は胸をさらすことはない。休憩時間中に地元のラオ族の子どもたちが二組通りかかった。写真に対しては特別に拒否反応はない。おかげで橋を渡る子どもたちの写真を撮ることができた。

お弁当を広げる(11:30)

一行はしばらく山道を歩き続ける。僕は軽いザックを背負っているだけだが,大人の女性は背負い籠の中にスイカや町で仕入れた物品を入れている。かなりの重さにもかかわらず足取りは確かだ。

彼らは11:30頃に道路わきに座り込み,お弁当を広げた。ここでお昼ごはんということは彼らの村まではまだまだ遠いということを意味している。日帰りでは彼らの村を訪問するのは難しそうだ。

村の訪問はあきらめてここでお別れすることにする。記念写真を撮り子どもたちにはお礼にフーセンをプレゼントする。ソンテオを降りてから約2時間が経過しており,この先は少なくとも2時間はありそうだ。

そうすると,彼らの村からソンテオの終点となっている村までは4時間の道のりということになる。ルアンナムタの市場には少なくとも07時には到着しているので,彼らが自分たちの村を出るのは早朝の03時前ということになる。暗い夜道をどうやって下ってくるのか疑問だ。ムアンシンで見かけた少数民族は懐中電灯を手にしていた。電池代が大変だね。

別のグループと出会う(12:00)

帰り道は一人で山道を下ることになる。すぐに別のアカ族の一行とすれちがった。ほとんどが成人女性である。みんな独特の背負いカゴを背負っている。

通常の背負いカゴはロープを通して額にかけ,首で支えるものであるが,彼らのカゴは板で作られた肩当てにつながっており,さらに額で支えるためのロープがある。つまり荷重を首と肩に分散させて支えるものとなっている。暑くなったので女性たちは上着を着ておらず,金太郎の腹掛けのような伝統的なシャツ姿になっている。

緑の農村

ソンテオの終点の村に向ってのんびり道草をしながら歩くことにする。途中にはいくつかの村がある。平地は立派な水田になっており,50cmほどに伸びた稲で緑一色に染め上げられている。

3月下旬のメコン流域は乾季の真っ最中である。インド,東南アジアのようなモンスーン地域では雨季に稲作を行うのが普通であるが,ここでは水があるので乾季にも稲作が行われている。ラオスの主食はもち米(カーニャオ)であり,蒸して通気性のよい竹で編んだ容器に入れて冷ます。これを一口サイズにして右手でつまみ,握るようにして丸めて口に運ぶ。

子どもたち

村の家屋は高床式で,床下では家畜や家禽が飼育されている。また,建築用の資材などの大物が収納されている。ときにはこの床下の空間には機織機が置かれ,女性がカタン,コトンと単調なリズムで布を織り上げている。

村の子どもたちは写真慣れしていない。並んだ姿は直立不動で緊張感が漂ってくる。その反動か,画像を見せてあげると自分の姿を指差して笑いころげることになる。

米粉を作る

メコンの流域では米粉の文化が根付いている。といっても日本の米粉のように乾いた粉食文化ではない。コメを一晩水に浸してから石臼で引くと粘性の高いゲル状の液体になる。 この液体を釜の上に張った木綿布の上に薄く広げ蒸し上げる。これを天日で乾燥させるとライス・ペーパーとなり,わずかな水分で戻し春巻きなどに使用される。乾燥した状態で裁断して乾麺にすることもできる。

また,ゲル状態のものをところてん突きのような道具で押出し,お湯の沸いている鍋に落とし込んでそのまま麺にする方法もある。そうしてできた麺はラオスでもフーやカオヤーイとして利用される。

水汲みのポーズ

村の家庭には水道はなく,井戸も各家庭にあるとは限らない。近くの井戸で水を汲み,天秤棒の両側にバケツを取り付けて運ぶのは女性や子ども仕事である。生活用水の大半をそのようにして運ぶのであるから,女性にとってはかなりの重労働である。

日本だったリヤカーのような荷車をまず考えるが,ここでは荷車は水運びのためには使用されないようだ。5-6歳の女の子が天秤棒のセットを持ってポーズを決めてくれた。もちろんバケツの中は空である。大ざっぱに言うと,中国文化圏は天秤棒,インド文化圏は頭に乗せて運ぶことが多い。

雨宿りの家

村を回っているときにわか雨が降り出した。ちょっと大きな家に避難させてもらい,子どもたちを集めてオリヅル教室を開く。東アジアの子どもたちは概して器用に折り紙を扱うことができる。やはり,手先の器用な民族なのであろう。

もちろん,難しいところは手伝うことになるが,立派な完成品になる。オリヅルで30分ほどを費やし,雨も上がったので記念写真を撮って再び歩き出す。

村人が共同で家を建てる

ソンテオの終点となっている村では新しい家が建てられていた。おそらく村には本職の大工さんはいないと思われる。職業としての大工がいないので,村人は必要に迫られて大工仕事ができるようになる。もちろんその家の男性だけで家を建てるわけにはいかないので,村人の共同作業となる。

日本でも「結い」のように村の相互扶助制度があるので,それと似たようなものだろう。高床式の床下がかなり高いのでほとんど二階建てと同じような造りになる。構造は日本の軸組み工法とそれほど違いはない。すでに材料の加工は事前に済ませてあるので,この日の作業は組み立てである。

新築祝いのごちそうを作る

男性たちが家を建てている一方で,女性たちも集まって共同でご馳走作りが進んでいた。ラオスではイベントのご馳走作りを共同で行う習慣がある。このような共同作業体制は日本の村でもかっては見られたものだ。こちらの作業はほとんど終了しており,女性と子どもたちはおやつを食べながらくつろいでいた。

ごはんがちょうど炊き上がってきた。竹で編んだ筵の上にごはんを広げ冷ましている。これだけ大量のごはんは一つのかまどでは無理なので,いくつかの家で焚いたものを持ち寄っているようだ。男性の家作りが一段落したらご馳走が振舞われることになる。

おままごとの姉妹

夜中に雷雨となった。遠くで雷鳴が響き,気温が急に下がる。市場には昨日と同じアカ族の女性たちがいたが今日はずいぶん早い時間帯にソンテオに乗って帰って行った。

市場で朝食用の竹筒ごはんとバナナを買う。量が少ないとはいえ,両方で1000K(10円)という安さである。ちなみにスイカは一切れが500K,小さなキュウリが8個で500K,食堂でいただいたヤキソバとラオコーヒーが9000Kであった。

市場の近くを歩いていると家の前のたたきで姉妹がおままごとをしている。しばらく彼女たちの様子を眺め,おもむろにカメラを構えると素直に並んでくれた。コンパクトカメラなので警戒感は少ないのかもしれない。

写真を見せると本人が名乗り出る

市場で会った別のアカ族の少女グループに2年前の写真を見せると本人が名乗り出てくれた。これは奇遇というものだ。彼女たちの知り合いということで何枚かの写真も引き取られた。

彼女たちはアカ族固有の頭飾りをしているものの,上着はすでに町で買ったセーターやシャツになっている。彼女たは大人について来たのか,背中には商売用のカゴはなかった。すでに今朝の商売からは解放されているらしく,市場で猿とたわむれて遊んでいた。

テレビに集まる子どもたち

幹線道路に出て南に向かうソンテオを待つ。逆方向は多いけれど南の空港方面のものは15分ほど待たされた。6kmほど離れた空港近くまでの料金は5000Kと市場の食品に比べるとかなり高額だ。

道路の両側には田舎らしく高床式の住居もたくさんある。ソンテオを下りて歩き出す。一軒の家に子どもたちがたくさん集まっている。ビデオで映画をやっている。窓から失礼して写真を撮ると大騒ぎになる。これが縁で子どもたちに連れられて村を見学することになった。

床下で機を織る

高床式家屋の床下は高さが2mほどもあり,そこではよく女性たちが機を織っている光景を目にする。ラオスでは伝統な織物文化が根付いている。かってはごはん炊きと同じように機織は女性の必須アイテムであり,家族の衣類は女性たちによって作られていた。

特に巻きスカートは民族毎に異なる染め織りの技法と模様が使用されており,ラオスのよいお土産にもなっている。しかし,現在では安い機械織りの布地が主流となっている。値の張る特殊なものを除き,手織りの織物は経済的に立ち行かなくなっている。床下の機織が見られるのもそろそろ最後であろう。

天秤棒で水を運ぶ

村には水道はない。近くの井戸から水をくんで天秤棒に下げて運ぶのは女性と子どもたちの仕事である。日常生活に必要な水はすべてこうして運ばれることになる。これは大変な仕事である。

一日に必要な水を確保するため井戸と家を10回や20回は往復することになるだろう。10歳くらいの少女が水を運んでいた。重い荷物を持っているにもかかわらず,歩を止めてこちらを向いてくれた。重いところをごめんねとつぶやきながらシャッターを押す。

イベントのごちそうを作る

この村でも女性たちが集まってイベントのご馳走作りをしていた。乾季の陽射しは強いので木陰で作業をしている。光のコントラストが強すぎるのでいい写真にはならない。ちょうど豚肉を切っているところであった。おそらく,今朝どこかの家の豚が犠牲になったのであろう。

彼女たちは地面に置いたまな板の上で作業を進めている。別にこの地域に限らず,東南アジア,インド圏,西アジアでは家の中でも床の上で調理する文化が一般的だ。日本でも少なくとも明治時代には台所は板敷きになっており,その上で調理が行われていた。

縁側で遊ぶ

日本のような縁側の文化はこの地域にはない。それでも高床式家屋の外側にある庇をもった外空間が縁側のようになっている。日本の家屋では縁側は家の内側であり,ここでは家の外側という差はあるが,類似の機能を有している。まあ,日本の縁側も戸を開けてしまえば外空間と一体になる。

そのようなラオス式縁側で子どもたちが遊んでいた。年少の妹は姉兄のカードゲームには参加できないがおとなしく側で坐っている。なんだかとてもいいね。

タマリンドをごちそうになる

カゴの上に乗せたお盆の周りに女性たちが集まりタマリンドの実を食べている。タマリンド(Tamarindus indica L.)はアフリカの熱帯が原産地,マメ科・タマリンド属の常緑高木で,タマリンド属で唯一の種である。

長さ10cmほどの細長い豆の莢ような褐色の果実の中には褐色,ペースト状の果肉に包まれるように数個の種子が入っている。この果肉が食用になる。季節になると大きな木は大量の実を付けるので,商品価値は低い。落下した実が採取されることもなく朽ち果てていくことも少なくない。

店番の少女

ルアンナムタの町には小さな商店がたくさんあり,その中で少女が店番をしていた。カメラを向けるとちょっと恥ずかしそうにモデルになってくれた。写真慣れしていないのか,カメラ目線になっていないのがちょっと残念だ。

ダーツ式のフーセン割り

ルアンナムタの町のあちこちにダーツを使用した風船割りの店がある。料金は3本で1000Kだったと記憶している。3mほど離れた風船の集団にダーツを投げる。

うまく当たると風船はパンとはじける。3本とも命中すると景品をもらえるようになっている。僕も3回トライしていたが,3本とも命中とはいかなかった。

アカ族の子どもたち

滞在3日目,朝から腹具合が悪い。2時間くらいでトイレに通う状態では遠出はできない。市場に行って少数民族の子どもたちを探し,写真を見てもらう。何人かの人にたずねて二枚の写真が引き取られた。

こちらはランテン族の子どもたち

珍しい民族衣装の子どもはランテン族である。ランテンの人々は中国の雲南省にもおり,そこのおじいさんは僕に民族の名前を漢字で書いてくれた。

もうその文字は記憶にないが,ランは藍という文字だったと思う。確かにランテンの人々の民族服は上下とも濃い藍色となっている。この子たちにも2年前の写真を見てもらったが収穫はなかった。

背負いカゴでポーズを決めてくれました

市場でアカ族の少女を見かけた。背中のカゴの中はほとんど空である。村の大人と一緒に来たようだ。とても素直にモデルになってくれ,僕の記念の一枚になった。

彼らの主力商品はタケノコ

少数民族の人々は村でとれた産物を市場が販売し,なにがしかの現金収入を得ている。この時期の彼らの主要商品はタケノコである。ラオス北部ではタケノコは重要な野菜となっており,その需要も大きい。

日本人の食文化の中でもタケノコは大きな地位を占めていたが,近年は食生活の変化により需要が落ち込んでいる。さらに安い中国産が出回ることにより市場価格も低迷し,農家の竹林管理意欲は低下している。竹は非常に生命力が強く,放置すると地下茎を周囲に張り巡らし,無制限に拡大してしまう。タケノコをちゃんと採取しないと地域の環境に大きな影響を与えることになる。

女性の服装は長い巻きスカートである

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