亜細亜の街角
アカバ湾には4カ国の海岸線が集まっている
Home 亜細亜の街角 | Acaba / Jordan / Oct 2007

アカバ (地域地図を開く)

内陸国のヨルダンにとっては紅海に面する港をもつことは悲願であった。1965年にヨルダンは内陸の砂漠の6000km2をサウジアラビアに割譲し,その代償としてアカバおよびその南方の12kmの海岸線を獲得した。

アカバは紅海(アカバ湾)に面する港湾都市でエジプト,イスラエル,ヨルダン,サウジアラビアの国境線がごく狭い範囲に集中している。

アカバはプトレマイオス朝の時代にはベレニケ,ローマ帝国の時代にはアエラナあるいはアイラと呼ばれ,重要な軍事拠点であった。

イスラム王朝の時代にはアフリカ,アラビア半島,アジアとヨーロッパを結ぶ海上貿易の拠点として,またメッカ巡礼のための中継点として重要な役割を果たしてきた。16世紀に入るとオスマン帝国の支配下に入った。

第一次界大戦中においてはオスマン帝国に反旗をひるがえしたメッカの太守ハシム家のフサイン・イブン・アリーの勢力がアカバを奪取した。この軍隊を率いたのがフサインの息子ファイサル・イブン・フサインとT.E.ロレンス(アラビアのロレンス)であった。

現在のアカバは人口7.5万人,サウジアラビア,イスラエル,エジプトを結ぶ海上交通の要衝であり,海洋貿易の一大拠点となっている。また,温暖な気候で,雨も少ないためヨルダン随一のリゾート地となっている。

ワディ・ムーサ(100km)→ワディ・ラム 移動

宿のレセプションで確認するとワディ・ムーサ(ペトラ)からワディ・ラム行きの直行バスは06時発ということなので05:30にチェックアウトする。同じ宿に泊まっていた日本人旅行者と一緒に行くことになり,外に出る。暗くて寒い,長袖を2枚着こんでバスターミナルに向かう。

06時が近づくと何台もの車がやってきて乗客が集まる。ミニバスも何台かここから出て行くがワディ・ラム行きは無かった。運転手もワディ・ラム行きのバスについては知らないと答える。仕方が無いので06:15発のアカバ行きに乗ることにする。

ミニバスは町を一周して乗客を集める。ロータリ-のところで欧米人の旅行者が運転手に「ワディ・ラム」と聞き,運転手が「ノー」と答えると,「ワディ・ラム行きはすぐに来るか」と聞くと運転手は「イエス」と返事をする。ワディ・ラム行きがあることが分かったので我々も降ろしてくれと運転手に申し出る。

再びバスターミナルに戻ったところで下車し,後からやってきたワディ・ラム行きに乗り換えることができた。たかだか,バスに乗るのにずいぶん苦労させられた。

乗客の大半は旅行者である。ミニバスはデザート・ハイウェーと呼ばれる砂漠の中の道を走り,途中でワディ・ラム方向に曲がる。進行方向左手に線路が並行して走っており,その向こうには茶褐色の岩山が見える。

線路にちょうど貨物列車が走っているのが見えた。二連の機関車の後に白い貨車が延々とつながっている。この鉄道はオスマン時代のヒジャーズ鉄道の支線にあたるもので,ヨルダンではリン鉱石を積出港のアカバに運搬するために使用されている。

ヒジャーズ鉄道は第一次世界大戦の少し前の1908年に完成した。シリアのダマスカスからヨルダンを通り,サウジアラビアの聖地メディーナに至る1300kmの鉄道であった。もっとも,その頃はオスマン帝国が通過地域をすべて支配していたため国際鉄道というわけではない。

第一次世界大戦ではアラブの反乱軍に破壊され短命で終わってしまった。それでも,ヨルダンでは主要な輸出産品であるリン鉱石を運び出す重要な交通機関となっている。

ヨルダン経済を支えているのはリン鉱石と天然ガスである。リン鉱石は埋蔵量が17億トン,年間生産量は256万トンであり,世界第6位(2005年)の生産国となっている。この鉄道は10kmほどワディ・ラムに通じる道路と並行している。

鉄道線路は1mほど周辺より高くなっているように見える。砂漠の中にもかかわらずところどころに橋が架かっている。これは何年か一度発生する雨から線路を守るため,ワディ(涸れ川)の部分に橋を架けているようだ。

バスの車窓から岩山が近くに見えるようになり,なんとなくイメージがワディ・ラムに近くなってきた。しかし,写真を撮るには朝日がじゃまだ。映画「アラビアのロレンス」に出てきた「知恵の七柱」を探していたら,ちょうどその前でミニバスは停車し,ここが終点だと告げられた。

ここはワディ・ラムの管理ゲートになっており,バスを降りると「チケットを買え」と告げられる。入域するには2JDが必要となっているのだ。周辺にはベドウィンの四輪駆動トラックがたくさん停まっている。

ワディ・ラムは王立自然保護協会により自然保護区の指定を受け,管理されているので,外部の車はこのゲートから先には入れないようだ。観光客はここで4WD車をチャーターしてワディ・ラムを走り回る仕組みになっている。

ワディ・ラム

とりあえず知恵の七柱の写真を撮る。しかし,08:30の朝日のため逆光になっており,ひどい写真しか得られない。「知恵の七柱」はT.E.ロレンスの著書で世界に知られるようになった。この表現は旧約聖書の「箴言」に記されている「知恵は家を造り,七つの柱を立てる」という内容からきている。

アラブの反乱を指揮したロレンスはことのほかワディ・ラムの砂漠を愛していたという。その入口にまるであつらえたように七本の柱に見える岩山があるのは偶然といえすごいことだ。

旧約聖書はイスラム教にとっても聖典なのでその内容にちなんでこの岩山をロレンス以前から「知恵の七柱」と呼んでおり,ロレンスがそれを引用したとも考えられる。

しかし,彼が最初にこの言葉を使用したのは戦争の始まる前の1911年に母親にあてた手紙の中であるとされている。すると,やはりこの岩山はロレンスにちなんで命名されたと考えるべきだろう。

ロレンスがアラブの反乱を指導した頃,ワディ・ラムは静謐が支配する世界であったという。孤独癖の強かったロレンスはラクダでここを訪れ,よく一人で砂漠の夜を過ごしたという。

そこは静けさと満点の星がきらめく彼にとっては最も愛すべき世界だったのかもしれない。映画「アラビアのロレンス」のロケがここで行われ,荒れた砂漠と周辺の風化した岩山の風景はすばらしい映像効果で観客を魅了した。

ロレンスとガイドがここの井戸で水を飲んでいるとき,遠くに陽炎のゆらめきの中から族長アリが現れるシーンは僕の脳裏にも残されている。しかし,現在のワディ・ラムは観光化されてしまい,ロレンスの愛した静謐さはまったく失われている。 我々はレストハウスに宿泊し周辺を歩く計画だったので,そちらに向かうトラックをヒッチして6kmほど離れたレストハウスで降ろしてもらった。

イメージしていたよりずっと立派なレストハウスであった。そこで宿泊についてたずねるとテントだけだという。レストハウスの背後には10張りほどのテントが並んでいる。ここに泊まるのはあまり気が進まないし,朝食も3JDのわりにはたいしたものではない。

もう一人の日本人旅行者と相談する。朝食をここで食べたことで荷物を預かってもらえそうなので,2時間ほどあたりを散歩してからアカバに行くことにする。

レストハウスの背後には岩山が連なっており,大きなテントと宿泊用の小さなテントを前に置く構図で一枚撮っておく。大きなテントの近くの砂が濡れているので見に行く。地中から水が湧いている。砂漠地帯でも岩山の近くではこのような現象は見られることがある。

レストハウスの前はアスファルトの道があり,少し先の集落まで続いている。その先は砂しかない。赤茶色の砂はとても粒子が細かく,足をとられるので歩きづらい。

ガイドブックによるとこの辺りに「ロレンスの泉」があるはずだが,井戸のようなものはどこにも見えない。近くにあるガレ場に登ってみても,何も無いことが確認できただけであった。映画で使用された掘りぬき井戸は撮影用のものだったようだ。

目の前の砂漠は車の跡が無数についており,その一部はガレ場の先で右に向かっている。視界が利くところまで行くと,右側にベドウィンのテントがある。岩山の近くには木が一本だけ緑の枝を繁らせている。車のわだちの跡は砂が固められているので少しは歩きやすい。

このテントの住人にロレンスの井戸についてたずねると,井戸は背後の岩山の中腹にあり,ここまではホースで水を引いているとのことであった。なるほど,映画のような井戸は存在しないことが分かった。

4WDの車が次々とこのキャンプにやって来て,ロレンスの泉の話を聞き,岩山を見上げたあとはお茶を飲んでいく。我々も時間が迫ってきたのでワディ・ラムはまったく不消化のまま去ることになった。僕にとっては東を向いた写真は逆光のため本当にひどい状態なので大いにこころ残りであった。

ちょっと記憶が怪しいけれど,レストハウスの近くからアカバに行くミニバスがあり,わりと簡単にアカバに到着することができた。街の中心部のバスターミナルに到着し,そのままフェリーでエジプトに向かうという日本人旅行者と別れ,僕はペトラ・ホテルを目指す。

ペトラ・ホテル

ペトラ・ホテルは表通りに並んだ商店の間の道を入り,右側に受付があった。部屋を見せてもらうと8畳,2ベッド,T/S共同で清潔である。通常料金は6JDと高い,2日間泊まることを条件に5JDに値引きしてもらった。

難点はドアのカギがなかなか開かないことだ。最初はどうにも開かないので,従業員に開け方を教わらなければならないほどであった。またエレベーターがときどき動かなくなり,何回か歩いて上がらなければならなかった。

僕の部屋は5階にあり,その上の屋上はマットレスが敷かれているので屋根付きのオープン・ドミトリーになっている。さすがにこのドミはセキュリティが全く無いので願い下げだ。

この屋上はアカバでもかなり高いところなので見晴らしは良い。西側は狭いアカバ湾を挟んでエジプトの海岸が見える。ここから海岸沿いに湾の奥に向かうと2kmほどでイスラエルとなり,さらに3km行くとエジプトになる。

またここから逆方向に7-8km行くとサウジアラビアである。アカバ湾は4つの国の海岸が非常に狭い範囲に集まっている。あいにく空気中の水分が多いため,少し遠くはかすんでいる。アカバの内陸側は新しいビルが多く,観光と港湾で発展している街の様子がうかがえる。

海岸を歩く

だいぶ遅い時間になったけれど海岸を歩いてみる。近くにモスクがあり,高いミナレットが1本立っている。海岸の近くなのでその白いミナレットは灯台のようにも見える。このモスクは時間があったら中に入ってみよう。

アカバは内陸国ヨルダンにあって唯一の海をもつ町である。海岸線はわずか10kmほどしかないのでまさしく貴重品である。街の南は高級リゾート地になっており,海岸そのものが囲い込まれてプライベート・ビーチになっている。

それに対して中心部の海岸は庶民的な雰囲気でどこでも歩くことができる。海岸沿いにコルニージュ通りが走っており,その西側がナツメヤシの繁る海岸になっている。海岸にはテーブルとイスが並べられ冷たい飲み物とチャイが出される。

紅海からさらに奥まった湾にもかかわらず海は十分にきれいだ。陸地から流れ出る川はないし,人口もまだ7万人程度なので海に排出される生活雑排水もそれほど多くはない。そもそもここででは水は貴重品なので,湯水のようにとはいかないのも幸いしている。

海岸は西に開けているので海の写真を撮るなら午前中がよい。強い日差しが逆光になると写真はほとんどダメになる。それでも海に突き出た船着場の先端に行き,海岸を横からあるいは陸側に向かって写すのには問題が無い。

海岸線,海の茶屋,ナツメヤシ,赤茶色の岩山が紅海のリゾート地らしい風景を見せてくれる。さきほどのミナレットはナツメヤシの背後にあり,ますます灯台のように見える。

湾の奥方向には貨物船が停泊しており,対岸のエジプトの町ターバーまではわずか5kmほどしかない。それにもかかわらず,ここからエジプトに渡るためには高いフェリー代(50$)を払って50kmほど離れたヌエバアまで行かなければならない。

南側には巨大な国旗掲揚塔がある。高さは25mほどもあるだろうか,その上部には塔に見合った大きさのヨルダン国旗が風にたなびいている。ちょっとばからしいほどの大きさではあるが,僕の貴重なランドマークになってくれた。

湾の最奥部はイスラエルである。おそらくグリーンベルトあたりに国境があるのだろう。イスラエルのエイラートも高級リゾートとして知られている。もっともイスラエルの人たちはビザ無しでエジプトのシナイ半島に入れるので,多くの人々がエジプトのリゾート地にも訪れている。

内陸探検

夕日の時間帯までにはもう少し時間があるのでアカバ要塞から東に歩き内陸探検に出かける。じきに大きな道路に出て,その向こうは赤茶色の岩山が西日に輝いている。大きな道路は地形の高いところを走っているので周辺を見渡すことができる。

道路の山側には線路が走っており,ワディ・ラムに移動するとき見かけたリン鉱石を運搬する貨物列車が港の方にゆっくり走っている。なぜか線路の両側は土手のようになっており,線路をもっとも低いところに通している。

こんなときに備えてコンパクト・デジカメはいつも右手に持っている。写真の質からすると一眼レフの方がはるかに優れているのは分かっているが,町を歩く時に首から下げているのはいかにもジャマだ。片手で持てるコンパクト,それなりの写真の撮れるカメラが手放せない。

この場所からは西側のアカバ湾を眺望することもできる。さきほどの巨大な国旗が翻り,風景にアクセントを添えてくれる。そろそろ夕日の時間帯になったので海岸に戻ることにする。

子どもたちの写真を撮りながら民家の間の道を下って行ったが,何となく治安の良く無さそうな感じを受ける。アカバがリゾートとして開発されるにつれて,貧しい人たちは町を半円状に取り囲むアル・ハドワ通りの外側に押し出されているようだ。

滞在1日目のアカバの夕日

アカバの夕日はそれなりに楽しめた。雲が無いので風景全体がうすい茜色に染まるだけであるが,やはり旅先の夕日の風情は格別のものである。

日本にいるときは自分のマンションの部屋から富士山の方向に沈む夕日を見ても,写真に撮りたいとも思わない。やはり,旅先での風景はまさしく一期一会であり,それに旅の感傷が重なるので普通の夕日も印象深く映るのであろう。

日没時の礼拝

帰りは灯台のようなミナレットをもつモスクに立ち寄ってみた。ちょうど日没時の礼拝の時間であり,人々はメッカの方角の壁に向かって祈りを捧げていた。礼拝の様子は何回も目にしているけれど,毎回新鮮な気持ちで見ることができる。

夕食

夕食はショッピングセンターの近くのカフェでいただく。店の前にテーブルが置かれており,料理が並んだ店先で指で示して注文するとテーブルに届けてくれる。地元の人向けのファスト・フードのようだ。

大き目のホブス,オリーブオイルを使ったフール,ゆで卵2個,サラダ,チャイの組み合わせで1JDなのですっかり気に入ってしまった。発展著しいアカバの街は灯りが多く,明るく輝いている。

ヨルダン人気質

昨夜は2時過ぎにとなりの部屋のテレビの音で目を覚ました。真夜中だというのにひどい音量である。ベランダに出てとなりとの仕切り板をたたき「音を小さくしろ」と怒鳴ってしまった。さすがに音は小さくなったが,こんなふうに怒鳴ることはあまり気持ちの良いことではない。

人口密度が低いところに居住している砂漠の民族は他人の迷惑については無頓着な人が多い。昨日歩いた海岸もゴミが散乱しており,あのペトラの遺跡でもゴミが目に付きいやな思いをした。

近くに公共のトイレがあるにもかかわらず,コンクリート塀や人目に付かないところは小便臭い。こんなことではアカバのリゾートはそのうちプライベートビーチだらけになり,一般のヨルダン人の立ち入りは禁止されることになるだろう。

アカバの海岸近くは華やかな商店街が並んでいるが,観光やリゾートの時流に乗れない人々,特にベドウィンの人々が山の方の荒地に追いやられている。そのような地域では10代の少年たちは外国人を見ると「マネー,マネー」とまとわりついてくる。

トルコ,シリア,ヨルダン…,中東の子どもたちのこころはずいぶん荒んでいるようだ。地元の人たちと交流するのことを旅の楽しみの一つにしている僕にとってはそのような状態はとても悲しいことだ。

中東では地元の人々や子どもたちの写真が極端に少ない。イスラム教が影響しているという側面はあるけれど,大きな理由はうるさい,危ないということで庶民の居住地域を歩けなかったためである。

北の海岸を歩く

午前中は北(イスラエル側)に向かって海岸を歩いてみる。トラックの荷台に乗った人たちがいる。何家族かが一緒になって遊びに来たらしい。このような人たちは写真をとっても問題にならない。

荷台に上り子どもたちを撮ると,近くの母親から「この子と一緒に撮って」と注文が来る。イスラムの国でそんなのありかなと疑問をもちつつ,回りの人と一緒に撮ってあげる。画像を見せてあげると子どもも大人も嬉しそうに見てくれる。こんなときデジタルはとても便利だ。

海岸に出ると今朝は対岸の岩山や停泊中の船舶が色付きで見ることができる。昨日はシルエットになっていたのでようやくまともな写真になった。空気の透明感も昨日よりは少し良くなったようだ。

ローラル・ヨットクラブ周辺

しばらく歩くとローラル・ヨットクラブがあり,中に入ると大きな岩を積んだ護岸があり,その内側にはヨットやクルーザーが係留されている。護岸の先端部の眺めが良さそうなので守衛に断ってそちらに向かう。

ここに停泊しているクルーザーは外国人観光客用のようだ。ヨーロピアンのカップルがやってきて,クルーと一緒にクルーザーに乗り込む。船にはダイビング用のボンベが何本も積まれていた。

護岸の先端部近くの浜辺にはリゾート・マンション風の建物があり,敷地内は金網で囲まれている。ここから先は高級リゾート地になっている。青い海の向こうにはイスラレルのエイラートのリゾートが昨日よりかなりはっきり見える。そこには建物が密集しており,ヨルダン側とはだいぶ感じがちがう。

沖合いにはクレーンを備えた貨物船が停泊している。船の中央部に高い構造物がありそこから水平方向に二本のアームが伸びており,アームの先端はワイヤによって構造物の最上部とつながれている。普通,貨物の積み下ろしは陸上のクレーンが担当すると思っていたら,こんな貨物船もあるんだ。

イーラ遺跡は興味を引くものではない

海岸道路に戻りさらに北に行くと道路の横に「イーラ遺跡」がある。これはイスラム王朝初期の時代の都市遺跡だという。道路から見ると建物や石柱の土台だけが並んでおり,ほとんど興味を引くものではない。

近くには高級リゾートホテルやカフェが集まっており,周辺には外国人観光客がたくさん目に付く。その先はジョルダン・ゲートという大規模なリゾート開発が行われており,ここが徒歩の終点となっている。

海岸道路でアカバ要塞に戻る。回りを一周してみたがどうみても1JDを払って見るようなものではない。正面の門と,その上にある紋章の写真を撮ってここは終了する。

久しぶりにヨーヨーを作る

巨大な国旗のところから東側にまっすぐ行く道がある。ここを行くと昨日の大きな道に出る。海岸から離れるにつれて家屋は貧弱になリ,子どもの態度は悪くなる。中国の古いことわざに「衣食足りて礼節を知る」とあるが,それは現代においてもそのまま通用する。

近くに昨日子どもたちの写真を撮った家があり,そのときはヨーヨーセットを持っていなかったので再び訪問する。4人のうち3人は父親が車の掃除をしている回りで遊んでおり,歓迎してくれた。

年長の女の子は学校に行っているようだ。父親はゴザの上に席を作ってくれ,母親がチャイを出してくれる。(元)ベドウィンの暖かいもてなしに恐縮しながらいただく。4人分のヨーヨーを作ってあげ,1個は「学校に行っている女の子にあげてね」と伝えて母親に渡す。

隣の家の子どもがこちらをじっと見ているので,もう1個を作って渡そうとすると受け取らない。この家の男の子に「あの子にあげて」と渡すと,ようやく受け取ってくれた。ヨーヨー作りは久しぶりだ。今日の記念に4人の集合写真を撮る。

近くの高台からアカバ湾の写真を撮る。さすがに眺めは良くイスラエルの町がとてもよく見える。対岸は確かに高級リゾートであるが,僕の立っている場所のすぐ下にはバラックの家屋が乱雑に並んでいる。これがここの現実である。

帰りはワディ(涸れ川)の土手を通って帰ろうとしたが,やはり雰囲気は良くない。明らかに「外国人はこんなところに来てはいけない」と人々の冷たい視線が物語っている。アジアの多くの国で貧しい地域を歩いてきたけれど,中東のように敵意を感じるのは初めてである。

珍しい雨

宿に戻り1時間ほど昼寝をしてから海岸に出かける。なんだか雲行きが怪しくなる。近くの大きな建物に避難すると風が強くなり雨もぱらつく。アカバ湾の上に黒い雲があり,すぐ近くで本格的な雨が降っているようだ。この砂漠の国で雨雲が見られ,ちょっと感激しながら写真を撮る。

雨は30分ほどで終わる。防潮堤の上に坐り0.2JDのチャイを飲みながら夕日の時間が来るのを待つことにする。二人の若者が防潮堤の上から,飛び込みのパフォーマンスをしている。前回り一回転,バック転など飽きもせず続けている。

今日の夕日は近くに接岸している貨物船がシルエットになっておりまあまあのできだ。さきほどの雨で砂塵が洗われたのか昨日よりはっきりした視界の夕日である。

夕日も良かったが,雲があったので西日がシナイ半島に沈んだあとの残照も味わい深いものであった。その時間帯にも遠くの入道雲の一部は明るく輝いている。

日記を早々に書き終えて次の訪問国のエジプトのガイドブックを読む。出発時はエジプトに行くことは考えていなかったので情報が整理されていない。カイロの文化・建築遺産の多さに驚くとともに,イスラム世界におけるエジプトの重要性を認識する。これは2週間はかかりそうだ。


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