亜細亜の街角
チャイハネとカフェが異常に多い町
Home 亜細亜の街角 | Jalal Adad / Kyrgyz / Jul 2007

ジャララバード (地域地図を開く)

ジャララバードは2005年3月24日政変の口火が切られた町だ。国の中央部を天山山脈が走っているため,キルギスタンは地政学的に南北に分断されており,文化や民族構成に大きな差が見られる。

1990年の大統領選挙(最高会議内での投票)で当選したアカーエフは民主化要求の後押しで誕生した大統領であった。クルグズスタン独立後も言論と政治活動の自由を維持し,経済面でも急進的な市場経済化改革を志向した。

しかし1995年の大統領選挙のあたりから次第に反対派および言論に対する締め付けを強化していく。一方,経済改革は貧富の差を広げ,大多数の国民の困窮が続いた。そのような状況下において大統領の親族のあこぎな金儲けにまつわる話が国民の不満を増大させた。

2005年の国会議員選挙の不正を質す反対派の抗議集会が首都や南部で開かれた。ジャララバードやオシュで全国の反対派を集めた集会が開かれ,アカーエフ退陣,国会議員選挙のやり直しを求めた。両市では反対派が政府機関を占拠し,南部は実質的に反対派が掌握するところとなった。

ビシュケクでも3月24日に反対派の指導者たちが結集し,アカーエフ打倒の集会を開いた。集会参加者は大統領府・政府庁舎に乱入した。アカーエフは,数時間前に逃亡しており,政権はあっけなく倒れた。

フェリクス・クロフ元副大統領が監獄から解放され,治安回復の責任者となった。旧国会の議員たちも会議を開き,バキーエフを大統領代行に選んだ。7月10日の投票は事実上バキーエフの信任を問うものとなり,彼は88.7 %の票を得て当選した。

ジャララバードは標高790m,ファルガナ盆地の端に位置する。帝政ロシア時代から鉱泉保養地として知られていた。東西方向に2本,南北方向に1本の道路があるだけの小さな町である。しかし,町の中心部はオシュ以上に近代的な装いになっており,ちょっとしたデパートまである。

住民はモンゴル系とチュルク系が半々といったところだ。町には戸外にイスとテーブルを並べたカフェ(ビールも出る),あるいは寝台の上でくつろぐチャイハネが異常にたくさんある。おもしろいことに線路の西側はチャイハネ,東側はカフェやカラオケというように住み分けができている。

ウズベキスタンとの国境はファルガナの2ヶ所で開いており,ジャララバードからは10kmほど離れたハナバードの国境が開いているので都合が良い。

カザルマン(約200km)→ジャララバード 移動

昨晩,宿のおばさんがジープの運転手に電話をしてくれた。ジャララバードへの移動はOKなので宿で待機してくれということであった。もっとも時間ははっきりしない。

朝食をとった後はすることがないので読書を始める。ジープはなかなかやってこない。読書にも飽きてこの家の敷地面積を測ってみる。ざっと,1000-1200m2とういったところだ。そこに母屋,離れ,ガレージ,物置が2つある。キルギスの人口はわずか500万人,広い敷地が利用できるようだ。

11時にやってきた運転手は親族がオシュに行くのでそれに同乗するという条件で600ソムを要求された。この時間からバザールに行っても乗り合いジープに乗れるという保証はまったく無いのでOKするしかない。

車はロシア製のヴォルガである。この古い乗用車で悪路を行くことができるかどうか不安だ。僕を迎えに来た運転手の息子が運転し,妹をオシュに送るらしい。荷物を後部座席に置いて12時に出発である。

標高が上がと天候は悪化する

しばらくは平地の道を走り,橋を越えた辺りから山道になる。標高が高くなると眼下にうねうねとした茶色の山襞の連なりが見えるようになる。しかし,天候が悪化しまもなく雨になる。それほど強い雨ではないが,視界が悪くなり写真には厳しい状況になる。

13:30,少し離れた斜面にボズ・ヌイが見える。周辺は一面に青草で覆われており,馬が放牧されている。このような夏の放牧地は「ジャイロー」と呼ばれている。この地域では標高2500-3000mに夏の放牧地がある。積雪と夏の雨のおかげで草原が涵養されている。

雲海の中に入る

標高がさらに上がり晴れていればパノラマの風景が楽しめるのに今日は雲海の中にいる。3100mの峠からもほとんど何も見えない。ガスの中に標識がかすんでいる。こんなところにも送電線が走っている。ジャララバードとカザルマンを結ぶものであろう。

少し高いところに鷲の像がある。鷲の像は羽根を広げているものが普通だが,ここのものは羽を閉じている。まるで本物が雨の中で羽を休めているように見える。僕もカメラが濡れないように気を使いながら早撮りをする。

峠を越えると道は一段と悪くなる。雪解け水がもろい斜面を押し流し,道路をふさいでいるところが何ヶ所かあった。そのような所では谷側も大きく削られており,運転手の青年は慎重に車を進めていく。

彼はときどき車を停めて,ブレーキをチェックし,工具で車軸の下あたりをゴン,ゴンとたたく。前方に半分雲に隠れている切り立った峰が見える。はるか下に川が流れており,両側の尾根と谷は一様に川が作り出した深い谷に向かっている。晴れていれば素晴らしいパノラマでろうが,相手が天候ではどうしようもない。

食事休憩

15:30,食事のできるテントに立ち寄った。近くには固定家屋があるけれど年間を通してここに居住しているとは思われない。雨のため写真はままならない。下の沢にはまだ雪渓が残っており,その下を雪解け水が流れている。

雪と一緒に土砂が運ばれてきており,雪渓の表面は小石が残っている。燃料は川が運んできた流木だ。小屋の横に集められている。川原の広さは現在の水量に比べてずいぶん広いので,時として大量の水が流れることもあるのだろう。

テントの中には先客があり我々の食事は少し待たされた。このテントは農業用のビニールハウスのようなもので,屋根の部分には水がたまっているのが分かる。

骨付きの牛肉,大きなジャガイモ,ニンジンのかたまりが入ったキルギス伝統のスープはとてもいい味だ。オシュからビシュケクに移動する時にこのスープがおいしかったので,その後の滞在中に探していた。不思議なことにこの料理は町ではまったく見かけなかった。

フェルガナ盆地に入る

標高がどんどん下がり天気は回復する。ファルガナに入ると農地が広がり,ひまわり畑が黄色の帯になっている。18時にジャララバードの近くまで来たが,運転手の用事のため1時間ほど待たされ,中央バザールに到着したのは19時を回っていた。

直ぐ近くに商業大学の寮があるはずなのにどうしても見つからなかった。ガイドブックにはロシア語の表記があったので,それを指差しながら回りの人に訊ねても誰も知らないという。

ホテル・ミョル・ミョル

商業大学の寮探しに手間取り,ホテル・ミョルミョル(変な名前だ)にチェックインしたのは20時になった。ミョルミョルは改装されたようで,ロビーはとてもきれいだ。

1階の受付で宿代(252ソム)を払うとレシートのようなものをくれる。部屋の番号も書かれていないし鍵も出してくれずにただ上に行けと階段を指で示される。

2階に上がっても誰もいない。どうしたことかと思っていると英語の話せる宿泊客が「4階に行って管理人のおばさんから鍵をもらいなさい」と教えてくれた。なるほど,各階に管理人のおばさんがおり,鍵は彼女たちが管理しているのだ。4階の管理人室に入りようやく鍵が手に入った。

部屋は6畳,1ベッド,T/B付き,机もあり清潔である。もっともお湯は出ないのでバスタブは使いものにならない。シャワーも無いので蛇口の下で頭と体を洗うことになる。

部屋は大きな通りに面しており,テラスが付いている。眺めもいいのでまずまずの部屋だなと思っていたら少し甘かった。バザールに出かけてなんとか水とパンを買い,いつもの夕食を終えて寝ようとすると,大音量のカラオケが響いてくる。

音は200mほど離れた森の中から聞こえてくる。さすがに12時前には閉店するだろうと思っていたら2時過ぎまで終わらなかった。毎晩こんな状況では周辺の住民はたまったものではないだろう。

両替とジーンズ

気ちがいじみた音楽のせいでよく寝られなかった。起きたとき少し頭が重い感じがする。着替えようとするとジーンズのお尻の部分が擦り切れかかっていることに気が付く。

これはまずい,ここではまともなものが買えそうにない。1週間後に立ち寄るタシケントまでなんとかもたせるしかない。キルギス・ソムも残り少ない。昨日,部屋代を払ったら残金は200になってしまった。

明日はウズベクに移動するのであと10$ほど必要だ。両替所はレートが表示されているのですぐ分かる。逆両替も簡単そうなので20$を両替しておく。手続きはごくごく簡単だ。ドル紙幣を出すと対応するソムが表示され,OKを出すとすぐにソムが渡される。

宿の前には銀行がある。まだ業務の始まっていない朝早くからおばさんたちが石段に腰を下ろし何かを待っている。「おばさん,写真を撮ってもいいですか」と断ってから一枚撮らせてもらう。この銀行は昼間も大勢の人たちが列を作っておりどうもおかしい。

一応,ジーンズをチェックしてみようとバザールに行く。残念ながらウエストがまったく合わない。男物は32とか34インチが主流である。現在はいている28インチでもがゆるい状態なのでどうしようもない。

仕立て屋が目に入ったので中に入り,おばさんと交渉し(お願いして),当て布をしてミシンをかけてもらうことにした。糸の色を合わせれくれたので出来栄えは問題ない。料金は20ソム,これでタシケントまでもつことを祈ろう。

幼稚園を訪問する

宿とバザールの間に幼稚園があり,中庭で園児がお遊戯をしている。扉が開いていたので勝手に入り写真を撮る。これがちょっとまずかったらしい。午後に再び通りかかると,扉は閉まっており,見学はだめとあっさり断られてしまった。久しぶりの写真にまつわる失敗である。

この映像スクリーンは何のため?

中央バザール周辺

バザールの向かいに乗り合いタクシー乗り場がある。ここで明日の国境移動の料金を確認するとどうやら60らしい。これで情報の収集も終了したので街をしっかり見ることができる。 中央バザールは巨大な建物で内部には衣料品を中心とした小さな店がたくさん入っている。

中央バザール裏手には野菜を扱う露店が並ぶ

建物の裏手には野菜を商う露店がひしめいている。中央アジアらしくニンジンは黄色が強く寸詰まりである。

ナルンやイシィク・クリ周辺に比べてジャララバードの物価は安い。野菜や果物は1/2の値段だし,安価な中国製の物品も豊富だ。カフェの料金もビシュケクの半分,チョルポンアタの1/4である。これで150ソムくらいの宿があればとても旅をしやすいところだ。

中央バザールの前は広場になっており,車で買物に来る人の駐車場になっている。市場経済の時流に乗ることができた一部の人たちと,大多数のできない人の経済格差は大きく,この国の不安定要因になっている。

農業用ハウスのような店舗もある

チャイハネの多い町

線路の西側を歩くとチャイハネがたくさんある。町の規模に比して余りにも多く驚くほどだ。いくつかののチャイハネを観察してみると,男性が主体でお茶を飲んだり世間話をするものと,家族連れが食事を楽しむものがある。後者には女性客もたくさんいる。

どちらも入ると客からお茶を勧められる。後者のチャイハネではおばあさんに羊のあぶり肉とパンを差し出され,ありがたくいただくことにした。ここは寝台の上に敷物を敷いて,その上にテーブルが置かれている。靴を脱いでテーブルに坐り,パンと肉をいただく。

デザートはバザールの裏手で大きなハミ瓜を30ソムで買い,宿でいただく。自炊生活も長くなり,お皿やナイフが揃っているのでハミ瓜をさばくのも簡単だ。さすがにハミ瓜1個は量があり,1/4も食べるともうたくさんになる。旅先だからできるちょっとした贅沢である。

この銀行は早朝から人が待っている

正体不明の像

森の中の公園

宿の北側は森になっておりその中に公園と遊園地がある。そして,少し離れたところにはあの気ちがいカラオケ屋がある。ちょっと覗いてみると大変な音響システムがあり,耳を聾するばかりの音楽が流されている。人々はそんな中で平気で飲み,踊っている。

公園の中にはたくさんの銅像や石像がある。軍服姿のものが多いのでソ連時代のものだろう。中には素朴なキルギス戦士をモチーフにしたものもあり,こちらはちょっとひょうきんで好感が持てる。いまでは旧ソ連の国々ではほとんど見かけなくなったレーニン像もある。

森の中には遊園地もある

遊園地には巨大な観覧車がある。管理人のおばさんが「乗りなさい」と勧めてくれるままに乗ってみる。直径2mほどのゴンドラは高さ1mのてすりが付いているだけで,そこに座席が4つ取り付けられている。シートベルトもなくなかなかのスリルを味わうことができる。

最高点に達すると緑の豊かなジャララバードの町が一望できる。怖いけれどちゃんと写真も撮る。降りてからおばさんに料金を払おうとしたら「いらないよ」とばかりに手を振られた。休憩の間際だったので特別サービスをしてくれたらしい。

ビール・ジョッキ?

バザールの裏手の道を歩いているとビール・ジョッキに琥珀色をした液体を注ぐ店があった。どうみてもビールだが,子どもたちも平気で飲んでいる。もしやと思い中ジョッキを注文する。値段は3ソム,くだんの液体は甘い炭酸飲料であった。これはすっかり外観にだまされてしまった。

線路の西側に沿って細長いバザールがある

中央バザールの西側にはもう使われていない鉄道線路がある。地図で確認するとジャララバードから国境のハナバードを経由してウズベキスタンのアンディジャン方面につながっている。しかし,レールのさび具合からすると1991年のソ連崩壊のあたりから国際列車は停止しているようだ。

中央バザールの斜め向かい,線路の西側に沿って細長いバザールがある。ここは衣料品が中心で特に見るべきものはない。中央バザールの西側を通る線路の両側は(線路の上も)露店のバザールになっている。

ここには金物,日用雑貨をはじめ雑多な商品が並べられており,見ていて飽きない。農機具のクワとスコップは中国西域でウイグルのおじさんが使っていたものと同じだ。

伝統紋様をあしらった透かし彫りの薄い板がある。家具屋の店先に展示されているけれど用途は不明だ。白い塊を売っている店があり覗いてみると石膏である。土壁の上塗りに使用されるものだ。おばさんがヒヨコを持ち上げ「写真を撮って」とアピールする。こういう生活臭の濃厚な雰囲気は好きだな。

再会

宿のテラスで夕涼みをしていたら,となりのテラスから声がかかった。なんと,パキスタンで会った日本人のEさんの顔が見える。「これは奇遇ですね,メロンでも食べませんか」とお誘いする。

旅先で知り合った日本人に再会するととてもなつかしい気分になる。また,久しぶりに日本語が使えるるもの嬉しい。しばらく旅行の話やギルギットの宿で一緒だった人たちの話で盛り上がる。

ジャララバードの商業大学の寮探しは彼も経験したという。やはり,どうしても見つけられずにこのホテルに来たという。今後の移動の話になり,彼も明日はウズベクに移動だというので一緒に国境を越えることにする。

ここが騒音の元

フラフープの女の子

公園で遊んでいた四人組

公園で遊んでいた4人の女の子は写真を撮ってといろんなポーズをとってくれる。何枚か写した中で4人が揃ったのはこの一枚である。明日はウズベキスタンに入ることになる。この機会に予算をチェックしてみる。

成田を立ったのは5月15日,今日は7月23日なので69日目ということになる。これまでイラン→パキスタン→中国→キルギスと旅行してきた。日記としているノートには今まで両替した総額が記載されており940$となっていた。おおよその予算は1ヶ月500$としているのでだいぶ下回っている。


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