亜細亜の街角
ナイルの川幅いっぱいに堰が続いている
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カイロのブルーモスク(Cairo2 から続く)

丘の下からシタデルを見学しそのまま丘の上にあるアズハル公園に行こうとした。しかし,あっさり道をまちがえて丘の斜面にある小さな道に迷い込んでしまった。斜面の道からはミナレットの林立するイスラーム地区を眺めることはできたが,じきに通行止めになり引き返すことになった。

もとの道に引き返すとマムルーク朝期と思われる建物があった。濃淡のある茶系の石材を使用し,ミナレットを備えている。ガイドブックの地図と照合できないけれど,これがイブラヒーム・アガの家なのかな。

ドームにも唐草模様の装飾が刻まれており本格的だ。もしかしたら古いモスクを修復したものなのかもしれない。陽が傾いてきたのでアズハル公園はあきらめて,ダルブ・イル・アフマル通りを歩いてズウェーラ門に向かうことにした。

この通りにもいくつかの古いモスクがある。ブルー・モスクとも呼ばれるガーマ・アズラクは14世紀マムルーク朝時代に建設された。創建時の呼び名はガーマ・アクンスクであった。

時代が下がって17世紀,オスマン朝がエジプトを支配するようになる。イスタンブールの宮廷から派遣された総督がホーム・シックにかかり,トルコのエズニックからタイルを取り寄せ,イスタンブールのスルタンアフメト・モスク(通称ブルーモスク)に似せて内部の壁面を飾った。

このため「カイロのブルーモスク(ガーマ・アズラック)」呼ばれるようになった。かなり老朽化しており,タイル装飾も一部分だけが残っている状態だ。入口には「Blue Mosque Free」と記載された表示があるけれど,管理人が案内するためバクシーシを要求される。

中に入ると頼みもしないのに管理人が案内をしてくれる。彼にしてみればバクシーシは重要な収入なのだろう。おまけに,ここを訪れる人は少ないようだ。僕はこのように案内されるのは大嫌いだ。のんびり見て,気に入ったものを写真にするのにとてもジャマだからだ。

今回はあろうことかタイルの個別写真ばかりを撮って,中庭やミフラーブを撮り忘れてしまった。ああ,悔しい。さすがに残っているイズニック・タイルは美しい。しかし,光沢のあるタイルの写真はとても難しい。

フラッシュを使用すると反射光のため一部はハレーションを起こしてしまう。また,外からの光も表面を光らしてしまうのでこれも困ったものだ。トルコのモスクでもタイルの写真はずいぶん苦労した。ここの環境は十分に暗いのでフラッシュを使って反射光が入らないようにして撮るしかない。

タイルの撮影が終わると,管理人は僕をモスクの屋上に案内してくれる。中庭を見る限り,多くの角材や金属材で壁面を支えて倒壊を防いでいる状態だ。建物の状態はかなり危険なところまで来ている。

東側はきれいに見渡すことができる。ミナレットが林立しており,ドーム屋根も数多く見られる。西側には緑の一画があり,あそこが行き着けなかったアズハル公園なのであろう。南のガーマ・スルタン・ハサンやシタデル方面は半分逆光になり,きれいには撮れない。

さて,十分にオールドカイロの眺望を見せてもらったのでそろそろブルー・モスクから辞去することにする。案内してくれた管理人にはいくらバクシーシを払うかな,エジプトの物価水準からして5EP(100円)で十分だろう。

と算段して下で「thank you」と言いながらお札を渡す。彼はかなり不満な表情を見せたが僕はそ知らぬ顔で外に出る。

ダルブ・イル・アフマル通りの歴史的建造物

ブルーモスクから通りを北上すると「ウンム・スルタン・シャアバーンのマドラサ」がある。この14世紀の建築物はマムルーク朝のものによく見られるように,濃淡のある茶系の石材を使用し,レンガを積み上げたような模様をもっている。外壁はアーチ型装飾で飾られており優美な建物に仕上がっている。

同じ区画には「ベート・ラッザーズ邸」があり,こちらはアラビア語で「マシュラビーヤ」と呼ばれる格子や透かし彫りになった窓が美しい。マシュラビーヤはイスラム圏独特のもので,平安時代の貴人が御簾を通して外を眺めたり,人と対面していたのに似ている。

窓の形式は張り出し窓の場合もあれば,普通のガラス窓のようになっていることもある。そもそも,多くのイスラム建築においては窓は中庭に面していることが多いので,このようなしかけは不要のはずであった。

外に面した窓は外部から覗かれないようにするため,また直射日光をある程度さえぎる役割をもっている。インドのジャイプルにある「風の宮殿」はこのような窓の集合体となっており,宮廷の女性たちがそこから街を見下ろしていたという。

もっとも,ここのものはオスマン風の張り出し窓になっており,そのまま本来の「マシュラビーヤ」に当てはまるかどうかは定かではない。

この頃になると「見る」ということにかなり飽きてきた。いくら文化遺産が素晴らしいといっても,このように次から次へと出てきては見疲れしてしまう。ということで双方とも外観の写真を撮って先に進む。

この通りはカイロの下町のような雰囲気が漂っている。小さな工場や商店が並び,人通りも多い。路面はアスファルトで舗装されているけれど,荷物を運ぶための馬車は現役で活躍している。製粉屋の前には馬車に荷物が積まれており,その家の壁には秣(まぐさ)が積み上げられている。

ガイドブックに記載されていないミナレットをもつ建物もたくさんある。保存状態は良くなく,崩壊寸前のものもある。さきほどのブルー・モスクといい,イスラム地区には歴史的建造物が多すぎて,世界遺産の構成要素になっている著名なものを除けば,補修や保存がまったく追いついていない。

ガーマ・マリダーニー

「ガーマ・マリダーニー」はマムルーク朝の時代に建設された。中に入ると石畳の中庭があり,中央には礼拝の前に手足を洗うための泉水が置かれている。通常のモスクでは入口から先は土足禁止エリアになるが,ここでは中庭までが外の一部のようになっている。

中庭を囲むようにアーチの連続する回廊があり,礼拝堂のある面はアーチの内側に高さ4mほどの木製の透かし彫りのようなついたてがある。これにより中庭と礼拝堂は遮られており,ついたての門から以外は礼拝堂に入れない。

アーチを支えている石柱はファラオ時代のものが使用されているという。そういえば,石柱の上部にはギリシャやローマ風の飾りがない。

感じとしてはモスクの一部としての中庭は維持できなくなったので,ついたてにより外と聖なる場所を分離しているようだ。礼拝堂はかなり老朽化しているものの,往時はかなり優美な状態であったことが推測できる。

柱があまりないので縦横ともに見通しはよい。ミフラーブの周辺には書棚とかカーバ神殿の大巡礼の写真が掲げられており,ずいぶんゴチャゴチャしている。なんとなく生活臭のある礼拝堂である。

ミフラーブの右側には周辺とは不釣合いに立派なミンバル(説教台)が置かれている。床は長方形のじゅうたんが畳のように敷かれている。礼拝堂の中には二人の子どもが遊んでいるだけで,他には誰もいない。じゅたんの上に坐ってしばらくのんびりと観察させてもらう。

中庭の一画には緑色のゴザが敷かれており,そこにはイスが並べられている。近所の人たちがそこで世間話をしている。「写真を撮ってもいいですか」とカメラを向けると,「ああ,いいよ」とばかりにうなずいてくれた。この写真は「古びたモスクで語らう年配の人々」というタイトルがつきそうだ。

感じの良い茶店

表通りに出ると道路わきで水タバコをしながら,夕暮れのひと時を過ごしている人々もいる。日本でも1960年代にはこのような縁台の風景が普通に見られたけれど,経済成長とともに,ご近所づきあいはどんどん少なくなった。カイロの下町ではまだ昔ながらの地域社会が息づいている。

感じの良いレンガの壁の茶店がある。ここで僕も一休みさせてもらう。この茶店の道路側はさえぎるものが何もない。シャッターを上げると完全なオープン状態である。客は水タバコやチャイ(シャーイ)をやりながら,のんびりと通りを眺めている。

床には木屑が散らばっており,毎度のようにこれは何のためと自問することになる。砂糖のちょっと多いチャイでリフレッシュして再び歩き出す。ゴールとなるズウェーラ門はもう近い。

ナイル・ダムって何?

今日はカイロからナイル川を25kmほど下ったところにある「ナイル・ダム」を見に行くことにする。ナイル・ダムとは妙な名称で,アスワンには世界最大級のダムがあるにもかかわらず,小さな堰のようなものに「ナイル」の名称をつけてしまった。

地元の人に聞いても「ナイル・ダム」ではほとんど通じない。正式名称は「il-Qanaatir(イル・キャナーティル」であり,それならば知っている人は出て来る。

宿の近くの食堂で「フール・サンドイッチ」を注文する。これはエジプト流のファストフードである。エジプトの安いパンはアエーシと呼ばれており,焼きたてはふくらんで中空の状態になる。上下の皮の間にすきまがあるパンだと考えればよい。

ヨルダンでは「ホブス」と呼ばれていたこのパンはエジプトでも通じた。そのため「アエーシ」という地元の名前はなかなか覚えられなかった。この食堂ではパンの中に入れる具はいくつかあり,その代表的なものは煮豆をすりつぶした「フール」という食材で,これは朝食には最適である。

その他にはポテトサラダ,レタスとフライドポテトの組み合わせなどがある。僕は他の具材の名称を知らないこともあり,いつもホブスを注文していた。カイロは少し物価が高く2個で1.5EP,エジプト第二の都会アレキサンドリアでは1EPであった。

ケバブをそぎ落としてアエーシにくるむシュワルマというサンドイッチは朝の早い時間帯にはまだ準備ができていない。食堂のあるシッタ・ウ・アシュリーン・ヨリヨ通り(長い名前だね)を西に行向かう。

船着場には着いたけれど

地下鉄のナーセル駅の近くの高架道路をくぐり,さらに西に行きアブルアラー通りで左に折れるとじきにナイル川に出る。水上バスの乗り場はこの近くにある。

ガイドブックには09-12時の間に一時間おきに船があると記載されているが,実際には12時少し前に出発する一本しかない。僕の待っている船が正確に何時に出発するのかは窓口でも分からないという。

おそらく乗客がある程度集まらないと出発しないのであろう。せっかちな日本人なら怒り出すところかもしれないが,エジプト人は「そんなことはよくあること」とばかりにのんびりしたものだ。

僕はすることが無いし,かといって時間が確定していないのでここを離れるわけにはいかない。しかたがないので川の風景を撮ることにする。近くにはシッタ・オクトーベル橋があり,その向こうにはミナレットのようなカイロ・タワーがすっくとシンプルな姿を見せている。

対岸には何隻もの巨きな客船が係留されている。僕には縁は無いが上流のルクソールやアスワンにもおなじような豪華客船がたくさん係留されていた。カイロからルクソールまでの船旅は欧米人の旅行者には人気が高いようだ。

カイロからルクソールまでの3泊4日船旅(片道)にコムオンボ観光とルクソール観光がついた現地発ツアーは350-490$ほどでネットに出ている。普通のホテルに宿泊する観光客にとってはそれほど高いものではない。

しかし,僕のような貧乏旅行者にとってはとても大きな出費であり,現地ツアーといえども参加することはできない。それでもナイル川の船旅を経験してみたいので今日のキャナーティル行きとなった。

船着場に到着してから1時間半が過ぎた10:15にチケット(片道5EP)が販売され,ようやく船に乗ることがことができた。船は上下2層,下は空調の効いたイス席になっており,甲板は4列のベンチシートになっている。船の舳先は1mほど高くなっており,陽射しの強さにガマンできれば風景を眺めるための特等席になっている。

カイロの環境汚染

11:45にようやく船はUターンをして北に向かって動き出した。対岸はゲズィーラ島,陸地のように見えるが中島である。進行方向右側にはカイロの新市街の高層ビルが立ち並び,中州の島には地震が起きたら全滅しそうな建物が密集している。

出発してすぐに青色の鉄橋をくぐる。日本ではもうほとんど見られなくなった鉄のアーチが橋げたの間で優美な弧を描いている。

二つ目のコンクリート橋は橋げたの位置が低いため,一段高い船首にいた我々は横になってやり過ごすことになる。甲板の上にある日よけ用の屋根と橋げたとのすきまは30cmほどしかない。

大都市カイロの周辺でも,ナイルの水は見たところそれほど汚れていないようにも見える。しかし,このカイロ地域では二つの環境汚染問題を抱えている。

最大の環境問題は大気汚染である。二酸化硫黄,浮遊粒子状物質により北部の工業地域では住民の20%が,南部の工業地域でも地区の学童の29%が呼吸器系疾患を罹っているという報告がある。また,ガソリンに混ぜられた鉛による汚染は子どもの学力の成長に影響している。

まだ大気汚染ほど深刻ではないものの,地域唯一の水源であるナイル川の水質汚濁も対策が必要な状態である。流域に1500万人の大都会を抱え,そこから排出される処理程度の低い生活雑排水,工業排水はナイル川を急速に汚染しつつある。

幸い川の自浄作用により現在のところはまだ深刻度は低いが,適切な対策が取られなければ,ナイルデルタの農業水や生活水に影響するのは必至である。

ナイルデルタの風景

舳先の甲板は直射日光が当たりかなりきつい環境であるが,欧米人と一緒に風景を見るためがんばる。左に高いミナレットをもつモスクが見える。ざっと見積もってミナレットの高さは60mはある。そんなに高くしなくても,この起伏の少ない土地では十分に目立つのだが。

建造中の船も見える。ナイル・クルーズで使用されている大型船である。骨格はすでにできており鉄さび色の防錆塗装が施された状態で台の上に乗せられている。

日本ではこのような船舶はドックで建造されるけれど,ここではずいぶん簡単な施設で造られている。それにしても余りにも貧弱な施設であり,作業が行われている様子も無い。とすると,この状態で保管されているのかもしれない。

ナイルデルタらしい風景も現れる。水辺の生活を見たいけれど距離があり過ぎる。レンガ工場と思われる高い煙突が立っている。ナイルの土でレンガを焼き,ナイルの水運で運搬する,現在においてもナイルは人々の生活とは深く関わっている。

バナナの林の向こうには近代的な高層住宅が密集している。少なくとも30階はありそうな建物が固まっている風景は壮観だ。大カイロ圏は1500万人の人口を抱え,ナイルデルタの北や西に拡大しつつある。

そこにはカイロの北東に位置するヘリオポリス地区に代表されるように郊外型の高級住宅地ができつつある。しかし,デルタの脆弱な地層の上にこんな高層住宅を建てて大丈夫なのかな。他人事ながら心配になる。

前方に近代的な橋が見えてくる。右手にはバナ農園が広がり,その上を橋が通っている。このあたりではナイルの川幅は約1km,デルタの湿地帯を橋でつないでいるの,でその長さは4kmくらいにはなりそうだ。この橋のあたりで船旅の行程の半分くらいだ。

前方に小さな島が見えてきた。小さな島はそれと分かるけれど,このあたりにある大きな島は陸地と区別がつかないので,それが進行方向の右なのか左なのかすら分からない。

まあ,分かったところでどうってことはないのだが,ナイルダムがどのようにできているのか,おおよそ知りたいと思うのが旅人の人情というものだ。

13:15,出発してから1.5時間が経過したところで堰が見えてきた。川幅いっぱいに堰が広がっている。なんとなく長良川の河口堰を思い出して嫌な感じを受ける。

1988年に着工された長良川河口堰は治水・利水・塩害防止という目的で1500億円という巨額の税金がつぎ込まれた。計画時と大きく地域の水環境が変わっているにもかかわらず,河口堰工事は着工された。巨額の税金を投じて達成できたのは川の生態系の破壊であった。

海と川を結ぶ環境,あるいは汽水域で生息している生き物はこの堰のため大きな影響を受けている。日本の行政では一度動き出した計画を撤回することは非常に難しい。

諫早湾の干拓,中海の干拓と宍道湖の淡水化など地域の特殊な生態系を無視した暴力的な事業が豊かな生態系をもった山紫水明の国をコンクリートの国に変えている。

公共事業を否定するつもりは無いが,国土を改変するのは最小限に留めるべきものであろう。私たちが後世に残すべきものは,世界的にもまれな変化に富んだ豊かな自然と生態系なのだ。

国と地方を合わせた借金(長期債務残高)の総額は2007年度末で772兆円に達している。しかも年間で数兆円が増えており,増加に対する政策的な歯止めがかかっていない。

我々の子どもや孫の時代に残るものは,返済不能な借金とコンクリートで固められた国土ということになる公算は高い。それは政治家や官僚だけの責任ではなく,そのような政治を選択した私たち一人一人の責任であることを認識しなければならない。

同じ堰でもここのものはここから二手に分かれるナイルと運河の水量を調整するという重要な役割をもっている。なんといってもエジプトはナイルの水を有効に利用しナイルデルタ地域の農業生産性をあげる以外に食糧を確保する手段はない。

と思っていたら,ナセル湖の水を利用し西側の砂漠に第二のナイルデルタを造り出すプロジェクトが動いている。これについてはアスワンのところで触れることにする。

堰の周辺は写真撮影禁止であった

キャナーティルはナイル川に対して横一線に並んでいる。中央部にミナレットを連想させるタワーが二本立っているのはエジプトらしい。船が右側の島を回りこむように移動すると,そちら側にも堰は続いていた。島をまたいで堰がナイルの二つの流れを制御しているのだ。

船は堰から少し離れた船着場に到着した。出航時間を確認すると,2時間くらいは滞在できるようだ。ここから堰までは馬車や三輪車の客引きはうるさいし,道路の両側にあるカフェからは大音量のエジプシャン・ポップスが流れてくる。僕の一番嫌いな観光地パターンである。

右側の小さい堰に到着し手前から写真を撮る。堰の上に出ると警官が現れ,「この堰周辺は写真禁止だ」と注意を受けた。どうしてこんなところが撮影禁止なのだ…,まあ,この堰がエジプトにとって重要な施設であることは認めるけれど…。

幸いさきほど撮った画像を見せなさいとは言われなかったので問題はなかった。堰の下流側に下りて(警官から)見えないところでで下流側と堰を勢いよく通過する水流の写真を撮る。下流側にはもう一つ分流点があり,そこにも堰が設けられている。

地元の青年たちが「一緒の写真に入ってください」と言うので集合写真に入ると,警官がやってきて彼らのデジカメの画像をチェックした。堰自体は入っていなかったので彼らも事なきを得たが,僕の画像を見られたら確実に消去であった。

キャナーティル周辺の見どころはすでに見た小さな堰,船から見た大きな堰,それに公園がある。まず大きな堰を見に行く。船から見たときはそれほどのものとは思わなかったが巨大な構造体である。

堰の上には2車線くらいの道路が走り,中央部には城壁の門のような構造物が見える。堰の上流側には線路が取り付けられており,トロッコのような車両が停まっている。この線路と車両は何のためにあるのか不思議だ。

この堰は固定なのか可動なのかは分からない。可動だとすると堰のゲートを上下させる設備が必要になるのだが,そのようなものはどこにも見当たらない。線路の上の作業車がその役割をもっているとも考えるが素人に分からないことばかりだ。

下流側を見るともう一つの同じような堰が見える。なんとも複雑なしかけになっている。そこでもおそらく何らかの形で分流する流れの調節が行われているのであろう。

エジプト人のピクニックポイント

時間がないので公園に戻り1EPの入場料を払って中に入る。幼稚園児が先生に引率されて遊びに来ていた。女の子はクラスメートの前で踊りを踊っている。小さい頃から見よう見まねで覚えていくものらしい。

小さな集団の写真を撮ったら回りの子どもたちが集まってきて集合写真になる。僕としてはさきほどのように自然な姿の方がいいんだけれど・・・。

公園の中には見事な「バニヤン」の木がある。日本ではガジュマル(榕樹)と呼ばれることが多いこの植物は熱帯を中心に世界で800種ほどあるとされている。当然,種類によりこの種の特徴となっている気根の形態も異なる。

たとえば「シメコロシの木」などは宿主の木のはるか上から気根を伸ばし,宿主を包み込むようになり,その成長を阻害して枯らしてしまう。宿主の木の跡は空洞となり,その周りを網の目状の根が幹のようになってしまう。この場合,気根は最初からしっかりとした太さをもって伸びていく。

それに対して,バニヤンはまず枝を十分に広げ,そこから細いヒゲのような気根を伸ばしていく。気根が地面に達すると幹のように成長していき,時間が経つと何本もの幹が巨大な樹冠を支えるようになる。中国ではこの状態のものを「独樹成林」と呼んでいる。

実際には地面に達する前に人間に切られてしまうのでヒゲ根はいつまでも枝からぶら下がっていることになる。この公園にあるものもその状態であった。それにしても幹は数える気にもならないほどたくさんのものの集合体になっている。その木陰にはテーブルが出されお茶が飲めるようになっている。

近くにはピンクと白の花を咲かせている潅木がある。つぼみはピンクなので,二色咲きというわけではなく,最初はピンクの花が時間とともに白くなっていくようだ。

うるさくて船内にはいられない

これで公園の探検を終えて船着場に急ぐ。船は15:45に出発した。さすがにもう直射日光の舳先に坐る元気は無い。下の船室に入ったところ,じきに巨大なスピーカーから大音量の音楽が流れ,あわてて甲板に出る。ここのベンチは一応屋根があるのでのんびりできる。

しばらくすると夕日の時間帯になりカメラを取り出す。西日を浴びた同じくらいの大きさの水上バスが同じ方向に向かっている。その船尾には小さなボートが結わえられており,ちゃっかりとただ乗りをしている。

夕日はなかなかきれいになってくれない。それでも西側の岸の近くを通ってくれたので前景にナツメヤシのシルエットを入れた夕日を撮ることができた。岸辺はもう浅くなっており,水草が水面から顔を出している。

その前を家路に向かうボートがゆっくりと動いている。船尾に積んであるエンジンは持ち上げられており,代わりに男性が魯をこいでいる。

夕日が沈みかけた頃,船はナイル川を横断する送電線の下をくぐった。高い鉄塔を結んで送電線が延びている。この構図は意外といい写真に仕上がった。カイロが近づく頃にはすっかり暗くなっており,新市街の夜景を川から楽しむことができる。

ここでようやく午前の早い時間帯に出発する乗客が少ないわけが分かった。夕日と夜景を楽しむことのできるこの最終便の人気が高いのだ。西側に教会があり,上から下にかけて7個の十字架の形をした灯りが輝いている。新市街の大きなビルの夜景もなかなかのものだ。

三脚は持っていないので舷側にカメラを置き,動かないようにして写真を撮る。さすがに夜景はフラッシュ無しのマニュアルモードでないとまともに撮れない。今日はナイルの風景とすばらしい夜景を見せてもらい満足して宿に戻る。

エジプト考古学博物館に向かう

エジプト考古学博物館

カイロからアスワンに向かう列車は22時発なので考古学博物館をのんびり見学することができた。宿から歩いて博物館に向かう。09時に到着すると何台ものバスが停まっており,入口付近には長い列ができている。

チケットは40EPから50EPに値上げされていた。1000円でエジプトの最高の文物を見学できるのであるから安いものだと言いたいところだが痛い出費だ。

博物館の入口にはスフィンクスの石像があり,いかにもという感じを受ける。正面の庭にもいくつかの石像や碑文があり,そこまでは写真OKである。碑文の一つにはヒエログリフが鮮明に刻まれており,ここで初めて古代エジプト文字の実物を見ることができた。

パピルスとロータス

正面から見ると建物の入口の前に池があり,そこにはパピルスとロータスが育てられている。パピルスとロータスはそれぞれ下エジプトと上エジプトを象徴する植物とされており,この池はエジプト統合を象徴しているようだ。

この池にあるパピルスは僕がかって見たパピルスとは葉と茎の感じが異なっている。心配になってパピルスの画像をチェックしてみるとやはり葉がずっと細く,茎がすっと立っている。まあ,パピルスにもいくつかの種類があるということなのかな…。

古代のエジプトではこのパピルスの茎から縦方向に薄く繊維質をはぎとり,それを縦横に重ねて紙状のシート(パピルス紙)を作っていた。

繊維を縦横に張り合わせる構造のため折り曲げには弱く,通常は巻物のようにして使用されていた。パピルス「papyrus」は英語の「paper」の語源ともなっている。

エジプトではパピルスもしくはそのまがいものに王の墓室に描かれていた壁画などを題材に絵を描いたものが,人気のお土産となっている。

僕も20年ほど前にマレーシアでエジプト製のパピルス画を手に入れた。画家のサインが入っているので量産品ではないようだ。額から出して繊維の状態をチェックしたら,確かに縦横の張り合わせになっている。

考古学博物館の中はすべて撮影禁止となっている

考古学博物館の中はすべて撮影禁止となっており,中に入る前に荷物と一緒にカメラを預けなければならない。そのため写真は一枚も無い。博物館の建物はシンプルな2階構造になっており,途方もない数量の文物が収納されている。

僕は5時間をかけてここを回った。幸いなことに,ガイドブックには写真付きで収蔵品の説明があったので,自分の見ているものが何であるかをかなり理解することができた。

個人的には1階中央のギャラリーにあるアメンホテプ3世と王妃ティの巨像を始めとする石像群が記憶に残っている。その背後の通路にあるハトシェプスト女王のスフィンクスもすばらしかった。

2階の半分を占めるツタンカーメン王の墓からの出土品は本当にすごい。今までアジアでは多くの博物館を見学したが,これほどすごいものは見たことがない。黄金の玉座,巨大な金色の厨子,黄金のマスク・・・,やはりこの博物館で見なければこれほどの感動は得られないであろう。


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