亜細亜の街角
ペルセポリス以外にも見どころの多い町
Home 亜細亜の街角 | Shiraz / Iran / Jun 2007

シーラーズ  (地域地図を開く)

紀元前7世紀,オリエント世界に君臨していたアッシリアが勢力を失なった後,イラン高原を支配したのはペルシャ人と同じ印欧語族に属するメディア人の王国であった。この時代のペルシャはメディア王国に服属していた。

紀元前550年,メディア人とペルシア人の混血といわれるキュロスがメディア王国に反旗をひるがえし,これを滅ぼした。これがアケメネス朝(紀元前550年 - 紀元前330年)であり,ペルシャ人が初めてこの地域の支配勢力となった。

アケメネス朝は小アジアのリディア王国,メソポタミアの新バビロニア王国を滅ぼし,エジプトを併合した。オリエントを支配下に置いた帝国は大いに繁栄し,ダレイオス1世の時代(紀元前6世紀)に帝国の都としてペルセポリスが建設された。

ペルセポリスは「ペルシャの都」を意味するギリシャ語であり,この都が帝国内でどのように呼ばれていたかは記録にない。誇り高いイラン人はこの呼び名を使用せず,「タフテ・ジャムシード(ジャムシードの王座)」のほうが通りがよい。

アケメネス朝の政治の中心地はスーサであり,ペルセポリスはもっぱら儀礼用の都,例えば重要な儀式を執り行ったり,諸民族から朝貢を受け取とったり,アケメネス朝の王権が神から与えられたことを確認する聖域であったとされている。

石で築いた総面積約13万m2の大基壇の上に複数の宮殿を建造した壮麗な都も紀元前330年に「アレクサンダー大王」の略奪にあい焼失した。

ペルセポリスの遺跡はシーラーズから北東に57km離れたところにある。そこには往時の壮大な建築物の一部が残っており,イランでもっとも有名な観光地となっている。

エスファハーン(500km)→シーラーズ 移動

宿の北側の店でミルク,ジュース,薄焼きパンを買い宿の中庭のテーブルでいただく。イランでは200ml パックのロングライフ・ミルクがあるのでずいぶん重宝した。薄焼きパンは時間が経つと水分を失い,チャーイかミルクがないとなかなかのどを通らない。

韓国人の女性がお茶をもって同じテーブルに坐ったのでしばらく話をする。前の仕事をやめて新しい仕事を見つけるまでの間にタイ旅行を計画した。しかし,タイに滞在中に突然イランに行きたくなってやって来たという。ビザはどうやって取得したのかな。

居心地の良かったアミール・キャビールとお別れし北側の交差点で乗り合いタクシーをつかまえる。乗り合いタクシーはすでに乗客が乗っていても,同じ方角に行く場合は安い料金で利用できるという合理的なシステムだ。しかし,外国人が乗り合いタクシーをつかまえるのは少々難しい。今朝は幸運にも最初のタクシーがバスターミナルまで行ってくれた。

北バスターミナルは大きくいくつかのバス会社が入っている。シーラーズという客引きの声が聞こえたのでそちらに行くと,09:30発のチケットがすぐ出てきた。しばらくターミナル内の待合室で本を読んで過ごし,09時になったので外のベンチで待つ。

ペルシャ人とはちょっと容貌と服装の異なる2人の女性と10歳くらいの女の子がバスを待っていた。女の子に「写真を撮っていい」と話しかけると,恥ずかしがって母親の膝に顔をうずめてしまった。

母親にうながされてようやく正面からの写真を撮ることができた。写真のお礼に近くの蛇口から水を汲んできてヨーヨーを作ってあげる。珍しい玩具をもらい女の子ははにかみながらもとても嬉しそうだ。

バスが入ってきて乗客が乗り込む。彼女たちもチケットを提示して乗ろうとしたけれど行き先が違うのか乗ることはできなかった。車内から彼女たちに手を振りお別れをする。バスは荒地の道路を時速100kmくらいでひた走る。

荒地といっても「ノマド・ツアー」で見かけた潅木が緑色の固まりになってたくさん生えているので遠目には緑色に見える。しかし,潅木と潅木の間は赤茶色の地面がむき出しになっている。

道路の両側はみごとな麦畑に変わった

13:15に昼食休憩となる。イランのドライブインの食事は街の2倍はするので今日のお昼はパウンド・ケーキとミルクでがまんしよう。14:30に標高2500mの峠を通過する。マイクロウエーブの鉄塔がずいぶん高く見える。苦しそうに登ってきたバスもようやく一息つけるようになった。

標高が2000mを切るあたりから道路の両側はみごとな麦畑に変わった。いつもの潅木と異なる鮮やかな緑にとても新鮮な感じを受ける。風が吹くと麦の穂波が一様にゆれ,風の動きを目で実感することができる。麦畑はすべて灌漑農地であり,この風景は1時間以上も続いていた。

斜面の村落

イランには斜面に集まった村落が多いようだ。カスピ海沿岸にほど近い「マスレー」には標高1000mほどの斜面に家屋が密集しており,通路を確保できないため,斜面の下側の家屋の屋根を通路にしている。この特異な村落形式でこの村は観光地になっている。パキスタン北部のカラーシュ谷にも同じような構造の村落がある。敵から身を守るため密集集落を作る文化が中央アジアやその周辺に存在するようだ。

500kmを7.5時間で走破した

17時過ぎにシーラーズの長距離バスターミナルに到着する。道路状態が良いので500kmを7.5時間で走破したことになる。シーラーズの宿は街の中心部にある。中心部のランドマークとなるキャリム・ハーン城塞まではおよそ1.5kmなのに乗り合いタクシーは1万リヤルについた。

Karsa GH

第一目標のPayam はすでに別の施設に変わっており宿泊不可である。メインストリート(キャリム・ハーネ・ザンド通り)を東北に歩きアンヴァリー通りの安宿を探そうとしたら,この通りが見つからずずいぶん行き過ぎてしまった。

地元の人に2回たずねてようやくKarsa GH に到着した。6畳,2ベッド,冷風装置付き,T/S共同の部屋は10万リヤル(11$)と高い。マネジャーはこの街でもっとも安いことを知っているのか,ディスカウントにはまったく応じてくれない。

この街では安宿がどんどん改装され,小ぎれいなホテルになっていた。それにより料金はシングルで15-25$に跳ね上がっておりとても利用できない。

この街の朝食の定番

シーラーズはペルセポリス観光の拠点となっており,いくつかの旅行会社がツアーを出している。宿からメインストリートをキャリムハーン城塞に向かう途中にPTAという名前の旅行会社がある。ここでツアーを申し込む。料金は8$,この中にはペルセポリスやナグシェ・ロスタムの入場料も含まれているので格安である。

当日は06時に起床,ずいぶん涼しいなと思ったら部屋の外から冷気を運ぶ装置が動いている。この冷気装置はイランの宿にはたいてい付いている。おそらく水の気化熱を利用して空気を冷やし,それをダクトで各部屋に供給しているのであろう。

ダクトを部屋で開閉することができないので,自分で温度調整ができない仕組みになっている。寝るときはこの装置が働いていないと思って油断すると体を冷やすことになる。

宿の管理人は07時に必ず起きているとは限らない。そのような場合は管理人室の窓をノックして彼を起こさなくてはならない。幸い今朝は管理人がすでに起きており,宿を出てPTAの近くにある食堂で朝食をとる。

豆をすりつぶしたスープと薄いパン,チャーイのセットメニューは7000リヤルと安い。このところケバブのサンドイッチが多く植物性の食事は少なかったのでこのメニューはありがたい。とはいうものの味付けが薄く,慣れない味なのでするするとは喉を通らない。

僕は旅行に出ると必ず体重が落ちる。毎日10kmは歩くので運動量が多い上にパン類はそれほどたくさん食べることはできないのでどうしてもカロリー不足になる。今朝も栄養補給のため努力して食べているのだがやはり全部は食べきれない。残ったパンは用心のためザックの中に入れておく。

良く目立つポスト

キャリム・ハーン城塞

宿を出て右に少し歩くとシーラーズのメインストリートもいうべきキャリム・ハーネ・ザンド通りに出る。この通りを南東に行くとキャリム・ハーン城塞を臨む大きなロータリ-がある。その少し先でキャリム・ハーネ・ザンド通りは地下にもぐり,バザーレ・ヴァキュールとは立体交差している。街のみどころはこの交差点の500m四方に固まっている。

順番からしてまずキャリム・ハーン城塞を見学する。この城塞はおよそ100mX80m の敷地をレンガ造りの城壁が取り囲んでいる。四隅には円形の物見塔があり,その一つはいくぶん傾いている。塔の上部にはレンガの凹凸により紋様を浮かび上がらせている。この素朴な手法はちょっとおもしろい。

内部は城壁に沿って建物が囲んでおり,あとは広い中庭になっている。正面の建物の上部には建物内に風を取り入れるためのバードギール(風の塔)が見える。部屋の一部は展示室として公開されている。

中にはエアコンの入った部屋もあり,イスに坐り展示物を眺めながら30分ほど休憩させてもらった。ステンドグラスの入ったアーチ型の窓は光の具合がちょうど良くてきれいな模様の写真が撮れた。

20世紀初頭の古い写真も展示してあった。当時の人々の服装は男女とも現在とは異なり,100年間の時間の流れを感じる。貴人の女性の写真もあり,こちらは現在のチャードル姿とそれほど差はない。

20世紀初頭の古い写真からかっての服装や習俗が分かる

パールス博物館の入口で

パールス博物館の入口で10人ほどの女子学生に囲まれいくつかの質問を受けた。グループの中に立派な英語を話す人がおり,彼女の通訳で30分ほど話に付き合わされた。カメラを持った人は僕を入れて記念撮影をする。僕もカメラを渡し同じように撮ってもらう。イスラムのルールに厳しいこの国で,このような写真が撮れるとは驚きである。

パールス博物館は写真禁止であった

博物館の展示品の中に古いコーランがあった。かなり大判のもので流麗なアラビア文字が美しい。監視員になんとか写真を撮らせてくれと交渉してみたがまったく無駄であった。建物の外観と壁面を飾る絵付装飾タイルを撮ることができただけである。

女の子は写真禁止ではなかった

これは何だろう

かまぼこ型のテントがずっと並んでいる。中を覗いてみると子供服や女性の下着が売られていた。慎み深いこの地域の女性は大きな商店のようにオープンな場所では買いづらいということのなのかなあ…。

バザーレ・ヴァキュール入り口

バザーレ・ヴァキュールはアーチ型のアーケードが連なるバザールで総延長は500mはありそうだ。ここでは衣類,布地,じゅうたん,工芸品,食料品などあらゆる生活用品が商われている。この縦横にアーチの連続するレンガ造りの建物はとても洗練されており,現在でも古さを感じない。

バザーレ・ヴァキュール内部

華やかな服が並ぶ

イランの女性たちの服装といえば黒一色と思われがちであるがそれは表向きの話である。黒い上着ですっぽり体を覆っているが,その下はこの商店で商っているような華やかな色彩のものとなっていることが多い。彼女たちは自宅ではそのように華美な服装を楽しみ,外出するときはあの黒い上着とスカーフを着用する。

ペルシャじゅうたん

こちらは中央に大きな模様(メダリオン)をもつ伝統的な図柄のものであり,じゅうたん屋ではもっとも目立つので写真も多い。値段はきっと驚くようなものに違いない。

絵画的要素を取り入れたペルシャじゅうたん

絵画的要素を取り入れたもの。動物と美女を組み合わせた図柄はイランではよく見られる。私のもっている「イラン近代絵画集」にも「馬と戯れる美女」を題材にしたものがある。馬ではなくユニコーンではないかとじっと見ても角はなかった。

バザールはずっと先まで続いている

マスジェデ・ヴァキュール

バザーレ・ヴァキュールの入り口にあるモスクである。内部には百柱の間ともいうべき広い礼拝用の空間があるものの,じゅうたんはほんの一部だけに敷かれており,現在ではほとんど利用されていないようだ。

マスジェデ・ヴァキュールのミフラーブ(メッカの方角に向いた壁面)は装飾タイルで飾られている。全体が絵付け装飾タイルで飾られており,そのため上部の鍾乳石飾りはかなり大ざっぱなものになっている。

シャー・チェラーグ聖廟入り口付近

シャー・チェラーグ聖廟は9世紀にこの地で殉教したエマーム・レザーの2人の兄弟の棺が祀られ,シーア派の重要な聖地となっている。聖廟は原則として異教徒の入場は禁止されているが,特に目立つような服装や行動をしなければ旅行者でも中に入って咎められることはない。

男女別の入口がある

正門から右に行くとすぐ男女別の入口がある。預かり所にクツを預け他のイラン人と一緒に中に入る。僕が棺の置かれている部屋にしばらく坐っていても誰からも文句は言われなかった。この部屋もマシュハドやゴムの聖廟と同じように壁や天井は小さな鏡を張り合わせてあり,シャンデリアの光にきらめいている。

中庭から池越しにドームを見る

広い中庭から見ると西洋梨の形をした特徴的なドームがよく目立つ。ありがたいことにこの中庭でも写真を撮ることができた。中庭から見える主要な建物を撮り終え,正門から向かって左側の建物の中を見学していると,異教徒ということで退去を命じられた。ルールに厳格な人に見つかったのが不運だったということだ。

エラム庭園に向かって歩く

エラム庭園のバラの季節は終わっていた

暑い時期は体力の消耗が激しい。このようなときは昼寝が必要になる。昼食をバナナとミルクで済ませ,宿で2時間ほど昼寝をする。午後はエラム庭園までのんびり歩く。

ここは19世紀に建てられたエラム宮殿とバラが咲き誇る庭園で有名である。しかし,外から眺めるとバラ園にはほとんど花がついておらず,それでは入場料の4万リヤルは高過ぎるのでスキップする。

ハーフェズ廟

エラム庭園の近くからバスでハーフェズ廟に向かう。ハーフェズ(1324-1389年)はイランでもっとも敬愛される詩人の一人である。14世紀のイランや中央アジアでは文字を知らない人々でも口承文学が浸透していた。

特に遊牧民は文化としての文字をもたないことが多く,記憶することのできる美しい言葉を連ねた詩は本人の財産であり,男性にとってもで古い詩や即興の詩の朗誦は遊牧などの仕事と同じように重要なたしなみであった。

このような口承文学の厚い歴史をもっているイランでは詩人は社会的にも高い評価を受けている。ハーフェズはシーラーズで生まれ,生涯のほとんどをこの地で過ごしたとされている。一代で西・中央アジアに大帝国を築いたティムール(1336-1405年)とも接点があったとされており,次のような逸話が残されている。

ハーフェズの有名な詩の中に次のような一節がある。

あのシーラーズの乙女が我が心を受け入れてくれたなら
その黒きほくろの代わりにサマルカンドもブハーラーも与えよう
酌人よ!残りの酒をつげ!
天国においてさえ求めることのできぬものは
ルクナーバードの流れる岸とムサッラーの花園
(以下略)

この詩の冒頭の一節を知ったティームールは「我が剣を振るって諸国を平定し,多くの国や都市を破壊したのは我の愛する都であるサマルカンドとブハーラーを繁栄させるためであった。それなのにお前はたかがシーラーズの乙女のほくろの代わりに我がサマルカンドとブハーラーを与えるというのか!」と怒ると,ハーフェズはティームールの足下にひれ伏し次のように答えたという。
「世界の王者よ,こうした気前の良さのため私はこのように落ちぶれてしまいました」
ティームールはこの答えが気に入りサマルカンドに来るように誘われたが,シーラーズを愛するため断ったという。

ハーフェズ庭園は水と緑に囲まれたすばしい庭園である。ここは人々の憩いの場となっており,夕方の時間帯には家族連れがたくさん来ていた。また,通りの横にあるベンチで本を開いている人もいる。

乾燥地域ということが大きな要因となっているのであろう,水と緑の豊かな庭園を造ることにかけてはイラン人は素晴らしい才能をもっているなあと感慨にふけりながら夕方のひとときをここでのんびり過ごす。

ハーフェズ廟で出会った人々

この土地はある程度水に恵まれているようだ

街角のパン屋さん

イランも香辛料のシルクロードの中継点であった

珍しく子どもたちの集合写真となった


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