亜細亜の街角
モスク三昧の日々を過ごす
Home 亜細亜の街角 | Istanbur / Turkey / Oct 2007

イェニ・ジャーミィ  (参照地図を開く) (地域地図を開く)

エミノニュ埠頭のすぐ前にイェニ・ジャーミィが大きな姿を見せている。護岸の辺りからでは距離が不足しており,バランスの取れた写真にはならない。

やはり,金角湾から見るイェニ・ジャーミィ姿がもっとも均整がとれている。このモスクに限らず旧市街のモスクは本体の大きさに比べて周辺の空間が小さいので写真にはどれも苦労した。

ジャーミィの前の広場には鳩がたくさん群れており,「鳩のモスク」とも呼ばれている。トルコでは鳩は食材にならないのか,鳩たちは人をたいして怖がっていない。

イスタンブールで最初のモスク訪問はイェニ・ジャーミィとなった。トルコでは異教徒でも(肌を過度に露出した服装でなければ)モスクに入ることに問題は無い。僕は半袖のポロシャツとジーンズ姿であったが,どこでも何も言われなかった。

しかし,モスクが礼拝の場であることは忘れてはならない。大きな声で話したり,礼拝をしている人の前を横切る行為は礼を失したものとなる。また,フラッシュを使用して写真を撮ることも好ましくない。もちろん,モスクの内部は土足厳禁なのは言うまでもない。

オスマン様式のモスクはその国力の増大とともに大きくかつ複雑な構造のものに変化していった。14世紀にイズニックに建設されたイェシル・ジャーミィは建物本体の上に大ドームを一個乗せただけのシンプルなものであった。これはセルジューク朝のものと類似している。

ミナレットもエルズルムのチフテ・ミナーレ神学校のようにイラン風の鍾乳石飾り(スタラタイト)が施されており,15世紀以降にイスタンブールの旧市街に建設された大モスクに比べるとまったく別物といえる。

イスタンブール陥落前までは帝国の都であったエディルネには15世紀の前半に建設されたウチュ・セレフェリ・ジャーミィがある。このモスクはダマスカスにあるウマイヤド・モスクと同様にメッカの方角に敷地幅いっぱいの礼拝堂とその反対側に回廊付きの中庭をもつ形式のものであった。

この時点でもオスマンのモスク建築様式は,イスタンブールのものとはまったく異なっている。一般にイスラムのモスクは外側に向かって威容を誇ろうとはしないものが多い。

それに対して,ビザンツ帝国の最高傑作であるアヤ・ソフィアは複数ドーム建築であり,外部に対してキリスト教宗教建築の偉大さを示すものであった。

イスタンブールを征服したオスマンの人々もこの建築物に驚嘆したことであろう。その結果,イスタンブールに建設された数多くのモスクはアヤ・ソフィアを基本とするようになった。

建築家は中央の大ドームを前後の半ドームで挟み,左右には小ドームを配置するオスマン様式に発展させた。また細いミナレットもオスマン様式の特徴となっている。

もちろん,これはオスマン様式の基本形であり,実際の建造物には大ドームを取り巻くように数多くの飾り用の小ドームを配している。1597年に建設されたイェニ・ジャーミィは大ドームを前後および左右の半ドームで支える構造となっており,それにより広い空間を確保している。

メッカの方向である南東に大ドームを含む礼拝堂本体があり,その反対側に柱廊に囲まれた中庭がある構成である。

しかし,外から見る限り,このモスクの庭部分は一段低い平屋のような構造の建物に見える。実際に中に入ってみると,普通の柱廊付きの中庭になっており,その中心には手足を洗う水場も設けられている。

モスクの内部空間は意外に明るかった。メッカの方角にある半ドームの壁面にはステンドグラスを使用した数多くの窓が取り付けられており,閉鎖空間の礼拝堂としてはとても明るい。左右の壁面にも数は少ないものの同じように明り取りの窓が設けられている。

構造としては中央に大ドームを頂く広い空間があり,その奥にキリスト教の教会における後陣に相当する,ミフラーブを含む空間がつながっている。大ドームを支える四本の柱もそれほど巨大ではなく,礼拝堂全体の空間の一体性を損ねていない。

観光客の多いエミノニュのモスクらしく,大ドームの下あたりに低い柵が置かれており,そこから先は異教徒は入れないようになっている。その上にはたくさんの電球が取り付けられた大きな円形の照明器具が大ドームの天井から吊るされている。この照明器具はほとんどのモスクで見かけた。

床は一面に同一柄のじゅうたんで覆われている。この柄の一つが礼拝時の一人分のスペースになる。じゅうたんの柄はアーチ型の門のものが多いけれど,ここのものは植物を題材にしている。

イスタンブールのモスクでは礼拝堂内部を飾る装飾タイルに注意を払う必要がある。オスマン様式のモスクでは中庭や外壁はほとんど装飾はなく,その代わり礼拝堂の内部は全面が装飾タイルで飾られており,光溢れる壮麗な空間を作り出している。

もっとも,この後に訪問したリュステム・パシャ・ジャーミーは「装飾タイルの宝石箱」とも呼ばれており,タイルについてはそちらで説明することにする。

再びスカーフ問題

イェニ・ジャーミィの中庭には20人ほどの女性が集まっている。彼女たちは一様に大きなスカーフを被り,コートを着ていた。もちろん,ここは宗教施設なのでスカーフの着用は必要となっている。

前のページではトルコの大学における女子学生のスカーフ着用を認める法律と世俗主義について書いたが,それと逆の問題がヨーロッパで発生している。

女性の頭部を覆うスカーフあるいはヘジャブはイスラム慣習の象徴としてとらえられており,キリスト教国家においてもフランスの公立学校におけるスカーフ着用の是非,カナダの少年サッカーにおける選手のヘジャブ着用の是非などいくつかの問題が発生している。

言ってみれば小さな文明の衝突である。自由の国を標榜しているフランスは1946年制定の第4共和制憲法で「フランスは不可分の非宗教的,民主的かつ社会的な共和国」と規定された。この内容は現行憲法(第5共和制憲法)に引き継がれている。

思想,信条,宗教の自由は基本的人権で保障されたものである。異なった宗教や考え方の人々から成り立つ国家において,人々が共存していくためには,公共の場においては宗教的なものに対して一定の制限が必要であるというのが憲法の考え方である。

それは,個人の自由と社会的な共存をどのようにバランスさせていくかという基本問題に対してフランスが選択した解である。この考え方はフランス国民の大多数がキリスト教徒であった時期には問題はなかった。

ところが旧植民地からの移民の増加が社会的な摩擦を引き起こすようになった。彼らの多くはイスラム教徒であり,家庭あるいはイスラム地域社会の宗教的慣習により女性の多くはスカーフを着用している。

街を歩く女性がスカーフを被るのは個人の自由としてなんの問題もないが,学校のような公共の場でスカーフを着用するのは行き過ぎた宗教的アピールになるとされ,2004年に「公立小・中学校,高校において非宗教性の原則を適用する法律」が制定された。

現在,フランスにおけるイスラム教徒は約500万人に達し,人口(6000万人)の一割に迫ろうとしている。移民に対して寛容であったフランスは,フランス国籍を取得した新しいフランス人に対して社会に同化することを暗黙の了解として求めてきた。その前提が揺らいできたことへの警戒感を「スカーフ禁止法」の中に見ることができる。

フランスにおけるこの線引きを人権侵害とみる向きもあるが,個人的には宗教の名の下に女性の服装に(男性の側からみた身勝手な理由から)大きな制約をもたせることの方が人権侵害にあたると考えたい。スカーフを被らなければ正しいイスラム教徒ではないなどという宗教的な抑圧こそが根源的な問題であろう。

人々が宗教や中世の慣習などにから解放され,それぞれの自由意志で服装や職業,結婚などが選択できる社会が実現されるまでは,フランスのスカーフ規制は一定の意味をもつものと理解できる。

参考までに欧州人権条約第9条(思想,良心および信教の自由)にはつぎのように規定されている。

1 すべての者は,思想,良心および宗教の自由について権利を有する。この権利には,自己の宗教または信念を変更する自由並びに,単独で又は他の者と共同しておよび公にまたは私的に,礼拝,教導,行事及び儀式によってその宗教のまたは信念を表明する自由を含む。

2 宗教または信念を表明する自由については,法律で定める制限であって公共の安全のためまたは公の秩序,健康もしくは道徳の保護のために民主的社会において必要なもののみを課す。

トルコと乳製品

リュステム・パシャ・ジャーミィはガラタ橋の船着場から数100mしか離れていないが,周辺には家屋が密集しておりアクセスはけっこう大変だ。イェニ・ジャーミィの横の道を上って行く。道の両側は商店街になっておりいくつものトルコらしい食材が並んでいる。

ここを歩いているときはただの商店街と思っていた。ガイドブックの地図と照合してみると,どうやらエジプシャン・バザールだったようだ。ここはスパイスバザールとよばれるくらい香辛料の店が多いとされているが,個人的には一般食料品が目に付いた。

果物屋の品ぞろえは日本のそれとかなり類似している。イスラムの国では酒はご法度なので生食用のブドウが並べてあるのもトルコらしい。

チーズは直径40cmほどのものを小さく切ったものが並んでいる。トルコはヨーグルトやチーズの起源地に近く,チュルク系民族がモンゴル高原から移動してきた遊牧民族であることもあり,家畜の乳を利用した加工食品はなじみの深いものであろう。

ヨーグルトはトルコ語のヨウルト(攪拌する)に起源をもっている。オスマン帝国がバルカン半島の一部を支配していた19世紀末にブルガリヤを訪れたロシアの医学者が特定の地域に高齢者が多いのは伝統食であるヨーグルトがその理由であると紹介したことから欧米に広まった。

ヨーグルトは生乳を乳酸菌で発酵させたものであるが,チーズ作りの最初の工程にも乳酸発酵が利用される。チーズの起源は紀元前4000年頃とされており,それに関する有名な逸話がある。

アラブの商人が乾燥させた子羊の胃袋で作った皮の水筒に羊のミルクを入れて旅に出かけた。のどの渇きを癒そうと水筒をあけたところ,中から黄色みがかった水(乳清)と柔らかい白い塊(カード)がでてきた。

この話はチーズの作り方をよく説明している。家畜の乳は母親の乳頭内で繁殖した発酵菌により乳酸発酵が開始されており,より固まりやすくなっている。これにレンネット(凝乳酵素)もしくは酸を加えると,白い塊り(カード)と水分(乳清)に分離する。

この塊りを布で絞って水分を取り除くとフレッシュチーズになる。ヨーグルトもチーズも一種の保存食品であり,遊牧民の重要な食料となっていたことは想像に難くない。ここの商店街ではチーズは専門店のようになっている。

トゥルシュ

ピクルス類もずいぶん種類が多かった。トルコではトゥルシュと呼ばれており,ほとんどが酢漬けになっている。キュウリ,キャベツ,ニンジン,唐辛子などが主な材料であるが,中にはなんだか分からないものも多い。

トゥルシュの話しはトルコに嫁いだ日本人女性のブログによく出てくるので,トルコでは日本の漬物と同じくらいに親しまれている食品のようだ。食べ物の好き嫌いの無い僕であるが,酢漬けはどちらかというと苦手な部類に入るのでためしに味わう機会はなかった。

複合施設群

金角湾から眺望するリュステム・パシャ・ジャーミィ

リュステム・パシャ・ジャーミィ

商店街をだいぶ歩き回ってリュステム・パシャ・ジャーミィに到着する。金角湾から見るとミナレット一本のシンプルなドームが見える。しかし,実際に近ずいてみると,どこがジャーミィの入り口なのかは分からないし,建物の外観もよく分からない。

ようやく商店の間を抜け上に登る階段を見つけた。このジャーミィは下が商店となっており,いわば複合施設となっている。これはイスタンブール(旧市街)という限られた土地の有効活用を図るとともに,商店から受け取る賃貸料を施設の運営や修繕の費用に充てるようにしたからである。

このジャーミィはオスマン全盛期のシュレイマン大帝が宰相リュステム・パシャのために建造したもので,建築家はミマール・スィナンである。スィナンはイスタンブールにいくつもの複合施設を建設している。そのもっとも規模の大きなものは,リュステム・パシャ・ジャーミィから少し坂を上ったところにあるスレイマニエ・ジャーミィである。

商店の間の階段を上ると目の前がモスクの中庭になっている。このモスクは大ドームと左右の小ドームから構成されており,礼拝堂の空間は大ドームに連なる壁面がそのままミフラーブになっている。

ここの壁面にも多くの採光窓があり,明るい空間となっている。これは,壁面を飾る彩釉タイルを自然光で鮮やかに見ることができるようにとの配慮なのかもしれない。

ここも大ドームの直下に鎖が張られており,その先は異教徒が入ってはいけないと解釈した。ミフラーブの壁面は言うに及ばず,左右,背後の壁面はすべてタイルで飾られている。

タイルの宝石箱

この美しいタイルの空間のため,リュステム・パシャ・ジャーミィは「タイルの宝石箱」とも呼ばれている。ここで使用されているタイルは,すべて現在のイズニックにあった王立製作所で監督の指示によりデザインされ,制作された。

当時の貨幣価値は分からないが,一枚のタイルは銀貨12枚の価値があったとされている。この礼拝堂の空間に使用されたおびただしい数のタイルは,オスマン帝国の巨万の富なしにはあり得ないものであった。

タイルのデザインはチュルクの伝統的なものに中央アジア,ペルシア,中国からのモチーフと組み合わされたという。ほとんど礼拝する人がいなかったので,美しいタイルを十分に見させてもらった。

タイルの表面は光を反射するので,自然光とはいえ,いろんな角度から光が入り,きれいな写真を撮るのに苦労した。タイルの基本色は鮮やかな青,少しくすんだ赤,緑がかった薄い青の三色で描かれている。

トラムの線路に沿って歩く

帰りは街の散策を兼ねてトラムの線路に沿って帰ることにした。なんといってもイスタンブールの初日であり,宿はトラムの駅を基点にしないと探せない。線路は道路上にあり,電車がすれちがうときは道路は完全にふさがれてしまう。

旅行者にはとても便利な乗り物であるが,日本のような車社会では迷惑とされる乗り物である。この通りには外国人旅行者も多く,歩道にテーブルを並べたカフェや土産物屋が多い。

アヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア大聖堂)

トラム道はアヤ・ソフィアとスルタン・アフメット・ジャーミィ(ブルー・モスク)のある広い庭園の横を通っている。だいぶ日が傾いてきたけれども寄り道をしてしまった。

このビザンツとオスマンという二つの大帝国を代表する建築物は北東・南西を基軸としたラインで向かい合っている。さらにトプカプ宮殿もこの軸線に乗っている。

オスマン帝国にとってアヤ・ソフィアは重要な建物であり,その軸線が二つの巨大建造物の配置を決定したようだ。古代におけるキリスト教の聖堂は東西を基軸とし,東に至聖所(後陣)を設けるのが通例である。ところがアヤ・ソフィアは北東・南西を基軸にしている。

もともと,イスタンブールではモスクのミフラーブはメッカのある南東に向けなければならなかったので,この北東・南西の軸線はオスマンの建築家にとっても都合が良いものであったという事情もある。

こうしてアヤ・ソフィアを基準に軸線ができたので,周辺の建物もすべてそれにならっている。アヤ・ソフィアは写真が撮りづらい。正面方向は庭園になっており,樹木や小さなドームが視界をさえぎることになる。

しかも,巨大な建造物の全貌を構図の中に入れようとすると,かなり距離をとらなければならない。すると,庭園を横切る道路までが入るようになり,そこにはいつも観光バスが停まっている。

「聖なる知」を意味するアヤ・ソフィアはビザンツ建築の最高傑作とされている。この建物が現在のような大きなドーム(直径31m)をもつ巨大な聖堂となったのは537年である。

360年に最初の聖堂が建てられてから,アヤソフィアは東方正教会(ギリシャ正教)の首座教会として君臨してきた。ビザンツ帝国の滅亡(1453年)により,アヤ・ソフィアはモスクに改装されたが,四隅にトルコ風のミナレットを配置しただけで,基本構造は変更されなかった。

このミナレットは最初の改装により4本が追加されたわけではなく,何回かに分けて追加されている。そのため,それぞれデザインが微妙に異なっている。

イスタンブールがオスマン帝国の支配下に入った時期に,アヤ・ソフィアはすでに1000年弱の齢を重ねており,かなり老朽化は進んでいた。

そもそも建設の過程においても巨大な重量のため建物は変形を始めており,557年の地震でも大きな被害を受けている。その後も度重なる地震と自重による変形のため大ドームの一部が崩落している。

トルコは日本と同様に地震の多い国である。20世紀の100年間だけでもM6以上の地震は34回も発生している。トルコの北部にはマルマラ海を横切り,黒海に沿って東部のエルズルム近くまで1000kmにおよぶ北アナトリア断層が走っている。

この断層はユーラシアプレートと小さなアナトリアプレートの境界にある,一種の境界型断層である。二つのプレートの相対的な動きにより断層が動き地震が発生する。現在は断層の北側は東に,南側は西に動く力が働いている。

このように長大な断層は一度に動くことはなく,過去にその一部が動くことにより何度も大きな地震を発生させている。20世紀の中頃からは東から順に断層が動いている。

発生年 震源 地震規模

1939
1942
1943
1944
1957
1967
1999

エルズィンジャン付近
Erbaa付近
Tosya付近
Gerede付近
Abant付近
Mudurnu付近
イズミット付近

M 7.8
M 6.9
M 7.6
M 7.6
M 6.8
M 7.0
M 7.4


1999年にはマルマラ海の最東部のイズミット周辺を震源とする地震が発生している。断層はイスタンブールの南20kmあたりにあり,ここで地震が起こるとイスタンブールにも相当の揺れが伝わる。

オスマンの支配が始まった時代のアヤソフィアは中央の大ドームの重量により,それを支える壁面が花びらのように外側に傾く現象が発生しており,そのまま放置すると崩壊の危機にあった。

メフメト2世とスレイマニエ大帝に仕えた帝国の首席建築家であり,トルコ最大の建築家と称されているミマール・スィナンは建物の東西の外壁を補強するため,その外側に壁面に垂直なバッドレスと呼ばれる支持壁を追加した。

この補強によりまがりなりにもアヤソフィアは現在までその姿をとどめることができた。僕はアヤソフィアには入らなかったが,正面左側からバッドレスと思われる構造物を見ることができた。

スィナンの努力にもかかわらず,現在でも大ドームは20年に3mmほど沈下しているという。大ドームを支える巨大な石柱も傾いている。

人類の遺産ともいうべき建築物なので,現代の建築技術により沈下を食い止める手立てをとってもらいたい。でも,ドームの中央に巨大な柱を立てるというような無粋な手立てなら願い下げだ。

アヤソフィアの内部はビザンツのモザイクで埋め尽くされていたという。オスマンの支配下に入ると,この建造物はモスクに改装されたが,壁面のモザイク画は漆くいで上塗りされただけであった。この漆くいが保護層となり,在りし日のモザイク画が現代まで美しいままで保存された。

このような経歴をもつ建物のため,共和国成立時に無宗教の博物館に指定された。通常,現役のモスクは無料で入ることができるが,博物館になると(あたりまえだが)入場料が必要となる。

このときは2階の見学を含め20$ほどの入場料を惜しんで中には入らなかった。このようにHPで自分の旅行を反芻していると,どうして中に入らなかったのかと悔やまれてくる。「人はしてしまったことへの後悔より,しなかったことへの後悔の方がより深くこころに残る」という言葉は箴言である。

スルタン・アフメット・ジャーミィ

スルタン・アフメット・ジャーミィは内部のタイル装飾の色調から「ブルーモスク」とも呼ばれている。1613年に完成したもので,ミマール・スィナン(1489-1588年)の弟子の時代になっている。

このモスクは旧市街の一等地に建てられており,なぜスィナンの時代にスレーマニエ・ジャーミィがここに建てられなかったのか疑問に思う。

アヤ・ソフィアを中心にして北東・南西の軸線上にトプカプ宮殿,スレイマニエ・ジャーミィが並ぶ構図こそが最盛期のオスマン帝国の象徴にふさわしいと思うのだが,何か事情があったのであろうか。

海岸から台地状の地形にせり上がっていくイスタンブールの街では平らな土地は得がたいものであり,スレイマニエ・ジャーミーを現在の場所に建設するにはまず整地作業から始めなければならなかったという。

スィナンの弟子の時代の建造物とはいえ,スルタン・アフメット・ジャーミィはオスマン様式の一つの完成された姿とされている。礼拝堂本体を南東,中庭を北西に配しており,礼拝堂と中庭はほぼ同じ面積となっている。

礼拝堂は大ドームを四辺の半ドームで支える構成となっており,全盛期のオスマン様式にのっとっている。このモスクにはイスタンブールで唯一6基ものミナレットが配されている。

これに関してはおもしろい逸話が残されている。スルタンはミナレットを「黄金(アルトゥン)」に彩色するよう命じたところ,建築家は「6(アルトゥ)」と聞き間違えて6基のミナレットを建造してしまった。

6基ものミナレットをもつもつモスクはイスラムの聖地であるメッカのカアバ・モスクだけであった。イスラム最高のモスクと同数のミナレットをもつモスクを建造したと非難されたスルタンはあわててカアバ・モスクに7本目のミナレットを寄進して事なきを得たという。

中庭に入ると左右にコーランなどを売る小さな店が並んでいる。これはイスタンブールのモスクでは初めて見る光景である。モスクの敷地内に店を置くことが許されるのであろうか。礼拝堂を背景に記念写真を撮る人も多い。あまりにも俗化した空間に見学する気がしぼんでいくのを感じる。

礼拝堂内部は他のモスクと違いはない。大ドームを支える4本の主柱は円柱形状であり,縦方向に筋状の彫り込み装飾が施され,10mほどから上部には壁面と同じ細かい紋様の飾りタイルが使用されており,全体として落ち着いた感じの空間に仕上げてある。

壁面の装飾タイルの色調から「ブルーモスク」という別名をもっているが,それほど青が強調されているわけではない。このモスクのドーム基部や壁面には多くの採光窓が取り付けられている。

床から立ち上がっているミフラーブの両側にもほぼ同じ高さの大きな窓が取り付けられており,他のモスクに比べてさらに明るい空間となっている。

このモスクは宿から近かったこともあり,3回訪れた。1回目は礼拝の時間であったのか,100-200人の人々が集まっていた。この巨大な空間にその程度の人数では,寂しい礼拝風景となる。

20年前のNHKシルクロードでは金曜礼拝にこのモスクの広い礼拝堂が1万人もの人で埋め尽くされている映像があった。当時の男性の服装はまだそれほど洋風化されておらず,遊牧騎馬民族の末裔を思わせるものが残されていた。

現在のスレイマニエ・ジャーミィに金曜の大礼拝にどれほどの人々が集まるかは分からない。少なくとも僕がイスタンブール滞在中に何回か足を運んだ限りではこのモスクが埋まるような光景は目にすることができなかった。

2回目に訪問した時はミフラーブの前に数人の男性がコーランの音読会に参加していた。ここイスタンブールでは国是となっている政教分離は確実に浸透してきており,生活様式の欧風化ともあいまってモスクで祈る人はイスラム圏の国にとしては例外的に少ない。

ヒポドローム(競馬場)跡

スルタン・アフメット・ジャーミィの北西側にはヒポドローム(競馬場)跡がある。ローマ帝国およびビザンツ帝国では競馬は市民の娯楽としてなくてはならないものであった。

そのため,ローマ帝国の各地では数万人が収容可能な巨大な施設が建造された。ローマの競馬はギリシャのそれを引き継いだもので,騎乗および戦車(キャリオット)の二種類があった。映画「ベンハー」の中で描かれているのは戦車競争の方である。

幾多の戦争で支配地を拡大していったローマ帝国においては,勇壮な競馬は国民の士気を高めるとともに軍事技術の向上の一環として行われていた。しかし,帝国の支配地が拡大し,各地からの租税により暮らし向きが豊かになったローマ市民にとっては最大の娯楽の一つに位置づけられるようになった。

コンスタンチノープルにも巨大な競馬場が造営され,多くの市民が熱狂していたという。帝国の最大の政治的行事である皇帝即位式までもが競馬場で行なわれていたという。 競馬場の大きさは長さ480m,幅117mあり,10万人が収容できたというので,相当大きな施設であったようだ。現在は幅50mほどの細長い広場になっており,建造物は何も残されている。

広場に沿って食べ物屋がずらりと並んでおり,いつも人ごみが絶えない。ここを歩くと名物のドネルケバブがいい匂いを漂わせている。

広場にはテオドシウス帝の時代にエジプトから運んできたというオベリスクが立っている。エジプトにどのくらいの期間立っていたかは分からないが,ここに運ばれてからの1600年の歳月を感じさせないほど新しく見えて違和感を感じる。

再度,日本総領事館に向かう

06時に起床。9月中旬のイスタンブールの夜はフトンを被って寝てちょうどよい温度である。この宿の宿泊客は概して朝は早くない。宿泊客の居間のようになっている4階の部屋で日記を書く。管理人の女性はもう起きていた。この4階のドアに日本領事館の移転先が記載されていたのでメモっておく。

パンと飲むヨーグルトで朝食をとり,トラムに乗って出発する。新市街のカバタシュで下車し,そこから坂を上りタクスィム広場に出て,メトロに乗る。レヴェト駅で下車して地上に出るともう方角が分からなくなる。

領事館のあるタクフェン・タワーは新しい高層ビルであったので,通勤途中の男性が「この道を真っすぐ」と教えてくれた。確かに少し先に30階くらいの高層ビルが見つかった。

1階で荷物検査とパスポートチェックがあり,入館カードを受け取る。これがないと先には進めない。エレベーターで10階に上がると,小さなエレベーター・ホールになっており,守衛が一人いるだけである。

10階全体が領事館になっており,入り口は外からは簡単には分からないようになっている。守衛はX線で荷物を検査し,カメラとポケットナイフはここで預けなければならなかった。

彼が内線電話をかけると壁の一部がスライドして中に入れるようになる。領事館の安全対策は非常に厳しい。シリアビザを取得するためには領事館でレターを書いてもらわなければならない。

申請書を出すと,受け取りは明日だと言われた。今日は木曜日,明日もシリア大使館は開いているのでまあいいだろう。久しぶりに日本の新聞を読んで,領事館を辞去する。

メトロでタクスィム広場に戻る。すでに朝の通勤時間帯は終わっており,乗客はそれほど多くはない。タクスィム駅にはタイルを組み合わせた壁画がいくつか飾られている。

オスマン時代のイスタンブールの絵地図には旧市街を取り囲む城壁や,新市街のガラタ塔周辺を囲む城壁が描かれている。当時のスタンブールはこの内部にあったのであろう。そこに描き込まれている建物を現在の地図と照合してみるのはちょっと楽しい。

城門の前に立つ(おそらくスルタンの)騎馬姿の絵も当時の習俗が分かり興味深い。この絵の中にはキリスト教の宣教師もしくは修道士の姿も描かれている。

タクスィム広場→カバタシュ→トプハーネ→カラキョイ→ガラタ橋と歩いてみる。カバタシュまでの道はかなりの急斜面になっており,石畳の部分も多い。そんな道でも車が停車しており,動き出さないかといらざる心配をする。

カバタシュからボスポラス海峡沿いに歩くと,すぐに海が見えなくなり寂しい。道路の海側に「ヌスレティエ・ジャーミィ」が優美な姿を見せている。二本のミナレットの配置からすると,道路側からは側面を見ていることになる。

頂上部は大ドームの四隅に装飾用の小ドームを配しただけのシンプルな構成は,とても新鮮に感じられる。観光客のために入り口にはプレートが貼ってあり,そこには1825年と記されていた。

感じのよいモスクだったのでミナレットを左右に置く正面構図の写真を撮りたかったが,その向きでは距離がとれないのでモスク全体はフレームに入らない。

道路の山側にもオスマン時代の建造物がいくつかある。通常はドームの上を飾る小さな鐘楼のような構造物が,横一列に置かれており,まるで屋根付きの煙突が並んでいるような感じでちょっと面白い。エルズルムの町でも同じような造形を目にしたが,そちらは本物の煙突であった。

近くにはミマール・スィナンが手がけたキリチュ・アリ・パシャ・ジャーミィがあり,その後ろに自然石を積み上げ,その上にドームを一つ乗せたシンプルな建造物がある。

キリチュ・アリ・パシャ・ジャーミィの一本ミナレットと組み合わせると,オスマン初期のモスクのように見える。このミナレットのアザーン台の下にはイラン起源の鍾乳石飾りが施されており,シナンの時代にもこの飾りが残されていることが分かった。

ガラタ橋からの風景

ガラタ橋まで歩くと青いマルマラ海が見えてくる。今日は珍しく天気が良く,風景の写真写りがよい。新市街の突端に停泊している豪華客船の白い姿が視界に入る。近くの建物に比して,この船が非常に大きいことが分かる。ボスポラス大橋も昨日よりはずっとはっきり見える。

ガラタ橋の中ほどから見る金角湾に面した旧市街も明るい空を背景にきれいに撮るころができた。リュステム・パシャとスレイマニエの二つのジャーミィを入るここからの構図は僕がイスタンブールでもっとも好きなものである。

ガラタ橋の上はたくさんの釣り人で賑わっている。この季節に釣れるのは鯵に良く似た魚で,現地ではイスタヴリットと呼ばれている。旧市街に近づくと,リュステム・パシャ・ジャーミィとスレイマニエ・ジャーミィの位置関係が変わり,新しい構図で写真を撮ることになる。

ボスポラス海峡クルーズはエミノニュの埠頭から出ているので時間を確認すると民間のものが20リラ,公共のものは12.5リラである。ただし,出発は午前中だけのようだ。明日はシリアビザの申請に出向かなければならないので,明後日にトライすることにしよう。

複合施設群の屋根越しに見るボスポラス海峡

スレイマニエ(シュレイマニエ)・ジャーミー

スレイマニエ・ジャーミーはオスマン帝国最盛期のスルタン・スレイマン(1520-1566年)の命令により,1557年にミマール・スィナン(1489-1588年)が完成させた巨大なキュリエ(複合施設群)の中核となるモスクである。

複合施設群とはモスクを中心に病院,神学校,ハマム,給食所,宿泊所,商業施設などの公共の建物を配置したものをいう。このような複合施設においては,商業施設の収入でモスクの維持と慈善施設の運営費用が賄われる仕組みとなっていた。

スィナンはモスクの建設だけではなく,オスマン帝国の新首都となったイスタンブールをイスラム教徒の都にふさわしいものにするため,多くの都市インフラを整備した。

スレイマニエ・ジャーミーはイスタンブルの旧市街にある7つの丘のひとつの頂上に位置しており,イスタンブールでは最大のモスクであり,スィナンの最高傑作の一つである。スレイマニエ・ジャーミーの周辺にもハマムや商業施設があり,それらは現在でも機能している。

この巨大なモスクは近くからではその均整のとれた美しさを実感することはできない。やはり,金角湾から見るのがもっとも印象的である。

このモスクの完成時にスィナンは70歳近くになっていたが,ビザンツ帝国の最高傑作であるアヤソフィアの大ドーム(直径31m)を越えるものを建設する夢を捨ててはおらず,1575年にエディルネのセリミエ・モスク(大ドームの直径は31.5m)を完成させている。

イスタンブールから見てメッカは南東方向にあるので,モスクおよび周辺の施設は南東・北西を軸線に造られている。モスクの敷地は軸線方向が長手の長方形となっており,南東方向を除く三辺の周辺には複合施設群が配されている。

いずれもモスクと調和のとれた建物になっており,全体としてまとまりのある一画を形成している。ミフラーブが南東にあるのでモスクの正面は北西側になる。僕はガラタ橋からけっこうな坂を上り,モスクの東側に出た。そこはちょうど複合施設群のハマムになっており,現在でも営業している。

ここからモスクの敷地の北東辺に沿って歩くことになる。この通りの両側は商業施設になっており,間口2間程度の小さな店がずらっと並んでいる。地形の関係で視界が開けてる場所があり,複合施設群の屋根越しにガラタ橋とボスポラス海峡を眺望することができる。

本体の南東側は本体と同程度の広さをもつ庭園となっており,ミフラーブのある壁面の軸線上にはスレイマニエ大帝の墓廟が置かれている。スレイマニエ大帝はこのモスクの完成後7年で亡くなり,シナンはこの場所に墓廟を建造した。

スィナン自身はスレーマニエ複合施設群の一角に居住することが許され,彼の墓はモスクの敷地かからみて金角湾側にあるとされているが,僕は確認できなかった。

建物は直径27.5mの大ドームを前後から大ドームより一回り小さい半ドームが支える構造となっている。これはアヤ・ソフィアと同じ手法である。左右の上部はすっきりとした垂直の壁面となっており,多くの採光窓が取り付けられている。

ミナレットは4本で中庭の入り口の両側,そしてモスク本体の入り口の両側に配されている。つまり,ミナレットは中庭の四隅に置かれていることになる。

北西の入り口から入ると柱廊に囲まれた中庭になる。この中庭はモスク本体よりも小さく,距離がとれないので,モスクの中央部を構図に入れるのでせいいっぱいである。両側に立っている二本のミナレットはとても構図の中には入れられない。

中庭の中央には礼拝の前に身を清めるための泉水がある。泉水はモスクにおける必須の付属設備となっている。しかし,ここではモスク本体の横に一列に蛇口が並んだ水場があり,それを使用して身を清めていたようだ。

モスクは建設の約100年後の1660年に火災にみまわれ,バロック様式を取り入れたものに一部手直しされた。19世紀の修復で創建当時の様式に復元されたが,第一次世界大戦中に武器庫に使われたのが原因で再び火災の被害を受け,1956年に修復されて往時の姿を取り戻した。

1985年に「イスタンブール旧市街の歴史地区」は世界遺産に登録された。とはいうものの,ここは現役のモスクであり外国人が入る場合も入場料は不要である。礼拝堂の構造は今まで見てきたものと大差はない。

大ドームを4本の巨大な柱に連なるアーチにより支え,ミフラーブ(メッカの方向にある壁面の窪み)は後ろの半ドームの分だけ柱よりも奥に位置することになる。この大ドームの前後に配された半ドームは,大ドームを支えるとともにより広い礼拝堂空間を造り出している。

この空間の大きさは数字になっていないが,礼拝堂の建物としては前後59m,左右58m,大ドームの直径が27.5m,大ドーム頂点の高さは53mとなっている。日本で最大級の木造建造物である東大寺大仏殿(現在の姿は1709年に落成)は横幅57.5m,奥行50.5m,棟高さ49.1mあり,建物の規模としてはひけをとらない。

大ドーム,半ドームの下部には巡らされている採光窓と四面のステンドグラスの窓を合わせて200もの窓が明るい礼拝堂の空間をもたらしている。大ドームの天井からは床3mくらいのところまでリング状の電飾が吊るされており,そこにはたくさんの電灯が取り付けられている。

僕の入ったときは電灯が灯されており,きらびやかな空間となっていた。大ドームの中心より少し手前に礼拝者と観光客を分けるための低い柵が置かれている。それでも礼拝時間でもなければ,先に進んでも問題は無いようだ。

大ドームを支える4本の巨大な柱のうちミフラーブ側の二本にはミフラーブと同様に,窪みが彫り込まれている。ミフラーブに向かって中央右側には4X6本の石柱で支えられた高さ2mほどの台がある。この台はちょうどミンバル(説教台)の正面にあるので,高貴な身分の人のための特別席だったのかもしれない。

イスラム教の礼拝堂であるモスクにおいては男女は別々にお祈りするのが通例である。ここでも女性は東側の囲われた空間でお祈りをするようになっている。一度に大勢の人々が礼拝できる大空間を目指したイスタンブールのモスクであるが,現在はここで祈る人はそれほど多くはない。

ミマール・スィナンの墓

スレイマニエ・ジャーミーの敷地の一画には「ミマール・スィナン」の墓があるという。残念ながら見つけることができなかったので「さらりん」さんの公開している画像を使用させてもらった。スレイマニエ・ジャーミーには彼の仕えた「スレイマニエ大帝」の墓もあり,スィナンは彼の主人の側で彼の造った傑作モスクを眺めながら眠りについている。


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