Home亜細亜的世界|アレクサンダー大王の東征



フィリッポス2世がギリシャの覇権を握る(BC338)

アレクサンドロス3世(Aleksandros III,BC356-BC323)はマケドニア王フィリッポス2世を父親にもつ。幼年期にアリストテレスを家庭教師に迎えギリシアの基礎的な教養を身につけた。18歳のとき父に従ってギリシアに出兵し,アテナイ・テーバイ連合軍を破る。このときアレクサンドロスは精鋭の騎兵を率いマケドニアの勝利に大きく貢献した。全ギリシアの覇権を握ったフィリッポス2世は全続いてペルシャ東征を計画したが暗殺された。

ペルシャ東征に出発する(BC334)

20歳のときマケドニア王を継承したアレクサンドロスは敵対者を排除してマケドニアを掌握し,フィリッポス2世の死去により混乱していたギリシャの諸ポリスと同盟し,父の遺志を継いで紀元前334年に18,000人のギリシア軍を率いてペルシャ東征に出発した。

小アジアの征服(BC334/333)

小アジアに渡ったギリシャ軍はグラニコス川の戦いでミトリダテスの率いるペルシャ軍4万と戦い,これを打ち破った。自ら馬を駆って騎兵の先頭に立ってら突進するアレクサンドロスはギリシャ軍の信頼を勝ち得るとともに,カリスマ的な指導者となった。ギリシア軍は小アジアに駐屯するペルシャ軍を蹴散らしながら東進を続け,紀元前333年ついにイッソスにおいてダレイオス3世自らが率いるペルシャ帝国軍10万と激戦し敗走させる。このときのアレクサンドロスの雄姿はナポリ考古博物館に収蔵されているポンペイ出土のモザイク画に生き生きと描かれている。

エジプトの征服(BC332)

アレクサンドロスはペルシャに隷属していたシリアとフェニキアを屈服させ,地中海の海上輸送を支配下に置いた。さらに,エジプトに侵攻する。エジプト人に解放者として迎え入れられたアレクサンドロスはファラオとして認められ,少数の部隊を率いて西部砂漠のシーワ・オアシスにあるアメンの聖地に行き,そこで自らをアメンの子とする神託を得た。彼はナイルデルタの西端に新しい都市を建設する計画を立てたが,これがアレキサンドリアの起源である。

ペルシャ帝国の滅亡(BC331/330)

ギリシア軍47,000(出発時よりずいぶん増加した)はチグリス川上流のガウガメラで20万とも30万ともいわれたダレイオス指揮下のペルシャ軍を打ち破った。ダレイオスがカスピ海東岸に逃れた。ペルシャ帝国に入ったギリシア軍は、バビロンやスーサの主要都市を略奪し,帝国の都ペルセポリスを徹底的に破壊して焼き払った。翌年、ダレイオスが側近のベッソスによって暗殺されると,アレクサンドロスはベッソスの不忠を糾弾してこれを攻め滅ぼし,ダレイオスの遺骸を丁重に葬った。

ソグディアナの征服(BC329-327)

中央アジア方面へ侵攻したアレクサンドロスはソグド人勢力による激しい抵抗に直面した。ギリシャ軍はソグディアナとバクトリアにおいて過酷な戦いを強いられ,最後はそれらの地域を征服したものの,将兵の士気は低下した。この頃からさらなる征服欲に燃えるアレクサンドロスと戦いに疲れた部下たちの間に少しずつ距離が開き始める。アレクサンドロスはBC328年に帰順したこの地方の有力者オクシュアルテスの娘ロクサネを妃としている。

インド遠征と帰還(BC326-323)

ペルシャ帝国を征服したアレクサンドロスは次にインドへの遠征を目指し,ハイバル峠を越え,スワート地域を蹂躙した。さらにインダス川を渡りパンジャブ地方に侵入し,インド中央部に向かおうとしたが郷愁にかられた兵士たちがこれ以上の進軍を拒否したため,やむなく兵を返すことにした。アレクサンドロスはインダス川を南下し、全軍を三つに分割して残存する敵対勢力を駆逐しながらスーサに帰還した。

大王の急逝と帝国の行方(BC323)

バビロンに戻ったアレクサンドロスはアラビア遠征を計画していたが,熱病に冒され,「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言して10日後に32歳の若さで死去した。アレクサンドロスの死後,後継者を名乗る多くの有力軍人が争い,残された大帝国は分裂してしまう。東西4500kmにおよぶアレクサンドロスの帝国は短命に終わったが,ギリシャ,ペルシャ,インドという東西文明の融合によりヘレニズム文化が花咲くとともに,ヨーロッパと西アジアでは新しい世界観が生まれた。