亜細亜の街角
ちょっと足を伸ばしてロゼッタでナイル川を見る
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下町の風景

ポンペイの柱はカーイ・トゥーベイ要塞のある半島の南側に位置している。ガイドブックにはマスル駅からトラムがあると書かれているが,その情報は全然役に立たない。

せめてトラムの路線を地図に入れてくれば移動はできるし,中心部の1.5km四方の拡大図の代わりにアレキサンドリア図書館,半島,ポンペイの柱あたりの拡大図があれば移動は楽なのだが…。

ということで地元の人に聞いてとりあえずトラムの停留所までミクロバス(市内移動用の乗り合いワゴン)で移動する。そこで「ポンペイの柱」の写真を見せてトラムを教えてもらう。

トラムの移動速度は時速4km-20km程度だ。道路の状況により速度は変わる。車と兼用の道路なので対向車がよく道をふさいでいる。露店のあるところでは人々が線路にはみ出すこともあり,そのたびにトラムはチンチンと鐘を鳴らす。

トラムはガラクタ市の横を通る。ここは歩道上に中古の電気製品,機械部品,家具などを並べている。歩道と交差する道路はすべて露店に占拠されており大変な人出になっている。

トラムの路線が交差する大きな交差点はちょっとした渋滞になっており,相手のトラムの写真が撮れた。それにしても,交差する電線をどのようにたどっていくのか,ウズベキスタン以来の謎だ。

トラムは石畳の道に出た。このあたりは衣料品の露店が多い。速度が遅いので街の景色をしっかり眺めることができるのでトラムはお勧めの乗り物だ。しかも,料金は0.25EP(5円)と格安である。

この道には車に混じって馬車も走っていた。こんな昔の乗り物が堂々と走っている風景は微笑ましい。そろそろ目的地に着きそうなので注意していていたら,回りの乗客が「ここだよ」と教えてくれた。こんなときイスラム圏における親切はとてもありがたい。

ポンペイの柱

トラムを下りると塀で囲われた一画があり,その先に石柱が見えるのでここが目的地であることが分かる。入口周辺は工事中で鉄板の囲いがある。団体客が何台ものバスでやってくるので,周辺の駐車場の確保は大変そうだ。

僕が訪れた時も大勢の欧米人の団体が次々とやってきた。彼らの滞在時間は30分くらいのものだが,ひっきりなしに新手が現れる。入場料は15EPと高い。鉄板の隙間を通って中に入ると立派な柱が一本だけ見える。

ここは3世紀ディオクレティアヌス帝が建設した,もしくはディオクレティアヌス帝に捧げられたセラピス神殿の遺構らしい。現在残っている柱は高さ27m,周長8m,アスワン産の赤色花崗岩でできている。

往時はこのような柱は400本はあったとされている。しかし,遺構を見た限りでは何本かの折れた石柱があったけれど,大部分のものは他に転用されたのか見つかっていないようだ。また,この一本だけ残った柱がなぜ「ポンペイの柱」と呼ばれているのかも不明だ。

BC1世紀にカエサルの政敵であったポンペウスがアレクサンドリアに滞在したことはあるが,この遺構の神殿と関係があるとはとても思えない。いくつかの旅行記を読んでみたが諸説ふんぷんといったところだ。

柱は入口から少し登った所にあり,近くにはオリジナルかどうか分からない何体かのスフィンクスが置かれている。入口の近くが写真のポイントになっているので,観光客がいなくなるのをじっと待っていたが,途切れそうも無い。

みんな柱の前で記念撮影をするので人のいなくなることは無い。面倒なので観光客付きで写真にしたら,人間との比較で柱の大きさがわかるので,これはこれでよしとしよう。

丘の上に登ると立派なコリント式の柱が立っている。ここまで近づくともうカメラを縦にしないと全体は入らない。近くのスフィンクスは女性的な顔立ちであり,あごひげも無い。

遺構の敷地内には地下に入る扉があり,管理のおじさんが「(バクシーシがいるけれど)中を見て行きなさい」と開けてくれる。地下通路の壁の窪みがあり,本が収納されていたようだ。

このような蔵書の形態は古代のアレキサンドリア図書館でも同じだったのかもしれない。この地下通路はずっと先まで続いていたが,これ以上行くと本当に「バクシーシ」になりそうなので外に出る。

マスル駅前の雑踏

ポンペイの柱からマスル駅に行くトラムが走っている。地元の商店のおじさんに向きを確認すると教えてくれた。ついでに店の奥からチャイを運んできてふるまってくれた。このような親切に接するとその国の好感度はかなり上がる。

長期旅行者の間ではインド,エジプト,モロッコを「三大うざったい国」にあげる人が多い。確かにこの国には旅行者からできるだけたくさん巻き上げようとする輩も多いが,イスラムの国らしく,旅人に親切な人も多い。

どこの国に行っても良い人もいれば悪い人もいる。国という単位で一くくりにしてしまうのは旅をする自分の目を曇らす原因にもなる。安全といわれる国でも注意を怠たると事件に巻き込まれることになる。

2番のトラムは僕の前を通り過ぎてしまい,少し先で停車した。走って追いかけると動き出してしまう。あきらめて僕が歩くとトラムが止まる。これを3回繰り返したところでようやく追いついた。

駅に移動する間も路上のではいろいろなものが売られていた。巨大な虫かごのような入れ物の中ではエジプト名物の鳩が売られていた。僕はエジプト滞在中も鳩料理を出してくれるようなレストランには行かなかったが,エジプト人には人気料理の一つだという。

そのままもしくは中に詰め物をしてグリルにする料理がガイドブックに乗っている。最近のガイドブックは現地の料理をずいぶん細かく掲載しており,自分が食べたものが何であったか後から調べることができる。実際には一人で旅行していると,予算の都合もあり,そうあれこれ食べることはできない。

駅が近くなるとトラムが数珠繋ぎになって歩くくらいの速度に落ちる。果物の露店がひしめいているあたりで降ろしてもらう。グアバ,ザクロ,驚いたことに柿までが積まれている。エジプトではあまり見かけなかったチーズの塊を売る店もある。

駅が近くなると旅行者のための食堂もある。エジプト流のファストフードの定番であるシュワルマ(ケバブ肉を小さなフランスパンに挟んだもの)は2EP,さすがに坐るところはない。

その横にはカフェが営業している。さきほどトラムに乗る前に飲んだばかりなのに,雰囲気が良いので注文してしまう。お茶を飲みながら目の前を通る人たちを観察するのは楽しい。

マスル駅

マスル駅はコロニアル風の重厚な建物である。正面にはいろいろ障害物があり,写真が撮りづらい。プラットホームは鉄骨と透過性のある素材の屋根からできており,照明が無くても明るい。

ホームに停車している列車の中に入ると乗客はまだまばらであった。座席はプラスチック製で部分的にフェルトのようなものが張ってある。清掃された直後なのか床にはゴミは見当たらない。

カイロのラムセス駅ではチケットが売り切れと言われ買えなかった経験から,ここからカイロ行きの普通列車のチケットを扱う窓口を確認しておく。

古本屋が集まっている一画がある

マスル駅からナビー・ダニエル通りをまっすぐ北に行くと宿のすぐ近くまで行くことができる。露店の古本屋が集まっている一画がある。商品はずいぶんたくさん並べられているのだが,足を止める人は少ない。

東側の海岸を歩く

通りの周辺は近代的なビルと石造りの古い建物が同居している。横道に入ると石造りの家がずっと続いている。高さは一様に3階で多少の差はあるものの一体性のある景観を見せている。このあたりは街の景観を重要視するヨーロッパ的な考え方が生かされている。

海岸まで出てアレクサンドリア図書館の方向に歩いていく。海岸と道路の間は幅が2mほどもある防潮堤があり,地元の人たちが腰を下ろして地中海を眺めている。東側の海岸はきれいな弧を描いているけれど,建物との関係であまりいい構図にはならない。

見事なミナレットをもつモスクがある。ミナレット(尖塔)は言ってみればモスクの付帯設備であるが,このモスクではミナレットは主になっており,礼拝堂が従属しているようだ。

東側には人工の突堤があり,その先は地中海からの波が海岸を洗うようになる。海岸沿いの建物はやはり白を基調としており,強い陽光を意識したものとなっている。ギリシャからアレクサンドリアまで東地中海沿岸の建物は白が優勢色となっている。

イスラエルのテルアビブは白い都市として世界遺産に登録されている。この都市の一画には1920年代から50年代にかけて建造された白色や明るい色の住居が数千件残されている。それらの建造物はバウハウス様式と呼ばれており,オスマン帝国の領土内に移民してきたユダヤ人の住居需要に応えるものであった。

しかし,そのような様式は東地中海沿岸では古くから地域の気候に合わせて採用されてきた,白い壁,平らな屋根,小さな窓バルコニーといった建築要素を組み合わせたものとなっている。僕はパレスチナが独立国家となるまでイスラエル訪問は封印しているのでテルアビブを訪れたことはないが,ここと同じような景観が見られるのではと考えている。

新アレクサンドリア図書館

アレクサンドリア図書館はプトレマイオス王朝の初期,おそらく紀元前320年頃に建設されたとされている。アレクサンドリア図書館は書物の収集のためにさまざまな手段をとり,金に糸目をつけず蔵書を増やしていった。

この時代には印刷技術,製紙技術は存在しておらず,ナイル川のデルタに自生していたパピルスを原料としたパピルス紙を使用し,蔵書を増やすには写本に頼るしかなかった。そのため図書館には写本を専門とする集団が存在していた。

多くの労力と大金を費やした結果,アレクサンドリア図書館には70万冊の蔵書が集まり,ヘレニズム世界最大の規模を誇るようになった。その範囲は哲学,文学,地理学,数学,天文学,医学などあらゆる学問の分野におよんでいた。

数学者アルキメデス,幾何学のエウクレイデス,地球の直径を計測したエラトステネス,天動説の大家プトレマイオスなど,ヘレニズム世界を代表する学者がアレキサンドリアの図書館とムーセイオン(学術院)で学問の自由を謳歌していた。

当時のアレクサンドリアは時代に先駆けた「学問のコスモポリス」であった。この自由な学究の都に暗い影を落としたのはキリスト教の普及であった。

1世紀に始まったキリスト教はローマ帝国内に広まり,為政者の厳しい弾圧を受けた。しかし,多くの殉教者を出しながらもキリスト教の広がりは止まらず313年に公認され,380年には帝国の国教となった。

しかし,その時代のキリスト教徒は異教と異端(アリウス派)に対しては容赦の無い迫害を行うようになった。テオドシウス1世(在位379-395年)の時代に,エジプトでも非キリスト教の宗教施設,神殿を破壊する許可を与えられ,キリスト教の暴徒はアレキサンドリア図書館や記念碑,神殿を破壊した。

注)アレキサンドリア図書館はBC1世紀にカエサルがアレクサンドリアを攻略した時に火を放たれ,蔵書は灰燼に帰したという説もある。その後,再建され再び4世紀に破壊されたのかもしれない。

414年にはアレクサンドリアからユダヤ人コミュニティが追放され,415年には著名な女性哲学者ヒュパティアが総司教の指示により虐殺された。

ヒュパティアの哲学は科学的であり,神秘主義をまったく受け入れることはなかった。それは,当時の教会とキリスト教の権威を否定するものと考えられた。自由あるいは科学的に思考することが神への冒涜とされる時代が始まった。

彼女のものとされる言葉が残されている。「考えるあなたの権利を保有してください。まったく考えないことよりは誤ったことでも考える方が良いのです」,「真実として迷信を教えることはとても恐ろしいことです」などという言動は,キリスト教徒を激怒させたことは想像に難くない。

彼女の虐殺により,アレクサンドリアにおける学問の自由,学問のコスモポリスは終焉し,多くの学者たちはこの地を離れることになる。あの,「世界の知」を集約したアレクサンドリア図書館も歴史の闇の中に消えてしまった

2001年,かつてのアレクサンドリア図書館があったとされる場所にユネスコとエジプト政府が共同で一大図書館兼文化センターを建設した。これが現代のアレキサンドリア図書館(ビブリオテカ・アレクサンドリア)であり,アレキサンドリアの新しい名所になっている。

2億ドルを費やして建てられた図書館は地上,地下を合わせて11階建て,総面積約8.5万m2の巨大な建築物である。直径160mの斜めに切り取られた巨大な円柱が地面に埋もれているという特異な形状をしている。

しかし,その巨大さのためか円柱構造は外から見てもよく実感できない。入口の上部には巨大な外壁があり,そこにはさまざまな文字が記されている。図書館と地下の考古学博物館を合わせると入場料が30EPになるので,僕は外から雰囲気を眺めるだけにとどめた。

東側の突堤付近で

図書館の近くに東湾の突堤がある。突堤の内側にある東湾は波もほとんどないが,外側では波が岩礁に打ち寄せる地中海を見ることができる。気のせいか海面の色も午前中に東湾で見たものと異なっているようだ。

この周辺は公園になっており,そこにはポンペイの柱と似た石柱が立てられている。公園があるせいかこの辺りにはカップルの姿が多い。もちろん,イスラム圏なので彼らの行動も控えめで,二人で突堤に坐り海を眺めているだけだ。

16時を過ぎる海岸の西側は逆光になり写真には適さない。夕日のビューポイントを探して宿の方に歩き出す。海岸通りの歩道の外側はずっと幅の広い防潮堤になっており,地元の人々が夕涼みに集まっている。

僕も適当なところに坐って夕日見物にする。東湾の西側は午前中に見た街並みが海岸に沿って広がっており,その背後に夕日が沈んでいく。残念ながら低い雲があるため,夕日はそれほどきれいなものではない。

僕の坐っている突堤の周辺には地元の人たちがたくさん坐っている。ぼくが夕日の写真をずっと撮っているので興味をもったように近寄ってくる。光は良くないけれど記念写真を撮ってあげる。女性の一人はあわてて背中を見せる。都市に住んでいてもイスラムの伝統が失われているわけではない。

ちょっと気になる造形

夜の散歩

夕食は近くの屋台でコフタとレバーのサンドイッチ,チャイをいただく。さすがに食堂に比べるとずいぶん安くて5.5EPで済んだ。帰り道でお葬式のテントを発見した。

奥行きのあるテントの中には参列者用のイスが4列に並べられ,電球が煌々と輝いている。大変な設営である。まだ時間があるのか入口には親族と思われる人々が参列者を迎えるために坐っているだけだ。

夜の海岸に行くには海岸道路を横断しなければならない。それは昼間以上に命がけになる。信号が一つあるのだが,片側だけで陸側の通りは車が大変な速度で,しかも途切れることなく通り過ぎる。

ようやく道路を渡り,防潮堤の上にカメラを置いて写真を撮る。見た目にはきれいな光の帯でも夜の写真はとても難しい。特にこのコンパクトカメラにはマニュアルフォーカス機能が無いので遠い光源はうまくいかない。

ロゼッタに向かう

06時に起床,開き戸を開けると強い風が吹き込んでくる。この季節は毎朝海から風が吹いてくるようだ。海岸通りでモウイフBTに行くミクロバスをつかまえるため周辺の人に聞くと誰もそんなものは知らないと言う。

質問を変えて「ロゼッタに行くにはどうするの」と聞くと,空のミクロバスをつかまえてくれた。ロゼッタはアレクサンドリアから北東に約50km,ナイル川の河口近くに位置する町である。ナイルデルタの小さな町に行きたくてここを選択した。

このミクロバスは海岸通りをひたすら走る。スタンリーブリッジが美しい姿を見せている。おかしいなあ,海岸通りを走っていてどうして海にかかるスタンレーブリッジを見ることができるんだ…。

ミクロバスはどうやらモンタザのあたりで止まり,そこからは次のミクロバスに乗れと言われる。このミクロバスもロゼッタまでは行かないで次のミクロバスに乗換えとなる。この車が目的地まで行くようだ。

ナイルデルタは水の豊かな土地である。一面のナツメヤシ農園があり,その手前は水の豊かな水路になっている。ここは絵になる風景であるが,なんといっても車の中では満足のいく写真にはならない。

コンクリートの家の屋上にコップを伏せたような形の建造物がある。そこにはたくさんの穴があいており,横木が飛び出している。これがうわさに聞く鳩小屋に違いないと車の中から写真を撮る。写真を拡大してみると,横木にはちゃんと鳩が止まっていた。

ヒエログリフの解読

ロゼッタは「ロゼッタ・ストーン」が発見されたところとして知られている。1799年ナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征を行ったときに,碑文の刻まれた縦114cm,横72cm,厚さ28cm,重量760kgという大きな石が発見された。

碑文はエジプトのヒエログリフ(神聖文字,聖刻文字),デモティック(民衆文字)およびギリシャ語で記されていた。ヒエログリフはエジプトの古代王朝時代に使用されていた文字であるが,プトレマイオス王朝が滅亡した後は使用されることがなくなり,次第に読み方は忘れ去られてしまった。

ヒエログリフとギリシャ語が併記された碑文が見つかったことでヒエログリフ解読の期待が高まった。しかし,ことはそれほど簡単ではなくフランスのシャンポリオンが解読に成功したのは1822年,発見から23年後のことであった。

この碑文の解読成功によりヒエログリフの研究は進み,現代では比較的簡単に読解することができるようになった。というのは,本来は表意文字であるはずのヒエログリフは時代が進むと,特定の1音素を特定のヒエログリフで表す表音文字として使用されるようになったからである。

カルトゥーシュ(角の丸い長方形の枠に入った王の名前)によるファラオ名表記はその一例である。もちろん古いヒエログリフを読むためには特別の訓練が必要になる。

ロゼッタの町

車はセルビスや馬車が集まっているロータリーのようなところで僕を降ろしてくれた。ここまでの料金は 1+1.5+1=3.5EP である。ガイドブックの料金は3EPなので同じ料金ということになる。

とりあえず朝食が必要だ。例によってホブス,フール,チャイの組み合わせて料金は1.5EPである。小さな町に行くと物価も安くなるようだ。

アレクサンドリアではほとんど洋装になっていたけれど,この町の年配の男性は民族衣装の「ガラベイヤ」を着用している人が多い。エジプトがイスラム化されて以来,ガラベイヤは男性,女性を問わずエジプト人の民族衣装であった。その服装の人たちがまとまってカフェにいるのでつい写真にしたくなる。

胸の開いたゆったり目の長衣であるガラベイヤは通気性に優れているので中東の気候によく適合している。また動いたり仕事をするにも問題はない。

男性のガラベイヤは白や地味な無地のものが多く,女性の場合はきれいな刺繍が施されてきらびやかになっているものが多い。しかし,通常はその上にもう一枚,地味な色の上着を着込むので男性と同じようなものになる。

ロータリ-からまっすぐ東に向かうとナイル川に出るはずだ。歩き出してすぐにオスマン朝時代の家があった。ガイドブックの写真と類似しているのでたぶんそうなのだろう。確かに張り出し窓のデザインは美しい。レンガを見るとかなり新しいので,最近修復されたもののようだ。

通りの幅はそれほど広くないので車がすれちがうのは大変だろう。町中の主要な交通機関は馬車である。きれいに塗装された昔懐かしい四輪馬車を引いて馬がゆっくり歩いている。野菜もアエーシもその上に乗せられて運ばれる。

この通りは両側が高い建物になっているので半分は日陰になっている。そのため,コントラストが強すぎて写真は撮りづらい。珍しく女性が魚を商っているところがあったので,一枚撮ろうとしたらなかなか構図が決まらない。

母親の後ろには中学生くらいの娘さんが立ち,母親の商売の様子をじっと見ている。単にお手伝いでそこにいるのか,それとももう商売を覚えなければならない年頃になっているのだろうか。

それにしても日本でいうと夏の気温である。氷をまったく使用していないので魚の傷みは早い。商売を続けられるのは午後の早い時間帯までであろう。

通りに面した建物に人だかりができている。ここはパン屋さんだ。人々は焼きたてのアエーシを求めてここに集まっている。全粒粉のアエーシは決して食べやすいパンではない。それでも焼いた直後は食べやすいので人々は焼き立てを求めて列を作っている。

少年がロバ車の上に坐っている。この荷車は二輪,完全に荷物運び専用なのか飾りも何もない。荷台はとても高い位置にある。これはちょっと不思議だ。これでは荷物の上げ下ろしがとてもやりづらいではないか。

荷車とロバを結ぶ棒をロバの動きやすい位置に取り付けるためこのような高さになったのかな。世の中には考えさせられることがたくさんある。

ハエが集まり,ゴミが散乱している通りにイスが並べられている。チャイを飲んでいる人はいないけれど,雰囲気はそのようなものだ。回りにはロバ車がたくさん停められているので御者の休憩所のようだ。

通りで見かけた食材

スークの周辺には野菜や魚を売る露店が並んでいる。おや,日本ネギと思って根本をよく見るとタマネギであった。ニンニク程度の大きさしかなく,この野菜はどこを食べるんだろう。

魚はナイルで捕れた淡水魚であろう。もっともロゼッタは河口からごく近いので淡水魚と断定するわけにはいかない。魚を商っているところが多いため,ハエがひどい。ゴミも多くナイルデルタらしいといえばその通りだ。

オスマン風の建築物

ナイルの渡し舟

東に向かう通りはじきにナイルの支流のひとつに出る。カイロを過ぎるとナイル川は多くの流れに分かれて広大なナイルデルタを形成する。ロゼッタの町を流れるものもはその中でも大きなものだ。

対岸までは400mはあるだろう。広大なナイルの水の流れにしばらく見とれている。アフリカ大陸の半分を縦断して地中海にそそぐナイル川の源流はビクトリア湖にある。正確にはウガンダとコンゴ民主共和国(旧ザイール)の国境地帯にあるルウェンゾリ(月の山)の氷河である。

アフリカ内陸部にあるこの源流探検は19世紀後半のヨーロッパ人の興味を大いにかきたてた。多くの探検家がナイルの源流探し一番乗りを競って,当時のヨーロッパから見ると暗黒大陸(ひどい言い方だね)とされていた,アフリカ中央部の探検に乗り出した。

その先鞭をつけたのはイギリス人宣教師のリビングストンである。1841年にキリスト教の伝道のため南アフリカに到着したリビングストンは次第に地理的な発見に魅かれるようになる。

1853年にはアフリカ大陸の東岸から西岸への横断を行い,この途中でビクトリア滝を発見する。1866年からはマウライ湖やタンガニーカ湖周辺を探検し,その途中で消息が途絶えてしまう。

もう一つの重要な探検は1857年からイギリス人のリチャード・バートンと ジョン・スピークによって行われている。タンザニアの海岸から出発した探検隊はタンガニーガ湖を発見した。

バートンはこの湖がナイルの源流だとは主張したが,スピークは納得せずにさらに北上してヨーロッパ人として初めてヴィクトリア湖を発見した。

彼はこれこそがナイルの源流だとして当時の英国女王にちなんで「ビクトリア湖」と命名した。しかし,スピークスもビクトリア湖から流れ出す川は確認していない。

1871年にアメリカ人ジャーナリストのヘンリー・スタンレーが新聞社の依頼でリビングストンの捜索に乗り出し,タンガニーカ湖畔のウジジで療養生活を送るリビングストンを発見した。病気から回復したリビングストンはナイル川の水源を探索する旅に出るが,1873年にチタンポで病死する。

リビングトン発見後に帰国していたスタンレーは,彼の訃報に接し,ナイルの水源を探し出したいという彼の遺志を受け継いで再びアフリカに入る。スタンレーはビクトリア湖から流れ出すビクトリア・ナイルおよびルウェンゾリ山地にある水源を発見し19世紀の源流論争にはほぼ決着を付けた。

もっとも上記はあくまでもヨーロッパ人の発見であって,アフリカ内陸部に金や象牙などの交易路を持っていたアラブ人交易商は12世紀にヴィクトリア湖に関する地図を残しており,そこにはヴィクトリア湖がナイル川の水源であることも示されていた。

ナイル川のもう一つの謎は毎年定期的に発生する大洪水である。こちらはビクトリア湖を水源とする「白ナイル」ではなく,エチオピアのタナ湖を水源とする「青ナイル」によるものである。

エチオピア高原から白ナイルに流入する主な川は2本ある。一つは青ナイルであり,もう一つはアトバラ川である。青ナイルは年間を通して水があるが,アトバラ川はエチオピア高原の雨期(6月-9月)の時期だけ水が流れる。

青ナイルはスーダンで白ナイルに合流する。そこはスーダンの首都ハルツームがあるところでもある。アトバラ川はハルツームから300kmほど下ったアトバラで合流している。

エチオピア高原の雨期に高原の水を集めた青ナイルは急激に水量を増やし,ナイル川の水量の2/3(アトバラ川を加えると90%)を供給するという。この急激な増水がナイルの水位を押し上げ定期的な洪水を発生させていた。

古代エジプトに豊かな恵みをもらしたナイルが運ぶ土砂の96%はエチオピア高原からのものであり,その意味ではエジプトは青ナイルの賜物ということができる。

ロゼッタの岸辺でナイル川を見ていたら対岸に向かう渡し舟があることに気がついた。ガイドブックには貸しボートと記載されているが,頻繁に両岸を往復する渡し舟があるのでそれで十分だ。

料金は片道0.25EP,7-8分で対岸に行くことができる。それほど大きくないボートに20人以上の乗客が乗っている。波がほとんど無いので安定しているが,風の強い日は乗りたくない乗り物だ。

川の中間で両岸の景色を撮ることができる。ここから見るとロゼッタの町はけっこう大きいことが分かる。対岸の近くには魚を養殖するためと思われる生簀が並んでいる。

対岸もちょっとした町になっており,立派なモスクがある。対岸の船着場に到着し,岸辺からロゼッタの町の写真を撮る。アレキサンドリアの海岸も素晴らしかったが,ここからの風景もパノラマにして紹介したいものだ。

船着場には別のボートがおり,二隻が順に乗客を運んでいる。僕の乗った船が到着すると,もう一隻が動き出すようになっている。そのボートには30人ほどの乗客が乗っており,10人くらいは立ったままである。

モスクでトイレを借りる

ロゼッタの町に戻りスークの辺りをのんびり歩いていると急にトイレに行きたくなった。これはまずい,この町で僕が使えるトイレはと考えていると,モスクのミナレットが目に入った。

これは天の助けである。イスラム教では礼拝の前には身を清めなさいという教えがあるため,モスクにはトイレや手足を洗うための設備が備えられている。このモスクにもトイレがあり,用を足すことができた。

ついでにモスクの内部を見せてもらう。モスクの建物は回廊のようになっており,中庭は吹き抜けになっている。回廊を支えているたくさんの柱は古代王国時代やローマ時代の石柱を転用している。当然,いろいろな形状の石柱が混在しており高さも不ぞろいである。

床にはゴザが敷かれている。材質はイグサかどうかは分からないが,日本の畳表とほぼ同じものだ。畳ゴザは日本固有の文化なので,ここのものは日本に学んだと考えられる。でもこんなに離れた国で同じ文化が別々に育ったとしたら,それはとても素晴らしいことだ。

モンタザを歩く

ロゼッタから帰りのセルビスは高速道路を通り1時間弱でアレキサンドリアのモンタザに到着した。モンタザは宿から17kmほど東にある観光名所である。ここからは鉄道がありアスル駅に戻れるので時間を気にしないでのんびり周辺を歩くことができる。

ここも地中海に突き出した半島になっており,そこはモンタザ宮殿の敷地とリゾートになっている。半島の南側は高級住宅地となっており,近代的な高層集合住宅が並んでいる。

モンタザ宮殿の入場料は5EP,宮殿そのものは一般開放されていないが,よく整備されている庭園は十分に入場料の価値がある。宮殿の敷地とその前の道路は長い塀で隔てられており,入城門はとても絵になる。

この城門は正面より少し斜めから撮ると感じがよく出る。中に入るとおそらくアスワン産の赤花崗岩でできたライオン像が迎えてくれる。車用の門が隣あり,そこからまっすぐ北に向かって車道が走っている。その両側には西アジアでは珍しい大王ヤシが立派な並木になっている。

中央道路の右側はナツメヤシの農園になっており,その向こうには監視塔のような建物があり,写真によいアクセントを付けてくれる。

中央道路の終端はロータリーになっており,そこを左に行くと地中海が見える。青い海に突き出した部分はリゾート施設になっており,この風景もなかなかのものだ。

ロータリーに戻りそのまま進むとモンタザ宮殿に出る。ここは一般には開放されていない。見る方向により感じが変わるので半周し,結局,タワーを右に見る正門からの構図が一番バランスが良いことが分かった。

近くには東屋があり,地元の人たちが遊びにきていた。かわいい子どもたちの写真を撮り,お礼にヨーヨーを作ってあげたらずいぶん喜ばれた。そのお礼なのかこの一家から小さなフランスパンにソーセージを挟んだサンドイッチをいただく。

高級ホテルの敷地内からビーチの写真を撮る

ガイドブックにはモンタザのビーチの写真があり,そこを眺められる場所を探してみたが見つからない。ビーチを見ることのできるところはすべてリゾートになっており,塀と建物が視界をさえぎっている。

しかも,ガイドブックの写真のポイントにはヘルナン・バレスタインという高級ホテルの敷地になっている。それならばと作戦を変えて,宿泊客になりすまして中に入ることにする。さすがにシングルで250$のホテルはちがう。ジーンズとポロシャツの服装では咎められそうなところだ。

さきほどのモンタザ宮殿を望む広い中庭にはテーブルとイスが50セットくらい並べられている。もっとも,この時間帯はほとんど客はおらず閑散としている。記念にホテルの写真を一枚だけ撮り,塀のところから高級リゾートのビーチの写真を見下ろす角度で撮る。

宿に戻る

ホテルではお茶も飲まずに堂々と出てくる。さきほどの中央道路に出てまっすぐ鉄道駅の方に向かう。宮殿の門を出て右に行くとじきに下町風の場所に出る。やっとくつろいで1EPのチャイを飲むことができる。

その前にさりげなくカフェの写真を撮る。しかし,カフェの客から注文が来て,全員がカメラ目線の集合写真になってしまった。お茶を飲んで駅の情報を聞いて,再び歩き出す。

ここからマスル駅までは0.65EP,だいぶ待たされてから列車がやってきた。この列車はマスル駅とアブイール駅を結んでおり,便数はけっこう多い。僕が列車を待っている間に反対方向の列車は3便も通過している。

列車がマスル駅に着いた頃には薄暗くなっていた。のんびり歩いて宿の近くのサアド・ザグルール広場に到着した時にはもう暗くなっていた。

広場の横の歩道ではなぜか夕暮れの礼拝が行われていた。彼らはモスクでするのと同じように礼拝の動作を繰り返していた。近くにモスクが無いわけではないのにどうしたというのだろう。


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