亜細亜の街角
二つの巨大帝国の首都として名前を変えてきた都市
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イスタンブール|東ローマ帝国時代  (地域地図を開く)

イスタンブールの人口は約900万人,トルコ共和国最大の都市であり経済の中心地でもあるこの街は,ボスポラス海峡をはさんでアジアとヨーロッパの2大陸にまたがる都市,あるいは2つの巨大帝国の首都として名前を変えてきた都市として知られている。

イスタンブールの歴史は古く,BC667年頃にマルマラ海と金角湾に囲まれた半島の先端(現在の旧市街にあたる)に設けられた古代ギリシアの植民都市ビュザンティオン(ビザンチウム)がその起源といわれている。

もっとも,それ以前に先住民族のトラキア人の都市があったという説もあり,都市の起源については定かではない。紀元前2世紀にローマ帝国の版図はギリシャから小アジアの沿岸にまで広がり,トラキア地域は紀元後2世紀にローマの支配下に入った。

その後,コンスタンティヌス1世の時代にローマ世界に二つの大きな出来事があった。一つは313年のミラノ勅令によるキリスト教の公認であり,もう一つは330年のビザンティウムへの遷都である。

この遷都は勢力を拡大しているササーン朝ペルシャの攻撃から地中海西岸の交易ルートを守るためのものであった。この遷都を機にビザンチウムはコンスタンチノープル(本来の名称はノウァ・ローマ)と呼ばれるようになった。

コンスタンティヌス皇帝の死後,北方のゲルマン人の侵入が激化し,ローマ帝国の屋台骨が揺らぐことになる。395年,テオドシウス1世は帝国を東西に分け二人の息子に統治させた。彼の意図は帝国の分割統治であったが,その後,ローマ帝国が再統一されることはなかった。

西ローマ帝国はゲルマン人に脅かされ,476年に滅亡する。しかし,東ローマ帝国(395年-1453年)は1000年以上も持続し,コンスタンチノープルは帝国の首都として繁栄を続けた。

ローマ帝国の東西分裂の前から教義の違いにより対立していたローマ教会(バチカン)とコンスタンチノープル教会は,帝国の分裂を機に互いに首座権を争そうようになった。

そのため,教義の解釈,典礼規範などが議論されるようになり,東西の教会はその後の数百年間かけて独自の道を歩むことになった。二つの教会は1054年に相互に相手方を破門する形で東西に分裂した。

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)において,コンスタンチノープルは地中海の東側世界の中心として繁栄し,コンスタンチノープル教会はギリシャ正教の中心教会となった。

ビザンツ帝国ではギリシャ文化の影響を強く受け,ローマ法を踏襲しつつも,宗教,文化は独自のものに変化していった。11世紀に入り,アナトリアにチュルク系民族が進出してきたセルジューク朝の時代にもビザンツ帝国はヨーロッパ側で命脈を保った。

しかし,聖地エルサレムを含む地域はイスラム教徒に占領されることになり,ビザンツ皇帝はアナトリアの領土奪回のためローマ教皇に対して援軍を要請し,1096年の第1回十字軍が編成されることになる。

ときのローマ教皇ウルバヌス2世は十字軍の参加者に対して免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。このため騎士たちはエルサレムへの途上にあるイスラム教徒支配下の都市を攻略し,虐殺,略奪を行なった。

十字軍はエルサレムの奪還に成功したものの,その後,200年間に渡りキリスト教徒とイスラム教徒の対立は続いた。それは,現代にもつながる「文明の衝突」の始まりであった。

イスタンブール|オスマン帝国からトルコ共和国時代

一方,アナトリアでは13世紀末にオスマン朝が勃興し,マルマラ海の南側に位置するプロウサ(現在のブルサ)を中心とするオスマン君侯国が築かれた。オスマン朝はここからヨーロッパ側とアジア側に版図を拡大し,14世紀中頃にはバルカン半島とアナトリアを支配下に置くようになった。

1453年,メフメト2世はコンスタンティノープルを攻略し,ここにビザンツ帝国は滅亡する。メフメト2世はただちにエディルネから遷都し,都市の名前もギリシア語に由来するイスタンブールに変わっていった。

オスマン朝の時代においてもイスタンブールは引き続き東地中海を支配する帝国の首都となった。街はイスラム風に改められ,アヤ・ソフィア大聖堂をはじめとする多くのキリスト教の教会がモスクに改装された。

現在のイスタンブールは「千のドームをもつ都」と形容されるように多くのモスクがひしめいている。マルマラ海から見る巨大なモスクを配した旧市街はイスタンブールを代表する風景となっている。

メフメト2世とスレイマニエ大帝に仕え,イスタンブールを現在のような街に造り上げたのがトルコ最大の建築家ミマル・シナン(シィナン)である。50歳で帝国の首席建築家に抜擢されたシナンは,100歳で亡くなるまでに多くの壮麗なモスクおよびモスクと病院,学校などを組み合わせた複合施設群を建設した。

また,水道を整備し,後のグランドバザールの前身となる屋根付きバザールを始めとする商業施設を建設して都市インフラを整備した。驚くべきことにこの天才建築家は図面無しで次々と壮大な建築物を世に送り出していったという。しかし,あのような建築物が彼一人の指示で建築できるわけはないので,おそらく大勢の優秀なスタッフが周辺にいたものと考えられる。

オスマン朝が衰退し,第一次世界大戦の敗戦国となり,帝国の領土は解体され,アラブ人居住地域は英仏の管理下に置かれた。チュルク系民族が多数を占めている現在のトルコ共和国の領土もいくつかに分割され,オスマンから切り離されようとしていた。

イスタンブールのオスマン政府は領土に関しては連合国のいいなりとなっていた。これに対して大きな危機感をいだいた軍関係者は,1919年にチュルク系住民が多数を占めるアナトリアとヨーロッパ側のトラキア(ルメリア)の領土保全を掲げるアナトリア・ルメリア権利擁護委員会を結成した。

この会議が開催されたのがエルズルムとスィワスであり,会議の主導権を握ったのは大戦中の英雄ムスタファ・ケマルであった。彼の主導によりアンカラ政府が設立され,オスマン帝国には二つの政府が並立することになった。

貧弱な装備の軍隊を率いてアルメニア,クルドそしてギリシャの軍隊と戦い,アナトリア擁護を実現したのである。そのため多くのトルコ軍人の血が流された。イスタンブール政府を代表するスルタン・メフメト6世はトルコの未曾有の災難に対してなす術をもたななかった。

1922年に建国の父アタチュルク(ムスタファ・ケマル)によりスルタン制は廃止され,オスマン帝国は消滅した。トルコ大国民議会は首都機能をアンカラに移し,トルコ共和国の建国を宣言した。しかし,共和国になってもイスタンブールは依然としてトルコの社会・経済・文化の中心都市として繁栄し,ボスポラス海峡の沿岸全域とマルマラ海沿岸の広い地域を含む大都市となった。

ボスポラス海峡はアジアとヨーロッパを隔てており,イスタンブールはアジアとヨーロッパにまたがった町となっている。またヨーロッパ側は金角湾により南西部の旧市街と北東部の新市街に分断されている。

そのため,現在のイスタンブール主要部は旧市街,新市街,アジア側という三つの地区から構成される。ビザンツ帝国やオスマン帝国の時代には町は旧市街に限定されており,歴史的建造物はほとんどこの地区に集中している。

ポアズカレ→アンカラ 移動

06時に起床,昨夜も着込んで寝たのに寒かった。この時期のハットゥシャシュは毛布一枚ではつらい。おまけに03時頃にはなぜか(ラマザーンのせいか)タイコの音が聞こえ,眠りが浅いせいもあり,目が覚めてしまった。

07時から昨日のパンにハチミツを塗っていただく。さすがに少し硬くなっている。荷物を持ってフロントに降り,宿代を清算してお茶(シャイ)をいただく。このホテルではお茶が無料なのでとてもありがたい。

スングルル行きのドルムシュ(乗り合い自動車)は08:30に出るとマスターが教えてくれた。確かにその時間に宿の前のちょっとした広場に車がやってきた。日本人3人分の荷物は屋根に上げられ,ロープで固定される。

ちょっと寄り道をしながらもドルムシュはスングルルの街中に到着した。ポアズカレに向かうタクシー代は30リラであったものが,帰りは2.5リラであった。もっともタクシーも帰りの客はほとんど期待できないので,往復料金を請求するのはあながち不当とはいえない。

スングルルの街で行き先を聞かれ,「アンカラ」と答えるとバス会社に連れて行ってくれた。そこで09:30発のアンカラ行きのチケット(10リラ)を買うと,1kmほど離れたオトガルまで送ってくれた。トルコのバス会社ではときどきこのようなサービスに出会うことがある。

小さなオトガルに到着して気が付いたことは,3日前に僕が降ろされたのはオトガルではなく,道路を挟んだ向かい側にあるレストランであった。イスタンブール行きのバスは定刻にやってきた。

このバスの終点が僕の次の目的地イスタンブールなのだが,日本人旅行者にガイドブックのコピーをさせてあげる約束があったので,アンカラで途中下車した。アンカラのオトガルは巨大であり,そこではコピーサービスも可能であった。

イスタンブール行きの深夜便のバスチケット(20リラ)を購入し,荷物は一時預かりに置いて,4階のロカンタで(ラマザーン期間中の日中なのに)昼食をとる。コーランにも旅行者や老人などはラマザーンの対象外とされているので,オトガルでは食事が可能である。

ロカンタとはできあいの料理を大きな容器に入れ,冷めないように弱火で暖めているものである。ここでは利用者が多いためか10種類以上の料理がステンレスの容器に入れられてビュッフェのように並べられている。煮込み系の料理はほとんどがトマトソース味で外れはない。

利用者はトレイにお皿を乗せて,注文すると料理を盛り付けてくれる。ラインの端にキャッシャーがあり,そこで会計をする。僕のトレイにはチキンと野菜の煮込みが乗せられ,料金は5.5リラとなった。

ほとんどの肉料理は同一値段であり,同じ分量ならば一皿に二種類の料理を盛り付けてもらうことも可能である。パンはテーブルの上のプラスチック容器の中に入っており,こちらは食べ放題である。

旅先では一人でレストランに入るのは料金と注文の心配をしなければならず,おっくうなものであるが,ロカンタでは現物の料理を指し示すだけでことが済み,かつ料金も安いので重宝した。

オトガルからアンカラの中心部までは地下鉄が通っている。近くの人に「メトロの駅はどこですか」とたずねると,「メトロ」という名前のバス会社に連れて行かれた。これには苦笑するしかない。

トルコの首都であり行政の中心地アンカラは人口360万人の大都市である。当然,各国の大使館はこの街にある。トルコから東に行くにしても,南に行くにしても,ここでは比較的簡単にビザを取得することができる。もっとも,イスタンブールにも各国の領事館が置かれているので,そちらでも同様にビザを取得することができる。

アンカラは市街地面積が2516km2の巨大な街である。東京23区が621km2,人口840万人なので,アンカラは面積で4倍,人口で半分以下ということになり,人口密度は1430人/km と東京23区の1/10である。

この人口密度は都市国家を除くと世界でもっとも人口密度の高いバングラデシュ(985人/km)の1.5倍程度である。ちなみに,イスタンブールは面積5712km2,人口900万人なので人口密度は1575人/km2とこちらも低い数値である。

アナトリア文明博物館を見学しイスタンブールに移動する

アンカラの街は広大ではあるが,見どころは少ないので旅行人の地図でも7km四方の広域図しか掲載されていない。これで歩くのはちょっと難しい。アンカラ駅の近くで地下鉄を降り,4kmほど離れたアナトリア文明博物館に行くまでに,4回も道を聞くことになった。

この博物館にはアナトリア地域から出土した旧石器時代からローマ時代までの文物が展示してあり,ハティ,ヒッタイト,ウラルトゥなど僕が訪問してきた地域のものが多い。ここはトルコで最も充実した博物館とされており,1997年のヨーロッパ博物館賞を受賞している。

多くの出土品は土器や石碑,レリーフなので,それらは写真撮影可能となっているのもありがたい。とはいってもぼう大なコレクションを見ることになり,ヒッタイトやハティに的を絞っても,覚えきれるものではない。

この博物館の入場料は10リラ(900円)と決して安くはない。しかし,アナトリアの文明に興味のある人にとってはまさしく宝の山であろう。僕も2時間をかけて十分に展示物を見させてもらった。

ハットゥシャシュの遺跡ではほとんど見ることのできなかったヒッタイトのレリーフや石像を見ることができたので,アンカラでの途中下車は正解であった。
アンカラのオトガルに戻り夕食のテーブルで日記を書く。幸いテレビではトルコチームの出場している国際試合が放送されており,多くの人々がテーブルに坐っているので,僕の日記作業は目立たない。

出発の1時間前になると2階に降りて,No.115のブースをチェックする。まだ,バスは入線していない。30分前になるとブースの前で待機する。僕の乗るべきイスタンブール行きのバスはNo.113に到着し,ちょっとあわてることになる。

23:30出発なので乗車したらすぐに寝る体勢となる。ウトウト状態であるがそれなりに寝ることができた。途中のドライブインではリンゴを買おうとして値段を聞くと1個1リラである。

高過ぎるのでもとの場所に戻すと,売り場のおじさんは気の毒に思ったのか,売り物にならないちょっと傷んだものをくれた。それは日本のおいしいリンゴを食べ慣れている僕にもおいしく感じられた。

ツリー・オブ・ライフ

イスタンブールのオトガルには05:30に到着した。ここも巨大なバスターミナルになっている。しかし,アンカラのように待合室はどこにもない。まだ地下鉄も動いていない時間なので市バスの狭い待合室でしばらく待つことにする。

ラマザーンのおかげなのか,早朝の地下鉄とトラム(路面電車)はどちらも無料であった。イスタンブールのトラムは近代的な車両で10-15分間隔でヨーロッパ側を横断するように走っているので利用価値は高い。

チェンベルリタシュで下車したのに歩いて3分の「tree of life」を見つけるのに30分もかかってしまった。立派な拡大地図があるというのに,一つ向こうの通りを探すとはため息がでる。

ツリー・オブ・ライフの入り口のドアは通常閉鎖されており,呼び鈴を鳴らすと,上の階からチェックが入り,旅行者であればガチャッという音がしてロックが外れる。この間の手順は日本語で書かれているので,外国人の宿泊は難しいであろう。

ツリー・オブ・ライフは日本人が多い,というよりはほとんど日本人用の安宿である。それでも2段ベッドのドミトリーが12リラとトルコの他の町に比べてずいぶん高い。しかし,イスタンブールではしかたがない料金のようだ。

この頃のトルコ経済は絶好調で,リラの対ドルレートも物価もかなり高い状態であった。2008年の世界金融危機のあとならばかなり安く旅行できる。僕の部屋には二段ベッドが5つあり,ほとんど満員状態である。到着時もベッドの空きがなくて,しばらく待機することになった。

ここでは半分くらいがセルフサービスになっており,チェックアウトするときにシーツなどを洗濯物入れに入れるのがルールである。管理人の日本人女性が新しいシーツ,掛け布団カバー,枕カバーを届けてくれる。

それらをセッティングして自分のベッドが出来上がる。ちょうど良い気候だったので,暑くもなく快適に過ごすことができた。もっとも,天候が悪くなると日本の晩秋のような気温に変わってしまった。

この宿は日本人旅行者が管理人をしており,自炊ができるし,日本語のガイドブック,小説,マンガが数多く置かれている。このような環境に恵まれているため長期滞在者も多い。

夕食は管理人さんとボランティアが作ってくれることがあり,そのようなときは参加させてもらった。ネット上ではいろいろと賛否両論のある宿であるが,管理ルールもしっかりしており,宿泊客のマナーも(少なくとも僕の滞在中は)良かった。立地条件のよさもあり,個人的には居心地のよいところであった。

トラムで新市街に向かう

イスタンブールでは次の訪問地であるシリアのビザを取得する必要がある。そのためには事前に日本大使館のレターをもらわなければならない。領事館は金角湾を渡ったタクシィム広場の近くにある(とガイドブックに記されていた)。

実は宿のドアには「日本領事館が移転した」という情報が掲示されていたのに気が付かなかった。トラム通りに出ると目の前に立派なモスク(トルコではジャーミィ)が目に入る。

他の町なら立派な観光資源になるはずであるが,イスタンブールにはこのようなモスクは多数あるので,特別なものには数えられない。電線に止まったたくさんの鳩と一緒に写真にする。

トルコのモスクはというよりオスマン時代のモスクは周辺国のものに比べてだいぶ変わっている。ミナレットは高さに比べて非常に細く,よく「エンピツのような」と形容される。ミナレットは1本,2本,4本,6本といくつかのパターンがあり,1本のものが多いようだ。

モスク本体は中央の大ドームを周囲の小ドームが囲む構成になっており,小ドームが競りあがって大ドームに連なるような印象を受ける。このような特異な構造のモスクが生まれたのはビザンツ帝国の遺産である「アヤ・ソフィア」の影響であろう。

ビザンツ建築の最高傑作とされるアヤソフィアが現在のような大きなドームをもつ巨大な聖堂となったのは537年である。360年に最初の聖堂が建てられてから,アヤソフィアは東方正教会(ギリシャ正教)の首座教会として君臨してきた。

アヤソフィアは中央の大ドームを周辺の小ドームや半ドームで支えることで,柱のない広大な内部空間をもつ形式を生み出した。この聖堂がオスマンのモスク建築の基本となったようだ。

オスマンの時代にアヤソフィアはモスクに改修された。聖堂本体の外観には手を付けず,周囲に4本のミナレットを配置し,内部のキリスト教関連のフレスコ画を漆くいで塗りつぶした。

現在のアヤソフィアは外壁の色を除くと,オスマン建築といってもそれほど違和感がない。オスマンの全盛期に多くの著名なモスクを建設したミマール・ソィナンも,アヤソフィアを越える大ドームを造ることを生涯の目標としていた。

トルコのサッカー事情

トラムはイスタンブール旧市街を横断し,金角湾にかかるガラタ橋の上を渡り,新市街のカバタシュまでつながっている。カバタシュで下車し,急勾配の坂道を登ると新市街の中心部である「タクスィム広場」に出る。

坂道を登り始めるあたりに立派な競技場が見える。グランド部分が道路よりかなり低いところにあるので,芝生の一部と観客席がよく見える。おそらくサッカー・スタディアムであろう。

ヨーロッパの一員を自称するトルコは(ヨーロッパと同じくらいに)サーカーが盛んであり,Jリーグと同様にトルコ・リーグがあり,優勝チームや上位チームはUEFAチャンピオンズリーグやUEFAカップに参加することができる。少なくともサッカーの世界においてはトルコはEUの一員となっている。

軍が守る共和国と民主主義

タクスィム広場に近づくとひどい交通渋滞となっている。警察もしくは軍関係者のパレードが行われており,そのための交通規制が敷かれている。トルコでは共和国成立時に外国軍(アルメニア,ギリシャ)との戦いで多くの軍人の血が流された。

共和国創建時の役割から軍は共和国の守護者を自認しており,多くの政治的な場面で口を挟んでいる。特に国是である政教分離(世俗主義)については強い姿勢を貫いている。それが表面化しているのが「女子大生のスカーフ着用問題」である。

世俗主義はトルコ共和国の国是であり,女性のスカーフの着用は宗教的行為にあたるとして,公共の施設におけるスカーフの着用は禁止されている。

1989年に大学キャンパスにおけるスカーフ着用を認める法律が制定されたが,憲法裁判所はこの法律を違法とする判断を下しており,これが現在まで続いている。

2008年になってこの問題が再び蒸し返されようとしている。政権を担っている公正発展党の前身政党は世俗主義に反すると解党されられた経歴をもっており,今回の問題でも同様の警告が発せられている。

現政権は宗教的に保守的な家庭の子女がスカーフ着用の禁止により教育の機会を奪われることのないようにしたいという理由を挙げているが,世俗主義勢力は大学を突破口にして公共の施設におけるスカーフ着用を解禁しようとしていると警戒感を隠していない。

トルコ共和国の場合,建国の父と称されるアタチュルク初代大統領はイスラム的なものがトルコ近代化の最大の障害になってきたことを痛感しており,世俗主義を国是とした。彼はオスマン的あるいはイスラム的なものを排除するため,男性のフェズ帽を禁止し,公共の場におけるスカーフの着用を禁止した。

600年間にもおよぶオスマン帝国の政教一体型国家からヨーロッパ型の近代国家への移行は,明治維新を経験した日本人が想像するより難事業であった。

日本の旧政権にあたる徳川幕府においては,少なくとも政教分離は一定の範囲で実現されていたし,仏教や神道が人々の生活を制限する要素は(相対的に)少なかった。また,立憲君主国として新しい権力の受け皿もあらかじめかなりはっきりしていた。

建国当時の政治体制はアタチュルクの志向する急激な変革にまとまっていたわけではない。軍人出身のアタチュルクが近代化革命の拠り所にしたのが軍の力であった。

軍はオスマン帝国の時代から近代化された組織となっており,アタチュルクは急激な改革に反対する将軍を軍から排除して,アタチュルク革命を遂行するための組織とした。

軍の力によりアタチュルクに対する反対勢力は排除された。また,軍はアタチュルク革命思想を国家の末端にまで浸透させる役割を果たし,その結果,「軍は国民の先頭に立つ指導者である」という強烈な護国意識をもつようになった。

アタチュルクの創設した共和国人民党が一党独裁から複数政党制に移行した後も,軍はアタチュルク思想の擁護者として,政党の解散やクーデターに関与している。

しかし,軍事政権が生まれることはなく,軍はあくまでもアタチュルクの志向した共和国の守護者としてふるまっている。それに対してトルコ国民も一定の理解を示すという不思議な体制(軍が守る共和国と民主主義)になっている。

軍部と歩調を合わせ司法・学界などは世俗主義を擁護しており,検察当局は公正発展党が政教分離の原則に反しイスラム主義的な行動を支持しているのは違憲だとして提訴している。

2008年7月に憲法裁判所は審理に入り,公正発展党のイスラーム顕在化路線が憲法に定められた世俗主義原則に違反するという判断が下されたものの,党の解散には至らなかった。今後もイスラム的なものを求める民衆と世俗主義を墨守する勢力の綱引きは続くであろう。

宗教の中に政治体制,社会体制を規定する内容を内在させているイスラム教を主要な宗教とする国家における初めての政教分離の実験は今後も紆余曲折が予測される。

タクスィム広場

新市街の中心部にあるタクスィム広場はガラタ塔の近くから出ているトラムの終点になっている。終点といっても車庫のような施設は無く,トラムは共和国記念碑の回りを一周してもとの線路を戻っていくようになっている。

この電車は旧市街を走る新しい車体に比べると,おとぎ電車のような風情があり,観光客もさかんに写真を撮っている。トラムの線路に囲まれた区域は共和国記念碑の立つ公園のようになっており,その東側には北東に向かうメトロの駅がある。

共和国記念碑の回りには花輪が飾られている。1922年8月30日はスミナル市の陥落により独立戦争(対ギリシャ戦争)の帰趨が明らかになった戦勝記念日となっている。今年も8月30日にはこの広場で式典が行われたことであろう。

花輪はそのときのものと推定されるが,9月中旬になっても撤去されていない。高さ5mほどの基壇の上に四本の柱で支えられた記念碑の正面にはアタチュルクと軍人たちの像があり,アナトリアの領土保全と共和国成立の記念碑となっている。

新市街だけあって広場の周辺には近代的な建物が多いが,中にはオスマン時代の建物があり,新しい建物と不思議に調和している。大きなドームが一つ,比較的太い角型の二本の塔という構成の建物であったので,ちょっと変わった形状のモスクと思っていた。別の日に見に行くとここはギリシャ正教の教会であった。

広場から見て,この建物の手前はドネル(回転)・ケバブ(あぶり肉)屋になっている。ドネル・ケバブは少し厚手にスライスされた肉を鉄串に刺して何層にも積み上げ,大きな固まりにしたものを専用のケバブ・ロースターで回転させながらあぶり焼きにしたものである。

肉はマトン,ビーフ,チキンが使用される。表面が焼き上がると,長いナイフで削ぎ落とし小ぶりのフランスパンに挟んで食べる,トルコ風のファスト・フードである。この店の上には「トルコ風ドネル」と同時に「ハンバーガー」という表示があった。

共和国記念碑の東側には「アタチュルク文化センター」の巨大なビルがあり,記念碑を含む広場を見下ろしている。ここはイスタンブール国立オペラ・バレエ団およびイスタンブール国立劇団の本拠地として利用されており,おそらくトルコ隋一の文化施設であろう。

日本領事館は移転していた

さて,日本総領事館は広場の少し手前にあるはずがどうしても見つからない。実は少し前に地下鉄レベント駅の近くにあるタクフェン・タワーに移転していた。この情報は宿のドアに貼ってあったのに,僕は気が付かずにだいぶ時間をロスしてしまった。

ドルマバフチェ宮殿

日本総領事館の探索はあきらめてボスポラス海峡に面した海岸通りまで降りていく。タクスィム広場の周辺はある程度平坦な地形になっているが,そこから海岸までは階段が必要なほどの坂になっている。

海岸通りはガラタ橋からボスポラス海峡沿いにボスポラス大橋の下を通り第二ボスポラス大橋まで続いている。この全長30km,最も狭いところで800mの海峡は北側の黒海と南側のマルマラ海を結んでおり,それは同時に東のアジアと西のヨーロッパを分断している。

この海峡には二本の吊り橋がかけられており,それぞれ第一,第二ボスポラス大橋と呼ばれている。このうち1988年に完成した第二大橋(全長1090m)は日本のODAを活用として建設された。

また,2012年開通予定で日本の大成建設グループにより全長13.7kmの海底トンネルの建設が進められている。この海底トンネルは全長約54kmの青函トンネルに比べるとはるかに短く,ボスポラス海峡がいかに狭いかが実感できる。

海岸通りを少し北東に歩くと海峡に面したドルマバフチェ宮殿がある。ドルマバフチェとは「埋め立てられた庭」を意味しており,15世紀に海岸を埋め立てて庭園が造成された。19世紀にその庭園建築物を取り壊して,新しいヨーロッパとオスマンの折衷様式の宮殿として建造された。

本来のトプカプ宮殿が老朽化したこともあり,帝国の末期には王宮として使用された。共和国成立後はアタチュルク大統領がここで執務を行い,ここで亡くなった。

285もの部屋をもつ巨大な宮殿は,現在は観光客に有料で開放されている。この宮殿の陸側の門は壮麗であるが,建物の見るなら海からの方がずっと良い。イスタンブールでは有料の施設にはほとんど入らなかったので絢爛豪華とされる内部の写真は紹介できない。

ボスポラス海峡を眺めるカフェ

宮殿横の海岸の一部は一般に開放されており,護岸を利用したオープンのカフェが営業している。ここからはボスポラス海峡を眺めながらお茶を楽しむことができる。

海峡を渡りアジア側に向かう

ボスポラス海峡のヨーロッパ側には旧市街にエミュノニュ,新市街にカラキョイ,カバタシュ,ベシュクタシュなどいくつかの船着場があり,そこからアジア側に連絡船(水上バス)が出ている。

料金は1.3リラ(120円)程度である。これは陸上のトラムやメトロとほぼ同じ値段である。この連絡船を利用すると,海上からのイタンブールの風景を眺めることができる。個人的には高い料金のボスポラス・クルーズよりこちらの方がずっとお勧めである。

特にガラタ橋のとなりにあるエミュノニュに向かう船から見る,金角湾に面した旧市街の風景は絶景である。もちろんガラタ橋の上からでも同じアングルの写真を撮ることができるが,船の場合はガラタ橋を前景とした景色を楽しむことができる。

ドルマバフチェ宮殿からカバタシュに戻り,ここからアジア側のウシュクダラに船で移動する。連絡船の便数はけっこう多く,1時間に1本くらいで出ているので待ち時間はそれほど長くはない。

たいていの船はデッキが二層になっており,上部は屋根付きのオープンデッキとなっている。当然,写真を撮るなら上部デッキの方がよい。

この港からは複数の行き先があるようだが,トルコ語で行き先表示があり,迷うことはない。船が動き出すと先ほど門だけを見たドルマバフチェ宮殿の全貌が見えるようになる。さすがに285もの部屋をもつ宮殿は,その大きさに圧倒される。

この宮殿の向かって左側には,宮殿と同じように海岸に面した二本ミナレットのドルマバフチェ・ジャーミィが立っている。初期のオスマン様式にあるように大ドーム一つだけのシンプルなものである。これはゴシックの影響を受けたオスマン後期のものであろう。

しかし,背後には新市街の高層ビルがそびえており,構図のジャマをしている。特に青色のビルはジャーミィと宮殿の間にあるため,どうしてもいくつかの写真に入ってしまった。

ボスポラス海峡の中ほどになるとボスポラス大橋が見える。橋の長さは横浜ベイブリッジ(全長860m)より200mほど長い程度のものであり,世界最長のつり橋である明石海峡大橋(3911m)とは比べようもない。

ヨーロッパとアジアは本州と淡路島よりずっと近接しているということである。肝心な写真は,海峡全体が軽いもやがかかったようになっており,写りはよくない。

反対側には旧市街の台形状の地形の上部にトプカプ宮殿や巨大モスクのドームや細いミナレットが見える。この風景もイスタンブールを代表するものであるが,残念ながら距離があり過ぎる。

新市街全体が見えると,いくつもの超高層ビルが視界に入る。日本の定義では高さ31m(だいたい11階相当)を越えるものを高層ビル,100m(およそ30階,法令では60mとされているものもある)を越えると超高層ビルとされている。

ここでも周辺のビルが11階程度なのに,それらよりはるかに高い超高層ビルが立ち並ぶと街の景観がずいぶん変わってしまう。

日本人にも知られているユスキュダル

船が到着したユスキュダルは60歳以上の日本人には記憶に残っている人も多いと思う。1954年に江利チエミさんが「ウスクダラ」のタイトルでヒットさせている。トルコ語の発音は「ユスキュダル」であり,元歌はトルコでは誰でも知っている民謡である。

ドルムシュでハイダル・パシャ駅まで移動する

僕の目的地はここから3kmほど離れたハイダルパシャ駅なので船着場の外に待機しているドルムシュ(乗合自動車,いちおう決められた路線を走り,どこでも乗り降り自由)に乗って,駅の近くで降ろしてもらった。

ドルムシュの路線はたくさんあるので,駅のようにはっきり分かる行き先を告げないと外国人の利用は難しい。ドルムシュの料金も1.2リラであり,この街の公共交通は一様にこのあたりの料金であった。

ハイダルパシャ駅

ハイダルパシャ駅はトルコ国有鉄道(TCDD)のアジア側の起点である。TCDDはトルコ国内の主要都市を結んでおり,路線の総延長は10,940kmである。しかし,便数が少ないこととバスよりも運行時間が長いことから,旅客輸送の主役はバスになっている。

鉄道線路をまたぐ陸橋の上にからハイダルパシャ駅が見える。ここには10数本もの線路が並んでおり,そのほとんどが列車により埋まっている。この駅はオスマン帝国の末期にドイツ資本により建設された。

第一次世界大戦直前のこの時期,ドイツはベルリンとバクダードを結ぶ鉄道計画をもっており,これにより英国の支配するスエズ運河を迂回する形でヨーロッパと西アジア間の貿易経路を確保する戦略を描いていた。

マルマラ海に突き出した小さな半島のようなところに駅舎を建設するため,柔らかい湿地に1100本もの木の杭を打ち込み整地が行われた。

この工法はイタリアのベニスと同じものであり,杭と泥との摩擦により上部の荷重を支えようとするものである。木の杭はすぐに腐ってしまうと心配される方もいるだろうが,これが酸素が少ない塩水の環境では簡単には腐らないという。

駅舎の左側にはマルマラ海がわずかに覗いており,その手前に二本のミナレットをもつジャーミィがある。細いミナレットは建物本体に比べて2倍以上の高さをもっているので,近くからは全貌の写真は撮りづらい。

駅舎の裏側にも入り口があり,TCDDの看板がある。青い鷲のシンボルに赤い月と星をあしらったロゴはいかにもトルコらしい。駅舎の内部は壁画や天井画に飾られており,柱とアーチにより仕切られた空間はちょっとした宮殿のような趣である。

アジア側の起点とはいっても発着便数が少ないためか,チケットの窓口は空いており,ベンチ型のイスに坐っている人もそう多くはない。駅舎から外に出ると目の前にマルマラ海が広がっている。

護岸には釣り上げられたエイが放置されている

防波堤の上にはなぜか気球の基地がある

ハイダルパシャ駅は周辺の海岸線に対して突き出した場所に建てられており,三方は海になっている。左半分は防波堤に囲まれており,そこにはなぜか気球の基地がある。陸橋の上から見たときは上にあったが,現在は基地に固定されている。

ハイダルパシャ駅からエミノニュに船で戻る

駅の前は船着場になっており,近くの岩礁にはウミウが羽を休めている。周囲の景色を十分に見せてもらい,ここから連絡船で旧市街のエミノニュまで戻ることにする。

船はやはり上下二層のものである。船が動き出すと巨大な駅舎と突き出した地形がフレームの中に納められるようになる。ハイダルパシャ駅は海から見るともっとも美しく見えるように設計されている。

マルマラ海を挟んで旧市街の丘に立つトプカプ宮殿が見える。宮殿はそれほど高い建物はないので平坦な景色になってしまう。船は金角湾により半島状になっている旧市街を回り込むようにして金角湾に入る。

新市街の海岸には豪華客船が停泊している。このような客船で1週間ほどクルージングすると料金は5000$くらいは覚悟しなければならない。バックパッカーの僕にとっては物価の高いトルコでも3-4ヶ月分の旅費に相当するのでとても利用する気にはならない。

船はガラタ橋をくぐり旧市街のエミノニュに到着する

船がガラタ橋に近づくと橋の背後に旧市街の丘をうめるたくさんのビルや赤い瓦の家屋から抜け出すようにイェニ・ジャーミィ,リュステム・パシャ・ジャーミィ,シュレイマニュエ・ジャーミィの三つの大ドームとミナレットを見ることができる。

もっとも,そのような著名なジャーミィ以外にも多くのドームがひしめいており,「千のドームをもつ」というイスタンブールが実感できる。ガラタ橋の上をちょうどトラムが走っており,これも絵になる風景になる。

船がガラタ橋の下をくぐり,その向こう側に出ると,旧市街の風景が視界いっぱいに広がる。半島のようにマルマラ海に突き出た旧市街は台形状の地形となっており,海岸から最上部の台地まで高低差があるので,多くのドームとミナレットがひしめく一級品の風景が一望できる。

その風景が船の動きに合わせて,次第に近づいてくるのはちょっと感動ものである。個人的にはこの風景を見るためイスタンブールにやってきたと言っても過言ではない。

惜しむらくは空気の透明感が不足しており,写真のできは満足できるものではない。船はゆっくりとガラタ橋の横の護岸に接岸した。

名物のサバサンドをいただく

船がエミノニュの船着場に到着する。船着場の近くには名物のサバサンドを売るゴンドラのような船が浮かんでおり,護岸にはテーブルとイスが並べられている。テーブルに着くと少年が注文を取りに来る。

このエミノニュの名物ともいうべきサバサンドが2004年から2007年にかけて禁止されたことがある。船の上で調理することから衛生上の問題がある,あるいはイスタンブールの歴史的景観を損なっているというというのが理由のようだが,この時期にイスタンブールを訪問してサバサンドを賞味できなかった人たちは気の毒だ。

鉄板で焼かれたサバの半身をトルコ風のパンに挟んだサンドイッチは3リラ,久しぶりに魚を食べたせいかとてもおいしい。サバのようにクセの強い魚をサンドイッチの具材にするのは,日本人にはとても考えられない発想であるがその意外な組み合わせがおいしいことに驚く。

調理は船の上で行われており,波が来るたびに小舟はよく揺れる。その揺れにタイミングを合わせておじさんが手を伸ばしてサンドイッチを差し出す。ガラタ橋の近くにはオーブンでサバを焼くサンドイッチ屋があり,別の日にいただいてみたら,こちらもほぼ同じ味であった。

エミノニュからの風景

昼食が済んだので周辺の風景を見ることにする。ここからは金角湾を挟んで正面にガラタ塔がそびえる新市街の風景が見える。ガラタ塔がないとただの新しいビルの並ぶ,なんの変哲も無い風景に過ぎないが,一つの古い塔があるだけでまったく別の印象を受ける。

ガラタ橋は上下二層になっており,下はほとんど商店街になっている。上部はトラムと車の道路になっており,両側は歩行者用道路になっている。

視線を背後の旧市街に巡らすと左には目の前にイェニ・ジャーミーが大きな姿を見せている。陸上からでは距離が足りないので全景を納めるのは難しい。

イスタンブールの中心部は建物が立て込んでいるため,大きな建造物の全景を撮るのに苦労した。リュステム・パシャ・ジャーミィ,シュレイマニュエ・ジャーミィもガラタ橋から海越しにしなければきれいな構図に納まらない。


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