亜細亜の街角
「異邦人」の歌が良く似合うイスラーム地区
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イスラム地区に向かう

08時に起床,日本人宿にいるとどうしても夜更かしになり,朝が遅くなる。昨夜は蚊に刺され,かゆみのために何回か目を覚ましてしまった。

今日はイスラム地区を歩くことにする。イスラム地区は宿のある新市街の東側にあり,地図で確認すると宿の南側の通りをほぼ真っすぐ東に行き,アズバキーヤ公園の南を通り,さらにアズハル通りを東に行くだけなので間違いようがないようにみえる。

イスラム地区に歩いて行きながら朝食のとれるところを探したが,結局,「コシャリ」の店になってしまった。このエジプトの安い大衆食はまずいとは言わないけれど,とてもおいしいと言える代物ではない。

そもそも冷たいご飯と刻んだパスタを混ぜたものにトマトソースをかけた食べ物をおいしく食べられる道理が無い。スパゲティでも冷めてしまえばそのおいしさは失われてしまう。それでも,日本人の旅行者にもこの「コシャリ」が大好きという人がたくさんいるので不思議だ。

さて,イスラム地区に到着する前にエジプトのイスラム王朝についておさらいをしておくと次のようになる。

王朝名称 年代 備考

正統カリフ時代
ウマイヤ朝
アッバース朝
トゥールーン朝
イフシード朝
ファーティマ朝
アイユーブ朝
マムルーク朝
オスマン帝国支配
ムハンマド・アリ朝
英国支配

632-661
661-750
750-1258
868-905
935-969
909-1171
1169-1250
1250-1517
1517-1805
1805-1882
1882-1952

首都メディナ
首都ダマスカス
首都バグダッド
独立軍事政権
独立軍事政権
首都カイロ
サラフッディーン
奴隷王朝
オスマンの総督
スエズ運河完成



宿の南側のシッタ通りを東に向かうとじきにアズバキーヤ公園に出る。緑の多いちょっとした公園である。その西側に地下鉄のアタバ駅がある。公園の北側には露店が立ち並び多少はスークの雰囲気を感じることができる。

公園の南側には騎馬の男性の銅像がある。銅像の基壇には「Ibrahim Pacha 1789-1848」と記されている。イブラヒム・パシャはムハンマド・アリ朝(1805-1882)を興したムハンマド・アリの長男である。

18世紀後半,エジプトは未だオスマン帝国の属州であり,形の上ではイスタンブールから派遣された総督が支配していた。しかし,実際にはマムルーク朝以来のマムルークが地方を支配し,政治の実権を握っていた。

1798年にナポレオンが率いるフランス軍がエジプトに侵攻し,結果的にはマムルークの勢力を削ぐことになった。この混乱の時代にオスマン帝国から派遣されていたアルバニア人部隊のムハンマド・アリがオスマンの総督やマムルークを打ち破り,オスマン帝国から総督の地位を勝ち取った。

ムハンマド・アリは地方の実権を握るマムルークたちを謀殺し,エジプトの中央集権化を進めた。彼はオスマン帝国に対してエジプト総督の地位を世襲制とすることを認めさせ,実質的には新しい王朝を興した。

彼の長男イブラヒム・パシャが活躍したのは1818年のアラビア遠征であった。オスマン帝国が支配するアラビアでは第一次サウード王国がイスラム教の改革思想であるワッハーブ主義を掲げて勢力を拡大しつつあった。

ワッハーブ運動の拡大を防ぐため,オスマン帝国の要請を受けたムハンマド・アリはイブラヒム・パシャを派遣し,エジプト軍はワッハーブ軍を打ち破ってサウード王国を滅亡に追いやった。ここの銅像はそのときの記念碑であろう。

エジプトを近代国家に導いたムハンマド・アリの名前はシタデルの中にあるオスマン風の「ガーマ・ムハンマド・アリ」に残されており,彼の墓もそのモスクの中に置かれている。

さて,単純に東に向かうとイスラム地区に着くだろうという考えは甘かった。アズハル通りは高架になっており歩けない。下の道路は高架道路と必ずしも同じ方向に向かうわけではないし,ところどころにローターのように広場があるので方角が非常に分かりづらい。

方向音痴の負け惜しみに聞こえるかもしれないが,僕は見知らぬところを適当に歩くの好きだ。何も遺跡のように著名なものを見るだけが旅行の目的ではないので,その街の雰囲気を確かめながら,自分の感性のままに歩き,帰りに苦労したことは数え切れない。

今日の最初のヒットはジュース屋である。街角のジュース屋にマンゴージュースがあったのでいただく。おじさんはポリタンクに入った搾り置きのジュースをグラスに注いでくれた。

この一杯2EP(40円)のジュースはマンゴーのねっとりとした甘さが凝縮されているようですばらしかった。冷蔵庫で冷やされて甘みがより強くなっている。衛生面の安全性は保証できるものではないが,すばらしい一品であった。

フトゥーフ門周辺

結局,親切な地元のおじいさんに助けられてイスラム地区を南北に走るムイッズ通りに出ることができた。ムイッズ通りはイスラム王朝時代の城壁のフトゥーフ門に始まり,2kmほど南のズウェーラ門まで続き,その少し先で名前を変えて南に2kmほど続いている。

イスラム地区の見どころはだいたいこの南北4km,東西2kmの範囲に含まれる。見どころが多いためガイドブックでは19ページに渡って詳細に記述されている。写真付きで説明してくれるのは自分が何を見ているのか分かるのでありがたい。

このページを作ろうとしてグーグルマップとガイドブックの呼称が一致せず苦労した。最重要の「ムイッズ通り」もグーグル地図では「Al Moez Allah Fatm」となっており,「ガーマ・ハリーファ・イル・ハーキム」も「Al Jame al Anwar」となっていて対応がつかない。この違いの理由はよく分からない。

僕はムイッズ通りの途中から北に向かって歩き,フトゥーフ門のところから南側に向かい,シタデルまで歩き,帰りはダルブ・イル・アフマル通りでズウェーラ門に戻った。分かりやすいように北から南の順に紹介する。

ファーティマ朝の時代に造営された城壁の北側にはガーマ・ハリーファ・イル・ハーキムを挟むようにして西にフトゥーフ門,東にナスル門がある。この二つの門を見るため,城門から出て自動車道路を横断し,少し高くなったところまで行かなければならない。

ここからガーマ・ハリーファ・イル・ハーキムの風変わりなミナレットとフトゥーフ門を入れた構図の写真が撮れる。反対側のナスル門は午前中なので逆光となりそれほどきれいには撮れない。

城壁の北側は車の往来が激しい道路であるが,そんなところにも水を運ぶ馬車の駐車場がある。そこには飼い葉用の桶も用意されており,新旧のカイロが混ざり合った空間を形成している。僕のいる場所はイスラム地区の続きといった感じのところで,みごとにふくらんだアエーシが並べられていたり,露店の野菜屋が小さな店を出しているようなところだ。

肉を扱う露店の下にはネコがおり,何かが落ちてこないかとじっと待っている。イエネコは中東起源であり,外観からリビアヤマネコが原種と考えられてきた。最近のミトコンドリアDNAによる遺伝子解析(注)でもそのことが裏付けされている。

注)細胞内にたくさん存在しエネルギーを生み出す働きをしているミトコンドリアのDNAの変化量の大きさを分析することにより,種の近縁性や人類の家系を追跡する手法である。

ミトコンドリアDNAは受精のとき母方の遺伝子のみが伝達される特徴をもっている。したがって,受精による遺伝子の交雑が起きず,その変化はもっぱら突然変異によるものとなる。

複数の動物群のミトコンドリアDNAを分析する(変化量の大きさを調べる)ことにより,それぞれの群が遺伝的に近いか遠いかを判定することができる。一例として人類の場合,コーカソイドやモンゴロイドはネグロイドに比べて集団内におけるミトコンドリアDNAの変化量が小さい。

そのことはコーカソイドやモンゴロイドは比較的新しい集団であり,ネグロイドはそれよりも古い集団であることが分かる。この結果は 「アフリカ単一起源説」を支持するものである。

およそ1万年前に中東で農耕が始まり,穀物が保存されるようになるとネズミが爆発的に増加した。そのような時期にネコは穀物庫に住み着くようになり,人間との交流が始まったとされている。ネコは穀物を食べることはないので,当時の人々からは益獣とされていた。

リビアヤマネコがどのようにしてイエネコになったかについてはよく分かっていない。少なくとも紀元前3000年頃にはエジプトで現在のようなイエネコが誕生している。

そのため,エジプトはイエネコの起源地として知られるようになった。古代のエジプトではスフィンクスに見られるようにライオンが崇拝の対象になっており,それに類似するネコも豊穣を司るバステト女神(頭部がネコの女神)として神格化されている。

エジプトの古代イエネコは「エジプシャン・マウ(エジプトのネコ)」と呼ばれており,墓室の壁画やパピルス画に斑点模様のネコが描かれている。

イエネコは人類とともに生息域を拡大していき,現在では国際自然保護連合がリストアップした「外来侵入種ワースト100」にも選ばれている。優秀なハンターであるイエネコは優勢な肉食獣のいない環境では地域の生態系に深刻な影響を与える事態がしばしば発生している。

ガーマ・ハリーファ・イル・ハーキム

フトゥーフ門は二つの守備塔に挟まれるようになっており,けっこう絵になる。この門をくぐるとすぐに左側に「ガーマ・ハリーファ・イル・ハーキム」がある。オリジナルは11世紀のものであるが,十字軍の時代には捕虜の牢獄として使用されて,かなり荒れ果ててしまった。現在の建物は20世紀に再建されたものであり,非常に新しい感じを受ける。

通りから見ると外観は白大理石の壁になっており,ドームやイーワーンをもたないオーソドックスなモスクには珍しく,外壁にイスラム紋様のレリーフが施されている。アーチ型の入口にはゴザが敷いてあり,そこで履物を脱ぐようになっている。中庭に出ると履物の預かり所があり,外国人は1EP程度のバクシーシが必要だ。

このモスクはダマスカスのウマイヤド・モスクと同様に中庭とそれを囲むアーチが連続する回廊から構成されている。イスラム教においては礼拝はメッカの方角に向かって行うため,モスクの壁面の一つはメッカの方角を向くようにできている。

カイロからみるとメッカは南南東あたりに位置しているので,この方形の建物もその方向に合わせてできている。しかし,表のムイッズ通りは北北東から南南西に向かっているため,通りと建物は30度ずれるというおかしな配置になっている。

ムイッズ通りは正確な南北の通りではないのだから,もう30度ずらして西南西に向かう導線にすれば通りと建物が平行になり,通りに面した入口から入り,正面が礼拝堂という配置ができると考えるのはやはり素人の発想なのであろう。

中庭はすべて大理石で覆われており,これ以上にないくらい磨き上げられている。そこには礼拝時に手足を洗う小さな沐浴場が飾りのようにあるだけだ。

中庭から見るミナレットは直方体の基壇の上に乗せられており,細い尖塔の部分は全体の1/3ほどしかない。使用されている石材も現在のモスクのものとは異なっており,古いものもしくはそれを部分的に改修したもののようだ。

礼拝堂は多柱式の空間になっている。この巨大な礼拝堂の空間は太い柱が並んでおり,横方向は見通しが利くが,キブラ(メッカ方向の南南東の壁面)は柱により視界がさえぎられるため,ミフラーブは正面に来ないと見ることができない。

礼拝堂には地元の女子中学生が先生に引率されて見学に来ていた。服装から考えるとコプト教もしくはキリスト教徒であろう。先生は英語で説明していたのでしばらく一緒に聞いていた。

先生の説明が終了すると彼女たちはグループに分かれて写真を撮っている。僕もお願いして一枚撮らせてもらう。写真に対する宗教あるいは生活習慣上の禁忌はまったく無いので,彼女たちはにこやかに並んでくれた。

どれがどれやら分からなくなる三つの建物

アズハル通りが近づくと狭い通りに北からスルタン・バルクークのマドラサ(14世紀),スルタン・アル・ナーセルの複合施設(14世紀),スルタン・カラウーンの複合施設(13世紀)という三つのマムルーク朝時代の歴史的建造物が連続しており,後で写真を見てもどれがどれやら分からなくなる。

マムルーク朝においてはスルタンの地位は世襲制ではなく,有力なアミールの互選で決定された。そのためスルタンの子どもは親の財産を継げないことになる。スルタンは財産を宗教的目的に限られる寄進制度(ワクフ)に委ねることにした。そのため,スルタンの名を冠したモスク,墓廟,神学校,病院,宿泊所を含む複合的な宗教施設が造られることになった。

スルタン・バルクークのマドラサは写真が特に撮りづらかった。横の通りに入り距離をかせいでようやく撮影した。それでも縦の構図にしてもミナレットを一緒に入れようとすると大変だ。

ファサードは濃淡のある茶色の石材を使用して水平方向に積み上げたような模様を造り出している。本体の上部には大きなドームとミナレットを並べて配置しており,横幅の少ない敷地でモスク建築に必要な要素を集約している。

マムルークの時代になるとカイロのこのあたりは建物が混んで手狭になり,モスクといえども大きな敷地面積を確保できなくなったので,このようなスタイルになったのであろう。

スルタン・アル・ナーセルの複合施設の入口の門とその上のミナレットは,キリスト教の教会を思わせる造りになっている。アーチと石柱を奥行き方向に何重にも配置する入口の装飾手法,細かい幾何学的紋様を施した末広がりのミナレットは印象的だ。

ミナレットの中ほどにある装飾はイランのモスクのイーワーンの天井を飾る鍾乳石飾りと酷似している。その上には転落防止用の柵が取り付けられており,往時はここでムアッジンがアザーンを呼びかけたことだろう。

スルタン・カラウーンの複合施設もキリスト教の教会建築を思わせる。八角形の胴の上に置かれたドームはヨーロッパ的であり,三段で構成されたミナレットは最上部を除き教会の鐘楼と類似している。建物本体のアーチ装飾もヨーロッパの影響を色濃く受けている。

ガーマ・イル・アクマル

12世紀のファーティマ朝の時代のモスクで,横20m,奥行き30mという大きなものではない。ファサード(正面)は暗い感じの石材を使用しているが,特徴的な入口のアーチ門と左右のアーチ装飾が採用されている。この頃からカイロのイスラム建築はファサードに明確な装飾の意図をもつようになった。

入口にボランティアの管理人のような親子がいるので,軽く会釈をして中に入る。アーチ形の回廊に囲まれた小さな中庭がある。アーチを支えている石柱はローマ時代のものを転用しているようだ。石柱の上のアーチは今まで僕が見てきたものとは異なる書体のアラビア文字が装飾として彫り込まれている。

礼拝堂は多柱式の空間となっている。石柱の上にアーチを乗せる構造のため全体を見通すことができる。ミフラーブの両側には小さな石柱が配置されており,これはローマ建築の影響を受けたものであろう。

それにしてもこのモスクに限らず,ムイッズ通りの建物は距離がとれなくて写真は撮りづらい。しかも,モスク本体とミナレットを構図の中に入れようとするとどうしても写真は縦になってしまう。

ちょっと変わった茶店

モスクの履物預かりで1EPを払って外に出る。南に向かうムイッズ通りは車がなんとかすれ違えるくらいの広さだ。通りの両側は古い家屋が隙間なく並んでおり,大半は二階建てになっている。少し向こうに一本だけ細いミナレットが見える。

建物がちょっと途切れたところには葦で葺いた屋根のちょっと変わった茶店があった。店の外にもテーブルが並べられており,まだ午前中だというのに年配の男性三人がイスに坐って談笑している。こういう雰囲気は好きだな。

人間関係が濃密な地域社会は健全なことが多い。地域の中で社会の規範を学んだ人々は,自分の育った社会の価値観の中で安定的に暮らしていくことができるからだ。年長者との縦のつながり,同年代との横のつながりのある社会からは精神的に暴走する個人はそうそう生まれない。

最近の日本では極めて異常な事件が多発している。「誰でもいい,人を殺してみたかった」,「人を殺せば刑務所に入ることができる」などという発言はどのような環境から生み出されたのか理解に苦しむ。

競争社会からの脱落,広がる格差社会,快楽のみが優先される社会,家族関係の希薄化,地域社会からの隔絶,大人になっても人間関係が構築できない人たち,命の大切さを経験できない子どもたち…。現在,日本の社会が抱える問題は余りにも根深い。

ハーン・ハリーリ

マムルーク時代の複合施設の西側にはハーン・ハリーリ市場が広がっている。400年の歴史をもっている市場も現在はほとんど観光客目当ての土産物屋の集まりになっており,地元の人々が利用するスークの雰囲気はない。

エジプトを思わせるお土産を見て回るのは楽しくないわけではないが,やはりそればかりが集まっている一画はそれほど興味がわかない。いくつかの路地に入り,地元の人たちが買物をする姿を眺めてもとのムイッズ通りに戻る。

買物もしないで近くの金属細工屋の写真を撮ろうとしたら,「写真はダメ」とばかりに手を振られた。なんだかとても感じが悪い。おまけに僕の構図に入っていない手前のおばさんまでが「写真はダメ」という身振りをする。まあ,そんなに撮りたいところでもないので先に行くことにする。

「異邦人」の歌が良く似合うムイッズ通り

ムイッズ通りは自動車専用道路に近いアズハル通りにぶつかる。その向こうにはカイロのイスラム地区発祥の地というべき「ガーマ・アズハル」のミナレットが何本も立っている。

アズハル通りは歩道と車道は柵で分離されており,横断することはできない。近くに歩道橋があるのでその上から周辺の写真を撮る。南北の通りは古い時代のカイロがそのまま残されているが,歩道橋の上から見る東西方向の通りの両側は現代風のビルが立ち並びその時間的落差は大きい。

歩道橋を渡るとムイッズ通りはスルタン・ゴーリーのマドラサと廟の間を通り南のズウェーラ門まで続いている。周辺の歴史的建造物を見る前に昼食が必要になる。近くにケバブ屋があったのでシュワルマ(ケバブのサンドイッチ)とフライドポテトを注文する。5EPの昼食に満足して再び歩き出す。

大きな建物に挟まれたムイッズ通りを覗いてみる。地元の人たちが利用する服や日用品の露店が並んでおり北側とはかなり雰囲気が異なる。中世の宗教的建造物に挟まれた狭い石畳の通りと人ごみを見ると,1970年代最後の名曲となった「異邦人」を思い出す。

歌っていた久保田早紀本人が作詞・作曲したこの歌は軽快なアラビック・テンポの中に異国情緒を漂わせる不思議なものになっており,現在聞いてみても名曲の名に恥じない。この曲の歌詞は一番と二番ではまったく時間軸が異なっており,曲中にある「時間旅行」の意味がよく分かる。

当時はシルクロードをイメージしたものと言われているが,現在ではそのような雰囲気を持ち続けている街はそれほど多くはない。個人的にはカイロのこのあたりがもっともそれに近いのでは考える。

彼女が引退した後,何人かの歌手がカバーしたので現在の若い人たちも知っているかもしれないが,歌詞は次のようになっている。日本音楽著作権協会さんゴメンナサイ。

子供たちが 空に向かい 両手をひろげ
鳥や雲や夢までも つかもうとしている
その姿は 昨日までの 何も知らない私
あなたにこの指が 届くと信じていた
空と大地が ふれあう彼方
過去からの旅人を 呼んでる道
あなたにとって 私ただの通りすがり
ちょっとふり向いて みただけの異邦人

市場へ行く 人の波に 身体を預け
石畳の街角を ゆらゆらとさまよう
祈りの声 ひずめの音 歌うようなざわめき
私を置き去りに 過ぎてゆく白い朝
時間旅行が こころの傷を
なぜかしら埋めていく 不思議な道
サヨナラだけの手紙 迷い続けて書き
後は哀しみを もてあます異邦人
後は哀しみを もてあます異邦人

ガーマ・アズハル

歩道橋から少し東に向かうと「ガーマ・アブル・ダハブ(18世紀)」と「ガーマ・アズハル(10世紀)」の大きな建物が現れる。隣同士になっているこの二つの建物は建設年代が800年ほど異なっている。

「ガーマ・アブル・ダハブ」はオスマン朝時代のモスクであるが,ドームの胴の部分は特異な構造になっており,マムルーク時代を思わせる角柱型のミナレットと合わせ,オスマン朝のものとは思えない様式となっている。

オスマン朝の最大の建築家ミマール・スィナンが活躍したのは帝国の最盛期にあたる16世紀のことである。現在でもイスタンブールの景観の一部となっているものは,大小のせり上がっていくドームであり,細い円柱型のミナレットである。

それから2世紀が過ぎてから建てられたガーマ・アブル・ダハブはオスマン最盛期のモスクとはまったく別物と言ってよい。18世紀といえばオスマン帝国の栄光はすでに過去のものとなり,明らかに衰退期に入っている。

エジプトもオスマン宮廷から派遣された総督に変わり,マムルーク朝以来のマムルークが地方を支配し,政治の実権を握っていた。このため,オスマンの影響をそれほど受けないモスクになったのであろう。

ガーマ・アズハルはファーティマ朝の970年に創建された。カイロの金曜モスク(金曜礼拝が行われる地域で最大のモスク)として,現在までその地位を維持している。創建後も歴代の王朝の支配者が増改築を行い,現在では間口100m,奥行115mという巨大なものになっている。

「アズハル」とは「花開くもの」を意味する。それはファーティマ朝の名前の由来となっている預言者ムハンマドの娘であり,第4代カリフ(シーア派にとっては初代のイマーム)となったアリーの妻ファーティマのあだな「アルザハラー」にちなんでいるとされている。

創建時のガーマ・アズハルは85mX70mのシンプルな建物であったとされている。周囲をアーチの回廊で囲まれており,中庭から見てメッカに向いた礼拝堂以外に両側の回廊部分でも礼拝ができるようになっていたとされている。

何度もの増改築が繰り返されたため,現在はその当時の様子を知るすべもない。北西の正門から入ると磨き上げられた大理石の敷かれた広い中庭がある。後ろを振り返るとバチカンを思わせるドームがあり,周辺には何本もの異なった形状のミナレットが見える。

このモスクの平面図を見ると,中庭より礼拝堂のほうが広いという変わった姿になっている。面積的には中庭の1.5倍くらいはあるだろう。平面図に興味のある方は 「エジプトの世界遺産」にアクセスしていただきたい。

現在でもメッカの方角の礼拝堂と中庭の両側には礼拝用の空間があり,創建時の三方礼拝室の様式を踏襲しているようだ。広い礼拝堂は数え切れない(実際は全部で300本といわれている)石柱とその上のアーチで木造の天井を支えている。

これは多柱式といわれる伝統的な礼拝堂の様式である。石柱の多くはローマ時代のものが転用されており,石柱同士を縦横につなぐ鉄の横木とあいまってイスラム教の礼拝堂とは少し異質な空間となっている。

床にはエンジ色の地に灰色のアーチ門を描いたじゅうたんが一面に敷きつめられている。アーチ門の上部は一様にキラブの方角を向いている。中庭から近いところではミフラーブのある壁がひどく遠くに感じる。

ミフラーブはアーチとその両側の石柱で飾られており,アーチ部分は金色に彩色されたアラビア文字が刻まれている。ミフラーブを飾ることは珍しくないが金色を使用する例は少ない。

礼拝堂には東アジア出身と思われる若い男性が散見される。そのうちの一人に聞いてみると,インドネシアから来た留学生であることが分かった。このモスクのとなりにはアズハル大学がある。

外に出てアズハル大学を見学に行く。この大学の創建は988年,ガーマ・アズハルに付属するマドラサ(学院)として開校した。主要な学習科目はイスラム学(コーラン),イスラム法,アラビア語であった。

アイユーブ朝の首都バグダッドがモンゴル軍により陥落し,カイロがイスラム世界の中心都市となるにしたがい,このアズハル学院はもっとも格式のあるイスラム神学校となっていた。

1961年,ナセル政権下で学院は改組されて総合大学となり,伝統的な3学部に医学部,工学部,農学部および女子大学が新たに加わった。

現在でも学生2万人,教授陣2000人を擁し,カイロ大学と並ぶ重要な教育機関となっている。特にイスラム学,アラビア語の最高学府として尊崇されている。このような歴史をもっているため,「現存する最古の大学」という尊称も受けている。

残念ながらこの学校には部外者は入ることはできない。門のところに守衛がおり,入門者をチェックしている。しかたがないので道路に面した建物の写真を撮るだけに留める。

ズウェーラ門

再びムイッズ通りに出て南に向かう。地元の人たちのための衣類などの商店がならび,庶民の街の雰囲気はとても好ましい。その先にはオリジナルのカーヘラの城門にあたる「ズウェーラ門」がある。二本の高いミナレットを乗せた城門のところでムイッズ通りは終わる。

門をくぐり,アフマド・マーヘル通りを横断して,ズウェーラ門の全景が撮れるポイントを探したが,周辺の建物が混んでいるためいい構図にはならないし,全景を撮るには距離がとれない。

老婆心ながら,このミナレットはズウェーラ門に付属しているものではない。これらのミナレットは左背後にある「ガーマ・ウマイヤド・イッシェイフ」の付属するもので,それが門を兼ねているということだ。

周辺にはオスマン支配時代の建物があり,特徴のある張り出し窓をもつ家屋が多い。また,その頃の個人の邸宅と思われる六角形の建物もあり,古いカイロがそのまま残っているような感じを受ける。

ズウェーラ門から南側はヒヤミーヤ通りになり,その先はスルギーヤ通りとなる。ヒヤミーヤ通りはすぐにアーケード付きのスーク「カサバ・ラドワーン」の中に入る。アーケードといっても天井には明り取りの穴(窓?)があるのでけっこう明るい。

ここには衣類や布地の店がたくさん並んでいる。北側のムイッズ通りでは見られなかったロバ車が大荷物を運んでいる。三頭立てのロバ車というのも珍しい。このスークの両側は二階建ての家になっており,二階部分は一様に外に張り出している。その部分を支える持ち送りが一列に並んでおり,そのデザインは何となく日本の神社仏閣の建築を想起させる。

ヒヤミーヤ通りはそれほど見どころはない。それでも張り出し窓をもつオスマン時代の邸宅,外部装飾の美しいモスクなど歩いているといろんなものにめぐり合うことができる。

バザールでは女性と子どもの写真が撮れる

下校途中の子どもたちも多い。子どもたちの制服を残しておきたくて後ろから一枚撮らせてもらう。さすがカイロというべきか,ほとんど洋風化されている。

カバンは背負う形のザックになっており,子どもたちの体格に比してとても大きく見える。近くを歩いている子どもたちに「写真を撮らせて」とお願いすると,簡単に応じてくれた。

八百屋がある。品数は少ないがトマト,ニンジン,ピーマン,タマネギなどは大量に積んである。ここも女性の服装を撮っておきたかったので,背後から失礼して写真を撮る。

パン屋は2種類ある。一つは安いパンのアエーシ専門の店だ。下段にはふくらんだものが,上段には平らになったものが並べられている。

このパンは種がほとんど入っておらず,中空の状態でふくらんでいるだけなので,冷めるとしぼんでしまう。味も単体で食べるのはちょっと苦しいので,豆や肉をなどを挟んで食べるのが一般的だ。

もう一軒のパン屋はちゃんと酵母を使用しており,きれいに膨らんでいる。といっても日本のふかふか食パンよりもずっと密度は高い。こちらは少し高級品で,その分値段も高いが単体で問題なく食べることができる。

シタデルの西側ロータリー周辺

このように庶民の暮らしを見学しながら歩くのはとても楽しい。スルギーヤ通りから斜め左にムハンマド・アリ通りに入るとじきに「ガーマ・スルタン・ハサン」と「ガーマ・リファーイー」の二つの大きな建物,そしてその背後には丘の一角を利用したシタデルが威容を見せている。

このあたりもイスラーム地区の観光ハイライトの一つだ。二つの巨大なモスクは城塞のような感じがして僕の感性にはピンとこないし,現役のモスクのくせに入場料をとるのも気に入らない。すでに今日は三つのモスクを見学しているので外観の写真だけにしておく。

それにしてもガーマ・スルタン・ハサンのミナレットは90mもあるというのだから驚きである。ガーマ・リファーイーは一回りしてみたがこれといった撮影ポイントを見つけられなかった。

このモスクには1979年のイラン・イスラム革命(ホメイニ革命)によりエジプトに亡命し,そこで客死した最後のシャーであるパフラヴィ(パーレビ)国王の墓があるという。

このあたりは「シタデル」を見るのにちょうどよいポイントになっている。しかし,ロータリーの回りの街路灯と高い棕櫚の木がフレームの中に入り,ジャマをしてくれる。丘の上にそびえるガーマ・ムハンマド・アリの全景が撮れたからよしとするか。


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