亜細亜の街角
やはりギザのピラミッド,大きさと精密さに驚く
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カイロ

アフリカの半分を縦断してきたナイル川は,地中海近くでナイルデルタを形成している。カイロはそのデルタの扇の要にあたるところにあり,1525万人(2004年,ギザを含むカイロ首都圏)の人口を抱えるアフリカ,中東随一の大都会である。

古代の王国時代に建造された「ギザの三大ピラミッド」が近くにあるので,その時代からエジプトの中心地の一つかと思っていたらそうではなかった。カイロがエジプトの中心になったのはイスラム勢力がエジプトを征服した7世紀以降のことである。

古代エジプト王国の歴史はおおまかに次のように区分されている。ただし,当時のエジプトでは日本の元号のように「○○王の治世」というように表現されていたので,それをつなぎ合わせて西暦と対応させている。そのため,資料により年代の差が生じている。

王国・王朝名称 年代 備考

初期王朝
古王国
第一中間期
中王国
第二中間期
新王国
第三中間期
末期王朝
プトレマイオス朝

BC3150-2686
BC2986-2181
BC2181-2040
BC2040-1663
BC1663-1570
BC1570-1070
BC1069-525
BC525-332
BC332-30

上下エジプト統一
ピラミッド造営

エジプト再統一
ヒクソスの支配
ラムセス2世

外部勢力の支配
ギリシャ王朝


この古代王国時代の主要都市として挙げられるのはメンフィス(古王国首都),ヘリオポリス(太陽神ラー崇拝の中心地),テーベ(中王国首都,現在のルクソール),アレクサンドリア(プトレマイオス王朝首都)などである。

カイロはそれら時代には都市としての形態は有しておらず,いくつかの集落が点在するナイルの湿地帯に過ぎなかった。もっともメンフィスはカイロの南方25kmのところに位置しており,このあたりがエジプトにとって重要な地域であったのは確かなようだ。

7世紀にエジプトに侵攻したアラブ軍は末期王国時代に築かれたバビロン城に駐留していた東ローマ帝国軍を攻略した。エジプトを支配下に置いたアラブ軍は拠点となる軍事都市を造営し,「ミルス・アル・フスタート」と名付けた。

ミルスは軍事都市,フスタートはテントを意味し,アラブ軍がこの土地にバビロン城攻略時にテントを張ったことからそのように名付けられた。フスタートはオールド・カイロ地区にあたり,歴史的な理由によりそこにはコプト教の教会が集まっている。

イスラムの正統カリフ(641-658年)およびウマイヤ朝(658-750年)の時代にフスタートは紅海と地中海をつなぐ中継貿易の拠点としてエジプト最大の都市に発展していく。ウマイヤ朝を引き継いだアッバース朝(750-868年)の時代にはオールドカイロは北側に広がる。

現在のチュニジアに興ったシーア派(イスマーイール派)のファーティマ朝(909- 1171年)がエジプトを征服し,現在のアズハル・モスクを中心に1km四方の方形の城壁を備えた都市を建設し,ファーティマ朝の首都とした。この町は「ミスル・アル=カーヒラ(勝利の町)」と名付けられた。

ファーティマ朝に代わってアイユーブ朝(1169-1250年)を興したサラーフッディーン(サラディン)は政府機能の一切を「カーヒラ」に集約し,城砦(シタデル)を建設した。彼は城壁を南に拡大してフスタートをカーヒラ取り込む形で拡張していった。この事業はアイユーブ朝に続くマムルーク朝(1250-1517年)の時代に完成した。

「カーヒラ(カーヘラ)」という都市名はラテン語では「カイロ」となり,ヨーロッパではカイロと呼ばれるようになる。マムルーク朝の時代,カイロは紅海を経由する中継貿易の拠点として大きく発展し,14世紀の初めには人口50万人の大都市となった。

アレクサンドリア(220km)→カイロ 移動

06時に起床,今朝も風が強い。宿のおじさん二人はまだ起きていない。そのため昨夜のうちに宿代の支払いは済ませておいた。マスル駅まで歩くと,この時間帯でも周辺はけっこう混雑している。特にトラム(路面電車)は数珠つなぎになって道路をふさいでいるので車も歩行者も困っている。

屋台のサンドイッチ屋でレバー・サンドを買い,カフェのチャイと一緒にテーブルでいただく。マスル駅の1番ホームの少し奥にある窓口でカイロ行きのチケットを買う。「today,Cairo,No-aircon」と告げると窓口の係員は分からないというジェスチャーを示す。「Second Class」と言い直すと10時発のチケット(20EP)を出してくれた。この値段は来たときのバス代と同じだ。

まだ2時間以上間がある。再びカフェに戻り,チャイ一杯で1時間ほど読書をさせてもらう。09:15にホームに行くと,列車は入線していた。カイロ行きであることを近くの駅員に確認してから乗り込む。車両番号は表示されておらず,先頭から1,2,3号車となっている。

列車は発車時間前なのにじきに動き出した。おやっ,と思っていると駅の中で線路を変えて別のホームに再入線した。どうやらこちらが本来の出発ホームのようだ。この移動により先頭に付いていた機関車は外され,最後尾に別の機関車が接続される。列車は定刻に動き出した。ナイルのデルタ地帯は見渡す限りの農地になっており,ときどき小さな町が現れる。

セカンドクラスでも座席指定となっており,エアコンが入っている。二重窓はかなり汚れており,外の写真を撮るためにはデッキに出なければならない。そこはタバコを吸う人の憩いの場所にもなっている。

僕が少し汚れた窓越しに写真を撮っていると,近くの人がドアを開けてくれた。日本では考えられない行為に驚きながらも,しっかり走行中のドアの隙間から写真を撮る。

エジプトの年間降水量は5-25mmと極めて少ない。当然,国土の大分は沙漠となっており,耕作可能な土地は国土の約4%に過ぎない。この狭い耕作地で7000万人を越える人口を養わなくてはならない。しかも人口増加率は1990年代を平均すると3.3%という異常に高い数値となっている。

1990年には5200万人であった人口は15年間でおよそ2000万人増加している。これではナイルデルタの生産性を多少改善したところで食糧供給は人口増加にとても追いつかない。主食の小麦の自給率は54%しかない。この自給率の改善に向けて日本のODAも使用されているが,焼け石に水といったところだ。

食糧事情の改善には「人口増加の抑制」が最高の対策であるにもかかわらず,なぜかこの国の政府はその政策は持ち合わせていない。イスラム圏では家族計画に干渉することは一種のタブーになっており,その政策を掲げることは政権の命取りになりかねない。

現在,世界でもっとも人口増加の懸念されているのはアフリカ大陸と南アジアである。新しい世紀に入ってから世界の食糧供給の伸びは人口の伸びを下回るようになった。穀物の繰り返し在庫は減少を続け,ちょっとした不作などの事態が発生すると,穀物の国際価格は跳ね上がる構図となっている。

2007年から2008年の穀物の価格を見ると,米国がトウモロコシからエタノールを製造するというのでトウモロコシは史上最高値を更新しているし,トウモロコシの増産のため大豆の栽培面積が減少してこれも高値となっている。

主要な小麦の輸出国であるオーストラリアが旱魃となり小麦の国際価格は2倍になっている。アジアでもコメの主要輸出国であるベトナムが国内消費のため輸出を制限したら,国際価格は2倍近い値上がりになった。

石油の高騰は日本でも毎日のように報道されているが,穀物価格の不気味な変化はそれほど報道されてはいない。せいぜい,輸入小麦の政府売り渡し価格が高騰しており,パンや麺類が値上がりしているという報道に接するだけだ。

しかし,穀物の国際価格の高騰はエジプトのような食糧を輸入に頼っている途上国にとっては重大な,おそらく貧困層にとっては死活問題となるほどの重要な出来事である。

実際,エジプトでは貧困層向けの低価格パンが品薄になり,「飢餓」が現実のものになりつつある。大統領は政治的危機を回避するため,軍に対しパンの供給を増やすよう命じた(軍隊と食糧はどこで結びついているのだろう)。さらに大統領は外貨準備金を使って小麦を買い増すよう命じた。

僕がエジプトでよく食べていたアエーシというパンの地元価格は一枚0.5EPはしないであろう。貧しい人たちにとってそのパンが値上がりするということは,食べる量を減らすということに直結する。しかも,そのようなしわよせは女性や子どもたちにまず向かう。

世界の食糧生産は現時点でも相当無理をしており,中期的にはこの生産レベルを維持できるという保証すらない。生産のための絶対的必要条件となっている水もこれ以上は増やしようがない状態だ。

もちろん,ブラジル,アルゼンチンのような国は原生林や痩せた草原を開拓して食糧を増産することはできるだろうが,それにより地域の野生生物の生態系は致命的なダメージを受けることであろう。

地球環境を守りたいならまず人口の増加を抑制することが最大かつ最良の近道である。温暖化ガスの大規模排出国は削減政策を進め,途上国は人口増加を抑制する。どちらかが失敗すると,人類は全ての生物種を道連れに破局に向かうことになる。

最近の動向を見ていると,温暖化より食糧危機により大きな悲劇がまず起こりそうな情勢である。それは安い輸入穀物に依存する日本も無関係なことではない。

列車は3時間でカイロのラムセス駅に到着した。駅を出ると目の前に地下鉄の駅がある。しかし,地下鉄のムバーラク駅は二つの路線が交差しており,4つのホームがある。英語の表記はあるのだが知らない地名が表示されているのでどのホームに向かえば良いのか分からない。

僕の行き先であるナーセル駅はどのホームか三人の人に聞いてようやく分かった。荷物を持って移動するのは本当に大変だ。ナーセル駅から地上に出るとここも大きな交差点になっており,方角が分からないと歩き出せない。

こんなときのために旅をするときはいつも高度・温度・方位が計測できる時計を使用している。今回の旅行では出発してからすぐにセンサー機能が働かなくなり,方角は太陽の向きで判断するしかない。

お昼頃は太陽がほぼ頭の上にくるので方角は分かりづらくなる。だいたい東と思われる方向に歩き出す。少し行くと目印となる酒屋が見つかり,ホテル・スルタンのある建物にたどりつくことができた。

スルタンのドミ

スルタンの入っている建物の前の通りは露店の果物屋が並び,近くには小さなスーパーマケット,エジプト式のファストフードの食堂もあり,旅の生活に必要な通常のアイテムは徒歩3分圏内でほとんど揃う。

スルタンは建物の4階(だと記憶している)にあり,同じ建物に3つのホテルが入っている。日本人旅行者はスルタンもしくはその上のサファリに泊まることが多い。

スルタンのドミトリーは9畳,5ベッド,T/S共同でまあまあ清潔である。料金は11EPと格安である。受付の周辺にソファーが置かれ,本箱には情報ノートが5冊並んでいた。旅行情報はそれほど多くはないが,他の旅行者の経験談や地域情報を読むのは楽しい。

タシケントからバクーに飛んだとき一緒だったHさんが顔を出した。上のサファリにもう一月近く滞在しているという。彼も僕とほぼ同じルートでカイロにやってきた。僕はグルジアやトルコをのんびり回ってきたので日程の差となっている。再会を喜び合い,その後の旅行談でしばらく時間を過ごす。

受付のところには「HANY」というわりと近くのネット屋の割引券が置いてある。これを使うと1時間2EPと格安で利用することができる。この日はチケット情報収集のため外に出て,帰りに2時間も利用してしまった。

帰国便の手配

カイロで真っ先に,そして必ずしなければならないのは,帰国便の航空券の手配である。日本を発つとき1年オープンの往復チケットを手配したけれど,航空会社の都合で片道になってしまった。カイロ→成田の航空券が手配し終わらないとアスワンに移動できない。

カイロにはたくさんの航空券を扱う代理店があり,それらはタラアト・ハルブ広場から西に向かうアスル・イン・ニール通りの周辺に多い。新市街の目抜き通りのタラアト・ハルブ通りをまっすぐ行くと広場に出る。周辺の代理店3軒を回り,最安値のところで名刺をもらう。

この日は日曜日のため午後は外資系の銀行は休みなので実際の購入は翌日となる。近くのトーマスクックでTCを両替して,代理店で3080EP(約6万円)を支払う。

エジプトでは最高額紙幣は100EP札であり,3080EPの大半は50EP札なので会計担当者は機械を使って何回も数えていた。パスポートを預け支払いを済ませてから40分ほど待たされた。そして手渡されたのはEチケットのプリントである。

これがエジプト式のスタイルなのかと確認すると,「これでまったく問題はない,心配だったらエジプト航空のカウンターで確認してくれ,また出発の3時間前には空港に来てくれ」とあっさり言われた。念のため宿で確認してもらうと近くにいた日本人旅行者がこれで大丈夫と教えてくれた。

ともあれ,これで帰国は11月11日になり,それに合わせてアスワンとルクソールの日程を決めることになった。うまくすると西方砂漠も見られるかもしれない。

アスワン行きのチケット購入

航空券が済んだので次はアスワン行きの列車のチケットを買いに行く。ラムセス駅までのんびり歩くことにする。新市街を眺めながら15分ほどの道のりだ。ラムセス駅の南側はちょっとした芝生になっている。

芝生地帯の向こうに駅があり,その間には高架になったガラー通りが走っている。ガラー通りの下は車の往来が多いので歩道橋を通って駅に向かう。この歩道橋を下りたところに地下鉄の入口があり,その向かいがラムセス駅である。

2等の窓口に行き「1st Nov 2nd class」と書いたメモを差し出すと1等の席になってしまったようだ。料金は115EP,ガイドブックではネフェルトイティ号が81EPなのでかなり高い。

しかし,すでに手作業で発券されてしまっているので,話のタネに乗ってみることにする。それにしてもこのキップは日本のものとほぼ同じ大きさで,そこに何やらアラビア文字と英数字が記載されている。それでは僕が分からないと思ったのであろうか,日付と時間を手書きで記入してくれた。

これで寝台の指定が取れているのかかなり危ぶんだ。どうもエジプトのチケットは怪しいものが多い。せっかくラムセス駅に来たのだから駅を一回りしてみる。ホームは体育館のように鉄骨と金属屋根でできている。一部は光を透過する材質でできているので十分に明るい。

入口の近くに緑色のゴザが敷かれた一画がある。そこは礼拝の場となっており,時間になると大勢の男性がここで礼拝を行えるようになっている。礼拝の方角を考慮したのかラムセス駅の入口はほぼメッカのある南南東に向いている。

ギザに向かう

ともあれ次の移動は確定したのでまずギザのピラミッドを見に行くことにする。カイロの新市街からギザ駅まではメトロで移動することができる。これはさほど難しくない。日本の地下鉄のように配置で英語の駅名表記があったと思う。

問題はギザ駅からピラミッドまでの移動だ。バスやミニバスがあるはずなのだがさっぱり分からない。英語を話せる年配の人に教えられてなんとかミニバスに乗り込む。

降車した地点から「スフィンクス門」まではそれなりの距離があった。方向音痴の僕はピラミッドが見えたのでそちらの方にまっすぐ行ってしまい,迷路のような住宅街に入り込んでしまった。

ピラミッドを目の前にして先に進めなくなり,引き返して観光バスについて行き,ようやく入口にたどりついた。ピラミッドの入場料は50EP(1000円)と世界的な観光地としては妥当なものだ。

ピラミッドの驚異

写真のイメージから三大ピラミッドは無人の砂漠地帯にあると考える人は多いと思うが,実際にはそのすぐ傍まで住宅地となっている。住宅地と遺跡地域は塀で分離されている。

ピラミッドを造営する場所にはいくつかの条件がある。古代王国時代のエジプト人は太陽の沈むナイル川の西側に黄泉の世界があると考え,ピラミッドや王墓はすべてナイルの西側に造営している。

ピラミッドを造る土地は堅固な岩盤をもつ必要もある。最大のクフ王のピラミッドは平均2.5トンの石材をおよそ270万個,210段に積み上げたもので,総重量は600-700万トンにもなる。この巨大な重量をしっかり支えることのできる岩盤とある広さをもった平坦な地形が必要になる。

また,石材の多くは周辺の地域から切り出されたと考えられているが,一部はナイル川を使って運搬していた。そのため洪水時の冠水地域から近く,かつ冠水しない場所であることも必要条件となっていた。

航空写真を見ると三大ピラミッドはナイルの洪水エリアのすぐ西側にあることが分かる。洪水エリアと現在のギザの市街地域はほぼ重なっている。

ゲートから中に入るとスフィンクスと背後のカフラー王のピラミッドが見える。やはりこの一瞬が最も感動することができる。ピラミッドはまさしく人力で築いた石の山である。その大きさだけでも感動に値する。それぞれのピラミッドの大きさをまとめると次のようになる。

名称 底辺(m) 高さ(m)

クフ王のピラミッド
カフラー王のピラミッド
メンカウラー王のピラミッド
スフィンクス

236
214.5
105
57

137(146)
143.5
65.5
20


ピラミッドの驚きの要素は大きさだけではない。その精度の高さも驚嘆に値する。クフ王のピラミッドを例にとると,底辺となる四辺は正確に東西南北を向いており,角度の最大誤差は5分30秒(1度=60分=3600秒),四辺の長さの最大誤差は20cm程度となっている。

また少なくとも6haもの広さをもつ基壇の水平度の最大誤差も50cm程度であったと推定されている。古代エジプトの計測技術,建設技術は時代をはるかに超越するものであった。同時にプロジェクト管理についても優れた仕組みがあったにちがいない。

ピラミッドの建設についてはまったく記録が残されていない。例えばクフ王の大ピラミッドについても「クフ王治世17年」という石工が記した一種の落書きによりクフ王のものとされているにすぎない。

ピラミッドがどのような労働形態で,どのような方法で建造されたかについてはある程度分かってきている。ギリシャの歴史家ヘロドトスはエジプトを実際に訪れ,「大ピラミッドは10万人の奴隷が20年間働いてつくったクフという残忍なファラオの墓である」と記している。

このヘロドトスの奴隷説はヨーロッパ世界では長い間定説となっていたが,1974年にメンデルスゾーン博士は「ピラミッド公共事業説」を発表した。

それによると,ナイル川は毎年7月から10月まで大洪水を起こし,川沿いの農地をすべて水没させていた。この時期は農業ができないので,その救済策としてピラミッドを建設し,農民は労働者として働き正当な給与を得ていたというものだ。

その後の発掘により,「ピラミッド公共事業説」を裏付ける証拠が複数発見されており,現在ではこの学説が主流となっている。ピラミッドはエジプトという国家の偉大さを示す象徴として,何か特定の目的無しで建造されたということになる。

しかし,ただそれだけの理由でこれほどの巨大建造物を造るとは…,ピラミッドを理解するには古代エジプト人の宗教観や精神世界に立ち入る必要がある。

ピラミッドの建造工程については次のように考えられている。
(1) 建造場所を選定する
(2) 基壇面を平滑にする
(3) 方位を正確に測定し四辺の位置を確定する
(4) 石材を切り出す
(5) そりや船で運搬する
(6) 石材を積み上げ仕上げ加工ををして上面は水平化する
(7) スロープを調整し次の段の石材を積み上げる
(8) 頂上部にキャップストーンを置く
(9) 化粧石で段差を埋める

クフ王のピラミッドの建造にはキャップストーンを置くところまでが20年くらいと考えられている。270万個の石材を20年で積み上げるには単純に計算して1年に13.5万個,1日に370個となる。公共事業説の場合は作業は洪水期に限定されるので日当たりの作業量は2-3倍に増える。

クフ王のピラミッドを現代の技術で建造するとどのくらいの費用と時間がかかるのか研究したプロジェクトの報告書が 「大林組ピラミッド建設プロジェクト」に出ている。1978年の試算では総工費1250億円,工期5年,最盛期の労働者3500人という結果が得られている。

ギザの三大ピラミッド

14時過ぎに入場したので東を向いているスフィンクスの顔の部分は影になってしまっている。スフィンクスを撮るなら午前中の光のほうがよい。スフィンクスは永年の風喰によりかなり削られている。

スフィンクスはピラミッドのように石材を積み上げて造られたものでない。石材を切り出した残りの岩山を削って造られたものである。それでも,胴体の部分は石材で補修したことがうかがわれる。

この部分は石灰岩の地層が不均一のため石材には向かないので取り残されたという。しかし,当時の技術をもってすればこの程度の岩山を平に削ることはさほど難しくはなかったことだろう。スフィンクスがこの場所に造られたのは偶然ではなく,それなりの理由があったことだろう。

スフィンクスが再発見されたとき,大部分は砂に埋もれており,頭部だけが砂から出ていたとされている。1838年にエジプトや中東を旅して多くのスケッチを残した英国人がいる。

彼の名前は「デーヴィッド・ロバーツ」,ルクソールのツーリスト・バザールの近くの書店に彼の画集が飾ってあった。古代エジプト遺跡がまだ保存の手が入らない状態で描かれておりとても興味深い。

65EPの値段はそのすばらしさに比べて決して高くは無い。これがエジプトで買った自分用の唯一のお土産になった。彼の絵は絵葉書などにもなっている。彼の画集から往時のピラミッドとナイル川の位置関係や当時のピラミッドやスフィンクス状態を見ることができる。

スフィンクスの顔は人為的に傷つけられている。これはマムルークによるものとされており,1798年にエジプトに侵攻したナポレオンが砲撃したというのは俗説であろう。ナポレオンはヨーロッパ文明の源流ともいうべきエジプト文明の遺物を尊重こそすれ,破壊したとは考えられない。

彼は軍隊とともに多くの学者を連れてこの地にやってきた。ギザの台地に立ってナポレオンは「兵士諸君,4000年の歴史が見下ろしている」と言って兵士を鼓舞したという。

ピラミッドは単体のものではなく葬祭殿,参道,河岸神殿が組み合わされた複合施設(ピラミッド・コンプレックス)となっている。葬祭殿はピラミッドの東側に造られ,そこから河岸神殿まで参道が伸びている。

河岸神殿はナイル川の増水期にちょうど河岸となったところにあり,ここは石材の積み下ろしと一時保管場所となっていた。参道は石材を運搬するための道であった。

現在でもカフラー王のピラミッドには参道がしっかり残されており,スフィンクス神殿に隣り合うように河岸神殿がある。その近くには船着場の跡もあるという。この参道がスフィンクスのビューポイントになっている。

参道を進むと半分崩れかけた小さな女王のピラミッドある。これを見るとピラミッドは単に石を積み上げればよいというものではないことが分かる。この辺りは高度が上がるためギザの街が遺跡のすぐ傍まで迫っていることがよく分かる。

次々とやってくるラクダ引きの誘いのことばを聞き流しながら先を進む。ピラミッド周辺のラクダ引きはエジプトでももっとも性質の悪い人々とされており,うっかり乗ると,仮に事前交渉で値段を決めていてもトラブルのタネになる。

ピラミッドの周辺は人が多い。特にクフ王のピラミッドの周りには観光バスが何台も停まっており,光の具合の良い角度から撮ると確実にバスが入ってしまう。

ピラミッドの西側は観光客が少なくてのんびり見学できる

悲しいことにクフ王とカフラー王のピラミッドの間に道路が通っており,西側のビューポイントまで続いている。それでもピラミッドの西側は観光客が少なくてのんびりと巨大な建造物のすごさに浸ることができる。

特にメンカウラー王のピラミッドの西側はほとんど人がいないので雰囲気はとてもよい。崩れかけた女王のピラミッドの前を地元の人が乗るラクダがゆっくりと通り過ぎていく。ちょうどピラミッドの前に来たとき一枚撮らせてもらう。

観光客を乗せて南のビューポイントから戻ってきたラクダもいる。ぼくもそこまで5$と言われ,いらないと首を振ると値段はどんどん下がり1$になった。おそらくそんな値段で乗れるはずも無いのであっさり断る。

ここからは前景にメンカウラー王,後ろにカフラー王のピラミッドの並んだ写真が撮れる。ピラミッドは見るポイントにより相対的な大きさはころころ変わり,メンカウラー王の方がずっと大きく見える。

角度を変えてメンカウラー王のピラミッドを撮る。光の加減なのかかなり濃い色になり,石の質感が良く分かる。西のビューポイントにはバスが行くので大勢の観光客が集まっている。歩いてそこまで行くにはちょっと遠い。

散乱する石灰岩のかけら

ピラミッドの西側には大量の白い石のかけらが散乱している。色から考えて石灰岩であり,ピラミッド本体の石材を現物合わせで加工した時のかけらと考えられる。ピラミッドは(表面の化粧石がなくても)ここに散乱しているかけらと同様に白っぽい色をしていたへずである。

しかし,周辺の砂漠から吹き付ける砂がピラミッドの表面に付着し現在のような色に見えるのであろう。石材の表面を少し削ると本来の色が現れることだろう。

道路を横切って北に移動すると,周辺には簡易家屋の残骸が散らばっている。ギザが手狭になり,こんなところにも不法滞在者の住居が進出していたようだ。しかし,観光のジャマになるとそれらは取り壊されたようだ。それにしても,壊した残骸はちゃんと処分してもらいたいものだ。これでは世界遺産の名前が泣くというものだ。

近くにはラクダ引きや馬車が集まっており,これもいい絵になる。観光客がここまでやってくるのは珍しい。

ピラミッドの基壇と化粧石

カフラー王のピラミッドに戻り,西側からみると基壇を造るため周辺の岩盤が10mほど掘り下げられていることが分かる。そこはちょっとした人工の崖になっている。下に降りてピラミッドの詳細を見ることにする。

ピラミッドはほぼ立方体の石材を積み上げて建造されている。ただし,安定性を確保するため下部に大きな石材を使用し,上にいくほど小さなものにしていったという。この距離からはその様子が分かる。

とはいうものの,隣り合った石材の密着性と一段毎の水平性は非常に重要であり,積み上げるときに現物合わせで石材を加工していたと考えられる。レンガのように規格寸法で石材を切り出すことはできないので,現物合わせは現実的な方法であった。

一段,また一段と多数の石材を積み上げていき,最後に頂上部に三角錐の冠石(キャップストーン)を置くと外部構造は出来上がりである。ただし,石材を積み上げた状態では現在のようにピラミッドは階段状になっている。建造時はその段差を埋めるように滑らかに加工した三角形の化粧石(外装石)を置いていった。その結果,ピラミッドの段差はなくなり,まっ白な四角錐の建造物となった。

カフラー王のピラミッドの最上部はわずかに往時の姿を留めており,クフ王のピラミッドの最下層にもこの化粧石が残されている。ところがカフラー王のピラミッドの一部およびメンカウラー王のピラミッドの最下層部には赤い花崗岩が化粧石として使用されている。このことから,完成時のピラミッドは彩色されていたのではという学説も出ている。

16:30にスフィンクス門が閉まるという

この場所でしばらくのんびりしていたかったのに,係員が16:30にスフィンクス門が閉まるのでもう出なさいと告げにきた。近くにいた日本人の旅行者は「まだ入って30分しか見学していないのに」と嘆いている。

彼と二人でエジプト人の観光客の写真を撮りながらスフィンクス門に向かう。門からしばらく歩くと大きな通りに出る。ここでギザ駅行きのミニバスをつかまえようとするがずいぶん苦戦した。ようやくミニバスに乗り込み,渋滞する道をギザ駅に向かう。

路上で礼拝する人々


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