亜細亜の街角
特異な建造物と荒々しい自然を満喫する
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ペトラ  (地域地図を開く)

ペトラはアンマンから約300kmほど南に位置するナバテア(ナバタイ,ナバティア)人の都市遺跡である。ペトラは「岩」を意味するギリシャ語であり,その名の通り周囲を100-300mの岩山に囲まれた標高1000m近いところにある山岳都市である。

もっとも,ナバタイ人がやって来る前からペトラにはアラブ系のエドム人がこの辺りに居住していた。「旧約聖書」にはセラ(アラビア語で岩の裂け目)と呼ばれる地名が記されており,それはぺトラではないかと考えられている。

ペトラに特異な建造物を造営したナバテア人は紀元前5世紀頃にシリア南部からヨルダンにかけて活動していた民族であるが,そのルーツははっきりしない。

一つの考え方は紀元前6世紀頃にアラビア半島北部もしくは南部から移動してきたアラブ系遊牧民族とする考え方である。彼らは勢力的には地域の先住民族エドム人に対して優位にあったものの,文化的には同化されアラム語を使用するようになったといいうものである。

もう一つの学説はナバテア人の中核集団はメソポタミア地域の南部から移住してきたセム系遊牧民とするものである。この論拠となるものは,ナバテア人が公用語的に用いた文語が古代シリア語文語だったこと,およびナバテア文字がフェニキア文字と類縁性が強いことがあげられる。

いずれにしても,ナバテア人はエドム人の土地に平和裏にやってきて,周辺の民族と混血しながら独自の民族を形成していったようだ。彼らの生業は遊牧であるが,紀元前4世紀に地域の有力民族となる頃には相当数のナバテア人がオアシス等で農耕に従事するようになった。

遊牧民としての生活を続けるナバテア人はアラビア半島南部と地中海を結ぶ交易路を掌握し,中継貿易を始めるようになった。もっとも,周辺地域の記録ではときには交易キャラバンを襲う強盗になっていたと記されている。

中継貿易で富を得たナバテア人は騎馬隊を組織し,保護下の隊商を警護するようになった。彼らは交易路の要衝であるペトラを占拠し,紀元前3世紀頃にそこを中心とするナバテア王国を築いた。王国になっても中央集権化はさほど進まず,商人貴族の自治権は強かったとされている。

当時,アラビア半島南部の没薬と乳香は重要な交易品目であった。特に乳香は宗教儀式で必ず使われるほど重要なものであるが,アラビア半島と東アフリカの一部でしか採れなかった。キリストが誕生したとき,東方の3博士が携えてきたのは黄金,乳香,没薬の3品であったのも偶然ではない。

ナバテア王国はエジプト,ギリシャの影響を受けながら交易により発展し,紀元前1世紀にはシリアからアラビアの北西地域一帯を支配する大きな勢力となった。

ペトラの人口も最盛期には2万5千人,郊外にも1万人が暮らしていたと言われている。水に乏しいこの地域でナバテア人はすぐれた貯水・給水システムを構築し,農業も行っていたという。

紀元1世紀にナバテアはローマの属州となったが一定の自治は認められた。この頃から建造物がローマ風のものに変わっていく。ペトラはその後も存続するが,何回かの大地震に見舞われたこと,交易ルートが変わってしまったことにより4世紀に放棄された。

その後,一時期イスラム勢力が侵入したり,十字軍が要塞を設けたこともあったが,ほとんど忘れ去られてしまった。19世紀に再発見され,1985年に世界遺産に登録された。

アンマン(200km)→ワディ・ムーサ 移動

移動日の前日,サーメルさんが夕食を振舞ってくれた。その後の洗い物は宿泊客が担当することになり,ウノというカードゲームの敗者2名が担当することになった。

サーメルさんを含め7-8名が参加するウノはなかなか決着がつかない。普段は温厚でやさしいサーメルさんはこのウノが始まると人が変わったようになり,宿泊客と一緒に子どものようにはしゃいでいた。このような一面も彼の人気の秘密であろう。

移動日の朝食はラマザーン明けの休日のためやはり苦労した。朝食として食べることができるものは豆をすりつぶした「フール」と呼ばれるものだけだ。

フールにヨーグルトやオリーブオイルをかけたものが皿に盛られており,地元の人たちは「ホブス」という薄いパンでフールをつまむようにして器用に食べている。

僕はスプーンを借りていただくことにする。この豆料理はすりつぶしていなものを含め,シリアからエジプトの間でよく口にした。エジプトでは袋状になったホブスにフールや野菜などを入れるものがファスト・フードの主流になっていた。

ペトラは観光地だけあって物価がとても高いという情報が知られているので,パンと野菜を買っておこうとしたらパン屋は閉まっていた。野菜や果物は日持ちがしないので今朝も開いている。リンゴ3個,トマト4個はどちらも0.35JDである。

宿でトマトを食べてみたらそれほどおいしくは無い。中央アジアの瑞々しいトマトがなつかしい。日本人旅行者と話をしていると11:30になり荷物をまとめチェックアウトする。サーメルさんにはたくさんお礼をいう。

今日ペトラに行くメンバーは僕を含めて4人,ニ人は日本人,一人はメキシコ人で彼とはダマスカスの宿でも一緒のドミにいた。高級なデジタル一眼レフのカメラをもっており,腕のほうもかなりのものだ。

レバノンの写真を見せてもらったが,凝ったアングルの写真が多く,僕のように自分の見たものの記録のため撮っている写真とは考え方がちがっている。

4人で昼食をとり,タクシーでワヘダットBTに向かう。4人もいるとタクシー代は市バス並になる。バスターミナルで15分ほど待つとミニバスがやってきた。我々は荷物があるので0.5高い3JDの料金になる。

ミニバスはアンマンとアカバを結ぶヨルダンの大動脈デザート・ハイウエーを走りぬけ3時間でワディ・ムーサ中心部のロータリーに到着した。名前の通り道中の景色はひたすら荒地であった。赤茶色の荒地を切り裂いて,ほとんど直線のアスファルトが伸びている。

日本人の一人が体調が悪そうなのでロータリーからすぐ見える「Saba Hotel」の看板を見つけそこに泊まることにした。なんだか趣味の悪い装飾のある受付で3人部屋とシングルをとってもらった。

我々の3人部屋は8畳,T/S付き,清潔ではあるが洗面所はとても狭い。お湯のシャワーは地階の従業員用のものを使うことになる。料金は3JD,観光地のペトラではこの金額はしかたがない。

この日はもうすることがないので分散して夕食に出る。食堂はたくさんあるが値段は高い。4JDくらいで立派な夕食にありつけるけれど僕の予算には合わない。トルコでいうシュワルマ(ドネル・ケバブを削った肉を薄いパンで巻いたもの)があり,今日の夕食は1JDで済ませた。

翌日のためにホブスに近いパンを買おうとしたら4枚で1JDと言われあきれた。高すぎると文句を言うと0.35に下がったがそれでも十分に高い。それでも明日の朝食と昼食のためがまんするしかない。

ペトラ遺跡に向かう

07時に起床し小さなパン,チーズ,リンゴで朝食をとる。しかし,このパンはパサパサしておりひどい味で,とても2枚目を食べる気にはならない。昼食は非常食のビスケットにしよう。

ワディ・ムーサの街からペトラの入口に当たるペトラゲートまでは2kmほど離れている。4人でタクシーをシェアしてゲートに向かう。入口をチケット売り場とまちがえ我々はもとの場所に戻ることになった。

ペトラの入場料は1日券が21JD(3300円)とこの国の物価水準からすると途方も無く高い。なんでもオリジナルの料金は1JDであったが,「インディー・ジョーンズ最後の聖戦」が公開されたとたんに21JDに跳ね上がったという。

その後,2001年の米国テロの影響で観光客が激減した時期は11JDに値下げし,観光客が戻ってくると再び21JDにしたらしい。これといって産業の無いヨルダンでは観光収入に頼るところは大きいだろうが,僕の懐にとっては痛い出費である。

ペトラはとても広いので2日券や3日券もある。しかし,見どころは入口と最奥部にあるので1日で回る戦略が正しいようだ。遺跡内部のレストランはとても高いので昼食の材料は持参したほうがよい。暑い時期なので観光客は朝早くから行動を開始しており,ゲートから先はけっこう混んでいる。

道は人が歩くための広い道と馬のための細い道に分かれている。馬の道は早駆けをするため軟らかい砂で覆われている。地元の男性(当然入場料はいらない)は馬に乗ってこれから出勤といったところである。

おおざっぱなペトラの地理を説明すると,メインゲート(1.5km)→エル・ハズネ(1.5km)→凱旋門(1.5km)→エド・ディルとなる。ただし凱旋門から先はかなりの登りになる。

歩き出してすぐに左に「オベリスクの墓」が見える。この遺跡は岩山をそのまま加工したしたもので上下2段になっている。上階は高さ7mのオベリスクが並ぶ墳墓である。オベリスクはエジプト由来かと思っていたら,土着の石柱崇拝の産物らしい。造営時期は上階の方が古い。

先が長いのでこの墳墓は道路から見るだけにしておしまい。この先で人用と馬用の二本の道は一緒になる。エル・ハズネまでの道のりを馬で行く観光客がちらほら見える。もちろん,馬子がくつわにつながるロープの端を持っている。

シークに入る

しだいに左右の岩山が迫ってきて,道はシークと呼ばれる岩の裂け目にさしかかる。もっともここは岩が裂けたわけではなく,水の浸食作用により削られたものである。

雨量の少ないこの地域でも数年に一度はまとまった雨が降ることがある。乾燥地帯の地面はほとんど水を吸収しないので水は土砂混じりの鉄砲水になる。水は軟らかい砂岩の岩を削りながら流れ,しだいに深い峡谷を形成するようになり,下から見上げる絶壁の高さは70mから100mにも達する。

この峡谷の道もペトラの見どころの一つだ。峡谷の幅は数mから十数mと変化し,狭いところはさすがに迫力がある。岩壁の下には岩を削って造った水路の跡がある。これは貯水槽から水を引くためのものであり,おそらくペトラの最重要なインフラであったことだろう。

この峡谷の感じをうまく伝える写真を撮るのは難しい。帰国後,写真をチェックしてみるとどうも撮影技術が風景のすごさにまったく追いついていないことが分かった。

30分ほど歩くと前方に人だかりができている。エル・カズネが岩の間から見える地点でみんな立ち止まっているのだ。写真のポイントは人だかりの少し手前なのだが,そこから撮るとどうしても人が入ってしまう。

この構図は帰りにもう一度トライしてみたが,エル・カズネの明るいピンクと手前の岩壁との明るさの差が大きすぎるし,オートフォーカスでは被写界震度が浅すぎる。

エル・カズネ(エル・ハズネ)

峡谷を抜けたところにバラ色に輝くエル・カズネ,別名カズネ・ファルウン(ファラオの宝物殿)が威容を現す。アラビア語で宝物殿を意味するこの建造物は神殿なのか霊廟なのか,あるいはその両方を兼ねたものなのか,専門家の間でも意見が分かれている。

何分にもそれらの証拠となる遺物が少ないので確証が得られていないようだ。これはペトラに多数残されている岩窟墳墓についても同じようなことがいえる。霊廟だとする根拠としては「死者は神となって残された家族や共同体を守るというセム人独特の死生観」をあげる学者もいる。

しかし,そもそもナバタイ人がセム系かアラブ系かもはっきりしないのである。ペトラがヨーロッパ人に発見されてから200年が経過し,幾度もの調査にもかかわらずペトラについては確たることはまだ分かっていない。

エル・カズネは幅25m×高さ30m,まず岩壁の表面を平に削り,そこに設計図を描く。石工は岩の出っ張りや取り付けた金具を足場にして,設計図の輪郭に従って上から下へと彫り進んだとされている。

ファザード(正面の造形)はバロックを思わせる華やかな印象を受けるが,専門家はギリシャ,ローマ,エジプトさらにはペルシャの影響が見られるといい,何がもっとも影響したかについての論争は決着していないという。

映画「インディー・ジョーンズ最後の聖戦」ではエル・カズネが「太陽の神殿」と呼ばれている。ナバタイ人の主神はドゥシャラと呼ばれている太陽神であり,当初は金の台座の上に置かれた黒い石に神が宿るとされていた。

「オベリスクの墓」にみられる石柱崇拝も同じような意味をもっていたとされている。この太陽神から映画ではエル・カズネを「太陽の神殿」としたようだ。

映画では神殿の内部にいろいろな仕掛けをもった部屋があり,一番奥にはキリストが最後の晩餐に使用し,ゴルゴダで磔にされたときの血をうけたとされる聖杯(ホーリー・グレイル)が置かれているという設定になっている。

しかし,実際にはエル・カズネの内部はところどころに小室をもった四角い部屋が一つがあるだけで,外部の華やかさに比べるとまったく不釣合いな空間になっている。この構成は他の岩窟墳墓にも共通している。

それでも内部の壁面はピンクと白の地層が不規則に現れ,まるで木星の大赤斑のような模様を作っている。この模様はほとんどの岩窟で見ることができる。ここはペトラ最大の見どころなので周辺にはたくさんのラクダが集まっており,ラクダに乗って先に進む観光客も多い。

アウター・シーク

エル・カズネから先はしばらく幅の広い峡谷(アウター・シーク)になっており,岸壁にはいくつかの人工的な加工の跡が残っている。その先は広場になっており,西側の岩壁は穴だらけである。

いずれも穴の周辺の岩を平に削り,そこに一部屋の空間が穿たれているようだ。こうしてみると,大きな権力をもつ家系の墳墓は大きくなる傾向が見て取れる。ここを登っていくと犠牲祭壇があるはずだが,それは日没時の話になる。

我々4人組はともかく最奥部の「エド・ディル」を目指す。まずそこを見てしまえばあとは近場で好きなものを見ることができるという計算である。「ローマ劇場」や「王家の墓」などは飛ばして先を急ぐ。

色鮮やかな模様

途中で入った岩窟の岩肌は色鮮やかな模様がは素晴らしかったので何枚か写真にする。ここは岩窟の入口に模様があったので写真は撮りやすい。このように岩の表面がきれいに磨かれたようになっているのは,砂混じりの風のおかげであろう。

2000年前に加工された岩の表面はどんどん風化し,周辺の岩と同じように黒ずんでいく。しかし,風が砂を飛ばし表面を少しずつ磨いているので,このような芸術的な模様がきれいに残っている。

王家の谷→凱旋門

ニンファエウム(泉水殿)から先はローマ式の「列柱通り」になっており,少し先からは石畳の道になっている。列柱道路の両側にはローマ支配時代の建造物の遺構があるが,ペトラの重要な見どころにはならない。ほとんどのものは551年の大地震で崩壊してしまった。

ローマ時代の遺構なら中東には程度の良いものが他にいくらでもある。やはり,ペトラではペトラ・オリジナルの建造物や周辺の荒々しい自然をじっくり見るほうがはるかに良い思い出になる。

列柱道路はまっすぐ伸びて「凱旋門」を通り現存する最大の石積み建造物である「カスール・アル・ヒント(神殿)」で終わる。凱旋門は残存する石柱からするとローマ建築によくみられる三連アーチの装飾門であったようだ。

凱旋門から先は聖域となっており,「カスール・アル・ヒント」は主神ドゥシャラに捧げられたものである。この先には遺跡内で唯一のレストランがあり,ここが見学の中間点といったところだ。

エル・ハビス博物館→山登り

レストランの周辺にはロバがたくさんつながれている。ここから「エド・ディル」までは長い登りになり,相当数の観光客はロバのお世話になるからだ。道路をはさんだ斜め向かいには岩窟墳墓をそのまま利用した「エル・ハビス博物館」がある。

ここは岩山の中腹に位置しているのでかなり眺めは良い。しかし,それも帰りの話になる。4人組は急な岩山の道を登り出す。道はワディ(涸れ川)に沿っている。かなりの部分は階段になっており,そこを人を乗せたロバが苦労しながら登っている。

気温は30度を越えているのは確かであるが,それほど暑さは感じない。登っている時も周辺の岩の芸術,それは人の手によるものもあれば,雨や砂漠の風が削ったものもあり,見ていて飽きない。

今日は400枚分のメモリーを用意しているけれど,残量が少し気になってくる。道のところどころには地元の女性たちが土産物を並べた小さな店を開いている。巨大な岩がころがり落ち,道を半分ふさいでいるようなところもある。そのような隙間を人を乗せたロバはすり抜けていく。

赤い岩山の谷はときには雄大な景色になり,そこを登る人間はいかにも小さい。谷間にはわずかな緑があり,それを求めて数頭の山羊がいる。昼間の時間帯は彼らも日陰でのんびり寝そべっている。

赤い岩の景色はまだまだ続くけれど,なんとなく岩山の頂上が近くなってきた感じがする。道の横は深い峡谷になっており落ちたらアウトだ。それでも怖いもの見たさに断崖をからのぞき込む。

40mほどの深さの谷があり,谷底には樹木の緑がある。こんなところでも岩肌をつたって流れるわずかな雨水を頼りに樹木が生き残っているのだ。

エド・ディル

視界が開けるとそこが「エド・ディル」であった。のんびり歩いてきたのでエル・カズネからここまで約3時間を要した。それでもまだ11:30,ゆっくりこの辺りを散策する時間はある。

この建造物は岩山を削り出して造ったものであるが,岩山の原型が分からないくらいに加工されている。前面が開けているので,個人的にはエル・カズネよりも明るい陽光の下で輝く「エド・ディル」の方が好きだ。

「エド・ディル」に近づいてみると下から4mくらいまでの壁面はやすりをかけられたように傷ついている。これは風が砂を飛ばして削ったものだろう。内部の空間はやはり何も無い。岩肌の模様以外は撮るものがないのはちょっと寂しい。

遺跡には不似合いな猫

「エド・ディル」の前はバラ色の砂が敷きつめられたような空き地になっており,地元の人たちが植えたと思われる植物が黄色の花を咲かせている。そこを遺跡には不似合いな猫が歩いており,思わず一枚撮ってしまった。

ビューポイント茶屋

「エド・ディル」から少し坂を登ると岩山の端に地元の人が造った二つのビューポイント茶屋がある。そこまで行くと周辺の荒々しい岩山の景色を眺めることができる。

ここで4人組は解散し,あとは可能ならば夕方にローマ劇場のあたりで集合することにした。やはり,このような景色は一人で見たほうがずっと印象に残る。

僕の立っているとこから急な崖が谷底まで続いており,向かい側には黒い巨大な岩山がそびえている。谷底には水あるのかわずかな緑が見える。

この風景を見ながらビスケットとリンゴ2個で昼食をとる。地元の少年二人が急な崖の斜面を駆け下りて行く。二人とも岩山の山羊のように身が軽い。水は1.5リットルを用意してきたのでまだ十分にある。岩の上に坐り,しばらくペトラの原風景を満喫する。

場所を移動し反対側の眺めを見に行く。こちら側は登ってきたときに覗いた深い峡谷があり,谷底には樹木が細い緑の帯になっている。その向こうは急峻な岩山が続いており,ペトラ中心部は岩山に囲まれた盆地のような地形になっていることがよく分かる。

山羊の風景

「エド・ディル」が正面に見えるところまで来ると,下の斜面を山羊の群れが一列になって下っていく。「エド・ディル」の前に簡易テントがあり,地元の人が山羊に餌を与えている。

山羊が丸くなって餌を食べている光景を周辺の観光客が写真に撮っている。これは別に観光客用のイベントというわけではない。僕も一枚撮らせてもらったが背後の「エド・ディル」と合わせてなかなかの絵になった。

下りの行程はさすがに楽だ。道の横にある「ライオン・トリクリニウム」はちょっと危険な崖の道を行かなければたどり着けないのであきらめた。人の形をした入口の下には確かにライオンと思われる動物のレリーフが見える。

道のところどころには植物を見ることができる。砂漠でよく見かけたイネ科の草だけではなく,樹木も生えている。この岩盤の隙間に根を下ろし,乏しい水をなんとか吸い上げて生き延びている植物の生命力には感心させられる。

エル・ハビズ博物館の前から

「エル・ハビズ博物館」の前まで下ってくるとあとはのんびり近場の見どころを回るだけである。博物館は岩山の中腹にあるので,テラスからは列柱道路から王家の墓のある岩山までを眺望することができる。ここは隠れたペトラのビューポイントである。

博物館のすぐ下にはワディの橋があり,その手前にはたくさんのロバが並んでいる。その向こうにはラクダも寝そべっている。さすがにラクダは「エド・ディル」まで登るのは無理なので,帰りの足になっているようだ。

地元の家族連れの人たちがひっきりなしにやってくるので,僕の坐っていたイスは女性に譲ることになった。手すりのある転落防止用の壁に坐って1時間を過ごしてしまった。小さな子どもが手すりのところまで上りたがっている。

これは危ないが,父親がしっかりつかんでいるので転落の心配はない。子どもはごきげんでいい笑顔を見せてくれたので写真をとることになった。母親もにこにこしながら見ている。

博物館の裏側に回り込む

右側の岩山にもたくさんの穴があり,本当にペトラはどこを歩いても岩山に穿たれた墳墓だらけである。博物館から下に降りようとすると,背後の岩山を回り込む道があることに気が付いた。うまくいくとローマ遺跡の上の岩山に出ることができるかもしれない。

この道は深い谷の上にあり,向かいの岩山の下にも道がある。谷の正面の岩山はやはり何段かに分かれて一列に穴が並んでいる。谷の底も多くの岩穴があり,ナバテア人はひたすら岩穴を掘っていたようだ。そんな谷底にも山羊の群れがおり,もしかして人が暮らしているのかもしれない。

と思っていたら目の前の洞窟の前に小さな花壇があった。葉の多いチューリップのような植物が芽を出している。周辺の岩山も穴だらけであり,中には遊牧民の生活道具が置かれているところもある。また,あるものは家畜小屋としても使用されているようだ。こうなると世界遺産も形無しだ。

道はうまい具合にローマ時代の遺跡の上に出た。下には「カスール・アル・ビント」の建物や列柱道路の北側の岩山がよく見える。ここからの眺めもなかなかのものだ。

南側はさすがに洞窟は少なくなっており,荒涼とした岩場の中を「Wadi Trugra」の道が伸びている。おそらく,この道をそのまま行くと行くと犠牲祭壇に出たかもしれないが,危険の看板があったので下りることにした。

王家の墓

ペトラ市街地の東側にあるクブタ山の下には多くの墳墓が一列に並んでいる。その中でも最も北側(向かって左)には「王家の墓」と呼ばれる4つの大きなものがあり,それぞれ「宮殿の墓」,「コリンシアンの墓」,「シルクの墓」,「アーンの墓」という名前がつけられている。

それぞれの名称はそこに葬られた貴人の名前からつけられたものではない。これらの最大級の墳墓してもよく分かっておらず,外観や出土品にちなんだ名前が付けられているにすぎない。

「宮殿の墓」は外観がローマ帝政期の宮殿建築を模したファザード(正面の造形)にちなんで宮殿とされている。三段構造のうち下2段は岩山を削って造られており,最上段は石組みを追加している。ペトラの墳墓の中では最も大きく,重要な葬祭に使用されていたと考えられている。

クブタ山は開けた土地に面しているため強い風が吹き付けるのか下部の4mほどはかなり砂嵐で削られている。左から二番目のものはファザードにコリント式の石柱が使用されているので「コリンシアンの墓」となっている。

三番目のものは内部の壁面が赤茶色と白色の波紋のような模様がシルクに似ているので「シルクの墓」となった。確かに壁面は大柄の模様が波打っている。赤茶色は酸化鉄,白色は石灰岩を含む地層の色である。

四番目はファザードの一番高いところに壺のような飾りがあることから「アーン(壺)の墓」と命名された。本体の手前に二段のアーチがあるが,これは新しい石組みで造られており,オリジナルのものかどうかは分からない。アーチの横に階段が付いており本体のところまで登ることができる。

いずれの墳墓も内部は小さな部屋をもつ空っぽの四角の空間となっており,細かく見る気にはならない。上のテラスから下を見るとちょうどロバに乗った少年と山羊の群れが見える。この世界遺産の中も彼らの生活空間であったのだ。

下にから見上げるこの岩山で上昇気流が生まれるのか,上空にはカラス大の黒い鳥が円を描くように舞っている。崖から染み出してくる水が流れるところには小さな植物園になっている。

犠牲祭壇の夕日

仮約束の通りローマ円形劇場の近くで待っていたら,僕を入れて3人が集まってきた。日本人一人は不明だ。メキシコ人ともう一人の日本人はこれから「犠牲祭壇」まで登って夕日を見に行くという。

すでに夕日の時間は迫っており,僕は気が進まなかったが二人に誘われてローマ劇場の手前にある狭い石段を登り始めた。しかし,ここは急な階段で急ぐ二人からはどんどん遅れる。まあ,行けるところまで行こうとペースを落とす。

上から下りてきたヨーロピアンはまだ30分ほど登ることになると教えてくれた。階段を登りきると道が分からなくなる。なんとなく踏み跡が続いているのでそちらに歩き出す。しかし,それらしいものはじきに無くなってしまう。

大きな岩と谷が連続しており,帰りの道が分からなくなりそうだ。目立つ大きな岩に登り犠牲祭壇はないことを確認し,そこであきらめることにした。先行した二人もどこにもいない。

夕日の時間帯まで待っているとペトラゲートに着く頃には真っ暗になってしまう。トーチは用意していないのでこれは下りたほうが賢明だと判断した。夕日前の写真を撮ってもと来た道を探し,ようやく階段を見つけることができた。

僕はまだ明るいうちに階段を下ることができた。しばらくすると日本人の連れが降りてきた。階段を登り切り右側の岩山を登った,メキシコ人は夕日をちゃんと撮るため残っていたという。すでに暗くなってきており,帰りを急がなければならない。とりあえず,エル・カズネで待つことにする。

エル・カズネは日が当たらないとずいぶん色彩が変わっている。今朝は朝日でバラ色に輝いていたのに,現在はくすんだ色になっている。シークの隙間からエル・カズネを撮ろうとするがやはり結果は芳しくなかった。ちょうどゲートに戻る観光客を乗せたラクダの一団がやってきたので写真にする。

それにしてもメキシコ人は戻ってこない。さすがに暗くなってきたのでペトラゲートまで戻ることにする。ゲートで30分ほど待っているとようやくトーチの灯りの一団とともにメキシコ人が戻ってきた。

帰りのタクシーは見つからないので宿までの2kmを歩くことにした。よく歩いたおかげで夕食のチキンはとてもおいしかったし,よく眠れた。遺跡と荒々しい自然が組み合わされたペトラは僕の訪問した中でも五本の指に入るほどすばらしい。


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